源頼朝公は相模川に橋供養に出向いた帰路、落馬がもとで体調を崩し、亡くなった。ただ、その死については、さまざまな憶測があり、暗殺説すらある。はたして頼朝公の死因は何であったのか。
市河助房(「逃げ上手の若君」より) さて、今回は信濃国の武将・市河房助についてじゃ。アニメ「逃げ上手の若君」では、あの「キター!」という織田裕二ネタで著名な山本高広さんが声をつとめるようじゃな。山本高広さんって、声優だったのか? それはともかく、小笠原貞宗とともに時行の前に立ちはだかる市河房助について紹介しておくぞ。 市河氏の出自 市河助房と中先代の乱 市河一族のその後
隠岐遠流、後醍醐天皇はどこでどんな生活をしていたのか〜島前の黒木御所と島後の国分寺
後醍醐天皇上陸地跡(島根県隠岐郡知夫村仁夫) 後醍醐天皇が一時配流となった隠岐。ところで、後醍醐天皇の行在所は隠岐のどこにあったのじゃろうか。最初に上陸したのは島前の知夫里島(知夫村仁夫)であったようじゃが、その後の1年半をどこでどう過ごしていたのか。地元では島後の国分寺と島前の黒木御所の2箇所が行在所の候補となっておる。わしも現地に行ってみたことがあるので、この論争について整理し、最後に私見を述べてみたいと思う。 隠岐ってどんなところ? 後醍醐天皇行在所としての伝承が伝わる黒木御所 「太平記」に記された黒木御所での流人生活 明治後、文献を根拠に提起された「国分寺」説 「黒木御所」説と「国分寺…
後醍醐天皇、隠岐脱出大作戦の真相。どうやって島を抜け出したのか?
さてさて、今回は後醍醐天皇の隠岐脱出についてお届するぞ。どこまで真実かはわからんがその経緯は「太平記」にも詳しく記されておるので、まずはそれをベースに紹介したい。 後醍醐天皇 後醍醐天皇、隠岐へ配流 用意周到に準備された脱出計画 夜陰に紛れて脱出作戦を決行 間一髪!隠岐判官の追っ手を振り切り名和湊へ上陸 まとめ:隠岐脱出のその後 後醍醐天皇、隠岐へ配流 後醍醐天皇の隠岐流しのエピソードをざっくり語るとしようかのう。密かに鎌倉幕府をぶっ潰そうと企んでいた後醍醐帝じゃが、元弘元年(1331年)にその計画が側近の吉田定房にばれてしまう。ヤバいのう、と感じた後醍醐帝は、三種の神器を持ってこっそり京都を…
後醍醐天皇暗殺未遂事件。西園寺公宗と北条泰家による大胆な陰謀
西園寺公宗(大河ドラマ「太平記」) わし高時は後醍醐天皇を隠岐に流したが、さすがに弑し奉るまではしなかった。その中途半端さが鎌倉幕府滅亡に繋がったのじゃが、それでも帝を手にかけるなど、さすがに恐れ多くてできるわけがない。じゃが、それをやろうとしたのが西園寺公宗とわが弟・北条泰家(時興)じゃ。けっきょくこの陰謀は失敗に終わるが、今回は2人が計画した後醍醐天皇暗殺未遂事件について紹介する。 すこぶる評判が悪かった建武の新政 西園寺公宗はなぜ、後醍醐天皇暗殺を企てたのか 後醍醐天皇暗殺計画の密議 弟の密告により暗殺失敗 後醍醐天皇暗殺未遂事件の余波
「二条河原の落書」を超訳してみた! 建武年間、この頃都に流行るもの
「二条河原の落書」は、鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まり、無茶苦茶になった世相を風刺した落書じゃ。建武元年(1334)8月頃、建武政権の政庁があった二条富小路近くの二条河原に掲げられたとされ、写本が現代にも伝わっている。 作者は不詳で、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、あるいは京童とされているが、なかなかの名文であることから、漢詩や和歌に精通したそれなりの人物によるもののようにも思われる。 今回は、この「二条河原の落書」をわしなりに超訳してみたいと思うぞ。
鎌倉陥落。北条高時の遺児はどうなったのか?〜五大院宗繁に裏切られた兄・邦時、諏訪に逃れた弟・時行
これはわしの遺児・万寿丸こと邦時、そして亀寿丸こと時行の物語じゃ。 鎌倉幕府が滅びたのは元弘3/正慶2年(1333)5月22日。その直前、新田義貞が鎌倉に攻め入る前に、わしは二人の息子を逃そうとしたんじゃが…。 先日始まったアニメ「逃げ上手の若君」でもこの辺りのことが描かれていたが、今回は、鎌倉炎上後の邦時時行について「太平記」の記述をもとに紹介するぞ。 北条邦時と時行
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源頼朝公は相模川に橋供養に出向いた帰路、落馬がもとで体調を崩し、亡くなった。ただ、その死については、さまざまな憶測があり、暗殺説すらある。はたして頼朝公の死因は何であったのか。
北越戊辰戦争で、長岡城を奪還した河井継之助が被弾した場所はいったいどこなのか。わし、前々から気になっておったのじゃが、どうやらそれらしい場所が特定されていると聞いたので、先般、新潟にいった時に立ち寄ってみた。今回はその話を聞いておくれ。 河井継之助、被弾の地(新潟県長岡市新町2丁目)
「加茂軍議」とは、越後方面の戊辰戦争を大きく左右した重要な軍事会議じゃ。長岡藩軍事総督・河井継之助のリーダーシップや戦略的な決断が、歴史に与えた影響などを紹介したいと思う。過日、新潟に遠征し加茂を旅した備忘録も含めて紹介するぞ。 青海神社(新潟県加茂市)
後鳥羽上皇 承久の乱で隠岐に流された後鳥羽院。じつはわし、過日、隠岐に行ってきたので、今回はその時の雑感を交えながら、承久の乱のあとの後鳥羽院の隠岐での生活、その後に起きた怨霊騒動について解説するぞ。
崇徳天皇を祀る御廟 菅原道真、平将門と並ぶ日本3大怨霊といわれ、その中でも最強とされている崇徳天皇(上皇)。その崇徳天皇を祀る御廟が、祇園のど真ん中、東山通から一筋西側の万寿小路に面した、ちょうど祇園歌舞錬場の裏側あたりにひっそりと建っておる。 この御廟は、崇徳院の寵愛を受けた阿波内侍が上皇の遺髪を請い受け、亡き上皇の霊をお慰めするために建立したもらしい。なんだか、ここだけ異空間のように感じるのう。 ということで、今回は崇徳院についてじゃよ。
とつぜんじゃが、みなは『未来記』という書物について聞いたことはあるか? あの聖徳太子が書いたとされる予言の書じゃ。中世の文献には、この『未来記』の名がたびたび登場してくるんじゃが、今日はこの『未来記』について書いてみたいと思うぞ。
護良親王(大塔宮) 大塔宮こと護良親王について話してみたい。わしは鎌倉幕府を滅ぼした殊勲者、MVPは護良親王じゃと思っておるんじゃが、後醍醐天皇の血を引くだけに強烈な個性の皇子である。たしか大河ドラマ「太平記」では堤大二郎さんが演じておられたな。 護良親王の出自 護良親王こそ鎌倉倒幕のMVP? 護良親王と足利尊氏の対立 護良親王、壮絶な最期 護良親王にまつわる数々の伝承 ひなづる伝説 戸塚区柏尾町の「首洗いの井戸」 妙法寺中興の祖・日叡は大塔宮のご落胤? じつは淵辺義博とともに奥州に逃れた! 宮様らしからぬ気骨の人・護良親王
市河助房(「逃げ上手の若君」より) さて、今回は信濃国の武将・市河房助についてじゃ。アニメ「逃げ上手の若君」では、あの「キター!」という織田裕二ネタで著名な山本高広さんが声をつとめるようじゃな。山本高広さんって、声優だったのか? それはともかく、小笠原貞宗とともに時行の前に立ちはだかる市河房助について紹介しておくぞ。 市河氏の出自 市河助房と中先代の乱 市河一族のその後
