雪斎禅師の教え 元服の晴れ舞台を故郷、岡崎で過ごされた元信君ではあるが、その喜びは駿府への道中すぐ消え失せた。 様々な教えを乞うてきた雪斎禅師の病がいよいよ重くなり、枕頭で元信君を呼んでいると、元信君の留守居を務めていた石川数正が早馬を駆けて知らせて来たからである。 自らの死期を悟っていた雪斎禅師は、病身ながら秘かに駿府の臨済寺を発ち、住持を務める駿府より西の藤枝の長慶寺へと身を移された。 このことは今川家中の主だった者はまだ誰も知らずにあった。 禅師は、死期が家中に漏れれば、義元はじめ、駿府在国の重臣らから、慕う領民まで臨済寺に押し寄せると踏み、ひっそりと静まる禅寺である藤枝の長慶寺へと移り…
譜代 大久保の無念 大久保という譜代が松平家中にいる。 本多、鳥居、石川。これらの家々に並ぶ譜代の家で、松平と苦難を共に過ごしてきた。 大久保は岡崎の南、上和田を強固に守る譜代で、 竹千代君の父、広忠が尾張の織田と熾烈に戦っている中、度々 上和田が最前線に晒されながら一族で戦い抜いた。 やがて竹千代君が駿府へ人質の身となると、今川は三河の産物であっても少しも使うことを許さず、食べるだけの扶持を除き、根こそぎ奪っていった。 大久保ら、譜代の家中は十年余り、百姓同然に餓死寸前になりながら鎌、鍬を取り自ら田を耕し、わが身を過ごした。 それで年に数度、今川は織田との戦となれば、竹千代殿の家来に先陣を切…
本多平八郎忠勝 像 愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 太刀持ち、鍋之助 元信君は、十四歳で元服の運びとなり、御屋形 義元殿の許しを頂き、晴れて帰郷と相成った。 ただ、父祖伝来の地、岡崎はこの世の春を謳歌している駿府とは雲泥の差があった。 百姓も武士の別も無い、武士といえど、今川から禄のほとんどを吸い上げられてしまっているため、百姓らと同じ様に田畑を耕しても粥にもろくに有りつけない有様だった。 鳥居彦右衛門から三河の惨状を聞いてはいたが、自らその姿を目の当たりにし、胸に刺さる思いをなされ、幾度も涙ぐまれた。 元信君が集まって来た老臣らと涙を浮かべながら語らいでいると、元信君を遠巻きに見ている どこか…
元信君が家士を憐れむ 岡崎に帰郷なされ、父祖の法要も済ませ、古参の御家人との対面もなされた元信君。 ある日、一日鷹狩りをなさっていると、折しも早苗をとる頃で、御家人 近藤某は農民に混ざって早苗を挿していると、元信君がお出ましになられたのを見た。 そこで近藤は、わざと泥で顔を汚して見つからない様にしたが、早速 元信君に見つかってしまった。 ~あれは近藤ではないか? ここへ呼べ。~ と おっしゃったので、近藤もやむを得ず顔を洗い、田のあぜに立てかけておいた刀を差し、渋帷子の破れたものを身に付けて縄をたすきにかけ、恐る恐る出てきたが、その様は目もあてられない程見すぼらしい様であった。 元信君は、~我…
鳥居忠吉、密かに米銭を貯える。 鳥居氏発祥地碑 愛知県岡崎市 渡町 元信君は元服前に一度、増善寺の等膳和尚の計らいで密かに帰郷し、父の菩提を弔って以来、今回は義元の許しを得て正式に三河の御曹司として、堂々と松平元信が帰郷された。 ここ岡崎に鳥居伊賀守忠吉といって先代から御家人となり、いまは八十歳余りの老人がいた。 この老人は、今川家から岡崎の御領のことを執り行うよう命令された。ただ、租税は今川が無理矢理奪っていたので、徴税奉行の忠吉は百姓らの不満を抑えるのに日々苦心していた。 忠吉の御家 渡党は、元は平 清盛から平姓を許された熊野別当行範の子孫がこの地に土着して渡里姓を名乗り、一時は海運、商工…
元信君 岡崎に帰る 元服式を終えた竹千代君は、後日 御礼言上のために今川館に義元を訪ねた。 言上の席で竹千代君は、私は十五になりましたが、今だに先祖の墓前に詣でていません。 出来ることなら、一度 故郷に帰って祖先の墓を掃き清め、亡き父の法事を営み、年老いた家老の者たちとも対面したい。とおっしゃられた。 義元も、竹千代君のご意志を尊重すべきであるとして、しばらくの間として時間を差し上げるとなったので、竹千代君の喜びは大変なものであった。 わずかな供を連れて急いで三河国へお発ちになり、ご先祖の墓前に詣でて、追善供養を営まれた。 この時 岡崎には今川の城代 山田新右衛門という者が本丸に住んでいた。 …
弘治元年( 1555年) 閏三月、竹千代君は浅間神社で元服を迎えられた。 今川義元が烏帽子親となり、冠をかぶせ、関口刑部親永が理髪をした。 義元は竹千代君に一字を与えられ、二郎三郎元信と名を改められた。 雪斎禅師が病に伏せがちとなり、晴れの舞台に姿を見せられなかったのが誠に残念な様子であった。 義元は元服の祝いを兼ね、松平一族に日近城攻めを命じた。 竹千代君の名代として東条松平の右京亮義春を差し向けたが、敵の大将 奥平貞直はよく防ぎ、義春は討ち死にしてしまった。 義元は続けざまに福釜に新しく要害を構えさせ、酒井、大久保をはじめとした主だった御家人に守らせた。 尾張の織田上総介信長はこれを聞いて…
竹千代君、臨済寺 手習いの間にて 竹千代君の駿府での生活は、最近は今川からも何か意を受ける様なこともなく、屋敷で過ごし、時折 鷹狩りに出て、浅間神社に詣で、月に数度 雪斎禅師の薫陶を受けに臨済寺へ通う日々を送った。 天文二十三年、今川の軍師でもある雪斎禅師は、東の北条、北の武田との間で同盟を結ぶ偉業を成し、今川の家中でさらに重きをなす身上となった。 義元は家中譜代の者の意は聞く耳を持たずとも、雪斎を隣に侍ることでその役回りを済ませてきた。 同盟の数日後、竹千代君は手習いの日で臨済寺へ足を運ばれた。 学びの席で竹千代君は雪斎禅師に同盟の話を問い掛けた。 ~雪斎様、先日の北条、武田との和議の話を聴…
等膳和尚、竹千代君を諭す 慈悲尾の森は、今川義元の父、氏親の菩提寺 増善寺の門前である。 安倍川から遠出をしてきた竹千代君は、鷹の獲物が多いこの森で鷹狩りをやると言い出した。 小姓たちは、寺は殺生禁断の聖地にございますと申しても聞く耳持たぬため、住持に許しを得ようと本堂へ走った。 やがて小姓が戻った。増善寺の若い和尚を伴っていた。 ~やれやれ、竹千代殿、臨済寺での行儀の良さは偽りでござりますか。~ 竹千代君は顔を赤らめ目が点になった。 増善寺の若い和尚は等膳といい、臨済寺で手習いを受ける竹千代君に時折、勉学を教えた。多忙な雪斎禅師が寺に居らぬ時は、等膳が臨済寺に足を運び竹千代君の世話をなされた…
竹千代君、癇癪をおこす 天文二十年が明け、国守 義元への挨拶も済ませた竹千代君の元に、生まれ故郷 岡崎で留守を預かる奉行の鳥居忠吉の倅、彦右衛門(元忠)が新たに小姓としてお付きになった。 竹千代君は臨済寺の雪斎禅師の戒めもあって、しばらくは大人しくしていた。 鷹狩りが大好きになった竹千代君であるが、隣の庭が木々の鬱蒼とした今川家臣の孕石の庭で、鷹が木に引っ掛かって落ちてしまうことから、鷹より小さい百舌鳥を手懐けようとお考えになった。 ある日、竹千代君は 屋敷に来て間もない彦右衛門に百舌鳥を狩りの出来る様に手懐けよと、お命じになった。 ところが何日経とうが百舌鳥は彦右衛門の手で狩りを覚える様なこ…
今川義元への年賀挨拶の折り、竹千代君と祖母、源応尼は今川の軍師格の雪斎禅師に声をかけられた。 ~わしは臨済寺の雪斎と申す。 ~竹千代殿、先ほどの放尿はいかなる存念でなされた。~ ~今川の家来が座中で私の陰口をしてる故、一度にわからせてやろうと思い、小便を放ちました。~ ~ほう、それでどうなったかの。~ ~もっとざわめきました。~ ~お主の先ほどの行いはのう。太刀を片手に名乗りをあげ、今川の家来衆を向こうにしてみせた様なものである。 お主はいずれ三河の国守となる身、館での軽挙妄動は慎みなされ。~ ~けいきょもうどう…?~ ~お主が軽はずみな行動を取れば、国元の民、家臣に類が及ぶと考えなされ。~ …
竹千代君の立ち小便 天文二十年 (1551年)正月元旦、竹千代君は今川館へ招かれた。 館は今川の家臣でごった返した。 とくに下座は座る場に困る有り様で、竹千代を館へ伴った小姓は、居場所を探して回るも顔色を伺ってばかりであった。 小姓の様を見ていた竹千代君は、上座近くの縁側に進み出た。 ~わ 若、そちらは…~ 小姓が竹千代君を制止しようとすると、 ~あれはどこの童だろう。~ 上座近くに座していた家臣たちがざわめき始めた。 大人たちの年賀の挨拶に一人だけ場違いな童が現れたので、家臣たちの視線は竹千代君に集まった。 ~三河の松平清康の孫じゃないのか?~ ~そんなはずは あるまい~ 家臣らの視線が竹千…
竹千代君、石合戦を観る 今川の人質の身となり、駿府城下の少将宮町に屋敷を給り暮らし始めた竹千代君。 屋敷の隣には、同じような境遇の相模 北条氏の人質、助五郎(後の北条氏規)が居り、竹千代君は顔を合わせると助五郎と語らいあった。 今川は竹千代君の生活に特段、口を出すことはなかったが、屋敷の庭を隣り合わせる今川の臣、孕石元泰は、最初は竹千代君と小姓を黙って見ていたのみだったが、次第に竹千代君を罵る如く仰せる有り様。 竹千代君の鷹が孕石の屋敷の庭に落ちると、 ~またか!三河の小倅には飽き飽きしたわ!~ ~宿無しが わしの庭に何の用だ?~ と口汚く仰せる始末。 竹千代君も次第に不機嫌になっていった。 …
豊臣秀吉は、目前だった織田信長の天下布武を継承。 天下統一を果たした英傑といえるでしょう。 ただ、犬好きのぼくは、太閤 秀吉さんを手放しでは讃えることは…ムリです。 豊臣の世で ぼくが犬について思い浮かぶのは、犬にとって大変不幸な世であったと考えるからです。 これは 秀吉の生への執念と気まぐれにより、多くの犬が犠牲になった民話です、一時期、大坂城では虎が飼われていました。 それを象徴するかのように、大阪城の天守には、虎のレリーフが飾られています。 その虎と犬にまつわる2つの話です。 犬の虎退治〜新著聞集より いまからおよそ四百年ほど前、豊臣秀吉は朝鮮に軍隊を出して、無謀な侵略戦争を起しました。…
竹千代君、今川の質となる 竹千代君は、天文十六年 六歳にて尾張の人質となられ、八歳にして初めて帰国なされたので、御家人はいうまでもなく、岡崎近郊の人々までも、竹千代君の帰国を喜んでいると、今川義元は老臣らに ~竹千代が未だに幼きゆえに義元が預って駿府にて後見いたす~ と申し送ってきた。 十一月二十二日、竹千代君は駿府に着き、少将宮町に屋敷を宛がわれた。 小梳神社にて衣服を整え、武運長久を祈願し、今川義元に拝謁した。 今川義元は岡崎に城代を遣わし、三河の国中のことは義元の思うがままに取り仕切り、御家人らを合戦の度に先鋒に用いた。 竹千代君、御母公 於大の方様の母君、源応尼様を駿府に遣わして竹千代…
現代語訳 徳川実紀 11 人質交換 天文十八年 三月、岩松八弥に襲われて以来、体調の優れぬ松平広忠が日増しに悪化していき、三月六日に二十四歳で亡くなられた。 まだ三十歳にも満たず、先代 清康に次ぐ相次ぐ不幸に一門、御家人らも嘆き悲しまぬ者はいなかった。 しかし、織田信秀が昨年来、岡崎を攻め込む様子を崩さなかったので、再び今川へ加勢を要請した。 御家人たちは広忠逝去が織田方へ伝わってしまうことを恐れ、深く帰依していた法蔵寺の教翁和尚と内々に申し合わせて、岡崎の大林寺において密かに法要を行い、納見ガ原に内葬したのち、今川へその旨を告げ、大樹寺において葬礼を行い、納見ガ原の地に一寺を建立、松応寺とし…
織田信長 公~近世の曙像(名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園) 二人の御曹司 万松寺 天主坊に薄汚れた身なりの青年が足早に訪ねて来た。 織田の御曹司、信長である。 その出で立ちは腰に朱鞘の太刀を縛りつけ、髪は茶筅で乱暴に縛りつけ、手には大小の瓜をぶら下げていた。 朱鞘の太刀が無ければ、百姓の若者にも見えるだろう。 渡り廊下をづかづか足音を立て、竹千代君の居る部屋の襖を勢いよく開いた。 部屋には三人の童。 一人は折り紙遊び。一人は書物を読んでいる瞳の大きな童。もう一人は書物を読んでいる童を遠巻きに眺める年上の童だった。 信長は折り紙遊びの童に向かって、 ~その方が松平の竹千代か?~ と切れ長の目を開…
母の便りと黒鶇(くろつぐみ) 万松寺、天主坊に幽閉された竹千代君であったが、織田信秀は竹千代君を戸田康光の持ちかけに応じ、竹千代君を買い取り人質としたものの、その生母に関して意外な事実を知った。 東を固める阿久比(あぐい)城主、久松佐渡守俊勝の再嫁した於大の方である。 さすがに幽閉はしても竹千代君を粗略に扱うことは無かった。 竹千代君の身柄が尾張にあると知った 御母公~於大の方は、岡崎で生き別れた我が子が信秀の元にあることを夫、俊勝に告げた。 御母公は夫 俊勝の許しを得て、手紙や菓子、季節の衣類に至るまで家臣 平野久蔵と竹内久六の両名に持たせて万松寺へ訪ねさせ、竹千代君の安否を確かめた。 どう…
織田信秀、竹千代を万松寺に幽閉する 戸田康光から竹千代を買い取った信秀だったが、 広忠の毅然とした返答に感心したのか、いずれ使い道はあろうかと、竹千代の命を奪おうともせず、万松寺の天主坊へ身柄を置いた。 今川義元も広忠の義心に感心し、~それならば救援の兵を遣わすように~と遠江と東三河の軍を差し向け、三河 小豆坂において織田勢と合戦し、織田方はついに退却した。 松平蔵人信孝が織田方に内応したとはいえ、松平忠倫が討たれたあとは、同志の者たちが没落するのを憤り、自ら打って出たが 返り討ちにあってしまった。 山中城の松平権兵衛重弘も落ち失せたため、織田方はいよいよ大軍を動員して岡崎へ乱入しようとした。…
竹千代君、売られる… ここに三河 田原城の戸田弾正少弼康光は、いまの広忠の義父になるが、この縁で、~陸地には敵が多い。 船で我が領地から送り申し上げる~ と約束し、西郡(にしごおり)から吉田へお入りになるところを、康光はその子 五郎政直と申し合わせ、供の人々を欺いて、竹千代を船に乗せて尾張 熱田湊に送った。 織田信秀に渡したところ、信秀の喜びは大変なものであり、熱田の加藤図書順盛の元へ預け置いた。 こうして信秀から岡崎へ使者が立てられて、 ~幼君 竹千代は私(信秀)の膝元に預かり置いた。 いまに至っては、今川との手切れをし、私に降参するほうが良い。 もしも叶わぬときは、幼君 竹千代の一命を頂戴…
織田信秀 三河へ侵攻 天文十七年このころ、武勇に優れた道閲入道(武勇に優れた五代当主、松平長親)も亡くなられ、織田信秀の喜びは大変なものであった。 ~今ならば、三河を侵略することは容易い~と、まず安祥城を攻め落とし、その子 信広にあとを守らせ、筒針に砦を構え、上和田城に内応に応じた松平忠倫、上野城に酒井将監忠尚、松平清定、山中城の松平重弘と、岡崎城は敵に囲まれ孤立して大変危険になった。 三河は大いに乱れ、明けても暮れても互いの戦が止むことは無かった。 当時、筧 平三郎重忠は、岡崎の御家人だったが、偽って上和田城の松平忠倫に降参し、親しげにに近づき忠倫を刺し殺した。 今回の反逆の首謀者であった忠…
老臣達の争い 天文十五年(1546年)…この頃、尾張の織田信秀は、三河を勢力下に収めようと しきりに謀を巡らせた。 三河では、上和田城主 松平三左衛門忠倫、上野城主 酒井将監忠尚らをはじめ、これに内応する者も少なくなかった。 ここに蔵人信孝は、広忠を擁立した功績により、その権威に肩を並べる者がなく、好き勝手に振る舞うことが多かったが、阿部大蔵定吉はじめ老臣たちはかねてから仲が悪く、互いに疑い、信孝の驕り昂った勝手な行動をそのまま放っておいたならば、昔の松平内膳信定を甦らせると折々に広忠を諌めたのである。 一五四七年 天文十六年 正月、広忠が病に苦しんでらっしゃったので、名代として信孝を駿府の今…
岩松八弥 広忠を襲う 1545年 天文十四年 三月のころ、御家人 岩松八弥が突然、広忠の傍らに来て股を一刀突き申し上げて、門外へ逃げ出した。 (隣国より頼まれて刺客となったという) 傍らの者たちは驚き慌てて追いかけた。 広忠も刀を取って、「逃がすものか」と追いかけたが、股の傷が痛み、追いつくことが出来なかった。 このとき、植村新六郎が外の方から広忠を訪ねて来て、偶然 八弥と行き会い、そのまま押し捕 らえ、共に空堀の中に落ち入り、ついには組伏せて八弥を討ち果たした。 この植村新六郎は、さきに竹千代 祖父の清康が阿部弥七の手にかかった時、即座に討ち止め、今度はまた八弥をも逃がさずに首を取り、二代の…
松平広忠の子 竹千代の父、松平広忠の子は、竹千代の他に男児一人、女児が三人いらっしゃった。 正妻 於大の産んだ子は竹千代のみで、側室がも うけた男児は家元。後に康元と称し、生涯足が弱く、世に出て人にも交わることはなかった。 のちに母、正光院と生活を共にした。 長女は多劫姫と申し、桜井の松平与一忠政に嫁し、忠政の死後、その弟与一郎忠吉に嫁し、 その後また保科弾正忠光に降嫁した (『藩翰譜』には、正光に降嫁したとし、烈祖 (家康)の 妹は伝通院(家康生母)が再嫁した久松俊勝のもとで設けたとあるが誤りである。 その次 (二女)は市場殿といって、荒川甲斐守頼持 (または義虎)に嫁し、のちに筒井紀伊守政…
於大の方離別 於大の方を水野家へ返す 天文十二年七月 ここに於大の方の父水野忠政が死去すると、その子下野守信元が今川方を背き、織田方についた。 松平広忠はこれをお聞きになると、「私が今川の同盟国であることは人もみな知っているところである。 したがって、いま織田方に内通する信元と緑を結んでいるべきではない」と、於大の方を水野家に送り 返すと決められた。 これは竹千代(家康)が三歳のときのことである。 我が子の別れを借しむ心の内はさぞかし寂しかったであろう。 さて、当日は、金田、阿倍などの御家人らを添えて 於大の方を興に乗せ刈谷へ送り遣わされた。 於大の方が途中でこれらの御家人におっしゃるには、「…
現代語訳 徳川実紀 このカテゴリーの記述は、徳川実紀を中心に徳川家と一族、家臣に至るまで、伝説、伝承、地域に残る逸話を他の資料も交えて補完を目指したものです。 1 家康の誕生 天文十一年 十二月二十六日、虎の刻。 於大の方より若君が安らかにお生まれになった。 これぞ天下無疆( #てんかむきょう)の大統を広げることとなる当家の烈祖東照宮でいらっしゃる。 そのときの奇瑞(吉兆)が様々世に伝わることが多い。 (於大の方が鳳来寺峰の薬師に祈願があって、七日満願の夜、薬師十二神将の寅神を授けられた様子が見られてから、身重になられるなど、日光山の縁起にも記されてることが多い。) 石川安芸守清兼が蟇目役(#…
記事に画像添付できず… 容量オーバーとなりました。
阿倍比羅夫 像 北海道余市郡余市町 阿倍比羅夫 古代史を知る上で欠かせない日本書紀において、朝廷から派遣された武将で、記録上、北海道に上陸した初めての名の残る人物です。 大化の改新の後、朝廷は天皇による中央集権国家を目指しました。 658年 (斉明天皇4年〜斎明帝重祚により元号停止中)。阿倍比羅夫は朝廷の命により大船団を率いて越国(現在の新潟)から津軽にかけて支配下に置きます。 その支配は、一方的な圧力ではなく、比羅夫が土地の支配者を饗応(接待)し、酒や食料、禄を与えるといったり、それでも敵対する者には武力に出る手法を取りました。 660年(斉明天皇6年)、比羅夫は渡島(蝦夷地、北海道)へ足を…
消防犬ぶん公 像 北海道小樽市色内2丁目 小樽運河プラザ前 北海道小樽市は、江戸時代にはニシン、鮭の漁場として栄え、また明治時代に入ると、北海道内陸部で産出される石炭の搬出港として、小樽港が使われたことで大いに繁栄し、輸入港としても活用され、人、物、金が集まる夢の街として知られました。 それに伴い、小樽の街は、人が集まるに連れて火災も頻繁に起こります。 そんな火災のよく発生する小樽の街で、大正3年の春、住宅街の火災で消火活動していた消防士が、焼け跡現場で鳴いていた一匹の仔犬を救助しました。 仔犬は白と茶色のぶち模様で、明らかに雑種犬でした。 火災現場の指揮をしていた小樽市消防組(現在の小樽市消…
ソーラン節発祥之地碑北海道余市郡余市町 豊浜町 北海道民謡として、最も有名なソーラン節。 近年では全国の小中学校などでのダンス授業や、一般の祭りでの舞踊で披露されたりと、いまではメジャーな民謡として認知されています。 北海道では、初夏の到来を告げると共に、北海道一ノ宮、北海道神宮例大祭の前祭の様に開催されるコンテスト形式の〜よさこいソーランまつり〜が人気で、祭りの様子はテレビ中継もされて話題となります。 ソーラン節の起こりは、江戸時代から昭和初期にかけて、主に北海道西部の日本海側で、大漁の漁獲量によって携わる人々に莫大な富をもたらした鰊【ニシン】漁を沖合で行う船上での掛け声が発展したものとされ…
歴史紀行 地域版 9 元新選組 永倉新八 近藤勇 息女、対面の地 【北海道】
元新選組 永倉新八 局長 近藤勇 息女 山田音羽 対面の地 北海道 小樽市花園町 〜新選組〜 幕末に第14代将軍 徳川家茂の上洛の警護を司る浪士組の結成から始まった組織で、近藤勇や土方歳三らが隊士として応募して上洛後、壬生浪士組から新選組と変遷する過程で、近藤勇らが内部で対立し始めた芹沢 鴨ら水戸浪士一派を粛清して組織はより先鋭的、一本化され、京都守護職を司る会津藩主 松平容保(かたもり)の下で京都の治安維持を名目に活動を強化、尊王攘夷、倒幕を練る不逞浪士の多くを討ち取りました。 倒幕が成ると、有能な志士を数多く失った外様諸藩の恨みは新選組と彼らを支配下に置いていた京都守護職の松平容保が藩主の…
