宮城県北から岩手県南にかけて盤踞した葛西一族、その家臣で叛骨を貫いた末永氏の、今は滅びし声無き声を明らかにするブログ
第二六章45動乱そして滅亡・伊達政宗二世の真の骨肉、家族との関係、男沢壱岐守
天正16年(1588)10月26日、駿河国(静岡県)の徳川家康が伊達政宗二世と片倉小十郎景綱宛てに書状を送ります。2通目の内容は判明していて、伊達氏は佐竹氏、芦名氏、岩城氏、相馬氏、白河結城氏、石川氏、大崎氏と、更には最上氏とも親戚なのに対立関係にあり、てか南東北ほ
第二六章44動乱そして滅亡・伊達政宗二世の真の骨肉、家族との関係、男沢壱岐守なる使者
天正16年(1588)10月24日、栗原郡岩ヶ崎館主(栗原市栗駒岩ヶ崎)富沢日向守貞運の使者が伊達政宗二世に黒毛の馬を献上しています。26日に使者は帰路につこうとしたようで、政宗二世と会談しています。10月26日、駿河国(静岡県)の徳川家康が伊達政宗二世と片倉小十郎景綱
第二六章43動乱そして滅亡・窮した最上義光、坂東屋富松道有の下向、伊達政宗二世の遠い骨肉の来訪
天正16年(1588)10月16日と17日には出羽国山形城主(山形県山形市)最上出羽守義光が石垣河内守を使者としてヤマカエリオオタカと布織物を伊達政宗二世にプレゼントしています。最上氏家臣石垣氏は元々は板垣氏を名乗っていましたが、板は腐るから石に改めたのだと、その子
第二六章42動乱そして滅亡・葛西晴信と伊達政宗二世との交錯する運命
天正16年(1588)9月13日、駿河国(静岡県)の徳川家康から伊達政宗二世宛に書状が初めて届きます。「貞山公治家記録」は書状は伝わらない、どういう目的かもわからないなどと痴れっと恍(とぼ)けた事をさも抜け抜けと記していますが、同じ9月13日、次いで9月14日に関白豊臣
第二六章41動乱そして滅亡・浜田広綱の略奪、葛西晴信と伊達政宗二世との交錯する運命
天正16年(1588)8月27日、宮城郡神楯館主(松島町高城)高城周防守宗綱が田村郡三春城(福島県三春町)で宴に興じている伊達政宗二世のご機嫌伺いにやって来ます。気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町)浜田安房守広綱は悪い意味で何度でも繰り返す男です。8月29日、無
第二六章40動乱そして滅亡・高水寺斯波氏の滅亡、田村の月サマ派と梅ちゃん派の対立、大名級会談の要請
天正16年(1588)7月下旬、糠部郡三戸城主(青森県三戸郡三戸町)南部大膳大夫信直が、孤立無援で裸同然となった高水寺斯波氏を侵略します。斯波郡高水寺城主(岩手県紫波郡紫波町二日町)高水寺斯波民部大輔詮直は衆寡敵せず敗北、ここに斯波孫二郎家長を家祖に設定し、大崎
かくして天正16年(1588)7月16日、佐竹義重、会津郡黒川城主(福島県会津若松市)芦名主計頭義広と、伊達政宗二世との和睦が成立します。仲介役の石川郡三芦城主(福島県石川町)石川大和守昭光が宮城郡利府城主(利府町利府)留守上野介政景、次いで伊達政宗二世と会談しま
第二六章38動乱そして滅亡・新国貞通の釣り野伏、義姫に笑止と叱られた伊達政宗二世
ジョジョ第4部における杜王町スタンド使い最強コンビ、東方仗助と虹村億泰を彷彿とさせる伊達家臣最強コンビ・伊達藤五郎成実&片倉小十郎景綱の企みは早くも天正16年(1588)7月4日、実現します。この日、対峙する敵将は芦名四天の宿老の1人・平田左京亮。元来平田氏は芦名
第二六章37動乱そして滅亡・郡山合戦、最上氏、大崎氏との和睦交渉
17代太守葛西晴信が浜田再乱の論功行賞に追われていた天正16年(1588)6月初旬、伊達政宗二世が親相馬派最後の大物・田村郡大越館主(福島県田村市大越町)大越紀伊守顕光を攻撃しますが、大越氏はこう見えて1万石の大名並みの勢力であり、攻めあぐねます。一方、伊達領侵略
第二六章36動乱そして滅亡・浜田再乱の論功行賞、日付ありと系図のみ
続いて天正16年(1588)6月7日。胆沢郡赤生津東館主(岩手県奥州市前沢生母)阿部小次郎こと左近重綱に対し、勇略を以て勝利を得たことは大いに慶ばしいとして、磐井郡黄海郷(岩手県一関市藤沢町黄海)5000苅(約5ヘクタール)を与えています。登米郡石森郷(登米市中田町石
12月9日の23時頃、当ブログはご訪問者様14000名を達成致しました。奇遇にも末永壱岐守清泰公、及び2代目能登守清勝公の命日を翌日に控え、感慨を深く、想いを遥かに馳せています。因みに、この1年間で約2000名の来訪を得たことになります。過去記事の修正に躍起になっていた
第二六章35動乱そして滅亡・小友及川重綱による交換養子という粋な計らい、浜田広綱再乱の論功行賞
天正16年(1588)4月末から5月にかけて実施された気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町)浜田安房守広綱の再乱の後始末たる論功行賞は閏5月に一旦停止します。「葛西真記録」によれば、磐井郡山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原飛騨守こと肥前守茂光が、磐井郡藤沢館
第二六章34動乱そして滅亡・富沢貞運宛てハイテンション書状、田村家中の親相馬派一掃
天正16年(1588)閏5月16日、行方郡小高城主(福島県南相馬市小高区)相馬義胤二世の動きに危険性を感じながらも、見当違いな所に逃げたのをこれ幸いに、伊達政宗二世は図らずも背景を失った安達郡小手森館(福島県二本松市針道)を一度ならず2度も陥落せしめ、300の首級を挙
遠祖末永能登守宗春公511回忌御命日&遠祖末永安芸守清連公御一族558回忌謀反記念日
本日令和6年(2024)11月3日は、遠祖末永能登守宗春公の511回忌の祥月命日であり、また翌11月4日は、遠祖末永安芸守清連公享年57歳とその長男末永孫七郎清元公享年32歳、次男末永孫八郎清久公享年29歳、清元公の長男末永孫二郎清次公が、清連公の異母兄にして主君の葛西11代
本日、令和6年(2024)10月6日は、葛西家中の君臣が分党して治まらぬ中、俄に土芥の叛臣末永能登守と、冦讐の暴君葛西武蔵守宗清との間に対立が勃発し、能登守は弟筑後守をはじめ、同志凶徒を主導し、陰謀を企てて宗清暗殺を狙うも、陰謀は事前に露顕、能登守は剃髪し、開き
ご訪問者様13000名突破記念〜作り手にとって今後は似非正義を振り翳す輩とどう向き合うかだよなって思うこと〜
6月7日22時頃、当ブログはご訪問者様13000名を達成致しました。ちょうど1年前に11000名を突破していますので、1年で2000名の来訪を得たことになります。この場を借りまして篤く御礼申し上げます。また、6月13日には30名の来訪がありました。普段1日数名という中で何故こんな
第二六章33動乱そして滅亡・相馬義胤二世が三春城を電撃訪問するも不意打ちを喰らいほうほうの体で退散する、佐々成政切腹
磐城郡大館城主(福島県いわき市)岩城左京大夫常隆二世は、福島県浜通りの大名達が仲良くするならそれに越したことはないと伊達政宗二世に伝えます。天正16年(1588)5月28日、岩城常隆二世は政宗二世にプレゼントを贈っています。ともあれこれで延沢満延の言う最上を中心と
第二六章32動乱そして滅亡・屋代景頼が微妙にデビュー、熊谷直長への褒美、隈部親永が決闘刑に処さる
綺羅星の如く犇めく兄弟姉妹に紛れて目立たない存在ですが、最初の夫盛興が病臥していた時は大名業務を代行していたといいますから、それなりに有能な女性だったことが判ります。取り分け腹黒い血縁親戚ども(特に実家の甥)に振り回され、気持ちの休まらない生涯だったので
第二六章31動乱そして滅亡・浜田再乱の論功行賞スタート、2回目の小手森合戦、もう1人の弾正忠、彦姫の早世
浜田再乱の論功行賞は天正16年(1588)4月28日には始まっていたようで、参戦した柏山氏家老の胆沢郡下姉体館主(岩手県奥州市水沢下姉体)大内源次郎に対し、17代太守葛西晴信は胆沢郡中野郷(岩手県奥州市水沢真城)5000苅(約5ヘクタール)を与える黒印状を発行しています
第二六章30動乱そして滅亡・一栗高春の返り忠、政宗二世が葛西晴信に使者を出す、浜田再乱で浮かび上った瞬きのような人物
天正16年(1588)4月21日、伊達政宗二世は玉造郡磯田館主(大崎市岩出山磯田)氏家筑前守こと磯田典膳正兼継に書状を出し、氏家三河守真継と玉造郡鵙目館主(大崎市岩出山池月鵙目)一栗兵部高春が、玉造郡岩手沢館主(大崎市岩出山)氏家弾正忠吉継と手切り、親伊達氏家監司
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