批判しない。自己憐憫に陥らない。過去をあげつらわない。優劣を取り上げない。日々、自らを省みる必要がある。自分を良くするための「テクニック」ではなく、自分が成長するために。どれほど「強迫性」から脱したとしても、心が濁っていれば何もならない。私自身骨身
批判しない。自己憐憫に陥らない。過去をあげつらわない。優劣を取り上げない。日々、自らを省みる必要がある。自分を良くするための「テクニック」ではなく、自分が成長するために。どれほど「強迫性」から脱したとしても、心が濁っていれば何もならない。私自身骨身
素晴らしい自分を取り戻したいとか、自分の優秀さを示したいなど、歪んだ目的でいくら自らを省みても、結局は、自分を「良く」見せるテクニックを探すだけだ。本当の意味で、まっすぐな自分。本当の意味でまっすぐな人生。これを求める、心からの内省でない限り、決して
18に浪人で上京、大きな環境の激変の中で、私は、再び地の底に押し込められたような人生を歩み、その後、紆余曲折がある中、今に至っている。16から17にかけて、なぜ、あれほどまでに真摯に自分を振り返ることができたのか?その後、すっかり歪んでしまった私は、その
さて、このブログも、2020年までは、今から17年前の私の気づき、「仕方ない、このまま生きるしかない」からの気づきを書いてきた。そして一度休止し、2022年からは、結局、人間性そのものを見直さなければ始まらないということで、人格・人間性に関わることを主に書い
私の思想は、「いつか良くなる」に表されていた。今はダメでも、いつか良くなる。うまくいかないこと、悩み、苦しみ、それらの中で、必ず、いつかヒントを掴み、答えを掴み、今よりもきっと良くなる。現に、私は「良く」なってきた。だが、決定的に欠けている何かがある
私は、とんでもない間違いを犯していたかも知れない。私は、常に夢を追っている。本業ではスタッフをまとめ上げ、事業の行く末を指し示し、皆でプランを練ってより良いものを築いている。副業でも、多くの人の縁に恵まれて、大成功と言っていい状態にある。趣味でも
素晴らしい人間になどならなくていい。望まない姿でかまわない。現実に対して最低限の責任を持ち、現実に対応し、現実に対処する。ふわふわした未来を夢見るのではなく、自分が今できることだけをする。今の現実だけに対処する。未来はあくまでも未来。対処できるのは
対人恐怖症は治さなければ何も始まらない。対人恐怖症者は皆、そのように、心の奥底から思っている。それ以外の真実、世界、宇宙は存在しないと、心の奥底から信じている。みじんも疑っていない。だが、「治さなければならない」こそが誤りの根源だという世界もある。治
我々は心を定めなければならない。「対人恐怖症を治す」ではない。対人恐怖症はあってもなくてもどっちでもいい。そうではなく、例えば学生であれば○○大学に進学する、でもいい。でも、できれば○○大学で何をする、どんなことをしたい、までイメージを明確化できれば
我々は、ちょっとしたことですぐ凹む。それが日常過ぎて、自分がへこたれているということにすら気づいていない。何が「へこたれる」のかもわからなくなっている。人生のうまくいかないこと、異性関係、人間関係、仕事関係、経済関係、、、、それら、なんであったとしても
前回は調子いいことを書いたが、私の人生は本当にヒドイものだった。私は発達障害の子どもの支援事業にも手を出しているが、私も、まさに発達障害だった。まわりの人の意図がわからない。コミュニケーションがうまく取れない。だが、その私も、高校の時に気がついた。自分
私は、いよいよ人生の集大成に向かい始めたと感じている。本職のほうもますます充実度を高めている。これから10年で、かなり良いものができるだろう。副業は、山あり谷ありだが、基本的には大成功している。非常に順調だったため方向性を見失っていたが、今また新たにスタ
歪みは様々なところに現れる。だが、過去に囚われず、今に固執せず、未来を見据えて今を生きていれば、歪みの多くは徐々に流れていく。そして、やがて、「自分は自分のままでいい」という境地に至る。我々は、「強くあれ」という呪いをかけられて育った。いや、正確に言
先日、私はある書物を読んでいてびっくりしたことがある。私は、息子にも人生があるということを理解していなかったことに気づいた。何を当たり前のことを言っているのかと思われるだろう。だが、私の歪みは、息子の人生は私が作るものと思い込ませていたようだ。何回
私は父親を憎んでいた。我が子には同じ思いをさせまいと、とにかく、我が子を守りたかった。だが、父親が我が子に伝えなければならないのは、「今」の安心、「今」の心地よさ、「今」の安全ではなく、未来を見ること。未来を描くこと。未来を夢見ること。私は、我が子に
対人恐怖症者は案外優秀な人も多い。だが、矛盾するようだが一般の人と比べて決定的に劣っている。対人恐怖症者は、本当にどうしようもない。箸にも棒にもかからなかったりする。果たして、何が劣っているのか。自分より、パッと見全然劣っているように見える人よりも、
その基本は、人への恨みや、過去への恨み・こだわりを捨てること。対人恐怖症であることへの呪いや、今、うまくいっていないことへの嘆きを捨てること。これらは、まさに「歪み」。これらの歪みを後生大事に抱えて一生を棒に振るのか、または、我々は、それらに異常にこ
未来を見る力、未来を信じる力を失えば、まさに根無し草のようなもの。何を頑張っていいのかわからない。どこに向かって進めばいいのかわからない。確信がない。自信がない。ひとたび、未来を見る力を手に入れれば、今どのような環境にいようが関係ない。運の善し悪しも
私の人生全体を貫いていた巨大な歪みの正体がようやく見えてきた。そして、私が17才から18才にかけて何に気づいたのか、その後、何が間違っていたのか。ひと言で言えば、未来を見る力ということだが、これは、その力を得た人間以外に説明できない。その力を失った私も、
自分は必ずしも正しくないという道がある。自分の感覚は絶対に正しいという道もある。我々は、実はそのように生きている。父が間違っている。母が間違っている。あの経験が間違っている。あのできごとが間違っている。。。だが、自分が正しくないという道もある。父
批判しない。自己憐憫に陥らない。過去をあげつらわない。優劣を取り上げない。日々、自らを省みる必要がある。自分を良くするための「テクニック」ではなく、自分が成長するために。どれほど「強迫性」から脱したとしても、心が濁っていれば何もならない。私自身骨身
素晴らしい自分を取り戻したいとか、自分の優秀さを示したいなど、歪んだ目的でいくら自らを省みても、結局は、自分を「良く」見せるテクニックを探すだけだ。本当の意味で、まっすぐな自分。本当の意味でまっすぐな人生。これを求める、心からの内省でない限り、決して
18に浪人で上京、大きな環境の激変の中で、私は、再び地の底に押し込められたような人生を歩み、その後、紆余曲折がある中、今に至っている。16から17にかけて、なぜ、あれほどまでに真摯に自分を振り返ることができたのか?その後、すっかり歪んでしまった私は、その
さて、このブログも、2020年までは、今から17年前の私の気づき、「仕方ない、このまま生きるしかない」からの気づきを書いてきた。そして一度休止し、2022年からは、結局、人間性そのものを見直さなければ始まらないということで、人格・人間性に関わることを主に書い
私の思想は、「いつか良くなる」に表されていた。今はダメでも、いつか良くなる。うまくいかないこと、悩み、苦しみ、それらの中で、必ず、いつかヒントを掴み、答えを掴み、今よりもきっと良くなる。現に、私は「良く」なってきた。だが、決定的に欠けている何かがある
私は、とんでもない間違いを犯していたかも知れない。私は、常に夢を追っている。本業ではスタッフをまとめ上げ、事業の行く末を指し示し、皆でプランを練ってより良いものを築いている。副業でも、多くの人の縁に恵まれて、大成功と言っていい状態にある。趣味でも
素晴らしい人間になどならなくていい。望まない姿でかまわない。現実に対して最低限の責任を持ち、現実に対応し、現実に対処する。ふわふわした未来を夢見るのではなく、自分が今できることだけをする。今の現実だけに対処する。未来はあくまでも未来。対処できるのは
対人恐怖症は治さなければ何も始まらない。対人恐怖症者は皆、そのように、心の奥底から思っている。それ以外の真実、世界、宇宙は存在しないと、心の奥底から信じている。みじんも疑っていない。だが、「治さなければならない」こそが誤りの根源だという世界もある。治
我々は心を定めなければならない。「対人恐怖症を治す」ではない。対人恐怖症はあってもなくてもどっちでもいい。そうではなく、例えば学生であれば○○大学に進学する、でもいい。でも、できれば○○大学で何をする、どんなことをしたい、までイメージを明確化できれば
我々は、ちょっとしたことですぐ凹む。それが日常過ぎて、自分がへこたれているということにすら気づいていない。何が「へこたれる」のかもわからなくなっている。人生のうまくいかないこと、異性関係、人間関係、仕事関係、経済関係、、、、それら、なんであったとしても
前回は調子いいことを書いたが、私の人生は本当にヒドイものだった。私は発達障害の子どもの支援事業にも手を出しているが、私も、まさに発達障害だった。まわりの人の意図がわからない。コミュニケーションがうまく取れない。だが、その私も、高校の時に気がついた。自分
私は、いよいよ人生の集大成に向かい始めたと感じている。本職のほうもますます充実度を高めている。これから10年で、かなり良いものができるだろう。副業は、山あり谷ありだが、基本的には大成功している。非常に順調だったため方向性を見失っていたが、今また新たにスタ
歪みは様々なところに現れる。だが、過去に囚われず、今に固執せず、未来を見据えて今を生きていれば、歪みの多くは徐々に流れていく。そして、やがて、「自分は自分のままでいい」という境地に至る。我々は、「強くあれ」という呪いをかけられて育った。いや、正確に言
先日、私はある書物を読んでいてびっくりしたことがある。私は、息子にも人生があるということを理解していなかったことに気づいた。何を当たり前のことを言っているのかと思われるだろう。だが、私の歪みは、息子の人生は私が作るものと思い込ませていたようだ。何回
私は父親を憎んでいた。我が子には同じ思いをさせまいと、とにかく、我が子を守りたかった。だが、父親が我が子に伝えなければならないのは、「今」の安心、「今」の心地よさ、「今」の安全ではなく、未来を見ること。未来を描くこと。未来を夢見ること。私は、我が子に
対人恐怖症者は案外優秀な人も多い。だが、矛盾するようだが一般の人と比べて決定的に劣っている。対人恐怖症者は、本当にどうしようもない。箸にも棒にもかからなかったりする。果たして、何が劣っているのか。自分より、パッと見全然劣っているように見える人よりも、
その基本は、人への恨みや、過去への恨み・こだわりを捨てること。対人恐怖症であることへの呪いや、今、うまくいっていないことへの嘆きを捨てること。これらは、まさに「歪み」。これらの歪みを後生大事に抱えて一生を棒に振るのか、または、我々は、それらに異常にこ
未来を見る力、未来を信じる力を失えば、まさに根無し草のようなもの。何を頑張っていいのかわからない。どこに向かって進めばいいのかわからない。確信がない。自信がない。ひとたび、未来を見る力を手に入れれば、今どのような環境にいようが関係ない。運の善し悪しも
私の人生全体を貫いていた巨大な歪みの正体がようやく見えてきた。そして、私が17才から18才にかけて何に気づいたのか、その後、何が間違っていたのか。ひと言で言えば、未来を見る力ということだが、これは、その力を得た人間以外に説明できない。その力を失った私も、
自分は必ずしも正しくないという道がある。自分の感覚は絶対に正しいという道もある。我々は、実はそのように生きている。父が間違っている。母が間違っている。あの経験が間違っている。あのできごとが間違っている。。。だが、自分が正しくないという道もある。父