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古代東海道更級日記の道 https://hen-un.hatenablog.com/

1020年菅原孝標女が上総(千葉県市原市)から京へ向かった旅をたどります。「点」ではなく全行程を「線」で進みたいと思います。しかし江戸時代の東海道と違いルートは不明で半ば考古学の範疇。参考となる古墳、遺跡等調査探求の旅となりつつあります。

さすらいの古墳人
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2023/01/24

  • 冷泉家当主夫人貴美子氏と美しい字

    冷泉家800年の「守る力」(集英社新書)を手にした。 著者は冷泉家24代為任の長女冷泉貴美子氏(1947年生れ)。夫は婿として迎えた25代当主為人。 わかりやすく構えることなく中流公家の歴史を教えてくれる良書と思う。 「(俊成、定家)以降、冷泉家はひとりも天才を生まなかった。定家を超える人は誰もいなかった。 これが、わたしは今日まで25代も冷泉家が続いてきた大きな理由だと捉えています。」の一節は深い。 「テレビや映画の時代物のドラマでは、よく夫婦愛や家族愛が描かれていますが、公家や武家にとってはほとんどありえない話 家族ではなく一族郎党という意味でのファミリーというイメージはあったかもしれない…

  • 紫式部の娘

    平安文学の権威、福家俊幸教授の本「紫式部・女房たちの宮廷生活(2003年平凡社新書)」に目を通した。 平易な読みやすい文章であるが小説家ではなく大学の先生らしく、深くかつ実証を忘れない態度を感じる。題名はちょっとイマイチの感じがするが。 本質から外れるが気が付いた雑感的なことを少しばかり。 15年前の2008年は源氏物語千年紀の年で世の中の源氏物語ブームは大変なものであったらしい。そして来年2004年は紛れもなく再度、源氏物語のブームが来るだろうと予言している。理由はNHK大河ドラマ「光る君枝へ」(大石静脚本)が放映されるからと述べる(あとがき)。 そのとおりとなっている。源氏物語、いやもっと…

  • 雑誌「なごみ」と定家、冷泉家

    当方、茶道には全く関心がなく、今後も同様であるが、ある日何気なく雑誌の陳列棚を見ていたら表紙に 特集 定家様【ていかよう】、その書と力 と大きく掲げるなごみ【2月号】という「茶のある暮らし」を提唱する雑誌があった。 思わず手に取ってみるとそれが極めて秀逸 定家の業績、生きてきた時代、交流をわかりやすくきれいにまとめてくれている。 それに定家の公統ともいえる冷泉家のことも4ページにわたって紹介している。 現当主の冷泉為人【入り婿】・貴美子夫妻には子供がなく後継者には野村渚さんが決まったとは聞いていたが彼女についても詳しく紹介している。 今800坪の敷地に新たなお蔵を建てつつあるが国の補助金をもら…

  • 更級日記東京の道⓰ 中原街道・洗足坂上から田園調布本町、多摩川へ ― 完 —

    洗足坂上で中原街道に入り、左折してこのまま道なりに進めば多摩川・丸子橋に至り、「更級日記―東京の道」は終了する。 しかし,どこか歴史性、風情に欠け、また、丸子橋が丸子の渡し位置より北にずれるのが気になる。 中原街道は田園調布警察署前交差点Aで環八通りに交錯するが地図を見るとその脇に細めの多摩川につながる道があることに気づく。この道を歩いてみることにした。 一方通行!(途中まで)を入って直ぐ左手Bに大田区の嶺町特別出張所があるが「嶺」という文字、海抜20mの表示が気になる。 やや下りの道はあの田園調布2~3丁目の豪華さを競うような邸宅街とは異なって落ち着く(田園調布本町)。 さくら坂上信号の先、…

  • 更級日記東京の道⑮ 大井町駅から洗足へ(その2)

    中六桜広場にある道標から300mばかり進んで荏原駅入り口交差点の5差路に出たがわかりにくい。 いつのころか道路拡幅工事があったのであろう。一方通行ではなくなる。 . 上の写真だと左の上に延びる道となる。手前右手は和田眼科。 進むと広い道もここまで。また狭い一方通行の道に入る。 少し先、右手にお風呂屋さん「中延記念湯」。旗の台には近い所にもう一つ「新生湯」もある。今どき珍しい。なんでだろう。 このまま進めば、環七に斜めにぶつかる。(長原駅入り口信号) そして環七の向こうにはつながるようにまっすぐな長原商店街の道が見え、その先で中原街道にぶつかる。 環七に出て来た道を振り返る。 ところで、区境は環…