今井信郎 像、今井信郎碑〜今井信郎 屋敷跡 静岡県島田市阪本 今夜は八十八夜 新茶摘みにちなみ、茶に関わる歴史について書いています。 1867年 慶応3年、11月15日、京都河原町の醤油商 近江屋の二階で幕末の風雲児、坂本龍馬が土佐の同輩〜陸援隊を率いる中岡慎太郎とともに刺客に襲われ還らぬ人となりました。 通説によると、龍馬に手をかけたのは、幕府の京都見廻組の組頭、佐々木唯三郎 を筆頭にした七名でした。 時代が明治を迎え、龍馬暗殺の実行犯として逮捕されたのは今井信郎でした。 今井は見廻組、組頭 佐々木唯三郎の指揮下で龍馬捕縛へと捜索、龍馬が醤油商 近江屋に潜んでいると情報を得て急行、二階に踏み…
中條金之助景昭 像 静岡県島田市 阪本 今日、5月1日は立春から八十八夜を迎えました。 今年も静岡県地方は新茶を摘む季節となりました。 不毛の台地を一大茶産地に変えた不屈の闘志を持った旧徳川家臣の逸話があります。 東海道金谷宿東部から島田宿南部を流れる大井川。 蓬莱橋を渡り、大井川を越え蓬莱峡を抜けて牧之原台地へ登ると、大井川を背に牧之原台地を見守る中條金之助景昭の像がそびえています。 牧之原台地での苦難に満ちた開拓黎明期を先導した中條金之助景昭は、1827年 文政10年、幕府小姓組、中條市右衛門の長男として生まれました。 1854年 嘉永7年、徳川13代将軍 徳川家定に御書院番として仕えて以…
蓬莱橋 静岡県島田市 宝来町 1869年 明治2年 7月、江戸幕府 最後の将軍 徳川慶喜が謹慎のために水戸へ発ち、やがて明治新政府により謹慎か赦免されて静岡への道中を護衛してきた幕府 精鋭組【後の新番組】を中心とした幕臣らは、徳川宗家を慶喜から継いだ徳川家達が静岡藩主となり、新番組は ここで御役御免となりました。 旧幕臣達の身の振り方を考えていた勝 海舟は、広大な幕府領でありながら、耕作に不向きなため、何百年と放置されてきた金谷原【現在の牧之原台地】の存在を知ります。 勝は、新番組の一員の中條景昭らに金谷原での開墾と茶葉の栽培を持ちかけました。 中條景昭は、【死を誓って開拓します】と快諾し、景…
牧之原大茶園 静岡県島田市、牧之原市、御前崎市、菊川市 牧之原大茶園から島田市 大井川方面を望む 牧之原大茶園 ~現、島田市阪本、谷口原 ~ 牧之原大茶園~島田市阪本、権現原~ 牧之原大茶園~島田市阪本、初倉方面~ 牧之原大茶園~開拓記念碑~ 開拓記念碑~拡大~碑名に中條景昭、今井信郎ら 記念碑所在地 静岡県島田市阪本4846 〜牧之原大茶園〜 明治維新以後、徳川幕臣の約6千名が幼年ながら静岡藩主となった徳川家達(徳川宗家16代)が駿河 府中城(駿府)城主となって封じられたことに伴い、家達の居る駿府に入りました。 駿府城下の町は、江戸から追われる様にやって来た旧徳川幕臣の士族であふれ、城下に留…
静岡茶発祥の地 足久保 静岡市葵区足久保 本日、5月1日は立春から数えて八十八日目にあたる八十八夜を迎えます。 八十八夜を境に新茶を摘む初夏の季節を迎えました。 永らく全国一の生産量を誇る静岡茶。 有名な生産地は、5000ヘクタールにも及ぶ牧之原台地です。 ここは明治時代に旧、徳川幕臣達により開拓の手が入り、一大産地へと成長していきました。 牧之原については、次の静岡茶の寄稿で掲載致します。 静岡茶がその息吹をはじめたのは鎌倉時代にさかのぼります。 日本に茶というものが最初に遣唐使により、 もたらされたのは奈良時代ですが、その時は朝廷内のごく一部で楽しまれる程度で世間一般的には広まらず、やがて…
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