還俗・配流の宣旨(1207/02)により(1211/11赦免)親鸞(1173~1262)は35歳で越...
みやび(雅)わび(侘)さび(寂)いき(粋)いなせ(鯔背)を受け継ぎ、お召しものを通して語る舞絽倶。
「ブログリーダー」を活用して、ZIPANGUさんをフォローしませんか?
還俗・配流の宣旨(1207/02)により(1211/11赦免)親鸞(1173~1262)は35歳で越...
貞慶起草の「興福寺奏状」を興福寺首脳(官僧)が朝廷に提出。*官僧・・・朝廷に仕える僧侶法然を糾弾する...
法然(1133~1212法然房源空)は専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教え。子細は「法然上人とお念仏」...
平安時代後期にも高貴な女性が「お気持ち出家」されます。世は「冠位十二階」→「唐模倣律令制国家」→「令...
奈良時代の光明皇太后・孝謙帝さんらの受戒、平安時代の東三条院・定子・上東門院さんらの剃髪・出家。これ...
彰子さん、二度目の出家と同じ年(1039年)、倫子さん、二度目の出家を一足先にされてます。倫子さん...
倫子さんの二度目の出家(1039年)以前に彰子さんが出家してますのでこちらを先に挟みます。「上東門...
倫子さんの二度目の出家(1039年)に「法成寺」と記されています。(大鏡裏書)*法成寺平安中期、京都...
「この世をばわが世とぞ思う望月の虧(かけ)たることもなしと思えば」(1018/10/16)を成し遂げ...
1000年の時点で彰子さん(988~1074)(大河演 見上愛)は13歳。彼女の母は源雅信(920~...
先週、「大進生昌が家に宮の出でさせ給ふに(中宮行啓)~」を紹介しましたのでもう一つ一条帝と定子さんの...
藤原道長のお嬢さん彰子(988~1074 87歳)(大河演 見上愛)は999年霜月12歳で一条帝(2...
藤原道隆のお嬢さん定子(977~1000 24歳)(大河演 高畑充希)は990年14歳で一条帝(11...
「令和6年能登半島地震」で被災された方々に呉々もお見舞い申し上げます。本日より前回の続きの展開にな...
自誓・受戒した覚盛は「律宗(戒律死守・実践にて成仏)」復興努力の途上、比丘尼(女性僧)不在の事態を憂...
覚盛らの行った「*自誓・受戒」について仏語。仏の定めた戒律を受けること。出家、在家を問わず、教団には...
「太子伝聖誉抄」の中宮寺・信如房さんに関しては先週で終了です。ところが、信如房さんがお過ごしになった...
いよいよ「太子伝聖誉鈔(抄)」の最後になります。タイトル 繍帳正文云々「歳在辛巳十二月廿一日癸酉日...
ここからの読み解き現本写本は「信如房悦て」でご確認下さい。お話を元に戻します。信如房さんはご縁を使い...
ここからの読み解き現本写本は「信如房悦て」でご確認下さい。超知識人のもうお一人は「(霊山)の定円法印...
先週の「大王天皇と太子は一体どちら様・・・?」の件。因みに、この薬師如来像光背銘文は不可思議です。5...
前々々回は法隆寺 金堂 釈迦三尊像、前々回は中宮寺 寺宝 天寿国繡帳に触れました。今日取り上げるのは...
4/8は「灌仏会(かんぶつえ)=花祭り お釈迦様の誕生を祝う日」。先週、「中宮寺」の「天寿国繡帳」に...
厩戸大王(皇子)の薨去に伴う情報がもう一つあります。それは厩戸の奥様のお一人、位奈部橘王(=橘大郎女...
今週は「上宮聖徳法王帝説」を紹介します。この「上宮聖徳法王帝説」に「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文」が...
とうに昔々の2008年8/31に「中宮寺 母なる弥勒菩薩像」で穴穂部間人皇后について触れました。その...
先週、厩戸大王(皇子)の父母・妻子を紹介しました。この情報は「聖徳太子伝暦」に依っています。当然と云...
今回は厩戸大王(皇子)の父母・妻子について整理してみます。ここからの情報は以前、「厩戸皇子 甲午年(...
取り急ぎ、日本書紀への戯れ言はこれ位にして厩戸大王(皇子)の御代に戻ります。今年の1月に何と昨年4月...
更なる戯れ言の続きでありんす。因みに、古事記では「高天原」は一途最初に登場します。「天地初発之時 ...
戯れ言の続きでありんす。鸕野讃良皇女・藤原不比等さん、お二人はめでたく大願成就します。鸕野讃良皇女さ...
ここからは戯れ言でありんす。先週紹介しました日本書紀(720年完成)で「裴世清帰国」の際、楊広(=...
釈迦・孔子の教えを思いっきり学び実践したと思われる厩戸大王(皇子)さん。720年に完成した日本書紀に...
新型コロナ禍に依る「行動制限」が解除・緩和され、3年振りの国内・国外大移動と思いきや、意外な赴き感が...
楊広(煬帝)は厩戸大王(皇子)より五歳年上です。お二人の状況・情況を比べてみました。年表楊...
東都洛陽から江都揚州まで「龍舟(豪華クルーズ舟)」で大運河を下る舟旅に煬帝は内乱、及び、風雲急を告げ...
煬帝は高句麗の降伏申し入れの報を受け、この状況を導いた将軍、来護児に帰還するよう伝えます。しかし、来...
先週紹介しました高句麗の不穏な動き。「(607年)八月壬午 車駕発榆林 乙酉 啓民飾廬清道 以候乗...
「京杭大運河開通」目的の一つ、高句麗遠征について。(高句麗の隋書の表記は「高麗」になってます。)58...
598年、日没処天子様(隋王朝初代皇帝楊堅)が高句麗へ征伐侵攻しますが、悪天候・兵糧不足等に見舞われ...