  • 気になる関連報道

    数年前になるが、四国遍路をした女性が終わった後でも四国という文字を目にすると 我がことのように気にかかると言っていた。 更級日記にかかる道についても全く同様に思う。 最近の記事から。 1 下総の国の国府に関する2023・11.1付読売記事 和洋女子大、千葉商科大、市川市国府台野球場あたりに下総国府国衙があったことははっきりしている。(子供の時からよく行った場所) 今回は野球場2か所を発掘している。 市川考古博物館長は「国庁は野球場より南にあったと推定される。千葉商大と協力して調査し、遺構を見つけたい」と話している。 隣接する郵政省の官舎や女子大では道路遺構も発見されている。千葉商大の協力を願う…

  • 更級日記 東京の道 ⑭ 大井町駅から洗足へ

    JR大井町駅西南域(大井1丁目)から中原街道へ向かうとしてどの道で? 多摩川丸子橋へ向かうのだから斜め左下(西南)に向かうのが合理的。 現状の地図上からはカメラ工場にちなむ光学通りが候補になるが新設の道かと思えるような名称でちょっと?だ。 だが、明治初期の迅速測図を見ると駅そばからほとんど現状と変わりない道として存している。 さらに後述する諸点は十分な補強になると思われ、この道を選択することにした。 右に光学通り入り口が見えている。 逆方向(駅側)から見ると左に入り口 街歩きの良さ。予期せぬ光景 ここら辺はかってのニコンの工場街か。大井はソニー、ニコンというトップ企業が あった町ということにな…

  • 更級日記東京の道⓭ 高輪から大井町駅へ(その3) 居木橋から大井町駅へ

    御殿山の坂を下った居木橋界隈から先、延喜式東海道の大井駅と比定されるJR大井町駅付近へのルートが問題だ。 道路技術者で古代道研究家の武部健一氏は著書で(進路は逆になるが)、「多摩川を渡り、中原街道の中延付近で東に折れ、大井駅で90度左折し、直進する」とする(古代の道(吉川弘文館))。 しかし、線路ばかりで歩く道筋が見えない。居木橋界隈はこう。 川の左岸Aを下って三獄橋で渡るしかないと考え、そうした。 への道が しかしあとで航空写真を見ると御殿山の坂道はDへの道につながっているようにも見えてくる。 明治初期の迅速測図との比較を見るとこうだ。 ☆のところで二股に分かれている。 が、Dの先にはっきり…

  • 更級日記・東京の道⑫ 高輪から大井町駅へ(その2) 御殿山から居木橋へ

    御殿山交番前で八ツ山通を渡るが向こう側に3本の道があって、迷う。 進行左からAとB2本は御成門通り、道灌通りと名がついている。 真正面だし、「お成道」の立て看板もあるしと御成門通りAに入り、そのままミャンマー大使館前まで歩いたが、後で考えると違ったかもしれないと思うに至った。 右端の道Cだと目黒川にかかる居木橋までほぼまっすぐだし、北品川の4丁目と5丁目の境になっているし、一方通行の道だしと。 では古い地図との比較を見て見よう。 交番直前までまっすぐの道はなかった。 どう見ても右の一本Cに限られよう。 このまっすぐな道は途中吉川英治旧居邸もある今の散歩道としても好雰囲気だ。 彫刻の庭園 このま…

  • ⑪ 高輪から大井町駅へ その1 伊皿子交差点、二本榎通、柘榴坂、高輪4丁目

    聖坂から続く道を進み、伊皿子交差点を過ぎて高輪に入いる。 とまもなく右手にこんもりした森を持つ邸宅が見えてきた。 おや、その広大な邸宅前スペースには警官が立っている。なんで? 後でわかった。仙洞御所建設中のため、上皇夫妻が仮住まいしていた高輪皇族邸だった(歩いたのは2022年3月)。 もし、孝標らが千年の未来にタイムマシーンでやってきたら帰路途中で最高位上司とこの地で遭遇していたかも。 尾根道は「二本榎通り」の名称を持ち、周りには多くの寺院、大使館、学校、マンションが並び立つ高級住宅地となっている。 旧宮家邸跡地に立つプリンス系ホテル街の脇(グランドプリンス新高輪)まではほぼ直行し、そこで直角…

  • 更級日記⓾ 赤羽橋交差点から済海寺・亀塚公園、三田台公園へ

    赤羽橋交差点を過ぎると進行右(西)側は東麻布から三田と換わり、すぐに見えてくるのが慶応大校舎だ。 その慶大先で国道1号(桜田通)はほぼ直角に右折するが(三田2丁目)、ここは見送る。 近接する次の信号(三田3丁目)から斜め右に広くはない上り坂に入る。 聖坂という(A)。 道沿いには学校、大使館、多くの寺が見受けられるが、両側が下り坂となるわかりやすい尾根道だ。三田中学校Bは海抜21.7mもある。 ほぼピーク地にある済海寺。 済海寺隣の亀塚公園C(元沼田藩主下屋敷)にある碑はここら辺が更級日記に出てくる竹芝寺伝説の故地と伝える―宮廷でかがり火の番人をしていた衛士が帝の姫君と話をしたことから姫を背負…

  • 更級日記東京の道⑨ 桜田門から芝公園

    道灌は海近くに江戸城を築いた(1457年)。 孝標らの上洛旅はそれより430年以上前。 なおのこと海岸線は近かっただろう。進むにはできるだけ内陸側(西側)を進まねばならない。 桜田門(荏原郡桜田郷)から丘陵裾野を南に進む(現国道1号桜田通り)。 桜田門正面の警視庁他→外務省→財務省→文科省の各ブロックが続くが(千代田区霞が関)、それぞれの間は霞が関坂、潮見坂、三年坂と名前が付くかなりの急坂であることに気づく。 虎ノ門交差点を過ぎ、港区となり進行左側(東)には愛宕山(25.7m)の緑と起伏が見えてくる。 その先は芝公園となるが増上寺南側の芝公園4丁目には芝丸山古墳(5世紀代、全長106mの前方後…

  • 更級日記東京の道⑧ 明治大西側遺跡 、江戸城

    ここで、少しお茶の水界隈に戻る。 東京医科歯科大には貝塚遺跡があり、前回述べたように一ツ橋2丁目には複合遺跡がある。 現明大通りより西に古代の道があったとするなら、そのあたりに何らかの痕跡があってもおかしくない。ないのだろうか。 そう思っていたところ次の書籍で明治大西側遺跡なる文言を見つけた(遺跡地図3)。 日本の古代遺跡 32 東京23区 坂詰秀一 昭和62年 保育社 しかし、他に書いている書物は見当たらない。なぜだろう。 そうだ、せっかく御茶水を歩くのだから本家本元、明大博物館に行って聞いてみようと立ち寄ることにした。 昼だったので担当の古代史学芸員を待つことに。 戻ったので早速聞いてみる…

  • 更級日記東京の道⑦ 皇居 — 平川門から東御苑 —

    高台の平坦地、それでいて水辺からほど近いところには遺跡が多い。 土地について人が求めるところは昔も今も変わらないようだ。 一ツ橋2丁目遺跡から見てかつての日比谷入江の対岸にあたる台地上(北の丸)には国立近 代美術館遺跡があり(下の写真)、皇居内には旧本丸西貝塚遺跡ほかがある。 京へ向かう過程で平川の微高地から麹町台地(まだお城はない)を上がり、現東御苑相当 箇所に入るのは地形的に自然の流れだろう。 平川門を入って直ぐ書陵部に進む手前に梅林坂がありその説明板になんと「この地に最 初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことか ら梅林坂の名がついた」とあった。 太田…

  • 更級日記東京の道⑥ 発掘調査報告書「(東京都千代田区)一ツ橋二丁目遺跡」について

    この報告書は論述内容、図版、写真、まとめの表のほか、紙質・印刷等も含め大変に充実したものであり、一部の人にしか知られていないのはもったいない。 幸い、古書店から原本を取得できたのでごく一部であるが紹介させていただく。 <例言> 旧一ツ橋講堂跡地(千代田区一ツ橋二丁目1番地)に建設される学術総合情報センター建設に伴う事前調査に関する報告書である。 発掘調査についての費用は文部省、整理調査から報告書刊行までの費用負担は学術総合情報センターが負担。 発掘調査は文部省、学術総合情報センター、千代田区教育委員会の三者協定に基づき設立した「遺跡調査会」が、調査実務は「遺跡調査団」が行っている。 発掘調査は…

