61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「
83.思考や行動の基を視野に入れる学習を 個々人の思考と行動を左右するのが、その人の「深層」に形成された「知識」だとすると、「学習」は、自分でそれが正しくあることを目指すべきでしょう。その「はたらき」が内部に形成するものを「内部知識」とよぶとしました。
82.多元的なはたらきを解き放つ指導 そこで、その「(内部)知識」について、ここまで述べてきたことです。 まず、「ことば」について、それが「意味」とその媒体である「コトバ」の結びついたものだということです。「ことば」と「コトバ」がややこしいかもしれないの
81.学習の対象は内の「生きた知識」 ここまでのことで明らかになったのは、まず、「個別指導」は、その指導対象となる「個」の「学習」が対象だということです。相手の内部での受け止めを無視して一方的に「情報」を与えることではありません。 そこで、その「個」の
80.「個」の中の「意思」 我々の「意思」は、様々なことに左右されます。それは、自分で自分の振る舞いを振り返って、それがどこからきているか、考えてみるとわかるのではないでしょうか。 例えば、自分の行動が、後から振り返って、「感情的だった」と思われること
79.「意識」が関わらない情報の長期的変化 「知識」の「操作」がなされるのは、前回の例のように、外部知識の取得の時だけではありません。 例えば、昼間の生々しい「感情」が寝ている間に中和されるとか、更に長期的にみて、あることに付きまとっていた「不快」が時
78. 「情報」と「内のはたらき」の関わり さて、外からの「情報」の取り扱いに際する「内のはたらき」の関りを、簡単な例で考えるとどうなるでしょうか。 まず、その「接触」です。例えば、ある本を選ぶとします。それを「読もう」と思うのは、本人の「意志」です。
77.「意思」と「操作」と「知識」間の影響 我々の中に、無数のはたらきがあって、それが我々の「思考」や「行動」を生みですとして、「指導」の説明の際、その「はたらき」を、大きく「意思」と「操作」と「知識」と分けたのですが、その関係について、一応、「意思」が
76.「操作」の背後にある「意思」 さて、我々が「思考」や「行動」の際、使用する「内部のはたらき」を、「(内部)知識」、それを扱うためのはたらきを「操作」としたわけです。 そこで、「食べ物」にしろ、「情報」にしろ、それを「操作」するはたらきについて取り上
75.「自然なはたらき」についての意識と無意識 前回取り上げた「個の中のはたらき」について、我々はどれほど「意識」しているでしょうか。「健康」を保つための「食べ物」の消化や排泄を支える働きですが、最初の食物の摂取とか、その結果である排尿とか排便について
74.「個」の中のはたらきの健全性 ここで取り上げた「個別指導」は「個」を対象とする指導であり、その「個」は「全体性」を持った「個」であり、それを理解するために、「個」の「思考」や「行動」について、自分に問うことをやり、それを生み出す「深層」としたものを
73.「はたらき」の理解-「健康」と「学習」 「内部のはたらき」をどうとらえるか、「接触」というはたらきを取り上げてみます。 「食べ物」であれば、食べるものを選んで口に入れる、「知識」であれば、外部知識を選んで、聴くとか視るとかします。その選択には、前
72.「内部のはたらき」の健全性 「内部のはたらき」が歪むと「情報」が歪むと述べましたが、逆に言えば、その「内部のはたらき」が健全であれば、外からの「情報」の歪みを正すことができるということになります。そこで、その「内部のはたらき」の健全性について取り上
71.内部の「はたらき」が情報を変えるさて、「食べ物も情報である」というと、普通、非論理的であるとされるでしょう。 しかし、例えば、今まで取り上げた「りんご」は普通考えると「食べ物」でもあります。しかし、その「意味」を探る中で、それは、「色」や「形」で
70.汝は画れり 「意識」の自在性と言えば、「論語」に「汝は画れり」という孔子の「ことば」が出てきます。 それで、この「かぎれり」の「画」です。これは、「区画」に使われる漢字です。それからすれば、その人が自分の中に「区画」を設ける、それでそれを超えない
69.多次元にまたがる「こころ」と「論理」の飛躍 我々の「意識」は、我々の中の様々な次元のはたらきが生み出すものの表れです。「物」の次元のものもあれば、「気」の次元のものもあります。次元の違いは、それぞれを支える「論理」の違いを伴います。近代科学の論理を
68.「見る」と「みる」 さて、今まで「ことば」について、「りんご」を例に取り上げてきました。その「意味」として「五感のイメージ」とか「情動」とか「欲求」とかそういうイメージを持つものとして扱って、あまり触れなかったのが、「生物」として成長し腐敗し廃棄さ
67.自己の修正こそ学習 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないかと思われます。 自分の「内部知識」を使用して
67.自己の修正こそ学習 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないか、と思うわけです。 自分の「知識」を使用して
66.「過ち」とは何か? さて、自身の内部「知識」の修正ということの大切さを考えるうえで、取り上げたいのが、「論語」に出てくる「過ちて改めざる、此れを過ちという」ことばです。この意味は、「過ちはだれでも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めな
65.「知識」の書き換えの「いろいろ」 「深層」での「知識」の修正がうまくいくと、当然ですが、その後は、それが「意識」に浮かぶことになる、使用されることになります。 ところが、その「知識」について修正されない「知識」が「意識」に浮かぶ場合があります。つ
64.意識での修正・深層での修正 「外からの情報」の修正について、自身が、「意識」して行っていることを基に考えてみます。 例えば、「りんご」について、当初「赤い色」だと思い込んでいたとします。それで、ある時、緑色とか黄色の林檎とかがあることを知ります。
63.外部情報の「修正」過程 外からの情報が正しいか自分で確かめ、正しいと思えば取り入れ、間違っていると思えば、捨てる、我々は、そういうことをやります。 ただ、その情報を丸ごと受け入れるかどうかだけでなく、その情報を分解し、正しいと思うことは取り入れ、
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61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「
60.異文化間のコミュニケーションの難しさ 前回取り上げた、「翻訳という仕事には必ず何か偽なるものが含まれています」の後に次のようになっています。よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳した途端に形象が違ってしまう。
59.翻訳による意味の伝達はどこまで可能か? 「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということについて、まず、英文の日本語訳について取り上げてきました。さて、ここで取り上げている文章の中に、翻訳について述べている箇所があります
58.「意訳」がもたらす認識の違い 「中間日本語」を「句順変換」すると、「直訳文」ができます。そこで、それを「意訳」して、自然な文に直します。「自然な」というのは、それを読む「日本人」にとっての、それです。「直訳文」を「意訳」する過程で、いろいろなことに
57. 語と句の順序を換えること 「英語学習」での、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということの経験として、まず、「和訳」を考えると、「英文」が対象になります。「意味選択」を取り上げました。 『現実』の認識を表したこと
57. 語と句の順序を換えること 「英語学習」での、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということの経験として、まず、「和訳」を考えると、「英文」が対象になります。「意味選択」を取り上げました。 『現実』の認識を表したこと
56.なぜ「意味」を選ぶ必要があるか 「英語学習」を介して、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということを経験してもらおうというわけです。 「英語学習」での「和訳」と「英訳」は、同じ「現実」について、「日本語」と「英語」
55.異文化間の意味の理解井筒俊彦氏は、記号と意味の問題についてさらに次のようなことを指摘しています。 もし、同一言語内での対話ですらこのような状態であるとすれば、異文化間の対話がいかに困難な理論的問題を惹起するかは想像にあまりあるということであります
54.外的過程と内的過程の理解「ことば」について取り上げた際、「内部知識」と「外部知識」ということばを使いましたが、そこで言いたかったのは、「ことば」について考える際、我々の知識の使用に偏りがあるということです。そこで、最近目にした「整体」の機関紙での
53.両極の壁は乗り越えられるか? そこで、その「記号による意味の伝達」を「全て可能とする側」と「全て不可能とする側」の両極の隔たりについて、否定か肯定か、この2つの極の間に、言語理論は何らかの妥協の道を求めることを余儀なくされているように思われます。
52.「記号による意味の伝達」は全て可能とする立場次にその反対の側についての言及です。 これと正反対の極に近いあたりには、言語は人間の意識に生起したことを、それがどのようなものであれ、本質的には他人に伝達できるという古来の合理主義的な立場を堅持する人々
51.「記号による意味の伝達」は不可能とする立場 次に、その両極の立場としたものについて、まず、前者の「記号による意味の伝達は全く不可能だという考え方」について述べた箇所を取り上げてみます例えばフンボルトの後継者たちはだいたいの傾向としては否定的態度を
50.言語記号を手段とする意味の総合伝達孔子の「名を正す」ということばは、弟子とのやり取りから解るように、それが社会的混乱の根本的解決につながるということなのですが、それを弟子の方は「迂遠」だと受け止めているわけです。たぶん多くの人が感じているのも、そう
49.洗脳に対処する学びさて、「洗脳」にどう対処するかということですが、それは何かのことに集団で批判するというのでは、いわば「洗脳」に対して、別の「洗脳」で対処することになりかねというのが、前回取り上げたことです。そこで、一人一人が、それぞれが接する情
48. 「知」の共有の難しさ「科挙」のことを取り上げましたが、現代でも教育についても同じような危険を持った制度が居座っているということがあります。ですから、一人一人が自由な個として学んでいくことが大切なのではないでしょうか。現在の世界のあり方を憂える人々の
47.誰かが教えることと、人々が互いに学び合うこと「科挙」がたどった歴史から知りえたのは、それが「名」による確かめに導かれる「教え込み」ということになることが、「実」の空洞化につながる、つまり、本人の中に本来の意味を形成することにはならないということでし
46.科挙という試験朱子は「為己の学」と比べて、「科挙」を度々批判していますが、一方で、朱子自身も若いころ、「科挙」を受けて合格しています。無論、その科挙というのは、朱子学が採用される以前のものですが。この本(講談社「朱子」)の中に、次のような箇所があり
45.学ぶ側の受け止め方 なぜ「教えられる」ことが問題なのかは、それが「教える」という他者の、多くは「ことば」を使っての行為を「受けいれる」ことを意味するからです。それを自ら求め自分のものとする「学習」、「学びて時に習う」、学習者の行為とは違うからです
44. 学ぶ対象から教えられる知識へ さて、本来「為己の学」である朱子の思想は危険思想として弾圧されることになりました。その後の朱子学がたどった運命について、この書から抜き出して紹介しておきます。 朱子は過酷な弾圧の最中に世を去ったが、彼の死後、その
43.朱子学の官学化前回述べたことを別な角度から取り上げてみます。 講談社の「朱子」で、朱子学の骨格にあるのは儒学の経典である「大学」であるということが記されています。その中で「大学」の8条 目と言われるものがあります。物を格(ただ)して后(のち)知至
74.「個」の中のはたらきの健全性 ここで取り上げた「個別指導」は「個」を対象とする指導であり、その「個」は「全体性」を持った「個」であり、それを理解するために、「個」の「思考」や「行動」について、自分に問うことをやり、それを生み出す「深層」としたものを
73.「はたらき」の理解-「健康」と「学習」 「内部のはたらき」をどうとらえるか、「接触」というはたらきを取り上げてみます。 「食べ物」であれば、食べるものを選んで口に入れる、「知識」であれば、外部知識を選んで、聴くとか視るとかします。その選択には、前
72.「内部のはたらき」の健全性 「内部のはたらき」が歪むと「情報」が歪むと述べましたが、逆に言えば、その「内部のはたらき」が健全であれば、外からの「情報」の歪みを正すことができるということになります。そこで、その「内部のはたらき」の健全性について取り上
71.内部の「はたらき」が情報を変えるさて、「食べ物も情報である」というと、普通、非論理的であるとされるでしょう。 しかし、例えば、今まで取り上げた「りんご」は普通考えると「食べ物」でもあります。しかし、その「意味」を探る中で、それは、「色」や「形」で
70.汝は画れり 「意識」の自在性と言えば、「論語」に「汝は画れり」という孔子の「ことば」が出てきます。 それで、この「かぎれり」の「画」です。これは、「区画」に使われる漢字です。それからすれば、その人が自分の中に「区画」を設ける、それでそれを超えない
69.多次元にまたがる「こころ」と「論理」の飛躍 我々の「意識」は、我々の中の様々な次元のはたらきが生み出すものの表れです。「物」の次元のものもあれば、「気」の次元のものもあります。次元の違いは、それぞれを支える「論理」の違いを伴います。近代科学の論理を
68.「見る」と「みる」 さて、今まで「ことば」について、「りんご」を例に取り上げてきました。その「意味」として「五感のイメージ」とか「情動」とか「欲求」とかそういうイメージを持つものとして扱って、あまり触れなかったのが、「生物」として成長し腐敗し廃棄さ
67.自己の修正こそ学習 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないかと思われます。 自分の「内部知識」を使用して
67.自己の修正こそ学習 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないか、と思うわけです。 自分の「知識」を使用して
66.「過ち」とは何か? さて、自身の内部「知識」の修正ということの大切さを考えるうえで、取り上げたいのが、「論語」に出てくる「過ちて改めざる、此れを過ちという」ことばです。この意味は、「過ちはだれでも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めな
65.「知識」の書き換えの「いろいろ」 「深層」での「知識」の修正がうまくいくと、当然ですが、その後は、それが「意識」に浮かぶことになる、使用されることになります。 ところが、その「知識」について修正されない「知識」が「意識」に浮かぶ場合があります。つ
64.意識での修正・深層での修正 「外からの情報」の修正について、自身が、「意識」して行っていることを基に考えてみます。 例えば、「りんご」について、当初「赤い色」だと思い込んでいたとします。それで、ある時、緑色とか黄色の林檎とかがあることを知ります。
63.外部情報の「修正」過程 外からの情報が正しいか自分で確かめ、正しいと思えば取り入れ、間違っていると思えば、捨てる、我々は、そういうことをやります。 ただ、その情報を丸ごと受け入れるかどうかだけでなく、その情報を分解し、正しいと思うことは取り入れ、
62.情報の中の「実」 ここで、我々が扱う「情報」について、日ごろ経験していることを取り上げてみます。それで、「名を正す」ということについて、別の角度からみることにします。 今、SNSで、誰かが無責任に上げた「情報」をそのまま拡散することで、社会の混乱
61.己の中の「名を正す」 ここで、最初に「行動」と「意識」と「深層」と分けての分析の話をしました。その際、「意識」というのは「あたまに浮かぶ」ことで、「深層」はそれが湧き出てくるとこを指すと言いました。それが何かは、それぞれが「自分」に問いかけることで
60.「教え込み」で「名を正す」ことができるか? 孔子が社会を調えるためには、まず「名を正す」こと、と言ったのは、「ことば」の乱れが、社会の混乱の根本原因だという認識があったからで、それを正すには、「名」と「実」の関係を正すことだという考えなのでしょう。
59.「ことば」―「名」と「実」 「コトバ」と「意味」の結びつきの歪みがもたらす混乱で思い出すのは、「論語」での「名を正す」いうことばです。その「論語」の訳文です。 子路は孔子に向かって次のように質問した。「もしも孔子が衛国の君主に政治顧問として登用
58.「ことば」の意味をめぐる混乱 「ことば」の「意味」の違いをめぐる混乱というと、いろいろな争いが思い浮かびます。まず、思い浮かぶのか、「宗教」の教義についての、宗派同士の争いです。典型的なのが、教祖が残した「コトバ」をめぐっての解釈の違いです。それ
57.「説明のコトバ」での確かめ 前回、「ことば」の「本来の意味」の確かめに、「説明のコトバ」の再現で済ませることが多い、と述べました。それはどういうことかというと、例えば、その「ことば」の「意味」として、「辞書にある説明」を記憶させ、それをそのまま答
56.「本来の意味」の確かめ 我々が、「簡単なコトバ」を使用して、「深層」に潜む自分の中の「複雑なはたらき」を駆使する、その例として「動作」や「思考」の「ことば」の「極意」を取り上げました。 そして、その「ことば」の「極意」が同じ「コトバ」を使うだけで