39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
83.思考や行動の基を視野に入れる学習を 個々人の思考と行動を左右するのが、その人の「深層」に形成された「知識」だとすると、「学習」は、自分でそれが正しくあることを目指すべきでしょう。その「はたらき」が内部に形成するものを「内部知識」とよぶとしました。
82.多元的なはたらきを解き放つ指導 そこで、その「(内部)知識」について、ここまで述べてきたことです。 まず、「ことば」について、それが「意味」とその媒体である「コトバ」の結びついたものだということです。「ことば」と「コトバ」がややこしいかもしれないの
81.学習の対象は内の「生きた知識」 ここまでのことで明らかになったのは、まず、「個別指導」は、その指導対象となる「個」の「学習」が対象だということです。相手の内部での受け止めを無視して一方的に「情報」を与えることではありません。 そこで、その「個」の
80.「個」の中の「意思」 我々の「意思」は、様々なことに左右されます。それは、自分で自分の振る舞いを振り返って、それがどこからきているか、考えてみるとわかるのではないでしょうか。 例えば、自分の行動が、後から振り返って、「感情的だった」と思われること
79.「意識」が関わらない情報の長期的変化 「知識」の「操作」がなされるのは、前回の例のように、外部知識の取得の時だけではありません。 例えば、昼間の生々しい「感情」が寝ている間に中和されるとか、更に長期的にみて、あることに付きまとっていた「不快」が時
78. 「情報」と「内のはたらき」の関わり さて、外からの「情報」の取り扱いに際する「内のはたらき」の関りを、簡単な例で考えるとどうなるでしょうか。 まず、その「接触」です。例えば、ある本を選ぶとします。それを「読もう」と思うのは、本人の「意志」です。
77.「意思」と「操作」と「知識」間の影響 我々の中に、無数のはたらきがあって、それが我々の「思考」や「行動」を生みですとして、「指導」の説明の際、その「はたらき」を、大きく「意思」と「操作」と「知識」と分けたのですが、その関係について、一応、「意思」が
76.「操作」の背後にある「意思」 さて、我々が「思考」や「行動」の際、使用する「内部のはたらき」を、「(内部)知識」、それを扱うためのはたらきを「操作」としたわけです。 そこで、「食べ物」にしろ、「情報」にしろ、それを「操作」するはたらきについて取り上
75.「自然なはたらき」についての意識と無意識 前回取り上げた「個の中のはたらき」について、我々はどれほど「意識」しているでしょうか。「健康」を保つための「食べ物」の消化や排泄を支える働きですが、最初の食物の摂取とか、その結果である排尿とか排便について
74.「個」の中のはたらきの健全性 ここで取り上げた「個別指導」は「個」を対象とする指導であり、その「個」は「全体性」を持った「個」であり、それを理解するために、「個」の「思考」や「行動」について、自分に問うことをやり、それを生み出す「深層」としたものを
73.「はたらき」の理解-「健康」と「学習」 「内部のはたらき」をどうとらえるか、「接触」というはたらきを取り上げてみます。 「食べ物」であれば、食べるものを選んで口に入れる、「知識」であれば、外部知識を選んで、聴くとか視るとかします。その選択には、前
72.「内部のはたらき」の健全性 「内部のはたらき」が歪むと「情報」が歪むと述べましたが、逆に言えば、その「内部のはたらき」が健全であれば、外からの「情報」の歪みを正すことができるということになります。そこで、その「内部のはたらき」の健全性について取り上
71.内部の「はたらき」が情報を変えるさて、「食べ物も情報である」というと、普通、非論理的であるとされるでしょう。 しかし、例えば、今まで取り上げた「りんご」は普通考えると「食べ物」でもあります。しかし、その「意味」を探る中で、それは、「色」や「形」で
70.汝は画れり 「意識」の自在性と言えば、「論語」に「汝は画れり」という孔子の「ことば」が出てきます。 それで、この「かぎれり」の「画」です。これは、「区画」に使われる漢字です。それからすれば、その人が自分の中に「区画」を設ける、それでそれを超えない
69.多次元にまたがる「こころ」と「論理」の飛躍 我々の「意識」は、我々の中の様々な次元のはたらきが生み出すものの表れです。「物」の次元のものもあれば、「気」の次元のものもあります。次元の違いは、それぞれを支える「論理」の違いを伴います。近代科学の論理を
68.「見る」と「みる」 さて、今まで「ことば」について、「りんご」を例に取り上げてきました。その「意味」として「五感のイメージ」とか「情動」とか「欲求」とかそういうイメージを持つものとして扱って、あまり触れなかったのが、「生物」として成長し腐敗し廃棄さ
67.自己の修正こそ学習 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないかと思われます。 自分の「内部知識」を使用して
67.自己の修正こそ学習 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないか、と思うわけです。 自分の「知識」を使用して
66.「過ち」とは何か? さて、自身の内部「知識」の修正ということの大切さを考えるうえで、取り上げたいのが、「論語」に出てくる「過ちて改めざる、此れを過ちという」ことばです。この意味は、「過ちはだれでも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めな
65.「知識」の書き換えの「いろいろ」 「深層」での「知識」の修正がうまくいくと、当然ですが、その後は、それが「意識」に浮かぶことになる、使用されることになります。 ところが、その「知識」について修正されない「知識」が「意識」に浮かぶ場合があります。つ
64.意識での修正・深層での修正 「外からの情報」の修正について、自身が、「意識」して行っていることを基に考えてみます。 例えば、「りんご」について、当初「赤い色」だと思い込んでいたとします。それで、ある時、緑色とか黄色の林檎とかがあることを知ります。
63.外部情報の「修正」過程 外からの情報が正しいか自分で確かめ、正しいと思えば取り入れ、間違っていると思えば、捨てる、我々は、そういうことをやります。 ただ、その情報を丸ごと受け入れるかどうかだけでなく、その情報を分解し、正しいと思うことは取り入れ、
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39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話