39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
25.積極的に「授業を理解する」 生徒は、塾で身に付けた「自主学習能力」を学校での「授業」にも振り向ける、そして、その能力を磨く機会とします。それを簡単に「授業を理解する」としたわけです。 この「理解」については、塾での「聴解」とか「読解」と、何ら変わ
24.目先の目標と目指すこと 我々は、目指すことがずっと先にある場合、途中の解りやすいところを目指します。今日は、Aを目指すというふうに。とりあえず手近な目標を掲げます。 それは、特に目に見えない、言葉にできにくいものだと、まず、目に見える、言葉で伝わ
23.目指すものとその手だてとするもの 「自主学習能力」の指導は、その基を本人が、一つ一つ身に付ければ、それに関する「指導」は打ち切られ、後は本人が自分でその能力に磨きをかけていくということになりますから、ずっと何かを供給し続ける仕事とは違うわけです。
22.「塾」の指導方針の違いとその理解 そこで、「自主学習」を目指す子弟のための「自主学習能力の育成」を指導方針とする塾と、他の多くの「学習塾」の違いについて、触れておきます。 まず、我々が、「思考」し「行動」する際、自分の中の「知識」を使用するという
21.指導する側とされる側の関係の変化 人は、物事を理解し、理解したことを記憶し、それ等を基に思考し、行動します。その理解・記憶・思考・表現は、様々な学習に共通することですから、身近な学習の中で、その基本を身に付け、それを生かして生きていくことになるので
20.「自分でやること」の自覚を さて、人には他の人が代わりにやれないことがあります。その例として、「憶える」とか「考える」ということを取り上げたのですが、これ等の言葉は、文法では、「自動詞」にあたりますから、それはその人が「自分でやること」を表現するこ
19.「自分がやること・自分しかやれないこと」 「視て憶える」「聴いて憶える」の例では、当初、「無駄だ」とか「何をやっているのか解らない」と言われるようなことが、「自分でやる」ことを深め拡げることが、人が生きるのに重要な能力に進化していくことが示されてい
18.「憶えたこと」を「自分で使い続ける」 「視て憶える」「聴いて憶える」という二つの例を取り上げましたが、その際、当初は、時に「無駄だ」とも「何をやっているのか解らない」と言われかねないことが、やがて、授業に役立つことになり、例えば、本人のコミュニケー
17.「聴いて書き出す」こと さて、「朝日テレビ」の「平成寺小屋事情」では、もう一つ、「速聴速記」という学習の例が取り上げられてしました。「視て憶える」の例とは別の生徒が、イヤホーンで「教科書の文章」を吹き込んだ音声を聴き、それをノートに書きだします。
16.視て覚える訓練 そこで、どうやって「憶える」ことを身に付けるか、その例として、以前とりあげた、「朝日テレビ」の「平成寺小屋事情」という番組で当塾が取り上げられたものとして紹介した二つを取り上げてみます。 まず、一つは、「視て憶える」学習の例です
15.「解る」「憶える」の自覚 ここで問題にしているのは、「解る」とか「憶える」とか、それが「自分でやる」かどうかです。自分がやらなければ、それはその本来の意味を持ったものではありません。 ところが、多くの場合、それがあいまいなままです。「解っていない
14.積極的に「解る」 何かを聞いたり読んだりして、「解る」と言います。 「解る」の「解」という漢字の語源を調べてみます。そうすると、「解(ほど)く」という意味を含んだものだということが解ります。何を解くかというと、「理」です。つまり、「理」を解く、とい
13.「知識」の「理解」と「解毒」 「知識」は、そのまま「固定化」されたままということはまずありません。既成の知識と統合整理されるでしょう。 もし、外からの「知識」がそのまま受け入れられ、そのまま居座るとしたら、どうなるでしょう。もし、虚偽を含んだ知識
12.「憶える」の「確かめ」 「自分の中の知識」を使用する、「想起」は、その「知識」が存在することが前提です。あるのに使わない、それが続くと消えることがある、逆に、使い続けると強化される、あるいは高度化する、そういうことでした。 その「知識」は、それ以
11.「自分でやること」の変化 問題文にきちんと目を通すことなく、「先生、わかりません」とやってきた生徒は、その後、追い返され、泣き出した後、姿勢を正し、自分で問題文を読みはじめました。そして、その後「できました」と報告に来ました。 この前後の行動の違
10.「自分の知識を自分で使うか」 以前「自分で考えない生徒」というタイトルで、算数の文章問題をろくに読まないで、「先生、わかりません」とやってきた生徒の指導例をとりあげました。それについて、「本来、自分の中の読解に関わる『様々なはたらき』を使うべきなの
9.自分がやらなくなったことと廃用 「自分がやったこと」が、「深層」の「知識形成」にもたらすことを考える際、その「やること」が、自分の中の「はたらきを引き出すこと」になると考えるわけです。 そのことは、その逆にそれを「やらなくなった」時、「その能力が失
7.「個別性」とやったこと さて、その「ことばの個別性」では、その違いが生まれる例をいくつか取り上げました。その一つが、「りんご」の例です。 その際、「リンゴ」という「音声」を聞かされた時、本人が何をしたかです。実物を手にし味わった場合と、示されたビデ
6.「ことば」の「個別性」 「知識」の「個別性」について、まず、「ことば」の「個別性」です。これについては、以前、「ことばの個別性」としてとりあげました。 その中から、39の「『ことば』による『物』情報の受け渡し」で取り上げたのは、次のようなことです。
5.「内部知識」の「個別性」 なぜ、他人の「健康」について責任をとれないのか、なぜ他人の「学習」形成の全般について責任をとれないのか、それを理解するカギは、その「個別性」にあります。 その人の「健康」の在り方について、知る上での限界があるのは、それが、
4.治療的対処と養生的対処「個」の中の様々なはたらきは、様々に結びつき助け合って、そのはたらきを可能にするわけで、その全体性に対し、外からは責任が持てるはずがありません。無論、我々は自分の「深層」での在り方について、全て知ることはできません。しかし、でき
3.はたらきの広がりがあるか 「メガネ」の使用と、「個の中のはたらき」ということについては、「姿勢と脱力」の9で「知能・健康・美容」でとりあげたことがあります。 おとなしいというか、陰気というか、そういう中1の女の子の姿勢を指導し、猫背で、目メガネをか
2.「廃用」による不能化の広がり 我々が行動することは、外から見えます。しかし、あたまに浮かぶことは外からはわかりません。ただ、考えたことは、本人が口にしたり書いたりすると、外から知りえます。 その頭に浮かぶことを探ると、本人自身のなかにそれを生み出す
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39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが