39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
99.「本人にしか解らないこと」「本人にしかできないこと」 さて、前回、本人も見えないが「みる」ことはできる、「見る」は視覚の使用だが、「みる」は「多元的な認識」を指す「和語」であると述べました。 その多元的な認識というのは、例えば、人は物について、そ
98.「深層」の形成の自覚を 人が使う「知識」は、ここでいう「内部知識」です。「内部知識」としましたが、それは、例えば、我々の中での物が、様々なイメージのかたまりのようなものだとしたように、「深層」での「はたらき」が生み出すものだというとらえ方をした方
97.本人の「深層のはたらき」による 「教えること」が不可能だということで、「教科」毎の知識の分離の例を挙げましたが、そもそも、ことばの「意味」について、その基になるものは教えられません。 例えば、何かの「物」の「味」を考えてみましょう。これを「コトバ
96.「教えられた教科知識」はそのまま「内部知識」となるか。 ここまで述べたことを基に「自分でやることの意味」について考えます。 まず、人を介する「外部知識」は、その人が考えて「ことば」としたものを、「コトバ(音声)」として提供したものが、「個」の「深
95.「習わざるを伝えしか」 物事を人を介して学ぶというのは、その物、あるいは、ある人が見出したことを、誰かが伝えるということです。つまり、その伝える人は、その仲介者だということです。 教師とか指導者の違いについて考えると、解りやすい「物」の例として、
94.学ぶ対象は? 学ぶべき対象となるものは、「物」だけではありませんし、「物」でも、例えば、外から見える物を構成している「物」は、我々は見ることができません。それが、何かの原子からできていると言われて、「ああ、そうか。初めて知った」というようなことが幾
93.その物について学ぶとは? さて、「動作」について「学ぶ」ことで述べたことを、普通に言われる「知識」について適用してみるとします。 そこで、簡単な例として、「りんご」という物についてとり上げるとします。この簡単な「知識」をどうやって得たかです。
92.「動作」の真似とは? さて、「自ら学ぶこと」に目覚めるのに時間がかかるのか、ということです。そこで、「自分でやることの意味」が問題になります。 なぜ、「学習を自分でやる」必要があるのか、ということです。 そこで、「学習」という言葉の「学」は、「
91.「自ら学ぶこと」の自覚とそれを表現することの難しさ 学習塾について、多くの人が抱くイメージは、学校で教えられることを補ってくれるか、受験に役立つ知識を提供してくれる場だということで、いずれにしろ、「教えてくれる場」だというもののようです。ですから、
90.「教えてもらった問題が出たからにできた」と「なぜか、できるようになった」 前回、「なぜかわからないが、できるようになった」と言われるようになる、と言ったのは、父母との面談の際、「子供がそういうことを言っている」と言われたことなのですが、「自主学習
89.「整理」の進行と「応用力」の広がり学校では宇宙の様々な事象を切り分けて、例えば、自然と社会に分けて、前者を「理科」、後者を「社会」でというふうに、いくつかの教科に分けて「教えこみ」ます。それで、教科に分けての知識を出題すると、それは解ける確率が高い
88.「整理」にかける時間は無駄か? ここ数回、「内部知識」の「整理」について取り上げました。 それは、「学習能力」というと、「知識」を覚える能力とか使用する能力に偏りがちで、その「知識」の「整理」に関わる能力が軽視されているのではないか、それを視野に
87. 「表現」は「整理」を促す 相手に「理解」させようとする「表現」は、そこで伝えようとする「情報」の基となる「内部知識」を「整理」することにつながります。 例えば、相手が理解しやすいように、何かについて語る際、相手にわかりやすいように体系立てて話そ
86.「辞を達する」ための「表現」 ここで、「理解」と「思考」について、自身の「整理」のためのレポートについて触れました。それとは違い、誰かに伝えるための「表現力」が重要とされるレポートがあります。 それは、人とのコミュニケーションの能力を身に付ける、
85.「思考」は「整理」につながる 「思考」は、知識の新たな結びつきを要することがほとんどです。簡単に引き出せる既存のつながりがある「知識」の利用は、「思考」というより「理解」の問題でしょう。 我々は、ものを考える時、自分の中の「知識」を結びつけて、新
84.「整理」は「思考」を助ける 「理解」と「整理」に続いて、「思考」と「整理」について。 問題:一辺10cmの正方形に、円が内接しています。正方形の円を除いた部分の面積を求めなさい。 これを、解く際の「思考過程」を考えます。 まず、問題の読
83.「漢字学習」での「理解」と「整理」 自分でやる「学習」での、「理解」と「整理」の例、まず、「国語」の「漢字学習」です。 例えば、「銅」という漢字を取り巻く「理」についてのまとめです。 これは、「金」偏と「同」という旁の二つの「部首」から成り立
82.「理解」は整理につながる 「ことば」と「意味」のつながりを、ここで「内部知識」と言い、それが、整理されていないと、必要な「知識」が使い辛い、例えば、聴いて「理解する」ことが困難になる、つまり、「整理」は「理解」を助けると言うことでした。「理解」
81.「知識」の「整理」は「理解」を助ける さて、誤りを取り除くなどを基にレポートすることで知識の整理体系化が進むとはどういうことか、どういう効果があるか、考えるとします。結論から言えば、自身の情報処理能力が上がります。 例えば、「情報」の「理解」
80.「誤り」の分析から「正しいやり方」へ 自分で自分の中の「知識」の整理をやる「学習法」として、「RT学習法」の「原因分析」について取り上げました。そこで、その「誤り」の「原因分析」で終わりかというと、その基を意識するとそれで取り除かれることもありま
79.「ことば」に隠れた「感情」を読み取る 「ことば」に隠れた「意味」について取り上げましたが、そのことで、見過ごしがちなものとして、「感情」について触れておきます。 なぜ、「感情」が大事かというと、まず、それが、「個」の中のはたらきの基となるものとつ
78.「ことば」の「隠れた意味」「知識」の整理ということで、その中の「誤り」の処理について、まず、「誤りがある」こと、それが結果ではなく、その「原因」を問題としたとりあげたわけです。ですから、まず、ここに原因があることを明らかにすることです。それを、「R
77.「事実」とされるものの根拠 さて、「文章」の「理解」を誤ることになることとして、「判断」を「事実」と混同することことを取り上げました。実際、「ことば」には、こういう「隠された意味」が含まれていることが多々あります。「ことば」の「隠れた意味」を表に
76.「事実」と「判断」の区別 「感想文学習」での指導が、指導する人自身の考えとか、誰かの考えを基に、「こう書いたら」といったことを「教え込む」のではないとすると、どういうことをやるかということですが、例えば、「論理的文章」についての「読み誤り」の原因と
75.「理解」と「思考」の区別 「原因分析」は、「数学」だけではありません。それは、あらゆる教科の「学習法」にとりいれられています。 「国語」では、あらゆる「文章」について、その「読解力」が試されます。それぞれの「単元」の最後に「感想文」を書くことにな
74.原因分析と誤りの気づき 「誤り」の修正の第一歩は、まず、「誤り」があることに気付くことです。「数学」の「問題学習」の場合、ほとんどが、「模範解答」があり、「答え合わせ」をして、「誤り」かどうかを判断します。しかし、「答」の間違いは「誤り」の結果で
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39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが