「虚無僧」で検索していたら、こんな話を見つけた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九州柳川10万石の大名だった立花宗茂。九州で最も強い武将ともいわれた。しかし、関ヶ原では「豊臣への恩顧」から西軍に付き、敗れて浪々の身となり、江戸に隠れ住んでいた。その時十時(ととき)摂津(連貞)や由布惟信他数名の家臣たちがなんと虚無僧となって江戸市中を門付けし、主人の食を支えたという。その十時連貞がある時虚無僧で門付けしていると、無頼の輩三人にからまれた。十時は係りを避けて逃げるが、彼らは執拗に追ってくる。十時を取り囲むと刀を抜いた。すると十時は、相手の刀を奪うと、あっというまに三人を切り伏せてしまった。そこへ、騒ぎを聞きつけた捕吏が駆けつけ、虚無僧十時は...家臣が虚無僧となって支えた立花宗茂
福山藩初代藩主水野勝成(1564-1651)。福山城主となってからは名君として知られるが、その半生は破天荒なメチャぶりでした。初陣は15歳で天正7(1579)年遠江の高天神城攻め。翌年の第二次高天神城攻めで16歳にして15もの首級を挙げ信長から感状を与えられた。その後も信長、家康の下で小牧長久手の戦いまで、幾度かの合戦に参加し一番槍の手柄を立てる。しかし自分の悪行を父に告げ口した家臣を斬ったことで、父から勘当され出奔。京都に出て、無頼の徒と交わり、喧嘩沙汰を起こしては何人もの人を斬っている。その後、九州に行き、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正、立花宗茂などの大名に仕えるが、先々でいざこざを起こしたり、ブチ切れて出奔している。浪人している時は「虚無僧」となって移動したという。戦国のフリーランスだ。15年の放...虚無僧から大名になった水野勝成
鶴の巣籠りひらののりこ編曲NORIKOHIRANOひらののりこプロデュースCDASIANMODERNよりhttp://www.sinfonia.or.jp/~manfan/hiran...youtube#videoピアノと尺八で「鶴の巣籠」
虚無僧の古典本曲「鶴の巣籠」をアレンジしたみました。尺八重奏『鶴』Turu説明youtube#video鶴の巣籠りひらののりこ編曲NORIKOHIRANOひらののりこプロデュースCDASIANMODERNよりhttp://www.sinfonia.or.jp/~manfan/hiran...youtube#video尺八「鶴の巣籠り」
12月14日は赤穂浪士討ち入りの日赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは、元禄15(1702)年の12月14日。事件後すぐ人形浄瑠璃の演目となったが、幕府は即刻上演を禁止している。そして、事件から半世紀ほど過ぎて、赤穂事件を室町時代の事件とし、登場人物の名前も変えて作られたのが「仮名手本忠臣蔵」。この頃は虚無僧の全盛期だった。「仮名手本忠臣蔵」の九段目『山科閑居の段』のサブタイトルは「恩愛鶴の巣籠り」。前年の3月14日、殿中松の廊下で塩冶(えんや)判官(浅野内匠頭)が吉良上野介に刃傷に及んだ時、制止した加古川本蔵が虚無僧となって山科に閑居する大星(石)内蔵助を訪ねる。そこには、本蔵の妻の戸無瀬と娘の小浪が先に来ていた。歌舞伎では、加古川本蔵の娘小浪(こなみ)と大星力弥(大石主税)が婚約していたという設定。本蔵の妻娘は...12月14日は「赤穂浪士討入の日」
千代田生命の創業者・門野幾之進は安政3(1856)年、鳥羽藩家老門野豊右衛門の長男として、鳥羽に生まれる。明治2年、鳥羽藩貢進生として慶應義塾に入学、同4年には早くも十五歳にして英語教師として塾生を指導することになり、ボーイ教師とあだ名された。塾の教頭を務めるまでになっていたが、明治35年に教職を辞し、同37年に千代田生命保険相互会社を創設。さらに同41年に第一機関汽罐保険、同44年に日本徴兵保険、大正2年に千代田火災保険、同9年に千歳火災海上保険を設立し社長を兼務した。その経緯については、門野幾之進は入学してわずか二年で教師になるほど、生真面目な学究肌であったため、不勉強な学生を許さず、試験で60点以下は落第(留年)とする学則を定めた。それに学生が反発し、試験をボイコットされる騒動が起き、辞職することとなった...門野幾之進
バブル騒ぎの時、「生保の一時払い養老保険は10年で倍になる。1000万円預ければ10年で2000万円になる」というのですから、契約者が保険会社に殺到しました。それまで「生保」というと嫌われ者で、セールスに訪問すれば「もう一杯はいってますから」と断られるのがオチでした。ところが、「一時払い養老保険」はその常識を覆したのです。銀行も「土地を担保に1億円貸しましょう。その1億円を生命保険会社に預ければ10年で倍の2億円になります。銀行の貸付利息7000万を差し引いて3000万の利益になります」と勧めたものだから、土地を担保に銀行から金を借りて、生保の「一時払い養老」に加入した人もたくさんおられました。私も目の当たりにしまた。ジュラルミンのケースに1億円の札束を入れて生保の窓口に来られた方を。ところが、やがてバブルの崩...保険会社倒産騒ぎは何だったのか?
千代田生命は、福沢諭吉門下で慶応義塾の塾頭を務めた門野幾之進によって、明治37年(1904年4月)に相互組織の会社として設立された。相互会社としては第一生命に次いで二番目である。創業者である門野幾之進は安政3年(1856年)鳥羽藩家老の家に生まれ、14歳で慶應義塾に入塾し福沢諭吉に師事。入塾2年後には16歳で教鞭をとり、以来31年にわたり多くの人材を世に送り出した。その後、参加していた交詢社で、師と仰いでいた福沢諭吉が紹介した“人の生涯を請け負う仕事”というものに興味をひかれ、これこそ世の中に有益な事業であると考え、千代田生命保険相互会社を創立し実業家としても活躍した。他にも共同保険、海上海運保険、豊国銀行の経営に携わり、貴族院議員としても活躍し、郷土(三重県鳥羽市)の教育振興に尽くした。鳥羽駅の近くにあった生...千代田生命
■平成最大の倒産は協栄生命保険上場・非上場にかかわらず、負債額の大きい企業倒産の上位30社で、負債額が最も大きかったのは2000(平成12)年の協栄生命保険で4兆5,297億円。ついで、2008(平成20)年のリーマン・ブラザーズ証券の3兆4,314億円。2000(平成12)年の千代田生命保険の2兆9,366億円となり、上位3社が金融・保険業だった。千代田生命2000年10月破綻千代田生命は、バブル期の積極的な経営が災いし、バブル崩壊後は不動産向け融資の失敗から不良債権化や株式担保融資の担保割れなどが発生した。不良債権の額は毎期ごと増大し、株価の下落による景気低迷と低金利政策の影響もあって、予定利率を運用利回りが下回る「逆ザヤ」現象が続き、信用不安が増大し、契約者の規約が相次いだことにより、2000年10月に経...平成最大の倒産
ちょうど20年前の10月に、千代田生命保険と協栄生命保険が相次いで経営破綻した。あれから20年、こんなブログがありました。『あれから20年千代田生命破綻の真相』以下、概略を転載経営破綻した千代田生命保険は、異例のスピードで13日に更正手続きの開始が決定された。同社の再建は、米AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の支援で進められる見込みだが、破綻後は、スポンサー候補として外資系金融機関が一斉に目の色を変えた。「破綻前の支援」には冷淡だったものの、負債カットなどで身軽になった千代田は、ブランドのアピール力や営業職員の資質は高い。「垂涎の的」に早変わりしたというわけだ。●未練の東海銀行千代田支援に前向き姿勢を見せていた主力銀行の東海銀行も、「あまりの財務内容の悪さ」から今月初めにトーンダウン。同行内では...あれから20年千代田生命破綻の真相
つづき許永中の意向を受けた若築建設から賄賂を受け取った中尾栄一元建設相の汚職事件の拡大が、思わぬ波紋を投げかけた。「事件の影響で千代田生命の経営危機がさらに深刻化した」(兜町関係者)というのだ。根拠はフィクサー・福本邦雄の逮捕(起訴猶予処分)。福本は許と中尾、そして若築を結んだ仕掛け人として東京地検特捜部に認定されたが、「千代田生命は福本とくっつき、その威光で大蔵省の護送船団行政の恩恵を受けてきた」(同)からだ。「千代田生命の幹部は賄賂の授受現場となった宴席にも出席。福本が主宰する『三宝会』の代表世話人も務めていた」と司法関係者が癒着ぶりを指摘する。また、「千代田生命は福本を通じて竹下登元首相に食い込み、大蔵省への影響力を保ってきた」(生保筋)が、バブル景気に酔った金融機関が経営危機を招き、大手、中小を問わず破...フィクサー・福本邦雄の逮捕
今日12月8日は「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦記念日」だというのに、テレビ、新聞では、そのような話題は、今年も出ませんでした。実は私も忘れるところでしたが、今日は私の父が出征した日でもあります。父は昭和16年4月に慶応を卒業し、東京電灯(現東京電力)に入社し、8月に故郷の会津若松第65連隊に入営。そして12月に中国へ送られたのでした。それから5年、満州から北支、中支と転戦し、幾度が死線を越えて、昭和21年生きて帰れたことが奇跡でした。私も子供の頃は、戦争映画を見ると“血湧き肉踊る”軍国少年でした。でも今戦争の真実を知ると、“あの戦争は何だったのか”と、怒りと涙がこみあげてきます。生きて帰らぬ身となった300万人の犠牲者の3分の2が餓死か病死。移動中や訓練中の事故死、上官の過酷なイジメ、そして自決だったというではあ...12月8日開戦記念日
上方歌舞伎の第一人者で人間国宝、歌舞伎俳優の坂田藤十郎が亡くなった。88歳。それでNHKで「仮名手本忠臣蔵」を放映していた。赤穂浪士の吉良邸討入り事件が起きたのは、元禄15年(1702)。関が原からもう100年が経ち、戦国の気風も消え、太平の世に慣れきった時代だった。人を斬ったことの無い侍ばかりの中で、浅野内匠頭の刃傷事件と、浪士の吉良上野介討ち取りは、大変ショッキングな事件だった。「これぞ武士の鑑」と庶民はもてはやしたが、それは幕府のお裁きを批判するものであったから、歌舞伎などで取り上げることはできなかったのだ。討入りの翌年には『曽我兄弟の仇討ち』にひっかけて文楽で上演されたが、幕府は三日後には差し止めにしている。文楽で『仮名手本忠臣蔵』が大阪で上演されたのは、1748年のことだった。事件から半世紀後である。...仮名手本「忠臣蔵」
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』は、赤穂浪士の話を、お上の手前、そのままでは演じるこができないので、時代を足利時代とし、吉良上野介を高師直。大石内蔵助を大星由良之助。その子主税(ちから)を力弥と、名前を変え、事実には無い創作話もふんだんに盛り込んでいる。九段目『山科閑居』は、塩冶(えんや)判官(浅野内匠頭)刃傷の時、後ろから抱きとめた加古川本蔵(梶川)の娘小浪(こなみ)と大星力弥が、実は婚約していたという設定。大星由良之助、力弥親子が閑居している山科に、戸無瀬と小浪の母子が訪ねてくる。婚約したのだから、早く結婚させてくれと頼みにくるのだが、由良之助の妻お石が、「主君判官の刃傷を止めた加古川本蔵が憎い。その娘を嫁に迎えるわけにはいかぬ」と追い返そうとする。戸無瀬が、いまさら婚約を破棄されては「ここで母娘ともに自害するしか...虚無僧加古川本蔵
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