36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが
63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての
62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1
61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「
60.異文化間のコミュニケーションの難しさ 前回取り上げた、「翻訳という仕事には必ず何か偽なるものが含まれています」の後に次のようになっています。よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳した途端に形象が違ってしまう。
59.翻訳による意味の伝達はどこまで可能か? 「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということについて、まず、英文の日本語訳について取り上げてきました。さて、ここで取り上げている文章の中に、翻訳について述べている箇所があります
58.「意訳」がもたらす認識の違い 「中間日本語」を「句順変換」すると、「直訳文」ができます。そこで、それを「意訳」して、自然な文に直します。「自然な」というのは、それを読む「日本人」にとっての、それです。「直訳文」を「意訳」する過程で、いろいろなことに
57. 語と句の順序を換えること 「英語学習」での、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということの経験として、まず、「和訳」を考えると、「英文」が対象になります。「意味選択」を取り上げました。 『現実』の認識を表したこと
57. 語と句の順序を換えること 「英語学習」での、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということの経験として、まず、「和訳」を考えると、「英文」が対象になります。「意味選択」を取り上げました。 『現実』の認識を表したこと
56.なぜ「意味」を選ぶ必要があるか 「英語学習」を介して、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということを経験してもらおうというわけです。 「英語学習」での「和訳」と「英訳」は、同じ「現実」について、「日本語」と「英語」
55.異文化間の意味の理解井筒俊彦氏は、記号と意味の問題についてさらに次のようなことを指摘しています。 もし、同一言語内での対話ですらこのような状態であるとすれば、異文化間の対話がいかに困難な理論的問題を惹起するかは想像にあまりあるということであります
54.外的過程と内的過程の理解「ことば」について取り上げた際、「内部知識」と「外部知識」ということばを使いましたが、そこで言いたかったのは、「ことば」について考える際、我々の知識の使用に偏りがあるということです。そこで、最近目にした「整体」の機関紙での
53.両極の壁は乗り越えられるか? そこで、その「記号による意味の伝達」を「全て可能とする側」と「全て不可能とする側」の両極の隔たりについて、否定か肯定か、この2つの極の間に、言語理論は何らかの妥協の道を求めることを余儀なくされているように思われます。
52.「記号による意味の伝達」は全て可能とする立場次にその反対の側についての言及です。 これと正反対の極に近いあたりには、言語は人間の意識に生起したことを、それがどのようなものであれ、本質的には他人に伝達できるという古来の合理主義的な立場を堅持する人々
51.「記号による意味の伝達」は不可能とする立場 次に、その両極の立場としたものについて、まず、前者の「記号による意味の伝達は全く不可能だという考え方」について述べた箇所を取り上げてみます例えばフンボルトの後継者たちはだいたいの傾向としては否定的態度を
50.言語記号を手段とする意味の総合伝達孔子の「名を正す」ということばは、弟子とのやり取りから解るように、それが社会的混乱の根本的解決につながるということなのですが、それを弟子の方は「迂遠」だと受け止めているわけです。たぶん多くの人が感じているのも、そう
49.洗脳に対処する学びさて、「洗脳」にどう対処するかということですが、それは何かのことに集団で批判するというのでは、いわば「洗脳」に対して、別の「洗脳」で対処することになりかねというのが、前回取り上げたことです。そこで、一人一人が、それぞれが接する情
48. 「知」の共有の難しさ「科挙」のことを取り上げましたが、現代でも教育についても同じような危険を持った制度が居座っているということがあります。ですから、一人一人が自由な個として学んでいくことが大切なのではないでしょうか。現在の世界のあり方を憂える人々の
47.誰かが教えることと、人々が互いに学び合うこと「科挙」がたどった歴史から知りえたのは、それが「名」による確かめに導かれる「教え込み」ということになることが、「実」の空洞化につながる、つまり、本人の中に本来の意味を形成することにはならないということでし
46.科挙という試験朱子は「為己の学」と比べて、「科挙」を度々批判していますが、一方で、朱子自身も若いころ、「科挙」を受けて合格しています。無論、その科挙というのは、朱子学が採用される以前のものですが。この本(講談社「朱子」)の中に、次のような箇所があり
45.学ぶ側の受け止め方 なぜ「教えられる」ことが問題なのかは、それが「教える」という他者の、多くは「ことば」を使っての行為を「受けいれる」ことを意味するからです。それを自ら求め自分のものとする「学習」、「学びて時に習う」、学習者の行為とは違うからです
44. 学ぶ対象から教えられる知識へ さて、本来「為己の学」である朱子の思想は危険思想として弾圧されることになりました。その後の朱子学がたどった運命について、この書から抜き出して紹介しておきます。 朱子は過酷な弾圧の最中に世を去ったが、彼の死後、その
43.朱子学の官学化前回述べたことを別な角度から取り上げてみます。 講談社の「朱子」で、朱子学の骨格にあるのは儒学の経典である「大学」であるということが記されています。その中で「大学」の8条 目と言われるものがあります。物を格(ただ)して后(のち)知至
42.朱子学と朱子の思いは別?朱子学というのは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系で、その中核をなすのが、「理気説」です。朱子学では、おおよそ存在するものは全て「気」から構成されており、一気・陰陽・五行の不断の運動によっ
41.「学ぶ」と「教えられる」 さて、「自分でやること」について、「学ぶ」と「教えられる」を混同していないか、ということを考えてみたいと思います。 先に、「 西洋の教育」と「東洋の学習」という言葉を使いました。 なぜそういう使い方をしたかと言うと、その「
40.やっていることのつながりここでのタイトルは「自分でやることの理解でした。その例の一つして「動く」ということを取り上げたわけです。それで「自分で動くということ」を、「体を動かす」ということだけではなくて、それが「頭を働かす」ことでもある、そういうに
39.自分でやることの理解を深める「東洋医学」の「養生」のところで、高齢者の健康のことが取り上げられていました。また、養生で大切なこととして、食事と睡眠、そして運動が挙げられていました。その中で、高齢者の場合、特に問題なのは、運動のことです。高齢化で
38.本人のやることと健康の結びつきの理解 前回、「医学の本で『本人の意思力』があまり言われていないことが気になる」と述べたことについて、触れておきます。 東洋医学では、病気がある、その前に未病というのがある、更にその前に養生というのがある、そういうふ
37.東西医学の統合の可能性「東洋医学の基本帳」という本の話をしましたが、その中で東西医学について、その違いとは別に、それが統合に向かう基になるものがあるとして、2つばかり述べています。1つは、西洋医学の源流であるギリシャ医学の医者のヒポクラテスの学説に
36.東西の医学と二つの脳 さて 「東洋医学のきほん帳」という本に、東洋医学と西洋医学の違いについて触れた一章があります。その中で、その違いを人間の左脳と右脳の違いから説明した箇所があります。 そういうふうに単純化してとらえることにはむ異論もあると思われま
35.養生は「自分でやること」 さて、養生というものを取り上げてみると、それは基本的には、それぞれが自分でやることです。それをきちんとやれば、そもそも病になることがない、簡単に言うとそういうことです。 例えば、我々は目が悪いとお医者さんに行って、場合に
34.養生が視野に入る 東洋医学の本を読むと、「養生」という言葉が出てきます。これは、医学を超えたものですが、その延長上にある生きかただとも言えるでしょう。 つまり「病気を治すことではなくて病気にならないことを重視する結果、養生という考え方が生まれた」
33.未病が視野に入る 病について、時間的にどんどん視野を広げると、病気が健康状態とつながってきます。 そこで、その間が視野に入ってきます。それを東洋医学では未病と言っています。それは「未だ病ではない」、つまり、病気になっていないが病気になる可能性のある
32.ものの見方を広く長く東洋医学が、道路の例で言えば全体の地図をみる、それに対し、西洋医学というのは、特定の地域について詳しく具体的にみる、そういう広い狭いということを言ったわけです。しかし、それは空間的にというだけでなくて時間的にも言えるのではないか
31.分析的と包括的この本(「カラダを考える東洋医学」)の中で 西洋医学と東洋医学の違いをまとめた表が載っています その中で取り上げると 分析的と包括的、心身二元論と心身一如、抽象論的と現象論的、既病を治すと 未病を直す、生活の質と養生、と言った 違いが取り上
30.造物主と八百万の神 西洋と東洋という分け方が正しいかどうかはともかく、生活の基盤の違いが人々の考え方を分かつということについて、ひょっとしたら、その宗教観にも表れているのではないか、と思えることがあります。よく言われるのが、西洋の方は自然界にある
29.ことばの共通性我々にとって、西洋医学について考えると、それぞれの専門のお医者さんがいて、それを自分で選ぶのが普通です。目が悪いから眼医者に行くとか、耳が悪いから耳のお医者さんに行くとか、それを選ぶのが分かりやすいし、それと治療のつながりについての説
28.病のとらえ方の違い 前回述べたことの続きとして言いたいことは、西洋と東洋といっても、細かく分けていけばきりがないのですが、一般的に言われているのは、「簡単に言うと片方が狩猟採集経済、他方が農耕経済を基にした生活の上に築かれた社会である」、単純化して
27.医学の生まれの違い狩猟採集経済というのは、動物を狩り、自然に育った植物を採って、それを食べて生活する、そういう経済です。それに対し、農耕経済というのは、自分たちが耕し育てたものを取り入れて食べて生活する、そういう経済です。そこで、人々が村というか
26.製品に関わるか、商品に関わるか さて、現代の人々が東洋医学に接すると、それが西洋医学の知識体系というものを比べて違い過ぎるのに、戸惑いを感じると思います。そこで、その近いが何から生まれたかを考えることは、我々が「自分でやること」の理解を考えるの
24.「動き」を軽視している現在の教育 この本(「この自然な動きが脳と体に効く―最新科学が明かす『人間本来の動き』の力」)は、心身二元論を超える内容になっています。 「心身一如というように心と体は繋がっている、筋力を鍛えるだけで自己評価が高まり、 精神
23.呼吸という運動 さて次は呼吸の話です。呼吸についての我々の理解は、空気を吸って吐いて、酸素と二酸化炭素とかを、肺とか細胞で交換する、そういうことでしょう。 そこで、この本は、我々がする呼吸というものの別な面についての理解を促すことになります
21.リズムがもたらす結びつき この本では、次に、リズムと動きについて取り上げています。 音楽のリズムは人と人との動きを結びつけます。それは脳と脳の共鳴をもとに動きを協調させる、そういうふうになっているのではないでしょうか。そして、それは同時にその個
20.からだに映し出されるトラウマ トラウマ(心的外傷)の理解が、我々の心身二元論を克服するのに役立つこととして、この本から少し外れますが、整体での診断のことを取り上げてみます。 東洋医学では、その治療の前提として、「証」ということをいいます。 整体で
19.トラウマとその運動療法 トラウマ とPTSDという言葉ですが、大体次のような説明になっています。トラウマとは、心の傷を意味します。自然災害や戦争、犯罪、事故などの体験をトラウマ体験と呼びます。トラウマ体験から自然に回復する人もいますが、生死に関わ
18.「内受容感覚」の訓練 我々は、体が健康になると、精神的に安定する、自信が持てるということは、普通に経験していることだと思います。この本ではそう言うことについてのいろんな科学者の研究に触れていますが、その中で 1つ目を引いたのが、「内受容感覚」の重要
17.歩くことと脳動くというと、まず「歩くこと」が思い浮かびます。この本では、その「歩くこと」と脳のことについていろいろ触れています。その中で、運動中に全身の体重を足にかけると脳の血流が直ちに、10から15%増加するという、ある学者の発見について紹介し
16.脳と体の関係次に、この本が述べているのは「脳と体の関係」のとらえ方です。そこで強調しているのは、それが言うなれば「対等だ」ということです。こういうことを言っています。「世間一般の認識と違って、思考は私たちの頭の中だけから生まれているわけではない
15.「動く」のか「動かす」のか そこで、この本から離れて、「自分が『動く』、あるいは、自分のどこかを『動かす』ということ」について、少し突っ込んでみます。それは、人の能力と関係することだからですが。 自分が動くという時、ただ、その動きについて、「自
14.動かないことが何をもたらす さて、その人間の運動不足です。この本では、現代の人々がどんどん運動不足になっているということが記されています。 現代の平均的な大人は、人生70%を座っているか全く動かずに横になった状態で過ごす。 1960年代の大人に比べると運
13.動きが心に与える影響 この本が、最初に取り上げているのは、「動きが心に与える影響」です。「心が体を動かす」のではなく、「無意識に体が動く」、それが自分の「心に影響を与える」、そういうことを言っているわけです。 例えば、音楽を聴いて無意識に体が
12.やっていることの理解 さて「限界国家」について色々取り上げましたが、ここでいったんそれから離れて、もう一つの、「この自然な動きが脳と体に効く」にふれることにします。 こちらは、副題が「最新科学が明かす『人間本来の動き』の力」となっているように、我
11.一人でやれることの限界 「全てを自分でやることはできない」という自覚がなぜ大切かということで、そういう自覚がない人について考えてみます。そうすると、それには、自身が「全て自分ができる」という人と、そういう全てできる人がいることを前提に、「自分がそ
10.人は全部やることができない「思考」や「行動」の過程が多くは、意識されない「深層」で経過しているという話をしました。そして、その経過の中でどれが本当に自分がやっていて、どれがそうではないかということを理解する必要があるということを言ったわけです。そ
9.「自分が本当にやっていることと、そう錯覚していること」 そこで、このブログの「自分でやることの理解」というタイトルについて少し触れます。その「自分でやることの理解」で一番言いたいことは、我々が「自分でやっていると思っていること」について、本当に自分が
8.教育を受け止める自分のやること 「限界国家」の中で若者が日本の教育について述べた言葉があります。それを抜き出してみます。 1つは「いい成績を取るためには教えられたこと、教科書に書かれていることにいちいち 疑問を持っちゃダメなんです。誰が見たかとか
7.自由と連帯 「限界国家」で若者による現在の「教育」への批判には、『個』の自由を追い求めた「朱子学」が「科挙」にとりこまれることで、為政者による洗脳の手段と化したこととを思い出せます。 人と社会との関わりについて考えてみると、当初は身近な人々が結び
6.外の社会と個の中の社会 我々は、同時に様々な社会に属しています。身近な方から言えば「家族」「会社」「市町村」 そして「国家」、さらに「地球」、もっと言えば、「大宇宙」ということになるのでしょう。ただ、 宇宙の方は、あまり、社会という感じはしませんが。
5.「国家」への囚われから さて「限界国家」の後半は、今後の日本について行き詰まりを感じている70代の経営者が、20代の経営者の話を聞くことで、その対応策を考えようとする、つまり、70代の経営者には解決策がない、20代は経営者にはそれがある、簡単に言うと、そ
4.「脱藩」と「脱国」 今、国家観を問題にしていますが、 そもそも国家というのは社会の単位の1つであって、今は国家の重要性が増していますが、人々にとって常にそうだったわけではありません。 そもそも人は当初は、我々が言う村の中で生活をしていて、当然その当時は
3.国家から自由 この70代の経営者というのは、憂国の士、つまり国の将来を憂えている人なのです。ところが、その人の国というのは何なのかというとその言葉を借りると文化である、伝統である、そういうことを言っているわけです。国の中の重要な要素である人についてど
2.「限界国家」について そこでまず、前回触れた「限界国家」の簡単な紹介から入ります。 あるコンサルタント企業に、引退を前にした「国士、憂国の士」といわれる70代の経営者が、日本の30年後の将来像についての提言を依頼します。そこで、担当することになった女
1. 再び「自分でやると」を取り上げるきっかけ このブログで数ヶ月前に「自分でやることの意味」というタイトルの文章を記しました。 「自分であることの意味」を理解するということは「自主学習」について考える上で重要だからです。ところが世の中で行われている自
100.「姿勢」と「能力」 ここで、「姿勢」と「能力」について色々取り上げてきました。この関係を端的に表しているとしてとりあげたのが、中国の古典「中庸」の「未発の中・已発の和」という言葉です。「已発」といのは、「已に発する」、つまり、考
99.「変える」のではなく「調える」よう導く さて「体癖」にどう対処するべきかについて、野口師は「変化させるというのではなく整える」ということを言っています。 つまり、目指す「姿勢」、目指す「動き」があってそれに向けて、ここを変えさせよう、あそこを変
98.学習障害とのつきあい 「からだ」の運動は、上下・左右・前後、それに ねじりと開閉の4つの運動の組み合わせです。それをもとに、様々な複雑な動きがするわけです。ですから、その5つの運動の基が狂っていると、当然、運動そのものが歪みます。そこで、その基になっ
97.見えない効果と持続すること 「立腰」の効果はすぐには解りません。その内部の変化は、外からは見えません。それはただ、本人がそれを持続するなかで体験して知る以外はありません。 ただ一つ言えることは子供は大人より体が柔らかいために非常に効果が早く出ると
96.「立腰」と「学習能力」 さて、膝が全体の姿勢に影響を与えるように、腰の5つの椎骨、これが歪む、例えば、一つの骨が前に突き出したり、横にずれたり、そうなると、我々が行動する時に腰から動き出しますから、その動きそのものが歪むということが起きるわけです。
95.体とバランス 膝が悪いとします 。そうすると 体を動かす時にバランスが崩れます 。それをもとに体を動かすとその動きが歪んだものになります。 ですから 元の動きを取り戻すには膝を治す必要があります 。 すぐに膝を治すと
94.「面構え」と「表情」 我々は、毎日、洗面の際、鏡で自分の顔を見ます。 その顔については、「面構え」という言葉があるように、骨と筋肉で形成された「構え」があり、それを基に様々な「表情」が生まれます。 つまり、人の「表情」は、その「面構え」を基に生ま
93.未発の中・已発の和 「構え」と「動作」の関係を理解することの大切さを考える際、役立つと思われるのは、<10>と<34>でふれた「未発の中・已発の和」という「中庸」(儒教の経典)の言葉です。 <34>では、この言葉を紹介し、「こころやからだの準備状態
92.「こころ」と「からだ」の土台「姿勢」ということばの定義を調べてみると、まず、次のようになっています。身体が静止している状態、運動している状態のいかんにかかわらず、身体の保つようすをさして姿勢という。古くは「構え」とか「格」という表現が用いられた。
91.「からだ」と「こころ」の壁を超える 「意識」が拡がる、「こころ」が自在に活動する、そうすると、「心身二元論」を超えて物事をとらえられるようになります。 それは、「物事を分けてみる」ことと、「つながりでみること」が、いわば併存するということです。世
90.「あたま」の奥から「からだ」の奥へ 自分の内部に注意を向けます。そうすると、まず、自分の意識が浮かぶ場が頭の中を占めている、そんな感じがしませんか。そして、その意識に浮かぶものをたどると、その空間がそれをもたらす奥につながっていて、意識を拡げると
89.「自主学習」は「自己理解」を深める 「瞑想」と「自主学習」が結びつくと、「自己理解」がすすむことになります。 「学習」の際、自分の中で起きることを考えると、「あたま」に浮かぶことを意識してそれを処理する過程もあります。しかし、その基となるものの多
88.「自己の理解を深める」ということ 生徒が立腰の際、目を瞑る、それは「瞑想」に通じるわけです。 そこで、その「瞑想」の効果として様々なことが言われていますが、まとめると次のようなことです。 俯瞰の視点を手に入れることで、雑念をスルーできるように
87.「境界」が消える 内を「見る」ことを続けると、その内からみた「からだ」と、「あたまの」の中と感じられる「意識」と、その奥にあると感じられる「深層」がリアルなものと受け止められ、それらの境界が無いというか、夫々が伸び縮みするというか、そんなふうに「み
86.「からだ」と「深層」 目を瞑って腰を立てる、それを続けると、「意識」が「からだ」の内に向かいます。筋肉で言うと、それまで「筋肉」というと「表層筋」を対象としていた「意識」が、「深層筋」に向かい、神経で言うと「筋紡錘」についての感覚が鋭敏になります
85.「ことば」と「深層」 学習に関わる内的経験として、「ことば」に関わることを取り上げてみます。無論、個々に違うでしょうから、例えば、次のようなことです。 まず、目を瞑っていると、外からの音や声が聴こえます。外からの「音声」は、最初は「耳」から聞こえ
84.自らの「深層」に触れる経験 瞑想の効果については、いろいろ言われていますが、大切なのはそれを継続することです。SSAの教室での「立腰」は、毎回10分、これを大体習3回実践します。その間、瞑目することで、内に意識がいきます。それが通塾している間、続き
83.自身の「意識」を拡げる 目を閉じてじっと「立腰」をするのに、最初は慣れません。(早く時間がこないかなあ)と焦る生徒もいるでしょう。しかし、そのうち、否応なしに自分の内部に意識を向けることになります。 内言を使用していろいろ考えている自分、その「コト
82.「こころ」を柔軟に 子供が下痢をすると、母親が子供に苦い薬を飲ませる、冬に子供がはだしでいると、母親が無理やり靴下をはかせる、それは、西洋医学的には、それが正しいとされてきましたが、下痢は体の毒になるものを出す、はだしは体温調節能力を高める、そうい
80.「からだ」と「こころ」の分断 「近代科学」の基にあるのが、「心身二元論」や「全体は部分の総和である」という分断の知であるとすれば、それで物事を「みる」ことには限界があります。無論、「現代の科学」はそれを超えて発展しつつありますが、現実の教育に反映さ
79.自在にはたらく「こころ」を 「こころ」の「意味」をどうとらえるかは、人それぞれでしょうし、ましてそれを「ことば」で表現することは、難しいことです。 そこで、それをとしてとらえると、その「意識」と「深層」が一方的なものではなく、その両者を隔てる壁
78.ものごとが多元的だとすると 我々は、自身を「からだ」とか「あたま」とかに分けて「見る」のには慣れていますが、それを様々な次元で「みる」ということはあまりしません。分かりやすく言うと、「肉体」のレベル「細胞」のレベル、「原子」のレベル、「波動」のレベ
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36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
19.「解る」「できる」の判断 「レポートテスト」では、まず「問題」について、自身の思考過程を書き表します。次いで、その「レポート」と「解説」とを対照して、その「思考経過」の一つ一つについて、自分で「これは解っていた」、「ここはよく解っていなかった」、あ
18.原因の突き止め さて「レポートテスト」は通常のテストと違い問題の答とか結論とかだけではなく、思考経過を書き表すことになっています。 そこで、例えば、「解答」があっていたとしても、その「思考過程」に問題がある場合、それを明らかにできるようになってい
17. 自分の学習のレポート レポートテストは、与えられた問題について、それをどう理解しどういう知識を使用してどう考えたかといった経過をレポートする学習です。 そこで、その問題が、できなかったり、間違えたりした場合、その修正に入るわけですが、その際、その
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが
63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての
62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1
61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「
60.異文化間のコミュニケーションの難しさ 前回取り上げた、「翻訳という仕事には必ず何か偽なるものが含まれています」の後に次のようになっています。よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳した途端に形象が違ってしまう。