写真と野球は違いますが、野球が好きなのであくまでイメージとして野球に例えて書きたいと思います。ピッチャーが投げるボールが被写体、自分の使っているカメラがバットです。ピッチャーが投げるボールは多種多様なのが写真の面白いところなんですね。その中で自分の打ち易そうなボールは好きな被写体と言えます。実際、ヒットになりやすいです。ただ、ここで言うヒットは自分で見てであって、誰かの客観的な評価とは別と考えます...
ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
当ブログへご訪問いただき、ありがとうございます。来年もよろしくお願い致します。よいお年をお迎えください。...
撮影に行ってきました。思い切り、露出をミスりました。オーバーな話です。...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 8
「フィルムライク」という言い方がされます。フィルムのようなという意味だと思うのですが粒状性のことなのでしょうか。ネガカラーの軟調な描写のことでしょうか。勉強不足でよく分からないのです。紙の印刷だと何となくでもわかるのですがモニターだとよく分からないのです。今さらながらフィルムのよさって何だったんやろうとかなりピントがずれたこと、思っています。...
ここへいろいろ書いています。フト以前読んでいた写真の本が目に留まります。適当にページをめくり読んでみます。そして気付くのでした。「なぁ~んや、オレの書いていること、この人からのパクリや」と。まるで自分で考えたみたいに書いていたことが恥ずかしいです。でも、明日になったら忘れていると思います。...
写真の投稿だけです。...
写真は「パクリのアート」だと思います。被写体の姿をパクります。他人の撮り方をパクります。そのままではヤバいので少しはアレンジします。上手くゆくと売れるかもしれません。ただボロ儲けは難しそうです。たくさん売る必要があります。それを「パクリ多売」というそうです。あっ、誰も言っていません。今、私が作りました。...
「思いが伝わる写真術」というのがありますが正確には「思いを伝える写真術」ではないでしょうか。「伝わる」 のは相手ですよね。伝わったかどうかは相手次第ですし実際に何が伝わったのかを確認する手段はありません。何しろ思いは目に見えないのですから「思いが伝わる写真術」は非現実的ではないでしょうか。「思いが伝わるかもしれない写真術」なのです。写真を見せるほうは自分の思いを「伝える」ためにいろいろテクニックが...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 7
寒さのせいでしょうか、年末疲れのせいでしょうか、テレビに映る街は、元気がなさそうに見えます。人間が元気そうを装うほど街の疲労困憊がむき出しになってくるようです。気のせいでしょうか。私が人間疲れしているせいでしょうか。...
フィルム写真を体験できてよかったなと思っています。ネットを見ていると費用は掛かるけれどフィルム写真を体験できればしたほうがいいという意見もありますね。いずれフィルム写真がなくなるみたいだからです。でも、個人的には無理して体験する必要はないと思います。私は、アナログ人間なのでフィルム写真のころの考え方に左右されていますがむしろ体験することで、これからのデジタルによる写真表現を考える時にはかえって混乱...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 6
テレビにしろネットにしろ情報のカタマリです。言葉など音も情報ですが視覚からの情報にはかないません。見れば見るほどいろんなことを知った気になります。でもこの視覚、網の目のように情報は駄々洩れではないでしょうか。いっぱい、こぼれ落ちて行っているんですね。でも、本人はしっかりみたつもりでいます。そんなふうにして情報をたくさん食べれば食べるほど未消化の情報によって人間は痩せてゆくような気がします。...
通りすがりの○△□231207・アレやコレやで、エエトコだっせ 1
写真はコミュニケーションの手段だとよく言われます。また表現の手段とも言われます。そのコミュニケーションは相手が中心です。相手に正確に伝わらないのではコミュニケーションする意味がありません。アレを写したので見せたのに、相手がアレ?では困ります。 いっぽう表現は自分が中心です。自分の中にないものは外へ、つまり表へ現わせません。アレを写真に託して相手に見てもらいます。自分の中のモノが相手にとっても良き...
布施に用事があったので河内小阪で降りて永和へと向かいながら撮影しました。小阪はちょっと思い出の場所です。でもずいぶん変わりましたね。駅前の本屋さんが無くなっていたのですが吊り看板が残っていました。時間は記憶を裁断して葬り去るためにあるのだと思いました。ノスタルジーという甘美な響きとは裏腹に・・・。...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 5
写真はたくさん撮ればいいというものではないのですがたくさん撮らなければ始まらないところもあります。「写真は質より量」と言われ、私もそう思っていましたが最近はどっちでもいい、どっちでもないと思うようになりました。たくさん撮っても腹いっぱいにならない時もあれば、これでもう十分の時もあります。「腹八分目」といっても個人差がありますよね。健康ばかり気にするのは不健康ではないでしょうか。時には「写真は質より...
最近、「ストリートスナップ」という言葉をよく目にします。でも私が思っているのとだいぶ違うようです。ストリートというより、街なかで人物を撮ったのが「ストリートスナップ」と言っているんですね。個人的には「スナップポートレート」だと思うのですがまあクリスマスも近いし、めちゃ寒いし、どうでもいいような気もします。...
光の三原色と色の三原色は違いますよね。でも写真では色と光を混同してます。光は一時的ですが色は持続性があります。デジタルは光ですからやや無責任です。紙は色なので光よりは信頼できるのです。...
写真の投稿だけです。...
上から目線ということばがありますよね。写真も撮影という行為はどうしても一方的になります。相手が何であれこちらからの視線は向こうへと向かうからです。それを上から目線だと決めつけるわけではないのですがその可能性がゼロではないこともあり得るのではないでしょうか。物理的な位置ではなく、まなざしの方向なんですね。まあ、普段の撮影でそんなことを考える必要はないと思います。自分も楽しい、相手も楽しい、それがいち...
デジカメが幅を利かせ出したころるデジタル画像ののっぺりさが気になっていました。やがてデジタル画像の空々しさが気になってきました。でも今はどちらかつてほど意識しなくなりました。どうやら慣れは人を麻痺させるようです。...
写真はおそらく被写体を超えることはできないと思っています。被写体の姿を借りて別の何かに変えること、それが被写体へのお礼のような気がします。何かを生み出せればいいのですかそれは簡単ではない気がしています。...
写真は記憶というものを強力に意識させるメディアだと思います。人間は、単純に言えば記憶でできていると思うのですが自分が撮った写真と、撮った時の記憶にズレが生じることは誰でも経験しているのではないでしょうか。それは、自分が記憶していることは必ずしも正確ではないことを意味します。つまりそんなあやふやなことを土台にして毎日を送っているんですね。...
前にも書いたので同じことの繰り返しになりますが写真を撮るということは程度の差はあれ、人を傍観者にさせるところがあると思うのです。自分と直接に関わっていないのに関わっているような気にさせる、自分が傍観者になっているかもしれないことを考えなくさせる、カメラにはそんなところがあるということですね。綺麗な風景の中にいるのに、スマホを含めたカメラで写真を撮ることに夢中になってしまうのは、実際には景色に触れて...
通りすがりの○△□231025・そなんやけどMINAMI 3
写真の場合、綺麗と美しいが曖昧に混同されている気がします。綺麗だけれど美しくない・・・そんなことがあるのではないでしょうか。写真は視覚の表現なので見た目に影響されやすいのです。そのため、美しさが遠慮がちに目立たなくなってしまう気がします。レタッチは綺麗さをさらに強調しがちで美しさがぼやけてゆくように感じるのはフィルム時代の目で見てしまうからでしょうか。いずれにせよ写真にとって「美」とは何かよーわか...
通りすがりの○△□230831・街、後ろ姿のHappysong 3
「それ」を写真を撮るだけでは 「それ」を見たことにはならないと思います。むしろ撮ったことで「それ」を見た気になるのがマズいのではないかと思います。「それ」を見たいのなら直に「それ」を見たほうがいい気がします。写真に撮るのは「それ」を「それ」以外の何かに変えたいからではないでしょうか。 そのことは「それ」にとっていいことなのかどうか「それ」から聞けることは稀だと思います。...
テレビのドラマで事故や事件が起こったら歩いていた人たちがいっせいにスマホを向けてバシャバシャ撮り出すシーンがよくありますよね。人がケガして倒れているのですが・・・私もそんな場面に出会ってカメラを持っていたらやっぱり写真を撮ろうとするのでは、と思っています。それは際立った例えとしても、どんな場面でもカメラは持つ人を傍観者にしてしまうところがあるのではないでしょうか。「あっしには関わりのないことで・・...
行ってきました。...
写真の投稿だけです。...
通りすがりの○△□231025・そなんやけどMINAMI 2
試しにですが3、あるいは4カットで写真を組んでみます。すると2、あるいは3カットまでは決まるのですが最後の1カットがなかなか決まらず迷うことがよくあるんですね。組み写真というほどでないにしても写真を数カットのまとまりで見た時、その中の1カットだけが目立つのはよくないようです。3枚の組み写真だとすると他の2カットが、それぞれの別の1カットを支えるというのでしょうかうまくバランスが取れると、見やすい写真群にな...
写真の投稿だけです。...
写真の投稿だけです。...
「人間だもの」…耳に響きのいい言葉ですよね。でも最近ちょっと引っかかっています。「人間だもの」というのには「人間とは何か」が分かっている必要があるのではと思うようになりました。でも「人間とは何か」完全に分かっている人っているのでしょうか?「写真だもの」も同じように思います。「私に写真で分かっていないことなんてない!」そんな人・・・いるかどうかですね。たぶん、ですがどちらも永遠の謎ではないでしょうか...
それを撮った三次元の私と、私が撮った二次元の写真。両者は無関係ではないですが、完全に重なるわけではありません。それは頭でわかっていても、自分が撮った写真には愛着みたいなものがあるのは仕方のないことですよね。人間だもの。ただそうするとその写真を他人事のように見ることはできなくなります。評価を誤るというより、評価そのものが出来なくなるのです。たぶん、一流と言われている写真家は自分の写真を他人が撮った写...
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写真と野球は違いますが、野球が好きなのであくまでイメージとして野球に例えて書きたいと思います。ピッチャーが投げるボールが被写体、自分の使っているカメラがバットです。ピッチャーが投げるボールは多種多様なのが写真の面白いところなんですね。その中で自分の打ち易そうなボールは好きな被写体と言えます。実際、ヒットになりやすいです。ただ、ここで言うヒットは自分で見てであって、誰かの客観的な評価とは別と考えます...
観光地などに出かけて綺麗な景色を前にしてカメラでひたすらにパチパチ撮っていることってありますよね。せっかく、遠出してやってきたのに、それではその風景に浸れないのではと、思っていました。いいえ、今でも一応はそう思います。ただ、少し考え方が変わってきました。風景以外でも、例えば音楽で言えばロックのライブでの撮影です。ライブの撮影の経験はないのですが、やはりカメラを持って撮影しているとロックの音楽そのも...
写真でいう感想とは予め決められたマークをポチすることでもなく☆の数を選ぶことでもないのではないでしょうか。なぜそのマークをポチしたか、なぜその数を選んだか目に見えるカタチで自分の言葉にすることだと思うのです。それを誰かに見せるためではなくても、それを誰かに伝えるためでなくても・・・ですね。ポチしただけ、選んだだけでもいいのかもしれませんが自分が意識化できるかが大切なのではないでしょうか。ただの好き...
行ってきました。...
「文句ある?」と言われた時、3つの反応が思い浮かびます。一つ目は「いいえ、納得で、何も言うことありません」です。二つ目は「はい、自分はこう思います」です。そして三つめが「何となく違和感があるけれど、今の自分には言葉に出来ない」です。議論のための議論では水の掛け合いになるので夏などにはいいにしても、一年中というわけにはいきません。やはり、お互いの実感からの議論が必要ではないでしょうか。写真でもいろい...
写真ではよく「思いを伝える」と言われています。ではこの「思い」とは何を指すのでしょうか?大きくは次の2つに分けられると思います。①「思い」は「感情」のことです。コミュニケーションを重視します。コミュニケーションの対象はふつうは身の回りの人たちですがSNSなどを通じて不特定多数の人たちのことも多くなりました。時には自分のこともあります。思い出の瞬間の感情をより鮮明に自分に伝えてくれるからです。言葉はその...
20代に突入したころ、写真を始めました。それから半世紀以上経ったのですが、飽き性の自分がよく続けられたなと思っています。そんな私ですが、30代の半ばごろに突然、「モノクロはもう辞めた」とカラーに切り替えました。そんな日々を、年齢的に無理して首筋を傷めない程度に振り返ってみると20代、30代にも自分なりに「いい写真」は撮れていたと思います。あくまで自分基準の「いい写真」ですが「あの頃のほうが、いい写真を撮れ...
写真史としての名作は一定の評価はされているのですが今、有名な写真家にしても登場当初というのでしょうか初めて作品として写真を発表した時には酷評された人もいたのです。写真の世界の価値観みたいなものは時代とともに変わってゆきます。写真の世界に吹く、世間の風は気まぐれなのです。その時代の気分次第で、ヨイショされたり、ブーイングされたり・・・世間というのは怪物みたいなものではないでしょうか。...
自分の「好き」を撮りましょうと言われています。でも、自分の「好き」に疑問を投げかけるのが写真だと思うのです。自分の「好き」にケチをつけることではなくもう一度見直すということなんですね。「好き」と思い込んでいるだけかもとか「好き」と思い込まされているだけかもとか。まあ、いちいちそんなことをやっていたら疲れますからたまにでいいと思いますし、あえてやらなくてもいいとは思いますが・・・。...
写真が難しいのは立体を平面として見ることに慣れていないことも理由の一つだと思います。写真を撮ることには今の時代、スマホなどで小さいころから当たり前に行っているので「写真なんてチョー簡単!」と思ってしまうのですね。フィルムカメラの時代ですら、他のアートから「写真なんてカメラが撮ってくれるんだからいいよね」なんて思われていました。「写真なんて、ラ~ラ~ラ~♪」だったのです。でも、自分でカメラを本格的に...
行ってきました。...
写真をするのに才能は必要なのでしょうか。写真がアートだとしたら音楽や絵画のように才能が必要になって来ます。でも、あえて写真をアートだと思わなくてもいいと思うのです。たしかに、写真のセンスがいいなあと羨ましくなってくる人っていますよね。バズっている写真などを撮っている人たちが思い浮かびます。そうできるのは写真の才能があるからと言えるのですが、バズる写真だけが写真でないことは言わずもがなです。楽しみ方...
撮影しました。...
「暗黙の了解」というのがあります。わざわざ断らなくても通じることですよね。でも、今はそうではなくなってきました。「個人の感想です」ーふつう感想を述べるのは個人だと思うのですが。「CM上の演出です」ーこんなのマネする人がいるの?そして・・・「写真はイメージです」ー写真=実物なんてありえないのに。なんだかメンドクセー世の中になったものですね。...
写真に写っているからホントだろうから写真に写っているからウソかもしれないへ写真にとって激動の時代になったなあと昭和カメ爺はシミジミト思いながらシジミの味噌汁をすするのです。...
昔、正確には大昔、テレビドラマの主題歌に「七つの顔のおじさんのホントの顔はどれでしょう?♪」という歌詞がありました。今考えると、それは七つの顔のどれもホントの顔でもあり、ウソの顔でもあり、ホントかウソかはどちらでもいいことのように聞こえます。それぞれの顔で難題をカッコよく解決して、視聴者をスッキリした気分にしてくれればよかったのですから。まあ、ドラマがどんな内容だったのかは忘却の彼方なのですが、懐...
写真の投稿だけです。...
写真関係のSNSの記事を見ていると、ある言葉をよく見かけるようになり、気になって来ました。「私」関連と言うのでしょか、「私」以外に、「私」「わたし」「僕」「ぼく」「自分」「じぶん」などですね。そのような言葉が目につく記事の特徴は、その人が食べたもの、飲んだもの、家族や友だち、友好な関係の人たちなど、プライベートな写真が多い気がすることです。ふつうSNSは不特定の人たちに向けて発信されるものですから、その...
つくづく写真というのは被写体しだいなんだなあと思います。それでアレブレボケ写真は文句を言われたのです。肝心のどんな被写体が写っているかが分からないことで見る人を落ち着かなくさせました。人は落ち着かないことは嫌ですからイライラしてボヤいたのだと思います。その代表ともいえる森山大道が世界的な写真家になったのですが、それでも写真というのは被写体しだいなのは変わらないと思います。「いい写真」というのは写真...
デジカメが上手に撮れ過ぎてくるとフィルムカメラの上手く撮れなさが魅力的になって来る・・・揺れ動くカメラマンゴコロですが、次はどこへ向かうのでしょうか。下手は嫌ですが、上手くても面白くない・・・人間カメラマン相手にカメラたちも大変だなあと思います。...
木造世代なので今のまるでSFのような世界は馴染めません。昔はお寺や神社は苦手だったのですが今は落ち着ける場所になって来ました。ただ、ここは外国の人が多くてやや落ち着けなかったのです。...
写真は好き嫌いがハッキリするメディアだと思います。好き=撮りたいもの、嫌い=撮りたくないものですね。ただ、現実の光景には好きと嫌いが共存しています。そこでテクニックです。ボカします。明るいレンズを開放気味にしたりします。覆い焼きします。レッタチで周辺を黒っぽくするイメージです。飛ばします。潰します。ちょっと、怖い言い方です。見えなくします。好きなものの後ろに嫌いなものを隠します。トリミングします。...
街歩きの動画を見ていると情報量で言えば写真は叶わないなあと思います。なにしろ動画は写真=静止画の大量集団ですから数では勝てません。戦う前から要白旗なのですね。では写真は動画に勝てないのでしょうか。そんなことはないと思います。今のところ、よく分からないのですが写真には「余白の魅力みたいなところがあると思います。まあ、争う必要もないのですが。...
今年も「危険な暑さ」がやってきました。写真で「危険な暑さ」を撮影やレタッチで工夫すれば表現出来ますよね。でも、それは「危険な暑さ」を連想させるだけで写真そのものが「危険」であったり「暑」かったりするわけではありません。人間の想像力はスゴイと思います。...
かつて、カメラのファインダーのピント合わせやオートフォーカスの測距点は、画面の真ん中にありました。そのことは何を意味するのでしょうか?人は写真を撮ろうとする時、何も考えないと、無意識に撮りたいものを画面の真ん中に持ってきますよね。当然と言えば当然だと思います。画面の隅っこに小さく撮ろうとはふつうは、しないです。そうなんです。「日の丸構図」は写真撮影の原点と言えます。「日の丸構図」については、いろい...
当たり前にあることは話題になりません。当たり前には古さが付きまとうからです。人は新鮮さを求めます。写真も新鮮さが楽しませてくれます。新しいカメラ、新しいレンズ、新しい被写体・・・でも、新しいには時間という非情なヤツがやってきます。新鮮さというラベルを剥がすのです。見慣れた光景・・・退屈です。写真に撮って、新鮮な光景に変身させたとしてもやがて飽きてくるのです。写真を続けるには「当たり前」を「当たり前...
主張には根拠が必要と言われています。自分の言いたいことは主観的なのでそれを裏付ける客観的で正当な理由が要るのですね。写真も「こう撮れ!」みたいなことが言われます。どうしてかと訊くと「なぜならみんな(多くの人)が、いい写真と言ってくれるから」のような返答が帰ってきます。少し理屈ぽくなるのですがある根拠にはその根拠を支える別の根拠が必要ではないでしょうか。そのことは堂々巡りを意味しています。正論が複数...
用事で出かけたついでに「新石切駅」周辺と「石切さん(石切神社)」周辺で撮影してきました。お天気で暑かったので意識を失う前に帰ってきました。...
ChatGPTに「さん」を付けることってあるんですね。対話型なのでそうなのでしょうか。いずれ人格みたいなものを備えることを見越しているのでしょう。近い未来、相談するのにいちばん信頼のおけるのがChatGPTになるのかもしれません。自分の写真作品の評価を尋ねたりも出来るですね。フォトコンテストの審査員に選ばれることもありそうです。そうなると、自分の応募した自信作が落選したら憤懣の向けようはなくなるのです。フォトコ...
写真展などでキャプションとステートメントと言う言葉が使われます。どちらも文章なのですが詩なども使われるようですがとても簡単に整理してみました。キャプションは説明文です。それで客観的に分かりやすく書く必要があります。作品の理解を助けるために書かれるのですから難解な文章はNGです。いっぽう、ステートメントは声明文です。それは意思表示であり主観的なモノです。自分の写真観みたいなモノを今回の作品で反映させた...
私は多感、と言うより冷や汗の多い「多汗」な時代に写真を始めたので、どうしてもそのころのことが基準になります。デジタルの時代になったのにフィルムの時代の考え方から抜けられません。一時は「デジタルもフィルムも写真には変わらへん」と思っていました。でも、最近はデジタルとフィルムは明らかに違う、別のものではないかなと思い始めています。ただ、自分自身はこれまでのような写真を撮り続けると思っています。...
写真はボケやX構図で遠近感を出せますよね。絵画では遠近法と言うようです。写真は平面の画像なので実際には目から等距離にあります。それを前後に感じるのですから人間の目っていい加減なんやなと思います。...
「散歩」とは辞書的には気晴らしや健康のためにブラブラ歩くことと説明されています。でも、本来は特に理由などなくただ歩きたいからするもののように思います。季節や時間帯や天候などや距離・歩数は関係ないのです。まあ台風や大雨の時は向いていないと思いますが。数百メートルでも散歩は散歩です。嫌になったら止めればいいのですから。健康のためとか、1万歩歩くことが目標とかは散歩が手段になっている気がします。私の写真...
最近のことはよく知らないのですがアルバムというのを、紙のプリントで残している人ってどれくらいいるのでしょうか。スマホやネットのストレージのケースが多いのかもしれません。上手く整理しておけば、紙のアルバムみたいに、かさばらないですよね。でも、ネットだと思い出が宙ぶらりんのように感じます。紙のほうが、思い出がそこにいてくれるように感じるのですが今は、そんなことはない時代になったのでしょうね。...
森山大道さんたちが発表していたアレブレボケ写真のようなカットが、国鉄(今のJR)の観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン(DISCOVER JAPAN)」に使われたのは、アレブレボケには旅情を誘うところがあったからではないでしょうか。森山さんには中平卓馬という写真仲間がいて、同じようなアレブレボケ写真を撮っていました。中平さんはアレブレボケ写真が観光キャンペーンに使われてからはアレブレボケ写真から離れ、写真を図...
撮影カットをレタッチでトリミングするとデザイン的な写真になるような気がします。...
私自身、いまだによく分かっていないのですが写真は現実をそのままそっくりに捉えることではなく写真という、もう一つの現実を捉える手段のように考えたほうがいいのでは?と思っています。もう一つの現実、つまり再現とか、表現とかいう言葉とは違う写真が捉え得る何か、リアリティーみたいなことではないのかなと思うのです。「いわゆる現実」とは違う「もう一つの現実」を捉えることが出来るのが写真というメディアのように思い...
観光などで初めての場所に行くと見るものすべてが新鮮に映りますよね。それで写真を撮ると興奮状態ですからいわゆる撮らされている結果になりあまりいい写真は撮れないよという意見があります。宿泊できるのなら初日はカメラを持たずにブラブラ歩いて、自分の目でチェックしてゆくようにしましょうと言われています。そうすると2日目にカメラを持って出かけることで冷静に観光地を見れるのでいい写真に結びつくということですね。...
時々「ローアングル」と「ローポジション」が混同されていることがあり、気になっています。地面近く、低いところでまっすぐ水平方向に撮るのは「ローポジション」での撮影なんですね。よく言われる「子供目線」とか「ペット目線」は「ローポジション」のことだと思います。いっぽう、下から上方向にに撮るのが「ローアングル」での撮影です。ビルの屋上で、真上に旋回するヘリコプターに向かって撮るのが「ローアングル」での撮影...
ウジェーヌ・アジェという写真家がいます。写真史では必ずと言っていいほど出てくる人です。画家になりたくてパリに出てきたのですが、画家ではなく写真家として「美術家のための資料」にとパリの街を撮り集めることで生活の糧にしました。生活は恵まれなかったみたいで死ぬまでパンと砂糖とミルクを常食としていたというカッコいい写真家だったと思います。アジェには他人事だからそんなふうに言えるんだと怒られるかもしれません...