ドラマ「坂の上の雲」が終わってしまったので、 このブログの書き込みも、これで終わりにしたいと思います。 これまで、アクセスして頂いた皆さん、 どうもありがとうございました。
秋山真之の臨終の地は、小田原にある友人「山下亀三郎」の別荘でした。 大正7年2月4日、 真之の腹は異様に膨れ上がり、 黒い血を幾度となく吐き、いよいよ危篤に陥ったのです。 午前3時
ドラマ「坂の上の雲」で一番見たかったのが、日本海海戦のシーンで、 これまで、この海戦シーンは「円谷プロ」でしか見たことが無かったので、 それに比べれば、当然のことかもしれませんが、とても良く
大正5年12月1日、秋山真之(49歳)は「第2水雷戦隊司令官」に補せられました。 年が明けて、真之は勤務中に突然腹痛を起こし帰宅したそうです。 真之は、息子たちを厳しく育てていたようで、
大正5年2月、秋山真之(49歳)は海軍省軍務局長の職を解かれて、 軍令部出仕と同時に、欧米各国への長期出張を命じられています。 第1次世界大戦が勃発してから2年近く経過したのに、 この
海軍大臣「八代六郎」中将は、大ナタを振るってシーメンス事件を処理してしまうと、 さっさとその職を「加藤友三郎」中将に譲って、現場に復帰したのですが、 「秋山真之」少将は海軍省で軍務局長として
第1艦隊参謀長を約1年8ヶ月務めた後、大正元年12月(45歳)、 秋山真之は陸に上がり、軍令部の参謀(海軍大学校教官兼務)になります。 翌年、海軍大学校同期のトップをきって、海軍少将に昇格
日露戦争が終り、連合艦隊も平時編成に戻されることになり、 明治38年12月21日に解散式が行われています。 この時、「秋山真之」が起草したと言われる訓示が読み上げられています。 真之は
単縦陣は、先頭艦(通常、旗艦になります)の跡を、 後続艦が金魚の糞のように追いかける陣形で、 単純明快ですから、艦隊のコントロールが容易であるという長所があります。 しかし、先頭艦が砲
日本海海戦は、緒戦の30分で、その大勢が決したとはいえ、この戦いが終結したのは、 翌日の明治38年5月28日になっていました。 バルチック艦隊は、戦艦8隻のうち、6隻が撃沈、2隻が捕獲され
第1戦隊が左に回頭を開始した時、 後続する第2戦隊の先頭艦「出雲」(第2艦隊旗艦)に乗艦していた 上村彦之丞司令長官の幕僚たちはさぞかし驚いたことでしょう。 第2艦隊先任参謀「佐藤鐡太
どうもこのドラマの視聴率が良く無いようです。 第1部の平均が17%、 第2部が13%、 今年になって、第3部の第10回が12.7%、前回は11%ですから、 一ケタ台は目前です。
これまで書いてきたように、 バルチック艦隊との距離が8,000mになった時に取舵にするという「東郷ターン」を知っていたのは、 戦艦「三笠」の乗員の中では、 「東郷平八郎」司令長官と「加藤
「東郷平八郎」司令長官の旗艦「三笠」が左に回頭を開始したのは、 14時5分とされています。 その後に続く第1戦隊の各艦(戦艦「敷島」、「富士」、「朝日」、装甲巡洋艦「春日」、「日進」)は、
連合艦隊参謀長「加藤友三郎」少将が、三笠艦長「伊地知彦次郎」大佐に 『艦長、取舵一杯に』 と伝達したとき、 伊地知は、瞬時に 『え、取舵になさるのですか?』 と、反問したのです。
明治38年5月27日、14時5分、 連合艦隊は、バルチック艦隊と反航する陣形になったのです。 このような状況を、戦艦「三笠」砲術長「安保清種」少佐が満足したのかというと、 決してそう
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