  • 更級日記東京の道⑤ 神田小川町→神保町→錦町→一ツ橋2丁目遺跡へ

    錦華公園・お茶の水小と明大図書館の間の細い錦華坂Eをまっすぐ南下すると(建物を度外視)、三井住友銀行Cにぶつかる(神田小川町3丁目)。 ここら辺、昔々はどんな道路付だったのか不思議な三角形のゾーンだ。靖国通り甲に向かって立つ銀行Cの東側丙は富士見坂、西側乙は錦華通り。三叉路あるいは4叉差路ということになる。 銀行Cから南の靖国通りを見るとこうなる。 銀行の正面は三省堂(現在工事中)とその前に立つ低層の古書店であり、狭い道を挟んで右(西)に書泉グランデのある一角が続く(神田神保町)。 皇居方面への方角からすると玉英堂書店脇の細い道が直線性に富む。 しかしこの先、行く手はまもなく巨大な神保町三井ビ…

  • 東京の道④ 神田駿河台2丁目から駿河台下へ

    もういちど、神田山の裾野、駿河台下までを見てみよう。 神田山の尾根=標高の高いところをイメージしながら歩くとすると、今現在では254号(春日通)以南のルートはこうなるだろう。 文京区立本郷台中(東側の一方通行)→本郷給水所公苑・水道歴史館(東側の一方通行)→順天堂大と病院としての順天堂医院の間の道路をまたぐ連絡廊下→外堀通り(順天堂大前という信号名が付されている交差点の一つ西側)。 教育施設箇所まで足を延ばすことはないのが一般だろうけど途中の道を含めて落ち着いた静かないい道だ。 神田川を越えるとJR総武・中央線。 その先は日新火災の大きなビル(両脇は東がお茶の水美術学院、西が東京医科歯科大の研…

  • 東京の道③ 本郷通り3丁目から神田方面に

    本郷通に入って皇居方面に向かうとしても順天堂大の先で神田川が掘削されていて、橋もないから直進できない。 川に沿って左折し、東京医科歯科大(お茶の水貝塚の遺跡あり)前の御茶の水橋を渡るしかない。 しかしその道(駿河台下交差点に至る明大通り)は最早尾根道とは言えない。神田山が掘削される前は当然ながら尾根道をまっすぐ南下したはずだ。 神田川の南側には千年前の神田山の連続した地形の残存がみられるはずだ。 御茶ノ水駅交番脇の「かえで通り」に入ればわかりやすい。これは交番前の地図。 かえで通りは昔から美術、音楽関係の店舗・施設があり雰囲気のよい道だ。 後で出てくる公立学校共済組合本部は東京芸大付属高校跡地…

  • 東京の道② 谷中から本郷通りへ

    さて、現日暮里駅付近の坂を上り天王寺付近の豊嶋駅に着いたとして次の大井駅家(現JR大井町駅付近)へ向かうにはどういうルートで? ここに至る直前のルート以上に不詳で研究者も上野公園脇→本郷通り→皇居あたりという程度。武蔵野台地東端といっても谷中→寛永寺→上野公園→不忍池に至る上野台地のラインと中央に藍染川(現在は暗渠)が流れる低湿地の谷を挟んだ西側の本郷台地ラインに区分できる。 上野の台地に遺された唯一の墳丘として、摺鉢山古墳があり、前方後円墳と考えられている。このほか付近に、東京文化会館敷地内には桜雲台古墳、国立博物館内には表慶館古墳、旧都立美術館南正面に蛇塚古墳があったという。 古墳群のほか…

  • 更級日記東京の道 ① 開始の経緯

    今年度第1四半期、たまたま縁あって某紙に「更級日記東京の道」を連載する機会を頂きました。 これまでの当ブログ、更級日記の道「武蔵国」で述べているところと範囲的には重なりますが、再度の実地踏査、新たな資料の取得・閲覧等により考えを修正したり、写真を含めより詳しい記述にしたものなどがあります。そこで従前のカテゴリーはそのままに新カテゴリーとして「更級日記東京の道」を開始することにしました。 述べるのは全部と言うわけではありませんが(*)、参考になれば幸いに思います。 *江戸川を渡河して千葉県から東京都に入都→新中川(中川放水路)→中川→荒川(放水路)→墨田川→谷中→本郷台地(千駄木)と進んでいきま…

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