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2006/08/24

  • 大師堂落慶を祝して

    大師堂落慶を祝して四月二日、めでたく大師堂が落成した。前日まで左官屋さん、建具屋さん、清掃の方など職人方が慌ただしく最終の仕上げを施してくれて、何とか落慶法要に間に合わせてくださった。昨年十一月から解体された大師堂と休み堂が一つの建物に生まれ変わった。明治時代に作られた『広島名所図録』という、広島県内の神社仏閣など名所の建物の様子をスケッチして解説を施した図鑑がある。それによれば、ここ備後國分寺の頁には「備後国深安郡御野村真言宗唐尾山國分寺真景之図」とある。それを見ると、境内の西側に南北に切り妻屋根の休み堂らしき建物があり、すこし離れた北側に小さな籠堂らしき建物が描かれている。記録によれば明治二十一年に、天保年間に開創された唐尾山八十八箇所の籠堂が造られたとあるのでその建物であろう。唐尾山は國分寺の山号で...大師堂落慶を祝して

  • 癒やされない悲しみに

    癒やされない悲しみに知り合いの息子さんが若くして亡くなられました。ガンで二年ほど入退院を繰り返された後に手厚い看護にもかかわらず亡くなってしまったのです。親御さんの気持ちを思えばいたたまれない悲しみに包まれていることが推察されます。自分の産んだ息子、たよりにしていた息子が亡くなった、言いようのない喪失感は癒やしようのないものであろうかと思います。若くして結婚して、お蔭でお子さんたちがみな立派に成人された後だったことは幸いではありましたが、やはり、闘病生活にもいろいろと気遣いが必要だったようですし、亡くなって葬儀を行い、さらにその後の中陰開けまでも、いろいろと気苦労を重ねられ、老親二人は疲れ果ててしまったようでした。たびたび老夫婦は訪ねてこられてはいろいろな話をして帰られます。既にひと月、ふた月たつのですが...癒やされない悲しみに

  • 夢ということ

    昨日法事にお越しになった学生さんたちのために一言夢ということ誰にも夢というものがあります。実現可能なものか本当に夢のようなものなのか、それはその人によって違いましょう。いくつも夢のある人もあるかもしれません。その夢を実現するためにいろいろと努力する、何とか夢に近づけるように頑張る。そのための意欲をたもつためにも夢というのは必要なものと考えられてもいるでしょう。ですが仏教では、世俗の夢とか希望というようなものは修行の妨げになるものであってあまり推奨されないものでもあります。私たちは何のために生きているのかというところから物事を考えていくからです。今あるところですべきことをして様々なことをする中で学び徳を積むことこそ必要なことと考えます。ですが、やはり将来はこうありたいこう成りたいと誰でも考えます。かくいう私...夢ということ

  • 御生誕1250年の弘法大師

    御生誕1250年の弘法大師令和5年1月21日薬師護摩供後の法話今日は初大師、御生誕1250年の記念すべき年の初大師となります。全国各地の弘法大師を祀る寺院では盛大にお祭りがなされていることでしょう。こちらにも土曜日ということもあり、早朝8時からにもかかわらず、遠方からも大勢のお護摩のお参りをいただきありがとうございます。弘法大師は今年が西暦2023年となりますから、774年宝亀五年にお生まれになられています。六月十五日のお生まれと言われており、六月には各本山でも記念の法会が執り行われることと存じますが、はたしてお大師様はどのようなお方であったのか。皆様ご存じのことと思いますが、概略申し上げてみますと。生まれた場所は、讃岐の屏風ヶ浦と言われますが、香川県の今善通寺のある場所とされています。群司をされていた父...御生誕1250年の弘法大師

  • 備後國分寺だより 第63号(令和5年1月1日発行)

    備後國分寺だより第63号今津薬師寺様・令和四年九月二十二日秋季彼岸法要後の法話心を浄めるとはこれからの時代をいかに生きるか秋の彼岸法会、沢山のお参りご苦労様でございます。今年も災害が続き、先頃も強い台風により全国多くの地域で被災したばかりであるのに、この備後地域は守られているのか、このように法会ができ、たくさんの参詣者をお迎えできるというのは誠に有り難いことだと思います。私がこちらに上がらせていただくのも三回目となりました。今日は、「心を浄めるとは」と題して、これからの時代をいかに生きるかをテーマにお話させていただきます。御開帳についてところで、まず初めに、今年は皆さまにとって何より大切な檀那寺の再興四百八十年という記念すべき年であります。そして春には盛大な御開帳法会も行われたと伺っております。改めてお祝...備後國分寺だより第63号(令和5年1月1日発行)

  • 放下に生きる

    放下に生きる謹賀新年。一年の経つのがとてつもなく早く感じる。そういう歳になってしまったということか。時代がそうさせるのであろうか。総理の年頭所感にあるように時代の転換点にあるという言葉は深い意味が込められているのであろう。私自身も一昨年末頃からそう感じるようになった。これまでのような戦後市民が自由に気儘にどこにでも行き、好きなことをして何の不自由も感じなかった時代は終わらせようと考える人々がいるようだ。嫌な世の中になりつつある。コロナコロナが日常になり、誰もがマスクをすることに躊躇がなくなってしまった。どこに行っても、マスクをしなければならない世の中はおかしいと気づかねばならないのにみんな疑問にも思わない。少し前には風邪もひいていないのにマスクをしている人は不審者と思われた。それが今では誰もが自ら不審者に...放下に生きる

  • 平等ということ

    平等ということ世の中は何かと生きずらい。子供の頃には気づかないが、大きくなるにつれてあの子はいい家の子だからとか、親の着るものや車に目が行き、ついうちとは大違いだななどと、いろいろ考えさせられるようになるもの。お釈迦様の時代ばかりかインドではいまだに階級というものが、カーストと私たちは言うが、彼らにとってはヴァルナという色を意味する階級が厳然と存在している。ないしはジャーティというような職業による二千以上ともいわれる階級まである。それでも仏教は、すべての人は平等であるとして階級差別などしない。なぜそうもはっきりとした態度がとれるのかというと、誰もがこの因果応報の世の中に生きているからであると言えよう。お釈迦様と同年代だったというコーサラ国の大王パセーナディとの会話の中で、お釈迦様は四種類の人があり、善き生...平等ということ

  • 大乗仏教とは何か

    これまでの説お釈迦様歿後500年ほどして、一般大衆のための新しい仏教運動として起きてくるのが大乗仏教だと言われてきました。そして、大乗仏教は、仏滅100年目にあった根本分裂によって、上座部という伝統派の比丘(びく)と大衆部といわれる改革派の比丘との分裂をきっかけに、その大衆部の比丘たちから徐々に教えが開かれたものになり、大衆化して世俗化した教えが大乗仏教であるとされてきました。それから、もう一つの説が仏伝文学からの流れが部派仏教を越える思想に発展したとするものであり、第三の説として、仏塔を護持し供養する在家の信者たちによって教えが語られ記録されて大乗仏教のもとをなしたとの説があります。しかし、それらはいずれも大乗仏教を仏教の側からごく一面を捉えて説を立てたものに過ぎないのだろうと思うに至りました。保坂俊司...大乗仏教とは何か

  • 満中陰忌一言法話

    満中陰忌一言法話○月○日にお亡くなりになり、ご自宅で枕経をし、通夜葬儀はこちらの会館で行いました。そして、七日、七日奥様だけであったり、ご子息様、娘様が同席され丁寧にお勤めされて、今日満中陰の法事を迎えられました。生前お元気な時には、ご夫婦で山登りを楽しまれたり、四国巡拝を四度も回られていたとのことですが、十年ほど前に脳梗塞で半身不随となり、気の毒なことではありました。ですが、それでも杖を突き突きよく歩かれ、自動車の運転もされるようになり何よりと思っていたところでしたのに、昨年突然病魔発症し、誠に残念なことでありました。ところで、亡くなられてから四十九日までを中陰とか中有と申します。通夜でも申しました通り、四十九日までの七日ごとに来世に逝く機会があるとされています。が、どなたも七七、四十九日までには来世に...満中陰忌一言法話

  • 死ねば仏とは

    死ねば仏とはいつの頃からか日本では死すと仏、仏様と呼ばれる。私にはそれが不本意で、そんなことを言うから日本仏教は衰退したと。死んだら仏なら教えも修行も不要ではないかと考えたからでもあり、そんなものならそもそもお釈迦様も各宗の祖師方も死に物狂いで、死を覚悟して迄の修行の必要もないものになると。そんな簡単なものではないと考えたのであった。しかし、数日前、朝の御勤めの際に、ひらめいた。煩悩に覆い隠された故人が死んで仏だけが残ったのだと。死ねば故人の生前の人格の心は遺体から去り、命のない身体だけが残ることになる。お釈迦様が発見された無常の真理そのもののみが残される。森羅万象すべてのものがありのままの世界のその摂理、真理の中にあるそのものと化す。生前あった煩悩はその身体にはない、だから、仏と言いうる。そういうことで...死ねば仏とは

  • 心を浄めるとはーこれからの時代をいかに生きるか

    心を浄めるとはーこれからの時代をいかに生きるか神辺國分寺の横山でございます。秋の彼岸法会、沢山のお参りご苦労様でございます。今年も災害が続き、先頃も強い台風により全国多くの地域で被災したばかりであるのに、この備後地域は守られているのか、このように法会ができるというのは、誠に有り難いことだと思います。私がこちらに上がらせていただくのも三回目となりました。今日は、心を浄めるとはと題して、これからの時代をいかに生きるかをテーマにお話させていただきます。御開帳についてところで、まず初めに、今年は皆さまにとって何より大切な檀那寺の記念すべき年であります。改めてお祝いを申し上げますとともに、そのために昨年から仏像の修理や堂宇の修繕をお寺様檀信徒役員の皆様ともどもに進めてこられ大行事に備えられた、そのご努力に敬意を表し...心を浄めるとはーこれからの時代をいかに生きるか

  • 仏教的ものの見方ーこれからの時代をいかに生きるか

    仏教的ものの見方ーこれからの時代をいかに生きるか秘仏について皆さん、三十年ぶりに御開帳されたご本尊様に対面されて感激も一入であったことと思いますが、皆様の思いと同様に、私ども國分寺でも、檀信徒からお姿を拝見できるのはいつですか、なぜ秘仏なのですかと問われることも度々ございます。そこで、再来年、御本尊薬師如来の御開帳を予定しております。普段お厨子の扉を閉めている仏様のことを秘仏というわけですが、では、秘仏にしているのはどうしてなのでしょうか。扉を開かないのにはいくつかの理由が考えられますが、皆さんはなぜだと思いますか。保存のため、保管のため、御開帳した時のありがたさのためであるとかいろいろと言われるわけです。が、私は、仏様というのは本来法を説くものであり、仏様は姿かたちではないよ、ということを教えるためでは...仏教的ものの見方ーこれからの時代をいかに生きるか

  • 備後國分寺だより 第62号(令和4年8月1日発行)

    備後國分寺だより第62号世界の平和を願うなら今年三月末、敬愛する先生から小冊子が送られてきました。表紙には、『鎌倉大仏殿高徳院「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」に託された平和への願い日本を救ったブッダの言葉』とあります。二〇二〇年九月一日初版の第二刷で、発行者は東方学院研究会員後藤一敏氏です。令和元年の東方学院会報「東方だより」に、前理事長・前田專學先生が『中村元(はじめ)先生の世界平和の願い』と題して一文認められているのですが、後藤氏は、そこに紹介されていたJ・R・ジャヤワルダナ元スリランカ大統領顕彰碑について強い関心をもたれて、早速現地高徳院を訪ねられたのでした。しかし、そこに碑がひっそりと立っているだけで、参拝者の多くがその存在にすら気づきもしなかったのだといいます。そこで、当時の世界が自国...備後國分寺だより第62号(令和4年8月1日発行)

  • 保坂俊司先生著『インド宗教興亡史』に学ぶ

    保坂俊司先生著『インド宗教興亡史』に学ぶ中央大学国際情報学部教授で、比較宗教学、比較文明論、インド思想を専門分野とされる保坂俊司先生の新刊、ちくま新書『インド宗教興亡史』を拝読させていただいた。保坂先生の著作はいくつもこれまでに紹介させてもらっているが、前回は『梵天勧請思想と神仏習合に学ぶ』と題して紹介させてもらった。梵天勧請として語り継がれるエピソードについて、それは、お釈迦様の覚りが仏教となるためには他者からの働きかけが不可欠であったことを示すのと同時に、それは他宗教と対立するのではなく融和融合共生を計ろうとする仏教の根本的な姿勢を表しているとされた。仏教は他者を自らの定着や発展に役立てるという神仏習合思想ともいえるこの根本構造をもつがゆえに、イスラム教徒の侵攻に際しても融和共生を模索し歩み寄ったこと...保坂俊司先生著『インド宗教興亡史』に学ぶ

  • 松長有慶先生著『空海』を読んで

    【六大新報令和四年七月五日号掲載】松長有慶先生著『空海』を読んで松長有慶先生の最新刊・岩波新書『空海』を拝読させていただいた。岩波新書として、三十一年前に発刊された『密教』、八年前の『高野山』に続く三部作の三作目である。読み始めてしばらくすると、さてこの本は何の本を読んでいるのかと不思議な感覚をおぼえた。それは、「あとがき」にもあるように、本書は弘法大師空海の生涯について歴史的に叙述されたものではなく、その生涯にわたる特徴的な思想を十の主題に分け、大師の全体像を著書、詩文、書簡類も合わせて総合的に把握せんと試みられた著作だからであろうか。あるいは一般読者にも理解できるように、それぞれのテーマの説き始めが古代インド、ないしインド文化についてであったり、サンスクリット語の語彙や釈尊からはじまるからであろうか。...松長有慶先生著『空海』を読んで

  • 六種の供養と六波羅蜜

    六種の供養と六波羅蜜(昨日今日の法事後の法話より)寺院の本堂須弥壇にも、各家の仏壇にもふつう六種の御供えがなされます。まず花があり灯明、線香があり、そのほかに、仏飯(飯食・おんじき)と水、水はお茶湯の場合もありますが、それに塗るお香である塗香をいれて六種となります。これらを六種の供養というのですが、これらは仏様に単なる習慣としてなされる御供というわけではありません。それぞれ六波羅蜜といわれる仏教の実践につながるものであるから尊い供養になると考えられているのです。水は布施波羅蜜(ふせはらみつ)、塗香は持戒波羅蜜(じかいはらみつ)、花は忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)、線香は精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)、飯食は禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)、燈明は般若(智慧)波羅蜜(はんにゃはらみつ)に相当します。因みに波羅蜜...六種の供養と六波羅蜜

  • 人生とは恩返しである

    知り合いのお寺さんが亡くなられた。九年前にここ國分寺の先代名誉住職が亡くなった時に葬儀で弔辞を読んでくださった方だ。本山で若きとき、ともに仕事された親しい関係で、祭壇に向かって「僧正さーん」と大きな声で呼びかけられて、語りかけるように話をされてから本山から送られた弔辞を読んでくださった。享年七十四だから、それから九年で亡くなってしまわれたので当時六十五歳くらいだったと思われる。実は私もその歳に近づきつつある。特段病気であったわけでもなく、夜中亡くなられるまで普通に過ごされていたという。死亡診断書には死因不詳と書き込まれていたと聞く。なぜ亡くなられてしまったのか。みんな不思議に思われていたが、葬儀の際にそんなことを伺いながら同じくらいの歳のお寺さんたちと私たちもいつそうなるかわからない、明日は我が身と、後悔しない...人生とは恩返しである

  • 備後國分寺だより 第61号(令和4年4月3日発行)

    備後國分寺だより第61号四無量心と十善に生きる國分寺の仁王門横の掲示板には、時折ヒンディー語の格言とその日本語訳を小ポスターにして掲示しています。これは、『saccībāten(サッチー・バーテーン・意味は「真実の言葉」)』という名前で、フェイスブックやインスタグラムに参加して、ヒンディー語で古今のインドの格言などを投稿されているものがあり、その中から、私たちにも学びとなるようなものを選んで翻訳しているものです。一昨年から、時々彼らの投稿に注目して日本語に訳したりして楽しんでいたのですが、そうして翻訳してみたものを何度かフェイスブックの投稿のコメント欄に書き込んでみたこともあります。その中から、是非皆さんにもご披露したい内容のものを印刷しては掲示しているのです。今年の初めに掲示したものは、昨年の十月一日に投稿さ...備後國分寺だより第61号(令和4年4月3日発行)

  • 四苦八苦の苦をやわらげるために

    四苦八苦の苦をやわらげるために私たちは意識するしないにかかわらず四苦八苦の人生を生きている。仏教では、煩悩のままに生きるていること自体が苦であるとするが、それは四苦の中に生も老も含まれていることからも知られる。生苦は生れる苦しみ、老苦はそれからの一生に着いてまわる老いる苦しみ。私たちは泣いて生まれても、笑って生きているように思われるが、その間に病いになることもあり、いずれは死を迎える。この生老病死の四つの苦しみのほかに、この後述べる八苦に悩まされ続けていることも経験上思い当たる。八苦とはこの四苦のほかに別に四つの苦しみをあわせて八苦というが、これも定めのように私たちについてまわる。普段私たちは考えもしないが常に老死が隣り合わせにある。深刻な病気が発覚するかもしれないし事故に遭うかもしれない。生まれてきた以上、い...四苦八苦の苦をやわらげるために

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