■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
人が快適や便利かどうかと、その人が(精神的に)苦しみを持っているかどうかは全くの別の問題だ。欲望は外部の人間から与えられようとすることだ。だから賢しく狡猾な者は、欲望を刺激することばかり言うし、丁寧にもっともらしく言い聞かせてくる。欲望の満足には
1対複数や1対1(信頼がない相手)ならパブリックであるから、ポリコレとして振る舞い(本音を隠し)、1対1(信頼がある相手のみ:例えば家族や親友など)ならプライベートとして、なあなあ(本音あり)の対応になることが求められるだろう。ポリコレ(ホワイト社会)が
「考える」ことが、唯一にして確実な、新たな気づきによる良い認識の変化となる。自発的かつ新規的かつ善的なものへの、気づきによる良い認識の変化(面白さ)と、役に立ったという良い認識の変化(役に立った自分には価値があるという自己肯定感)は、娯楽や仕事を続ける上
無能とは、「自発的」に、「善いこと」を、「新しく」、「考える」ことができない人のことをいう。エリートと呼ばれる人には、2種類の人種がおり、 具体的には、①プライドが高くて有能な者②プライドが高くて無能な者である。エリートを量産することで、①の有能
理性を満たすことの考察①自発的であること(自発):客観的実在は無、無常と無我、無の哲学②やったことがないこと(新規):新しい気づき/良い認識の変化の確率向上、記憶・思い出に刻まれる③役に立つものであること(善):正しさや善の目的、アドラーの
自分で自分の機嫌を取る①何もいいことがなくとも、いいことに気づく/足るを知る:気づきによる良い認識の変化②何もいいことがないのは、本来的/当たり前:悪い認識の変化の滅却③自分の力で、役に立つことのために、新しいものやことを、考える(考えるため
幸せな人とは、運良く、自分の興味に出会った人だ/思考実験の対象を見つけた人だ。その対象とは、自然と/意識せず・無駄、無意味さを苦としない・徒労を苦としないものだ。思考実験をしよう。気づきによる良い認識の変化と、退屈の解消となる。体が壊れて
考えるとは、自分の無意識に(知覚した情報を)問いかけて、無意識から新たな気づき(答え)を引き出すこと/気づき(答え)を引き出そうとする行為をいう。意識に備わっていることに改めて気づくことは、既にある気づきを再自覚することに過ぎない。理性的な活動に
欲望を満たす幸せと理性を満たす幸せの違い□欲望(外部から自分に対して与えられること)を満たすことによる幸せについて・欲望は、動物が本能として持つに至った『個体の生存のために"苦痛によって"ランダムな行動を強制させる警報システム』であること(≒集諦)、
①パワハラとは、人間関係を上下関係だと勘違いしている人の言動である。自分と相手の間で《自分が上で相手が下としたい》という欲望がある。②指導とは、人間関係を対等な関係だと捉えている人の言動である。《相手と共有しているテーマを成功させたい》という理性的な
人間関係を上下関係だと無意識に思い込んでいる人は、他の人の言動に対して、自分が下に見られている/自分が責められている、と感じ、自分を下に見られないように/優位に立たせようとして、周囲や他の人に対して攻撃的・他責的になります。これがパワハラ・モ
確実なものが何も無い世界において、何を拠り所(形而上学的な導標、基底、自分の世界の捉え方の根拠)にするか、という最大の命題がある。人間関係や財力を保てる能力があるなら、そのような客観的実在(人脈やお金など)を心の拠り所にするだろう。それも(信じら
「客観的実在」と、それから自分(主観的実在)に向けて与えられる「ベクトル」を切り離して考えることができる。キリスト教は客観的実在(神)を有るとする。仏教は客観的実在を無いとする(色即是空)。どちらが正しいということはないが、仏教の方が(この世の一
