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  • ■引用文献■

    〇『昭和史』(遠山茂樹・他)・岩波新書 〇『日本資本主義講座』・第一巻・岩波書店 「資本主義の全般的危機と第二次世界戦争」(小椋広勝) 「太平洋戦争...

  • 後記・Ⅱ・「楢山節考」(深沢七郎)覚え書

    「庶民」とは「広辞苑」によればもろもろの民、人民あるいは貴族などに対し、なみの人々平民といほどの意である。だがしかしこれでは満足できない。その満足できな...

  • 後記・Ⅰ・「黒い雨」(井伏鱒二)覚え書

    「日本人」というものの社会的存在形態、あるいはパーソナリティをこれほどまでにその内部からとらえている小説はないだろう。私達がこの小説を読む過程の中でもつ...

  • 吉本隆明小論・《6》

    そのようなことがもし吉本にとって自明のことであるとすれば、彼の「芸術論」には明らかに、「芸術はどのようにして創られるか」という視点が欠けている。それは同...

  • 吉本隆明小論・《5》

    ここで吉本はどのようなことをいっているのであろうか。 例えば、一人の画家が一つの風景を前にして絵を画き始めたとする。このときその画家の芸術創造の原動力と...

  • 吉本隆明小論・《4》

    私はこの要約における、吉本の蔵原に対する批判には全面的に同意する。 すなわち、まず階級闘争を主要主題としなければならない、といった「主題の積極性」理論、...

  • 吉本隆明小論・《3》

    さて、その第二の部分は、いわゆる二段階転向論である。それはプロレタリア文学並びに文学運動批判としてあり、同時にまた吉本隆明の提起する芸術論、芸術運動論の...

  • 吉本隆明小論・《2》

    さて吉本は「転向」ということを次のように規定する。 〈それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかめそこなったために、インテリゲンチャの間...

  • 吉本隆明小論・《1》

    ・・・泣いてゐるものが一番悲しんでゐるわけではないのだ・・・(「中毒」織田作之助) この論文をしめくくるに当たって、吉本隆明をとりあげようとするのは、他...

  • 坂口安吾論・《13》

    だがしかし私は一方でそうした精神主義的限界をみながら、坂口安吾を次の二点において評価しなければならない。 その一は、「堕落論」における《醇風美俗》意識に...

  • 坂口安吾論・《12》

    〈人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。〉(「教祖の文学」・前出・Ⅱ・32頁) はたして、この花とは桜の花びらのことであった...

  • 坂口安吾論・《11》

    私は「木枯の酒倉から」「風博士」「母」といった小説が、「海の霧」や「竹藪の家」とたとえ同時期に書かれたとはいえ、はっきりとその両者に区別をつけなければな...

  • 坂口安吾論・《10》

    だがそれではいったい、そうした坂口安吾の姿勢とは、いいかえればどういうものなのであろうか。私はそうした姿勢に、必ずしも坂口安吾のオリジナリティ、あるいは...

  • 坂口安吾論・《9》

    〈母。…得体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる、 私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だってありは...

  • 坂口安吾論・《8》

    坂口安吾の思想とは何か。だがその前に私は、坂口の次のような言い方に注意しなければならない。 〈思ふに文学の魅力は、思想家がその思想を伝へるために物語の形...

  • 坂口安吾論・《7》

    「FARCEに就て」の骨子はいうまでもなく文学方法論であるが、福田が「文学について語ったことばのはうが、ずっと深く人生の真実を突いてゐる」と指摘している...

  • 坂口安吾論・《6》

    さて私は、坂口と私の関係を必然化せしめるものが、坂口と私が共に生きるとはどういうことなのかという問いかけを、おのれに向かって発している人間であるという、...

  • 坂口安吾論・《5》

    さて、それではいったい福田恒存のいう、「作品を通じてつかみ得た」坂口安吾のすがたは、どこにおいて存在し、またいかなる方法において捉え得るのであろうか。こ...

  • 坂口安吾論・《4》

    もし、生活とは何か、生きるとはどういうことかという問いに、答える方法それが、他ならぬ生きることだといったら、それは同義反復だろうか。ともかくも坂口安吾は...

  • 坂口安吾論・《3》

    坂口安吾は、おのれに向かって生活とは何か、生きることはどういうことか、という問いかけを、その生涯にわたって発しつづけた人間であった。とはいえ私は、坂口安...

  • 坂口安吾論・《2》

    さて、生活とはいったい何であろうか。私は『広辞苑』のいう二つの意味それ自体というよりはむしろ、その二つの意味の差異に、注目しなければならない。なぜなら、...

  • 坂口安吾論・《1》

    ・・・私はつまり天来の退屈男なのだから、生活を芸術と見る。・・・(「金銭無情」昭和22年) いったい、生活とは何であろうか。『広辞苑』(岩波書店)によれば...

  • 石川淳小論・《11》

    「わたし」は、胸膜炎と「精神の運動」によって自己の生活と「観念」を、いくさ仕掛の世界とその生活意識に対立させた。だがそのことによって正に「わたし」は、色...

  • 石川淳小論・《10》

    「無尽燈」(昭和21年)、それは一見すると「焼跡のイエス」に比べて戦後的な作品とはみえないかもしれない。だがそれは明らかに石川淳における《戦後》の文学的...

  • 石川淳小論・《9》

    石川淳は「死」を一つの「現実」として受け止めた先の登場人物たちに次のような会話をさせている。 〈「帯子にも判らない、何だかとてもいい気持ち。でも三治った...

  • 石川淳小論・《8》

    ところで石川淳において、自己の「観念」を表現することが小説であるとすれば、彼の闘いは、より厳密にいえば彼自身の内部意識における生活意識(地上的感情)と精...

  • 石川淳小論・《7》

    〈わたしは元来飛行家の弟子なのだ。雲をも風をも低しと見て過ぎつつ厚みも重みもない世界へ入らうとする離れ業はさることながら、わたしのもくろむのは低空飛行で...

  • 石川淳小論・《6》

    ところで「佳人」は、佳人についての叙述ではない。「わたし」にとって佳人とはミサのことであるが、石川淳にとってそのようなことはどうでもよかったはずだ。にも...

  • 石川淳小論・《5》

    「わたし」は、かくて臍からではなく、死もしくは死の意識から自己の生活を再出発させようとする。 〈その間にしたことといへば、これまでし来った些かな習慣をさ...

  • 石川淳小論・《4》

    「わたし」は、ユラ、ミサたちとの生活を「魚のような漠然たる生存」と名づける。同時にまた、それは「わたし」の生活に絶望する生活の表現でもある。そして「わた...

  • 石川淳小論・《3》

    さてそれでは石川淳にとって「佳人」が意味するもう一つの意味、すなわち新しい「生活」への出発とはどのようなものであったのか。厳密にいえば、それは新しい「生...

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戦後文学の思想と方法
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