宮城県北から岩手県南にかけて盤踞した葛西一族、その家臣で叛骨を貫いた末永氏の、今は滅びし声無き声を明らかにするブログ
第二六章43動乱そして滅亡・窮した最上義光、坂東屋富松道有の下向、伊達政宗二世の遠い骨肉の来訪
天正16年(1588)10月16日と17日には出羽国山形城主(山形県山形市)最上出羽守義光が石垣河内守を使者としてヤマカエリオオタカと布織物を伊達政宗二世にプレゼントしています。最上氏家臣石垣氏は元々は板垣氏を名乗っていましたが、板は腐るから石に改めたのだと、その子
第二六章42動乱そして滅亡・葛西晴信と伊達政宗二世との交錯する運命
天正16年(1588)9月13日、駿河国(静岡県)の徳川家康から伊達政宗二世宛に書状が初めて届きます。「貞山公治家記録」は書状は伝わらない、どういう目的かもわからないなどと痴れっと恍(とぼ)けた事をさも抜け抜けと記していますが、同じ9月13日、次いで9月14日に関白豊臣
第二六章41動乱そして滅亡・浜田広綱の略奪、葛西晴信と伊達政宗二世との交錯する運命
天正16年(1588)8月27日、宮城郡神楯館主(松島町高城)高城周防守宗綱が田村郡三春城(福島県三春町)で宴に興じている伊達政宗二世のご機嫌伺いにやって来ます。気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町)浜田安房守広綱は悪い意味で何度でも繰り返す男です。8月29日、無
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