chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
北条高時
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2023/02/12

arrow_drop_down
  • 市河助房〜「逃げ若」にも登場、時行に立ちはだかる信濃武将

    市河助房(「逃げ上手の若君」より) さて、今回は信濃国の武将・市河房助についてじゃ。アニメ「逃げ上手の若君」では、あの「キター!」という織田裕二ネタで著名な山本高広さんが声をつとめるようじゃな。山本高広さんって、声優だったのか? それはともかく、小笠原貞宗とともに時行の前に立ちはだかる市河房助について紹介しておくぞ。 市河氏の出自 市河助房と中先代の乱 市河一族のその後

  • 隠岐遠流、後醍醐天皇はどこでどんな生活をしていたのか〜島前の黒木御所と島後の国分寺

    後醍醐天皇上陸地跡(島根県隠岐郡知夫村仁夫) 後醍醐天皇が一時配流となった隠岐。ところで、後醍醐天皇の行在所は隠岐のどこにあったのじゃろうか。最初に上陸したのは島前の知夫里島(知夫村仁夫)であったようじゃが、その後の1年半をどこでどう過ごしていたのか。地元では島後の国分寺と島前の黒木御所の2箇所が行在所の候補となっておる。わしも現地に行ってみたことがあるので、この論争について整理し、最後に私見を述べてみたいと思う。 隠岐ってどんなところ? 後醍醐天皇行在所としての伝承が伝わる黒木御所 「太平記」に記された黒木御所での流人生活 明治後、文献を根拠に提起された「国分寺」説 「黒木御所」説と「国分寺…

  • 後醍醐天皇、隠岐脱出大作戦の真相。どうやって島を抜け出したのか?

    さてさて、今回は後醍醐天皇の隠岐脱出についてお届するぞ。どこまで真実かはわからんがその経緯は「太平記」にも詳しく記されておるので、まずはそれをベースに紹介したい。 後醍醐天皇 後醍醐天皇、隠岐へ配流 用意周到に準備された脱出計画 夜陰に紛れて脱出作戦を決行 間一髪!隠岐判官の追っ手を振り切り名和湊へ上陸 まとめ:隠岐脱出のその後 後醍醐天皇、隠岐へ配流 後醍醐天皇の隠岐流しのエピソードをざっくり語るとしようかのう。密かに鎌倉幕府をぶっ潰そうと企んでいた後醍醐帝じゃが、元弘元年(1331年)にその計画が側近の吉田定房にばれてしまう。ヤバいのう、と感じた後醍醐帝は、三種の神器を持ってこっそり京都を…

  • 後醍醐天皇暗殺未遂事件。西園寺公宗と北条泰家による大胆な陰謀

    西園寺公宗(大河ドラマ「太平記」) わし高時は後醍醐天皇を隠岐に流したが、さすがに弑し奉るまではしなかった。その中途半端さが鎌倉幕府滅亡に繋がったのじゃが、それでも帝を手にかけるなど、さすがに恐れ多くてできるわけがない。じゃが、それをやろうとしたのが西園寺公宗とわが弟・北条泰家(時興)じゃ。けっきょくこの陰謀は失敗に終わるが、今回は2人が計画した後醍醐天皇暗殺未遂事件について紹介する。 すこぶる評判が悪かった建武の新政 西園寺公宗はなぜ、後醍醐天皇暗殺を企てたのか 後醍醐天皇暗殺計画の密議 弟の密告により暗殺失敗 後醍醐天皇暗殺未遂事件の余波

  • 「二条河原の落書」を超訳してみた! 建武年間、この頃都に流行るもの

    「二条河原の落書」は、鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まり、無茶苦茶になった世相を風刺した落書じゃ。建武元年(1334)8月頃、建武政権の政庁があった二条富小路近くの二条河原に掲げられたとされ、写本が現代にも伝わっている。 作者は不詳で、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、あるいは京童とされているが、なかなかの名文であることから、漢詩や和歌に精通したそれなりの人物によるもののようにも思われる。 今回は、この「二条河原の落書」をわしなりに超訳してみたいと思うぞ。

  • 鎌倉陥落。北条高時の遺児はどうなったのか?〜五大院宗繁に裏切られた兄・邦時、諏訪に逃れた弟・時行

    これはわしの遺児・万寿丸こと邦時、そして亀寿丸こと時行の物語じゃ。 鎌倉幕府が滅びたのは元弘3/正慶2年(1333)5月22日。その直前、新田義貞が鎌倉に攻め入る前に、わしは二人の息子を逃そうとしたんじゃが…。 先日始まったアニメ「逃げ上手の若君」でもこの辺りのことが描かれていたが、今回は、鎌倉炎上後の邦時時行について「太平記」の記述をもとに紹介するぞ。 北条邦時と時行

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、北条高時さんをフォローしませんか?

ハンドル名
北条高時さん
ブログタイトル
北条高時.com
フォロー
北条高時.com

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用