後醍醐天皇上陸地跡(島根県隠岐郡知夫村仁夫) 後醍醐天皇が一時配流となった隠岐。ところで、後醍醐天皇の行在所は隠岐のどこにあったのじゃろうか。最初に上陸したのは島前の知夫里島(知夫村仁夫)であったようじゃが、その後の1年半をどこでどう過ごしていたのか。地元では島後の国分寺と島前の黒木御所の2箇所が行在所の候補となっておる。わしも現地に行ってみたことがあるので、この論争について整理し、最後に私見を述べてみたいと思う。 隠岐ってどんなところ? 後醍醐天皇行在所としての伝承が伝わる黒木御所 「太平記」に記された黒木御所での流人生活 明治後、文献を根拠に提起された「国分寺」説 「黒木御所」説と「国分寺…
さてさて、今回は後醍醐天皇の隠岐脱出についてお届するぞ。どこまで真実かはわからんがその経緯は「太平記」にも詳しく記されておるので、まずはそれをベースに紹介したい。 後醍醐天皇 後醍醐天皇、隠岐へ配流 用意周到に準備された脱出計画 夜陰に紛れて脱出作戦を決行 間一髪!隠岐判官の追っ手を振り切り名和湊へ上陸 まとめ:隠岐脱出のその後 後醍醐天皇、隠岐へ配流 後醍醐天皇の隠岐流しのエピソードをざっくり語るとしようかのう。密かに鎌倉幕府をぶっ潰そうと企んでいた後醍醐帝じゃが、元弘元年(1331年)にその計画が側近の吉田定房にばれてしまう。ヤバいのう、と感じた後醍醐帝は、三種の神器を持ってこっそり京都を…
西園寺公宗(大河ドラマ「太平記」) わし高時は後醍醐天皇を隠岐に流したが、さすがに弑し奉るまではしなかった。その中途半端さが鎌倉幕府滅亡に繋がったのじゃが、それでも帝を手にかけるなど、さすがに恐れ多くてできるわけがない。じゃが、それをやろうとしたのが西園寺公宗とわが弟・北条泰家(時興)じゃ。けっきょくこの陰謀は失敗に終わるが、今回は2人が計画した後醍醐天皇暗殺未遂事件について紹介する。 すこぶる評判が悪かった建武の新政 西園寺公宗はなぜ、後醍醐天皇暗殺を企てたのか 後醍醐天皇暗殺計画の密議 弟の密告により暗殺失敗 後醍醐天皇暗殺未遂事件の余波
「二条河原の落書」は、鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まり、無茶苦茶になった世相を風刺した落書じゃ。建武元年(1334)8月頃、建武政権の政庁があった二条富小路近くの二条河原に掲げられたとされ、写本が現代にも伝わっている。 作者は不詳で、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、あるいは京童とされているが、なかなかの名文であることから、漢詩や和歌に精通したそれなりの人物によるもののようにも思われる。 今回は、この「二条河原の落書」をわしなりに超訳してみたいと思うぞ。
これはわしの遺児・万寿丸こと邦時、そして亀寿丸こと時行の物語じゃ。 鎌倉幕府が滅びたのは元弘3/正慶2年(1333)5月22日。その直前、新田義貞が鎌倉に攻め入る前に、わしは二人の息子を逃そうとしたんじゃが…。 先日始まったアニメ「逃げ上手の若君」でもこの辺りのことが描かれていたが、今回は、鎌倉炎上後の邦時時行について「太平記」の記述をもとに紹介するぞ。 北条邦時と時行
長徳2年(996)1月16日、藤原伊周、隆家兄弟が花山法皇に矢を射かける事件が起きた。花山院闘乱事件じゃ。これにより中関白家の伊周と隆家は失脚したのじゃが(長徳の変)、今回はこの事件について詳しくみていこう。 花山天皇
今回は天下のさがなもの・藤原隆家についてじゃ。あの藤原道長も一目置いた中関白家の荒くれ者で、刀伊の入寇を撃退したことでも有名じゃ。大河ドラマ「光る君へ」では、竜星涼さんが演じるとのことで話題じゃな。 藤原隆家
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発した。ということで、今年はじめての更新は、鳥羽伏見の戦いについて書こうと思う。 鳥羽伏見の戦い 鳥羽伏見の戦いとは 圧倒的に優勢だったはずの幕府軍 そもそも徳川慶喜は戦うつもりはなかった 慶喜は会津、桑名を抑えられず 薩摩藩邸焼き討ち事件 敗因は戦略戦術の不在と現場指揮官の能力不足 鳥羽伏見の戦いとは まずは鳥羽伏見の戦いのあらましをざっくり。慶応4年(1868)1月3日、大阪から入京をしようとした旧幕府軍と新政府軍(というか薩長両藩)が鳥羽と伏見で衝突、戦端が開かれた。 両軍の兵力は、新政府軍5,000人に対して旧幕府軍は15,000人。兵力…
令和6年、2024年は干支の組み合わせでいうと「甲辰(きのえたつ)」。ということで、辰年生まれの歴史人物、有名人を調べてみたぞ。
今年の大河ドラマ「どうする家康」。「松本潤の演技が軽すぎる」とか「史実とかけ離れている」「若者ウケを狙いすぎ」「CGがしょぼい」だの散々いわれ、視聴率も伸び悩んだようじゃが、わしは1年間、楽しめたけどな。総集編もしっかりみたので、とりあえずわしの感想をまとめておくぞ。 徳川家康(松本潤)
三浦半島一帯を治めた三浦党・津久井氏。横須賀の東光寺には津久井次郎義行公の碑と一族の五輪塔がある。 東光寺(神奈川県横須賀市)
「逃げ上手の若君」がアニメ化され、わが息子の北条時行への注目がますます高まっておるようなので、時行についてあらためて書いてみたいと思う。鎌倉幕府が滅亡した折、諏訪盛高に守られて信州へと逃れた亀寿丸こと北条時行。その5年後、中先代の乱決起し、一時は鎌倉の奪還に成功する。じゃが、あっさりと足利尊氏に鎮圧され、再び敗走する。
長徳2年(996)1月16日、藤原伊周、隆家兄弟が花山法皇に矢を射かける事件が起きた。花山院闘乱事件じゃ。これにより中関白家の伊周と隆家は失脚したのじゃが(長徳の変)、今回はこの事件について詳しくみていこう。 花山天皇
今回は天下のさがなもの・藤原隆家についてじゃ。あの藤原道長も一目置いた中関白家の荒くれ者で、刀伊の入寇を撃退したことでも有名じゃ。大河ドラマ「光る君へ」では、竜星涼さんが演じるとのことで話題じゃな。 藤原隆家
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発した。ということで、今年はじめての更新は、鳥羽伏見の戦いについて書こうと思う。 鳥羽伏見の戦い 鳥羽伏見の戦いとは 圧倒的に優勢だったはずの幕府軍 そもそも徳川慶喜は戦うつもりはなかった 慶喜は会津、桑名を抑えられず 薩摩藩邸焼き討ち事件 敗因は戦略戦術の不在と現場指揮官の能力不足 鳥羽伏見の戦いとは まずは鳥羽伏見の戦いのあらましをざっくり。慶応4年(1868)1月3日、大阪から入京をしようとした旧幕府軍と新政府軍(というか薩長両藩)が鳥羽と伏見で衝突、戦端が開かれた。 両軍の兵力は、新政府軍5,000人に対して旧幕府軍は15,000人。兵力…
令和6年、2024年は干支の組み合わせでいうと「甲辰(きのえたつ)」。ということで、辰年生まれの歴史人物、有名人を調べてみたぞ。
今年の大河ドラマ「どうする家康」。「松本潤の演技が軽すぎる」とか「史実とかけ離れている」「若者ウケを狙いすぎ」「CGがしょぼい」だの散々いわれ、視聴率も伸び悩んだようじゃが、わしは1年間、楽しめたけどな。総集編もしっかりみたので、とりあえずわしの感想をまとめておくぞ。 徳川家康(松本潤)