ひろゆき氏「必要なのはパスポートじゃなくて旅行に行くお金です」日本旅行業協会の政府への働きかけにhttps://news.yahoo.co.jp/articles/c24ccf787ddfcac84da2232a4949dc27b2b91a28ひろゆき氏の言うとおり、いくらパスポートがあっても、お金が無ければ、加えて、
小泉進次郎氏の掲げる「解雇の自由化(正規雇用者をクビにしやすくする規制緩和)」は影響が非常に大きい。父親の小泉純一郎氏と竹中平蔵氏による派遣法で、現代の奴隷(派遣社員)が生まれたが、それと同じように国民生活に深刻な影を落とすだろう。国が終わるというこ
金持ちや権力を持った支配者は、自分の立場や金を失うことを恐れて保身に走る、というのは昔から同じである(現代ではアホくさいけど、イーロン・マスクの火星移住のように、宇宙に逃げるってことなのか?)。古代ギリシアや仏教を含む哲学では、古代から(欲望に囚われた者
自分の首を自分で締めるようなこと(自己を顧みず、自己以外のものから与えられるために生きること)を積極的かつ大々的に行える人物を素晴らしいと評価して、その(苦痛を生むことを、そうと知らずに)模倣をしようとする人が溢れていることだけを見ても、この世の中が苦痛
若いときは、自分を中心に世界がまわっているように思われ、世界から自分へ与えられるものが多くあるのだと錯覚するが、歳を取って、様々な現実を経験していくと、自分は世界のモブに過ぎず(それも取り替え可能なモブである)、世界から自分に対して与えられるものは、当
哲学の意義とは、過去の(より深く真理/根源に近づけた人という意味での)賢人の哲学(自己を取り巻く世界(自分という主体と自分以外のものという客体)の捉え方)をベースにして、自己の精神の内にて、世界を知り・思索して、自分の哲学を練り上げることで、自己と自己の精
自分の評価や自分が何者であるかを、他者の評価にゆだねるな(承認欲求に囚われるな)むしろ他者評価など無いと思え(承認欲求の苦痛から逃れるためには、自分以外のものは元から無いものと思えばよい)自分の力や制御の及ばないもの(自分以外の事物から与えられる
精神的な問題を抱えていない人は、基本的に他者攻撃をしない。そのような攻撃をする必要がなく、他者に攻撃的なアピールをしなくても相手をしてもらえるくらい有能であるか、もしくは、他者のことをそもそも気にしていないからだ。他者攻撃とは、その人の「社会にお
そもそもだが、先に人を楽しませたい(人から注目されたい)ではなく、まずは自分が楽しむことだ。世の中は多くの場合でこれが逆になっている。人から注目されることが一番の目的で、自分の注目は後回しなのだ。だから続けることは苦痛であって長続きしないのだ。
自分の価値なのに、どうして他人の評価に委ねるのでしょう?自分の人生は、親や友人や先生や上司という他の人間が左右するものだと思いこんでいるのでしょうか?そういう(生まれつきか、若しくは、いつの間にか刷り込まれたのかもしれない)他者依存の価値観から疑
この勝負事を続けようとするならば、打開を楽しむことと、失敗の苦痛を消すことと、その失敗を(次は少しでもマシにする方法を)考えることを楽しむこと、しかない。打開も、苦しい失敗という状況も、外部から運が有って与えられたものだ。負けも、失敗も、不調も
運の悪いことが起こったとき(例えば、学業・就職・仕事で失敗した、家庭・学校・職場での人間関係で失敗したなど)、それが自分の力では解決できそうもないとき、誰でも、簡単に「自分には価値がない」だとか、「生きていても何も期待できない」と思うようになります。さら
仕事には、知って、考えて、実践することが(システムとして)セットとなっている。 よって、その規模が小さくとも、仕事をすることは(退屈を避けるという意味で)良い。仕事でも、ルーチン仕事なら、同じ作業をこなすこと(実践することによる認識の変化)のみだ
外部要因が多く・敵にやられる・味方が自分の思うように動かない自分で制御できる範囲が、相対的に少なく・勝負事のついての学習、工夫、実践の貢献量はほぼ一定であるそのせいで、・イライラし易く(欲望の苦痛)、・集中力が必要で肉体的に精神的に疲れる(
面白さや納得という良い認識の変化には、直感が必要だ。直感的でないものには、良い認識の変化は生まれず、よって面白くない。(一)学び・知る・知識を得る(二)考える・思索する・仮説を建てる(三)試す・行う・実践するのそれぞれの要素にも、面白いと感じ
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■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
どのみち、今無いものを手に入れる・認識する・積むという、本能から逃れられないならば(神経的刺激の生理システム)、・自分の内に知識善を積むこと(知識的徳)・自分の外に貢献善を積むこと(貢献的徳)で、その今に無い「善=価値あるもの」を積めば/認識すれば
否定する(失敗や批判)↓自己否定=苦しさ↓自己防衛=承認欲を満たそうとする(①自責か②他責又は両方)↓①自責:注目の承認欲を満たす・自分を下げて注目されたい =過度な自己卑下、自虐・他人を上げて注目されたい =過度な自己犠牲、ゴマす
■本質(探究という目的)と形(記録という手段)の関係本質は形(言葉など)にすると、形への執着となり、本質(形ではとらえきれなかった概念を含む全体)から離れてしまう。本質は(探究の)目的であり、形は(記録の)手段であって、形にすると、形(記録の手段)
■徳を積むについて自分の時間を差し出して自分の内や外に善を作る(善を作る=徳を積む)与えられることは諦めて(与えられることは無いから・なお、"一方的に"与えることでもない)徳を積む=善を作ること積む徳、作る善を、自己が認めれば、些細な肯
全ては、無を「否定する」ことから始まり(一切皆苦であり)、継続するものなので、意識し、無を「否定せず」、受け入れることだ(無を否定する苦しみを打ち消す方法)自動的に、無を否定するとしても、意識し、無を否定しない→まずは無意識の否定の対消滅無い
無の荒野・与えてくれる(都合のいい)他者は居無い・与えられる(都合のいい)自己の特別性も無い例えば、全くの見返りなしで、新規性もなく、誰かに1万円を渡す/寄付する行為があって(それは行動の善であるが)それに善さ、価値、善い神経的刺激、
自分を(本能的に)特別な存在だと思うことは、特別では無いという現実(現実の無)と常に戦うことになる。そして、(失敗者は当然のごとく、成功者でも時間とともに必然に)いずれ心のエネルギーが尽きて、無の否定とその苦しみに囚われることになる。無の否定と苦
日々のことに、何も無いなら、何も無いことが当たり前で中庸である。日々の行動は知るためだけにあって、知ることにしか価値と肯定はない。
イヌはボールをぶつけられると、ボールを敵と見做して吠える。ボールを自分にぶつけた者やぶつけた原因を見る=知ることはしない。これは、イヌだけでなく(それなりに知能があると思い込んでいるだけの)ヒトにも同じことが起こる。
皆が本能的に感じている否定の苦しみを放置したままにしておくと、自己否定の鬱や自暴自棄、他者否定の攻撃性(からの孤立や孤独)に繋がって、徐々に壊れてい(き、自己否定に起因する鬱病・アル中・薬物依存、他者否定に起因する誹謗中傷、暴言暴力や犯罪行為へエスカレー
他人を責めたり自分を責めたところで現状が変わるわけがないただ承認欲を求めているだけだ自分の内に善(価値)を生まなければ、自己肯定の変化(自己成長・自己変革)もない------否定も刺激であるし受容も刺激であるし肯定も刺激である否
自分は特別だと思うことが、認知の歪み(本当は特別ではないのに、そう思い込んでいる)の根源なんだよこの本能的な(承認欲求に起因する)歪みのせいで人間は苦しむようになっている(特別なはずの自分が、現実では特別扱いされないという承認欲の否定の苦しみ)この自己
究極的には、肯定感は、知性的卓越性(知の善)で得るしかないし、否定感は、倫理的卓越性(中庸)で消すしかない。ただし、否定も日々の行動のトリガーとしては必須。否定と苦しみがなければ、考えることもなく、動くこともしなくなり、受容のカタルシスも得られない
人生はいずれ無に帰すが、無を否定したとしても(無を否定したままにせず)、無を受け入れて、無から「何か」を生み出して肯定することだと思っている。身の回りに有る物や事が、この何か(誰かが残した善さ)から構成されている以上は、その分だけは意味があると捉える
前向きになるんじゃなくて、まずは無になるんだ何も無いのに前向きになれるはずがないだろう無理に前向きになろうとするから、(何も無いことに対して)後ろ向きになるんだよ~~~~~~~~~どうやって何も無いことを受け入れるかどうやって何も無いこ
『意識を仕直すこと』《無意識の否定に対して》①自己否定したとしても、否定したままにせず、②自己受容できること③そのうえで、自己肯定できること《無意識の期待/肯定の期待に対して》①承認欲の期待が生まれたとしても、他者運も無く、才能運も無いか
そうやって現実を否定する(のは仕方がないとしても、否定したままだ)から、自分は(自己否定で)苦しいし、他人も(他者否定で)苦しくて離れていく。人生が苦しいのは一切皆苦であるし、孤独になるのは因果応報/自業自得なんだ。
犯人の心理を5段階で解説(自己否定の苦しみを抱えている人は現在『非常に多い』ので、今後も事件は発生)する。①現実否定=自己否定で苦しい(生き苦しい)↓②他責思考=苦しいのは周囲や社会のせい↓③他者攻撃=人を攻めて気持ちよくなろうとする(承認欲/
No.0 詳細(無と中庸と善)No.1 全体(否定➡受容➡肯定)No.2 無知の知_知の探究_知の幸福No.3_意識の不連続_No.4_無意識の否定の仕組み_No.5_無の荒野
ある事件や事故を起こした人の問題行動の理由を説明するのに・優秀な人だから・真面目な人だから・金持ちだからという、特定の目を引く性質を理由に問題行動を起こした、と言うのは間違っている。これらの不快な記事は、ライター側が読者の関心を引くために仕掛け
①外から与えられたものはすべて喜ぶ、感謝する・空即是色(自分の外には何も無く空であるなら、すべてのものは奇跡的な幸運の産物であり、よって、すべての物欲はすでに満たされている)・欲望の幸福(外から与えられる幸福)の『幸運に』感謝する・幸運とはなかな
この世の全てが「 」(無や空)であるならば、この世の全ての物が有ることは全て奇跡(幸運)の産物であり、愛情の対象となる。有ることが難しい奇跡的な物への(有り難うという言葉のとおりの)感謝や慈しみとなる。物欲(客体への欲望)も、無や空がベース(本来の、根
①色即是空:物(色)への欲(物欲)は苦痛しか生まないため、物欲が生まれたら、これを、自分より外から与えられるものは無く、すべてが空であるとして捨て去る。すべての物(色)が無いとすれば、(理想や願望も空であり、現実(もまた空であるから)とのギャップも生
□欲望を捨て去るために欲望を完全に捨て去るなら、自分の外から入ってくるものは、全くないものと思い(外には何も無い)、自分の内から外へ出ていくものしかない(自分のみが確実に有る)、と思うほかない。ゲームだって、無から考えれば、ゲームがあって、
■承認欲の強い人は必ず苦痛を感じ不幸になる人から認めてもらいたい欲求(承認欲求)を持ってしまうと、自分の力で自分のことを認めることができなくなって、自分だけでは、自分に価値があると思えること(自己肯定感を得ること)ができなくなってしまう。代わりに、
真面目な人が、ストレスのせいで問題行動を起こして転落するのではなくて、(承認欲求が強いせいで、外面が良くて)真面目な(ように見える)人が、承認欲求の苦痛のせいで問題行動を起こして転落していくのだ。しかし、本当に真面目に会社のために頑張って貢献しようと
承認欲求とは、子供が生き延びるための本能であるから(自活できない子供が、親や周りの他者から、可愛い子供であると認知されて、食べる物などを与えられて生き残るための欲望であるから)、自活できる(ようになる代わりに子供の持つ可愛さを失う)大人がいつまでも持つよ
気分の浮き沈みがあるとしたら、それは、・欲望が満たされたから一時的に気分が良くなっているか(自己肯定感がある・高い)、・欲望が満たされなかったから気分が悪くなっているか(自己肯定感がない・低い)、のどちらかの心理状態を、日常生活の中で揺れ動いている
点を取りたいから勉強をするのではなくて(点を取って他者よりも上に立ちたいという欲望ではなくて)、この世の中の仕組みを理解し(てあげ)たいから勉強をする(理解をしてあげる、知識を身につけて役に立てるという理性である)ことだ。点数がとれるかどうかは、そ
日本を含む先進国で精神疾患が多い理由は、欲望(承認欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすことが人生の幸福である、という価値観が推奨され広く浸透しているからです。しかし、幸運に恵まれ(続け)ない限りは、欲望を満たし続けることはできないので、欲望の幸福の屋台骨
○行為だって、自分の欲望を満たすからではなく、□の役に立つという理性を満たす気持ちでやることだ。□を理解する・□に優しくする・□に興味を持つ・□に愛を感じてもらう・□にひとりではないと感じてもらう。○欲は、欲望なので苦痛と不幸にしかならない。
欲望は苦痛しか生まないから捨て続けること。この世の全て(外界から自分に入ってくるものは)利己的・欲望的なものだ。よって幸運や他者課題に恵まれなければ、欲望の不満の苦痛により不幸(欲望を満たせない自分には価値がないと思う状態)となる。利他的・理性的
欲望とは、欲望の苦痛を自分に与えて、欲望の理想へ向かう行動を強制させ続ける仕組みである。そして、欲望の理想を獲得するには、幸運や他者の評価・人脈などの他者課題が必要となる。よって、人間は、生きている限り、欲望の苦痛に苛まれ続ける。生まれながらに
!欲望は苦痛になるので、勝ち負けは考えない。負け続けることもあるのが当たり前の事実だと現実を受け入れる。苦しみたくなくば欲望を捨てよ。!自分の技量を実行すること、技量を確認することだけを快感とする。技量が行えれば(行えなければ)、その結果で勝とうが
この世の全て(外界から自分に入ってくるもの)は利己的なもので溢れている。よって幸運がなければ、欲望の不満の苦痛により不幸となる。利他的なものとは、自分から外界に対して出していくものだけだ。自分の意志と善の活動により、役に立てる、理解してあげる、優
現代社会で各種ハラスメントやうつ病患者が増えている理由について、そのメカニズムを以下に記載しておく。■人は不満があれば簡単に他責や自責をしてしまう他者からの関心、注目、評価をもらえず、承認欲求が満たされないと、人から注目されない自分には価値がな
幸福になるというのに、愛嬌やコミュ力が必要だと考えていると、運悪く自分より愛嬌や能力がある他者が出てきたり、運良く理解者があらわれなかったり、自分が愛嬌や能力を保てなくなったら、幸福の屋台骨が崩れて、すぐに不幸の沼に沈むというのに、そんな(承認欲求という
円安も増税も貧困も、自分では制御できない外的要因である。自分の力が及ばない運要素に頼るものについて悩んでも仕方がないし、不満をためるだけ思考と時間の損だ。①利己の幸運があったことに感謝する②利己は捨てる(幸運がある理想の諦め、幸運がない現実の受
■他責他者を責めて(下げて)、自分の方が特別に優れていると思い、他者の関心(尊敬、恐れ)を引こうとする承認欲求の表れ■自責自分を責めて(下げて)、自分のことを特別に悲劇的だと思い、他者の関心(同情、憐れみ)を引こうとする承認欲求の表れ■他責と