39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
47.「能力」より「知識」に目が行く 生徒が入塾後の「方法指導」を受ける、そこで例えば「算数」の「理解プリント」を使用しての学習法の指導を受けるとします。これは、「視て理解し覚える」、一連の能力を身に付けることになるわけですが、その日、生徒が帰宅すると、
46.「学習」の経過と「はたらき」のつながり 学習の際の、目に見える「聴く」「話す」「読む」「書く」という動作の奥での「はたらき」について、それ等を横断した共通のはたらきと、それに気づいていないことから、生徒が「なぜ、できるようになるか」が理解できないこ
45.学習法を支えるもの入塾時の「方法指導」では、「立腰」に続いて、それぞれの「学習法」の指導に入ります。例えば、「国語」であれば、漢字・語句・速聴速記・感想文というふうに。ただ、その学習法は、基本となる学習のやり方の組み合わせです。 解りやすくいえ
44.「立腰」-父母の理解 指導には、生徒の周囲の理解を得ることが必要です。 その機会となるのが、様々な「説明会」と「個別面談」です。 「立腰」について言えば、教育関係者の中にも、特定の宗教とのからみで誤解する向きもあるようですから、父母の理解も様々
43.「立腰」-「指導」から「見守る」 この例について、指導する側について考えてみます。 この生徒は、入塾時の際の母親との面談から、多動や学習障害があるレベルの問題があることは、見当がついていたのですが、いずれにしろ、入会時の方法指導では、まず「立腰」
42.「立腰」-「指導される」から「自分でやる」 この例について、本人の「学習」の経過を探るとします。 まず、彼は姿勢を繰り返し直されました。それは、自分で、その姿勢が保てないからでした。それで、その学ぶべき姿勢を伝えられました。 そして、やがて
41.自分で「腰を立てる」 何をとどう「自分でやるか」、その指導の例です。 まず、「腰を立てる」ことです。 この指導例として、以前、多動の生徒の「立腰」を紹介しました。この子についての母親とのやり取りです。 母親:「うちの子も落ち着きがないと言われ
40.「自分でやる」目標と「一時的に肩代わりしてもらうこと」 「自分でやらなければ、自分でやれるようにならないだろう。」と言っても、人は同時にやれないことがあります。ですから、その人によって、今、「自分でやること」が違います。 いくら「解らないこと」と
39.その授業は、本人にとっての「自主学習」か? 「わが塾の指導方針は、『自主学習能力の育成』です。お子さんが自主的に学習を行えるよう、こういうふうに指導します。」 入会にあたっては、こんなふうに説明します。しかし、その「自主学習能力の育成」というのは
38.その行為は「自主的」か? 無論、この例の対応には、それなりの前提があります。 生徒が質問に来ることは、別に悪いことではありません。質問もできないような生徒であれば、逆に、「よく来た」と歓迎するかもしれません。また、本人がそこで必要な知識の獲得段階
37.対応の違いの簡単な例について 「教える塾」との違いについて、以前、「自主ということ」で、取り上げた簡単で具体的な例で、説明します。SSAのO先生の「対応分析の意義」の中に、こういうことが書かれています。 ある時S先生の塾に授業中に電話した。する
36.塾長の「受けとめ方」が? 次は、逆のケースです。 例えば、「塾長」が経営者であり、経営する業種が、たまたま塾であり、経営的観点から、「自主学習塾」を選んだ、そういう場合です。その人の「自主学習」の受け止め方は、あくまで経営者の管理のもと、教師が生
35.「自主学習」を目指すのは? さて、「自主学習」を目指すとする「塾」で、塾長と塾教師のどちらかが、「サービス業」的な意識を持っていて、他方が、塾の役割は、そのために必要な能力を身に付けるよう指導するものだと考えているとします。 まず、塾長自身は「自
34.サービス業の意識 「自主学習」は、「自分がやる」学習のはずです。ただ、それがなかなかできない、それができるように手伝う、それが「自主学習能力育成塾」の目指すものです。そういうことから考えれば、何を「真似」して、本人が繰り返すうちに、「これだな」と
33.後輩の指導する生徒について、「なに、あれ」 「人知らずして慍(うら)みず」と言えば、次のようなことがありました。「教える」ことが普通だった「塾」が、「自主学習能力の育成」を掲げる「指導」に転換しました。それまで、点数にこだわる、教えまくる、そういう
32.「人知らずして」の解釈 ついでに、「人知らずして慍(いきど)おらず」について、です。これは「慍(うら)みず」とする場合もあります。辞書によると、「慍」の意味は、いかる/いきどおる/うらむ/不満を抱く」とあります。ですから、瞬間的に怒るのではなく、不快
31.師弟から朋へ 「論語」の書き出しは、「子曰く、学びて時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや。朋有り(ともあり)、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして慍(いきど)おらず、亦君子ならずや。」で、これについては度々取り上げました。 最初の「学びて時
30.指導と依存 F先生は、神道系の宗教団体の信者だったということですが、その宗教は「世界が平和でありますように」という言葉を掲げています。 この宗教がどうかは解りませんが、多くの宗教は、その教祖がその信者を指導します。そこで、よくおこるのが、その指導者
29.指導者が気づく時 F先生に起きたのは、次のようなことです。 講師のF先生は、「世界が平和でありますように」という標語で知られた神道系の宗教の信者でした。当時、塾業界の集まりの事務局長だったK氏の紹介で、優れた指導で知られた和歌山の塾と塾同士の交流を
28.「指導」の意味の理解 「指導の四段階」は、「態度育成」「方法指導」「目標指示」「計画助言」でした。最後の「計画助言」は、本人が分の目的にしたがって、「目標」を組み立て実行するための一連の「計画を自分でやれるよう「助言」をするわけですから、その「助言
27.授業を「自主学習」の対象に 我々は、学校でも、職場でも、市民活動の場でも、様々な「知識」を必要とし、それを使用する、それを獲得し使用することは、それ自体「学習」でもあるわけです。しかし、それが「自主学習」となっているか、それが主に「依存」によって支
26.「教えられるより、自ら学ぶ」 「授業を受ける」と言います。そうすると、それは、「教えられる」のだから「自主学習」と言えないのではないか、という疑問が起きるでしょう。 しかし、「自主学習」と言っても、当然、何らかの「知識」を外に求めることはあるわけ
「ブログリーダー」を活用して、hsata1さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが