39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
73.「問題学習」での「誤答」の「修正学習」は不要か 「数学」の学習では、単元ごとにその単元とそれ以前の単元、場合によっては、他の教科の「知識」を含む「問題」を解く学習をやります。(他の教科というのは、例えば方程式で、理科で学んだ食塩の濃度についての知識
72.記憶の整理体系化の差 「能力」と学習の高速化について、それをもたらすことして、「操作」の移行をあげましたが、それとは別の、「内部知識」の「整理体系化」の進行としてのとらえ方についてふれます。 「内部知識」の「整理体系化」も、「知識」の教え込み主体
71.「能力」が身につくと「学習」が加速化する さて、「英語学習」で、生徒が自分でやることを、四枚の「学習材」で、細かく分けた「能力」の使用について触れました。そうすると、「知識」の教え込み主体の学習に比べ、いかに迂遠であり、時間がかかり過ぎるのではない
70.「和文英訳」について 「英文和訳」について、いろいろ取り上げましたが、その後の「和文英訳」は、おおざっぱに言うとその逆の操作です。 「言語変換」が、英語→日本語に対し日本語→英語、語順変換がSVO→SOVとなるというふうに。ですから、これが合わさ
69.「語順」の違いに「隠された意味」 「和訳学習」で、ここで述べた「意味変換」とか「順序変換」とかの「能力」が身につき、いちいち書いて確かめなくても、「意識」でやるようになり、更に「深層」での操作となって、高速化すると、一枚目の「英文」に目を通して、い
68.隠れた「意味」を表に出す 「直訳文」を「意訳」する際、いろいろ気づくことがあり、中には、それについて突っ込むための、レポート学習をすることがあります。 例えば、いわゆる「敬語」の扱いです。「意訳」に際してよくあるのが、「日本語」を「常体」から「
67. 「句順変換」と「意訳」 さて、三枚目のプリントで、「文」、「文章」レベルの「意味」の学習です。 句切りされた英文の下に書き込まれた「中間日本語」を、まず、「語順変換」をして「直訳文」に直します。ただし、それを「単語」レベルのそれと区別して、「句
66.「語順変換」と「助詞補充」などによる「句」の「意味選択」 次に、二枚目のプリントによる、「句」レベルの「意味」の学習です。 「句切り」された「文」の、「句」の「意味選択」を行い、「中間日本語」と呼んでいる一部が「英語の構造」に組み替えられた「日本
65.「単語」の「意味選択」と「句切り」さて、一枚目は、幾つかの「文」が集まった「文章」ですが、先ほど述べたとおり、「英語」の文は「単語」と「単語」が間を開けてあるものですから、「日本語」の文と違い、「単語」が「単語」であることが、解るようになっています
64.文章・文・句・単語、それぞれでの意味 まず、見たり聞いたりする「ことば」の「全体」の組み立てです。「英語」の場合、「文章」は、「文」ごとにで区切られ、「単語」と「単語」の間を空ける、「分かち書き」がされています。しかし、「句」については、そういう
63.「ことば」の使用を正す能力を 「ことば」の「意味」の「誤解」は、様々な問題をもたらします。例えば、「戦争」が「政治」「宗教」における「思想」の誤解が引き起こすことは、今でも見聞きすることです。その他の、小さな対立抗争については、挙げればきりがありま
62.「ことば」を使う能力の学習 「ものごと」は、それぞれ「全体」と「部分」から成り立っています。しかし、それは固定されたものではなく、あることを「全体」とすると、その「部分」と言われるものがありますが、その「部分」を対象とすると、それが「全体」となり、
61.「ことば」の「結合」と「分離」について 人は、「ことば」を、「音声」「文字」などと、その「意味」を結び付けて形成し、使用しています。その「ことば」は、結びついたり分かれたりして形成される大小幾つもの単位からなっているわけです。それは、「ことば」が、
60.「学習法」に組み込まれた様々な能力 ここ数回、「視る」「聴く」に関わる学習が組み込まれた「学習法」について、取り上げました。ここまでは、主として単純な「単語」レベルの「変換」の例です。それらは、取り上げた例だけでなく、様々な教科の「学習法」に組み込
59. 日本語と英語の変換 前回では、「漢字」を「日本語文字」と扱いました。しかし、「漢字」は、「中国の文字」だとも言えます。そうすると、「漢字」への変換は、「異国語」の変換とも言えますが、こういうふうに使用される「漢字」は、いわば「日本語化」しています
58.日本語の音声と文字の変換 次は、「日本語音声→日本語文字」について。 例えば、「ハナシ」という音声を聴きます。その瞬間、「意味」が解りません。それを前後関係から「話」という「文字」に変換し、それが意識にあがる、そうすると意味が解ります。この場合
57.音声と文字の役割の変化 ここまで、「聴いて解る」とか「視て解る」という際、「文字を音声に換える」とか、逆に「音声を文字に換える」とかいう説明が出てきました。 そ.こで、聴覚系の言語とされる「音声」と視覚系の言語とされる「文字」の担う「意味機能」の
56.「情報」の「聴覚」処理能力の深化 ここで取り上げたのは、「国語」の「速聴速記」という「学習法」の例ですが、この「聴いて理解する」「聴いて憶える」という能力の使用は、同じ教科の他の「学習法」だけでなく、他の教科の「学習法」にも組み込まれています。広く
55.速聴速記―周囲の受け取り「速聴速記」について、周囲の人の受け取りは、どうでしょうか。これについては、「知識」だけに目が行くということはなく、「能力」の訓練ということの理解はしてもらえるでしょう。ただ、その「能力」が「速く書ける」ようになるという表
54.「速聴速記」の指導。 「速聴速記」の指導といっても、最初はやることを分けて正確にやり、それを結び付けて、自分でこなす、それを繰り返しながら速度を増して、一気呵成にやる、それで「速聴」「速記」となるわけです。 最初は、耳で聴き、その音声を「意識」
53.「聴いて解る」「聴いて憶える」 「学習法」を組み立てているものとして、「視て理解する」「視て記憶する」ということについて、テレビの「平成寺小屋事情」で取り上げられた「暗写」の例を挙げましたが、テレビでは、それとともにもう一つ、「速聴速記」という学習
52.「情報」の「視覚」処理能力の深化 ここで取り上げたのは、「算数」の「学習法」の例ですが、この「視て理解する」「視て憶える」という能力の使用は、同じ教科の他の「学習法」だけでなく、他の教科の「学習法」にも組み込まれています。広く、使用される能力だから
51.「視写」「暗写」-周囲の受け取り 「視写」や「暗写」について、周囲の人の受け取りは、どうでしょうか。これについて、簡単に理解してもらえるとは思わない方がよいでしょう。 例えば「禅」の修行などで、「只管打座」とか「只管筆写」とかについて、その意味を
50.「視写」「暗写」の指導 この「算数」の「理解プリント」は、教科書の小単元の内容を、「語句」と「例題」を中心にまとめたものです。ですから、この学習の前提として、本人は教科書に目を通すことで、その「まとめ」について大体理解していることです。 ですから
49.自分でやる―「視写」から「暗写」へ さて、「自分でやること」として、まず、「立腰」を取り上げました。そして、そこから少し「知識」と「能力」の関係に、話がそれました。 次に、「学習法 」を組み立てているものとして、「視て理解する」「視て記憶する」と
48.学校と塾の棲み分け 「自主学習能力の育成」を担う塾と学校の役割については、簡単に、学校が「知識」を、塾が「能力」を担う、そういうふうにとらえると、解りやすいのではないでしょうか。無論、厳密にいえば、その区別には疑問があるでしょう。「知識」の提供を
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39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが