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古代東海道更級日記の道 https://hen-un.hatenablog.com/

1020年菅原孝標女が上総(千葉県市原市)から京へ向かった旅をたどります。「点」ではなく全行程を「線」で進みたいと思います。しかし江戸時代の東海道と違いルートは不明で半ば考古学の範疇。参考となる古墳、遺跡等調査探求の旅となりつつあります。

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2023/01/24

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  • 雑誌「なごみ」と定家、冷泉家

    当方、茶道には全く関心がなく、今後も同様であるが、ある日何気なく雑誌の陳列棚を見ていたら表紙に 特集 定家様【ていかよう】、その書と力 と大きく掲げるなごみ【2月号】という「茶のある暮らし」を提唱する雑誌があった。 思わず手に取ってみるとそれが極めて秀逸 定家の業績、生きてきた時代、交流をわかりやすくきれいにまとめてくれている。 それに定家の公統ともいえる冷泉家のことも4ページにわたって紹介している。 現当主の冷泉為人【入り婿】・貴美子夫妻には子供がなく後継者には野村渚さんが決まったとは聞いていたが彼女についても詳しく紹介している。 今800坪の敷地に新たなお蔵を建てつつあるが国の補助金をもら…

  • 更級日記東京の道⓰ 中原街道・洗足坂上から田園調布本町、多摩川へ ― 完 —

    洗足坂上で中原街道に入り、左折してこのまま道なりに進めば多摩川・丸子橋に至り、「更級日記―東京の道」は終了する。 しかし,どこか歴史性、風情に欠け、また、丸子橋が丸子の渡し位置より北にずれるのが気になる。 中原街道は田園調布警察署前交差点Aで環八通りに交錯するが地図を見るとその脇に細めの多摩川につながる道があることに気づく。この道を歩いてみることにした。 一方通行!(途中まで)を入って直ぐ左手Bに大田区の嶺町特別出張所があるが「嶺」という文字、海抜20mの表示が気になる。 やや下りの道はあの田園調布2~3丁目の豪華さを競うような邸宅街とは異なって落ち着く(田園調布本町)。 さくら坂上信号の先、…

  • 更級日記東京の道⑮ 大井町駅から洗足へ(その2)

    中六桜広場にある道標から300mばかり進んで荏原駅入り口交差点の5差路に出たがわかりにくい。 いつのころか道路拡幅工事があったのであろう。一方通行ではなくなる。 . 上の写真だと左の上に延びる道となる。手前右手は和田眼科。 進むと広い道もここまで。また狭い一方通行の道に入る。 少し先、右手にお風呂屋さん「中延記念湯」。旗の台には近い所にもう一つ「新生湯」もある。今どき珍しい。なんでだろう。 このまま進めば、環七に斜めにぶつかる。(長原駅入り口信号) そして環七の向こうにはつながるようにまっすぐな長原商店街の道が見え、その先で中原街道にぶつかる。 環七に出て来た道を振り返る。 ところで、区境は環…

  • 気になる関連報道

    数年前になるが、四国遍路をした女性が終わった後でも四国という文字を目にすると 我がことのように気にかかると言っていた。 更級日記にかかる道についても全く同様に思う。 最近の記事から。 1 下総の国の国府に関する2023・11.1付読売記事 和洋女子大、千葉商科大、市川市国府台野球場あたりに下総国府国衙があったことははっきりしている。(子供の時からよく行った場所) 今回は野球場2か所を発掘している。 市川考古博物館長は「国庁は野球場より南にあったと推定される。千葉商大と協力して調査し、遺構を見つけたい」と話している。 隣接する郵政省の官舎や女子大では道路遺構も発見されている。千葉商大の協力を願う…

  • 更級日記 東京の道 ⑭ 大井町駅から洗足へ

    JR大井町駅西南域(大井1丁目)から中原街道へ向かうとしてどの道で? 多摩川丸子橋へ向かうのだから斜め左下(西南)に向かうのが合理的。 現状の地図上からはカメラ工場にちなむ光学通りが候補になるが新設の道かと思えるような名称でちょっと?だ。 だが、明治初期の迅速測図を見ると駅そばからほとんど現状と変わりない道として存している。 さらに後述する諸点は十分な補強になると思われ、この道を選択することにした。 右に光学通り入り口が見えている。 逆方向(駅側)から見ると左に入り口 街歩きの良さ。予期せぬ光景 ここら辺はかってのニコンの工場街か。大井はソニー、ニコンというトップ企業が あった町ということにな…

  • 更級日記東京の道⓭ 高輪から大井町駅へ(その3) 居木橋から大井町駅へ

    御殿山の坂を下った居木橋界隈から先、延喜式東海道の大井駅と比定されるJR大井町駅付近へのルートが問題だ。 道路技術者で古代道研究家の武部健一氏は著書で(進路は逆になるが)、「多摩川を渡り、中原街道の中延付近で東に折れ、大井駅で90度左折し、直進する」とする(古代の道(吉川弘文館))。 しかし、線路ばかりで歩く道筋が見えない。居木橋界隈はこう。 川の左岸Aを下って三獄橋で渡るしかないと考え、そうした。 への道が しかしあとで航空写真を見ると御殿山の坂道はDへの道につながっているようにも見えてくる。 明治初期の迅速測図との比較を見るとこうだ。 ☆のところで二股に分かれている。 が、Dの先にはっきり…

  • 更級日記・東京の道⑫ 高輪から大井町駅へ(その2) 御殿山から居木橋へ

    御殿山交番前で八ツ山通を渡るが向こう側に3本の道があって、迷う。 進行左からAとB2本は御成門通り、道灌通りと名がついている。 真正面だし、「お成道」の立て看板もあるしと御成門通りAに入り、そのままミャンマー大使館前まで歩いたが、後で考えると違ったかもしれないと思うに至った。 右端の道Cだと目黒川にかかる居木橋までほぼまっすぐだし、北品川の4丁目と5丁目の境になっているし、一方通行の道だしと。 では古い地図との比較を見て見よう。 交番直前までまっすぐの道はなかった。 どう見ても右の一本Cに限られよう。 このまっすぐな道は途中吉川英治旧居邸もある今の散歩道としても好雰囲気だ。 彫刻の庭園 このま…

  • ⑪ 高輪から大井町駅へ その1 伊皿子交差点、二本榎通、柘榴坂、高輪4丁目

    聖坂から続く道を進み、伊皿子交差点を過ぎて高輪に入いる。 とまもなく右手にこんもりした森を持つ邸宅が見えてきた。 おや、その広大な邸宅前スペースには警官が立っている。なんで? 後でわかった。仙洞御所建設中のため、上皇夫妻が仮住まいしていた高輪皇族邸だった(歩いたのは2022年3月)。 もし、孝標らが千年の未来にタイムマシーンでやってきたら帰路途中で最高位上司とこの地で遭遇していたかも。 尾根道は「二本榎通り」の名称を持ち、周りには多くの寺院、大使館、学校、マンションが並び立つ高級住宅地となっている。 旧宮家邸跡地に立つプリンス系ホテル街の脇(グランドプリンス新高輪)まではほぼ直行し、そこで直角…

  • 更級日記⓾ 赤羽橋交差点から済海寺・亀塚公園、三田台公園へ

    赤羽橋交差点を過ぎると進行右(西)側は東麻布から三田と換わり、すぐに見えてくるのが慶応大校舎だ。 その慶大先で国道1号(桜田通)はほぼ直角に右折するが(三田2丁目)、ここは見送る。 近接する次の信号(三田3丁目)から斜め右に広くはない上り坂に入る。 聖坂という(A)。 道沿いには学校、大使館、多くの寺が見受けられるが、両側が下り坂となるわかりやすい尾根道だ。三田中学校Bは海抜21.7mもある。 ほぼピーク地にある済海寺。 済海寺隣の亀塚公園C(元沼田藩主下屋敷)にある碑はここら辺が更級日記に出てくる竹芝寺伝説の故地と伝える―宮廷でかがり火の番人をしていた衛士が帝の姫君と話をしたことから姫を背負…

  • 更級日記東京の道⑨ 桜田門から芝公園

    道灌は海近くに江戸城を築いた(1457年)。 孝標らの上洛旅はそれより430年以上前。 なおのこと海岸線は近かっただろう。進むにはできるだけ内陸側(西側)を進まねばならない。 桜田門(荏原郡桜田郷)から丘陵裾野を南に進む(現国道1号桜田通り)。 桜田門正面の警視庁他→外務省→財務省→文科省の各ブロックが続くが(千代田区霞が関)、それぞれの間は霞が関坂、潮見坂、三年坂と名前が付くかなりの急坂であることに気づく。 虎ノ門交差点を過ぎ、港区となり進行左側(東)には愛宕山(25.7m)の緑と起伏が見えてくる。 その先は芝公園となるが増上寺南側の芝公園4丁目には芝丸山古墳(5世紀代、全長106mの前方後…

  • 更級日記東京の道⑧ 明治大西側遺跡 、江戸城

    ここで、少しお茶の水界隈に戻る。 東京医科歯科大には貝塚遺跡があり、前回述べたように一ツ橋2丁目には複合遺跡がある。 現明大通りより西に古代の道があったとするなら、そのあたりに何らかの痕跡があってもおかしくない。ないのだろうか。 そう思っていたところ次の書籍で明治大西側遺跡なる文言を見つけた(遺跡地図3)。 日本の古代遺跡 32 東京23区 坂詰秀一 昭和62年 保育社 しかし、他に書いている書物は見当たらない。なぜだろう。 そうだ、せっかく御茶水を歩くのだから本家本元、明大博物館に行って聞いてみようと立ち寄ることにした。 昼だったので担当の古代史学芸員を待つことに。 戻ったので早速聞いてみる…

  • 更級日記東京の道⑦ 皇居 — 平川門から東御苑 —

    高台の平坦地、それでいて水辺からほど近いところには遺跡が多い。 土地について人が求めるところは昔も今も変わらないようだ。 一ツ橋2丁目遺跡から見てかつての日比谷入江の対岸にあたる台地上(北の丸)には国立近 代美術館遺跡があり(下の写真)、皇居内には旧本丸西貝塚遺跡ほかがある。 京へ向かう過程で平川の微高地から麹町台地(まだお城はない)を上がり、現東御苑相当 箇所に入るのは地形的に自然の流れだろう。 平川門を入って直ぐ書陵部に進む手前に梅林坂がありその説明板になんと「この地に最 初に城を築いた太田道灌が、このあたりに天神社をまつり、数百株の梅を植えたことか ら梅林坂の名がついた」とあった。 太田…

  • 更級日記東京の道⑥ 発掘調査報告書「(東京都千代田区)一ツ橋二丁目遺跡」について

    この報告書は論述内容、図版、写真、まとめの表のほか、紙質・印刷等も含め大変に充実したものであり、一部の人にしか知られていないのはもったいない。 幸い、古書店から原本を取得できたのでごく一部であるが紹介させていただく。 <例言> 旧一ツ橋講堂跡地(千代田区一ツ橋二丁目1番地)に建設される学術総合情報センター建設に伴う事前調査に関する報告書である。 発掘調査についての費用は文部省、整理調査から報告書刊行までの費用負担は学術総合情報センターが負担。 発掘調査は文部省、学術総合情報センター、千代田区教育委員会の三者協定に基づき設立した「遺跡調査会」が、調査実務は「遺跡調査団」が行っている。 発掘調査は…

  • 更級日記東京の道⑤ 神田小川町→神保町→錦町→一ツ橋2丁目遺跡へ

    錦華公園・お茶の水小と明大図書館の間の細い錦華坂Eをまっすぐ南下すると(建物を度外視)、三井住友銀行Cにぶつかる(神田小川町3丁目)。 ここら辺、昔々はどんな道路付だったのか不思議な三角形のゾーンだ。靖国通り甲に向かって立つ銀行Cの東側丙は富士見坂、西側乙は錦華通り。三叉路あるいは4叉差路ということになる。 銀行Cから南の靖国通りを見るとこうなる。 銀行の正面は三省堂(現在工事中)とその前に立つ低層の古書店であり、狭い道を挟んで右(西)に書泉グランデのある一角が続く(神田神保町)。 皇居方面への方角からすると玉英堂書店脇の細い道が直線性に富む。 しかしこの先、行く手はまもなく巨大な神保町三井ビ…

  • 東京の道④ 神田駿河台2丁目から駿河台下へ

    もういちど、神田山の裾野、駿河台下までを見てみよう。 神田山の尾根=標高の高いところをイメージしながら歩くとすると、今現在では254号(春日通)以南のルートはこうなるだろう。 文京区立本郷台中(東側の一方通行)→本郷給水所公苑・水道歴史館(東側の一方通行)→順天堂大と病院としての順天堂医院の間の道路をまたぐ連絡廊下→外堀通り(順天堂大前という信号名が付されている交差点の一つ西側)。 教育施設箇所まで足を延ばすことはないのが一般だろうけど途中の道を含めて落ち着いた静かないい道だ。 神田川を越えるとJR総武・中央線。 その先は日新火災の大きなビル(両脇は東がお茶の水美術学院、西が東京医科歯科大の研…

  • 東京の道③ 本郷通り3丁目から神田方面に

    本郷通に入って皇居方面に向かうとしても順天堂大の先で神田川が掘削されていて、橋もないから直進できない。 川に沿って左折し、東京医科歯科大(お茶の水貝塚の遺跡あり)前の御茶の水橋を渡るしかない。 しかしその道(駿河台下交差点に至る明大通り)は最早尾根道とは言えない。神田山が掘削される前は当然ながら尾根道をまっすぐ南下したはずだ。 神田川の南側には千年前の神田山の連続した地形の残存がみられるはずだ。 御茶ノ水駅交番脇の「かえで通り」に入ればわかりやすい。これは交番前の地図。 かえで通りは昔から美術、音楽関係の店舗・施設があり雰囲気のよい道だ。 後で出てくる公立学校共済組合本部は東京芸大付属高校跡地…

  • 東京の道② 谷中から本郷通りへ

    さて、現日暮里駅付近の坂を上り天王寺付近の豊嶋駅に着いたとして次の大井駅家(現JR大井町駅付近)へ向かうにはどういうルートで? ここに至る直前のルート以上に不詳で研究者も上野公園脇→本郷通り→皇居あたりという程度。武蔵野台地東端といっても谷中→寛永寺→上野公園→不忍池に至る上野台地のラインと中央に藍染川(現在は暗渠)が流れる低湿地の谷を挟んだ西側の本郷台地ラインに区分できる。 上野の台地に遺された唯一の墳丘として、摺鉢山古墳があり、前方後円墳と考えられている。このほか付近に、東京文化会館敷地内には桜雲台古墳、国立博物館内には表慶館古墳、旧都立美術館南正面に蛇塚古墳があったという。 古墳群のほか…

  • 更級日記東京の道 ① 開始の経緯

    今年度第1四半期、たまたま縁あって某紙に「更級日記東京の道」を連載する機会を頂きました。 これまでの当ブログ、更級日記の道「武蔵国」で述べているところと範囲的には重なりますが、再度の実地踏査、新たな資料の取得・閲覧等により考えを修正したり、写真を含めより詳しい記述にしたものなどがあります。そこで従前のカテゴリーはそのままに新カテゴリーとして「更級日記東京の道」を開始することにしました。 述べるのは全部と言うわけではありませんが(*)、参考になれば幸いに思います。 *江戸川を渡河して千葉県から東京都に入都→新中川(中川放水路)→中川→荒川(放水路)→墨田川→谷中→本郷台地(千駄木)と進んでいきま…

  • 邪馬台国連合VS狗奴国(くぬこく、くなこく)連合

    白石太一郎氏の「東国の古墳と古代史」を手にした。 (初版 2007年 学生社) 読みやすく、率直な言い方をしてくれているいい本だと思う。参考になる箇所が多い。 1 先ずは、本文内容ではないが序文の箇所。 国立歴史民俗博物館の創設にあたっての井上光貞、岡田茂弘氏からお誘いを受けたときの心境吐露だ。 「古墳時代の政治・文化や古墳造営の中心地と目されている関西のフィールドを離れて、関東に研究拠点を移すことには大きなためらいがあったこともまた事実である。」 かっての、いや、今でも西日本研究者の根底的共通認識かもしれない。氏は東国に来て研究を続けそれを踏まえての優れた研究発表を行っているがそういうことも…

  • リアルな体験とネット・文献での知見の差異 ③ 五反田

    「世界は五反田から始まった」(ゲンロン)との地名入り題名が良かったのかずいぶん話題となった。 大佛次郎賞という朝日新聞系列の受賞だが先日12月29日の読売新聞で東大教授宇野重規氏との街歩き対談が記事となっている。 この写真、目黒川の橋で撮ったとある。 懐かしい。3月28日に桜田門から歩いてやってきたところだ。 どの橋なんだろう。後ろ中央の建物が目印となる。 五反田placeという建物。 ということは本村橋ということだ。 この橋は武蔵国 で上げている。 五反田という場所には全く土地勘がないので説明を聞くばかり。 そういえば昔、通信機を作っていた今でも現役の小さな会社があって一度来たことがある。 …

  • リアルの体験とネット・文献での知見との差異② 高輪,二本榎通り

    同じく3月28日の歩きについての想い。 菅原孝標一行が歩いたここら辺の古代東海道ルートは済海寺のいわれはあてにならないがほぼこの二本榎通りでいいと思う。 理由:尾根筋の安定した地形である。下の旧東海道はまだ不安定箇所。 遺跡も散見され、補強証拠足りえる。 中流貴族菅原孝標一行の上総から京への旅は1020年なのでほぼ1000年後のことになるがこの道沿いに当時の最高上司である天皇の末裔である上皇夫妻が仮仙洞御所として住んでいた(撮影時)というのは感慨深い。(武蔵野国㉒でアップ) 高輪中高と東海大付属高輪台中高が隣接して立地していてわかりにくいが、どちらかが吹奏楽でいい成績を得たとのニュースを見て、…

  • リアルに歩くこととネット・文献で得られることの差異(1)

    はやり病のこともあって、在宅勤務の度合いが多くなり、現地踏査ではなくネット・文献調査や問い合わせ調査が著しく増えている。 それは簡易・簡便で経済合理性に富む。しかし得られる効果は一面的で当初の目的・企画を超えることはほとんどない。 しかし実際に体を張っての行為だとその時は企図しなかったことでも後から、あれは そうだったのかと気付くことが出てくるから不思議だ。 昔々、FM放送の番組をカセットテープに録音し、後で聞くというのが流行ったけど、今や全放送局の全番組を自動的にデジタル録音しておいて後から探して聞くことができる。これに近いような。 いや、違う。 去年少々歩いてそう感じることがあった。 3月…

  • 二つの有銘鉄剣と二人の学者(その2)

    大塚初重(はつしげ)さんの「東国の古墳と大和政権」に移る。 2002年、山梨県で公職にあった時の発刊だ。1926年東京都生まれとある。当然載っていないが、今年2022年、お亡くなりになっている。 Ⅲ1「王賜」銘鉄剣と房総の古墳という段章で稲荷台1号墳の鉄剣についてかなり詳しく述べている。 ☆ まず、千葉県内の古墳の数が多いことを述べる。 付記で補正されている平成12年の数字では前方後円(方)墳 717基 円墳 6666基 方墳 1042基 円-方不明 504基 約9000基だ。ものすごい数!全国的にも言えることだけど(16万基とか)これじゃ発掘発見してもすぐには詳しい調査はできない。 9000…

  • 古道のルート探索と地域の古墳や豪族の視点

    江戸時代の旧東海道と異なり、古道のルート探索の裏付けとなる資料は極めて乏しく、すぐに呆然自失状態に陥ります。 そんな中ある程度合理的なものとして推測、依拠できそうなものが地形です。昔海(川)だった、大雨で出水しやすそう、がけ崩れが起きそう、歩くには急峻すぎる、高低差があって荷物を持っての進行には辛そう、目的地まで不要な遠回りとなる、飲み水の確保が難しいといったルートは誰でも避けるのではないでしょうか。 これに人間の歴史性を加味したものとして律令制以前の人々の営み、すなわち弥生末期から古墳時代の人々の生活歴が参考になるのではと考えるに至りました。最もわかりやすいのが古墳です。古墳時代とそのあとで…

  • 二つの有銘鉄剣と二人の学者 (その1)

    白石太一郎氏 千葉県の古墳についての白石氏の著述が散見されるので、千葉県の文化課、埋文など関係部署の公務員かなと思っていたら歴博の先生だった。 それはどうということはないのだけれど履歴を見ると関西の大学を出て畿内で研究をされていた方。どうして「あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方」の地までやってきたのだろうかと?だった。 井上光貞氏の招聘があったようだ。井上氏は東大文学部教授定年退官の後歴博設立準備室長を経て1981年歴博初代館長に就任している。井上氏が見どころがあると思ったのであろう。 白石氏もかなり悩んだらしいが招へいに応じ、東国、畿内双方で優れた結果を出しているので本人にも東国の学会にも…

  • 古墳時代の開始時期と神門(ごうど)古墳群

    古墳が盛んに作られた時代を古墳時代と言うが、もう少し丁寧に見ていこうとすると古墳の定義の問題も絡んで簡単ではないようだ。 古墳時代の開始時期については大きく二つに分かれる。 A説 3世紀中葉から後半における箸墓古墳のような定型化した前方後円墳の出現を古 墳時代の開始とする考え この立場は必ず「定型化した」という文言をつける。なんだか団藤重光の「刑法 綱要」を読むような気がしてしまう。科学にそのような規範的、観念的文言が馴 染むのものなのかはさておき、この立場は次のように古墳時代を時期区分する。 前期 3世紀中ごろから4世紀 中期 5世紀 後期 6世紀 終末期 7世紀以降 B説 A説より1段階前…

  • 上総の国⑭ 稲荷台1号墳記念広場の風景

    上総の国⑦で有銘太刀出土の稲荷台1号墳記念広場あたりの地図はあげているが復元古墳の実写真はあげていないと思うのでそれを。 (ちょうど約1年前撮影) 国道297号わきのはずだけどわかりにくかった。遺跡って見に来る人は多くないせいか周囲に案内表示はないのが一般だ。 遺跡じゃないけど樋口一葉旧宅の時同様にあたりを徘徊してやっと見つけた。山田橋というバス停そばに入り口がある。 削平された遺跡上に立つ住宅に挟まれて近隣公園サイズの記念広場が。 小さな、よく幼稚園、学校にある遊戯用の砂山のよう。 以下説明文 市原市教育委員会発行の「市原の遺跡4」はわかりやすくよい一般向け資料だ。 例えば、次の表。 法隆寺…

  • 上総の国⓭ 「王賜」銘鉄剣 稲荷台1号古墳と市原歴史博物館オープン

    2022.10.28朝日新聞でかなり大きく取り上げられている。関東だけかもしれないが。 有銘鉄剣の出土としては埼玉県行田市の稲荷山古墳が有名であるが(国宝)、此れより古い西暦400年代前半に作製されたとみられるのがここ千葉県市原市稲荷台1号古墳から出土した「王賜」銘鉄剣。 いずれ国宝に指定されるだろうが(日本最古)、これが新博物館に展示されるようだ。 しかし、大化の改新(646)より、高松塚古墳(694~710年)より古く、今年は10月29日から展示開始の正倉院(聖武天17忌756年)より300年前の製作物。畿内の大王が上総の豪族に下賜したものと推察されているが、当時の東国の豪族のありようはど…

  • 新聞記事を読んで思うこと

    上は読売新聞地方版(千葉)の記事 これを見て思うところがとても大きい。 ① 新聞、テレビなんて見ない。ネットニュースで十分という意見が流行であるがこれはネットに出ないだろう。この記事を見ていない人は知らないまま終わる。 ② なんとなく全国版記事がより価値があるかに思われがちであるが、地方版にしか載っていないのであればその分野に関心を持つ者にとっては地方版こそ有価値ということになる。全国記事になるもの、例えば高松塚発見!などはそこらじゅうで取り上げられるので特定の媒体に限定して有意性が認められることにはならない。 公立図書館の「地域情報」コーナーがオンリーワンの宝の山と思われているのもそううこと…

  • 書店と書籍

    総理は夏休み前に八重洲の書店で10冊の本を購入したとのこと。 東京駅前八重洲ブックセンターだろう。職場が近いときは結構行ったが,今はいくことがない。 今日ある大きなターミナル駅の駅ビル内にあるくまざわ書店に寄った。 驚いた。 考古学、古代の歴史などお客が多いとは思えない分野について専門コーナーを設けて大変な充実ぶり。 そこら辺の公立図書館にない本が目白押しだった。 くまざわ書店ってかなりの目利きの社員がいる感じがする。本を愛する社員が多い感じがする。 店内を見ればすぐわかる。 ビル建て替えで休業に入っているらしい神田の三省堂書店の方が私にとってはなじみがあるのだけど、社員の職業意識が希薄に感じ…

  • 磨り石の展示について

    あるところで見た展示 あれ?うちの庭に転がっている石に似ているなあ。 もしかして遺跡の石が我が家に?そんな馬鹿な。 展示の説明をよく見ると 磨(す)り石とある。古代の人が磨いて作った石ではなく、植物を磨(す)るために用いた 石らしい。 とすると遺跡発掘場所で見つかった石もそこら辺に転がっている石も、石自体には変わりはなく、竪穴建物跡で見つかり当時の人が使ったであろうと推測されるか否かの違いだけになりそうだ(加工その他の痕跡が全くなければ)。 もし発掘する人が他で拾ってきた石を発掘現場で混入させたらどうなるのだろうか。 10年以上前になると思うが東京都立川あたりで有名大学の先生が土中から大変な遺…

  • 理系考古学者の卓見

    「考古学を科学する」という本(2011年 臨川書店)で中條理一郎氏が書かれている「はじめに」の内容に驚いた。 「はじめに」であるが7頁と長く、しかもその内容が考古学に関しての文科系と自然科学の考え方の大きな違いのみならず、広く学問一般に通じる問題点を指摘する一大論文になっているからだ。 「持続可能性」が社会経済制度や環境問題に広く通じる言葉になっているのと同じような印象を受ける。 一部を紹介する。以下引用 今から40年ほど前に、大学紛争で多くの大学が荒れたことがある。 その時、紛争学生の間でバイブルのように読まれた羽仁五郎の「都市の論理」という本があった。学生の考え方がわからないのでは、紛争へ…

  • 古代東海道更級日記の道 武蔵国㉖ 武蔵と相模の国境

    多摩川を渡って神奈川県に入っても律令制下における相模国になるわけではない。 相模国は現在の神奈川県西半分。現川崎市と横浜市の大半は南武蔵の南縁部に相当する。 つまり武蔵と相模の境界は横浜市西半分を南北に縦断し、関東山地から三浦半島へ続く多摩丘陵により区分される(後掲 西川修一)。 西川氏はこの高燥な丘陵地系は弥生から古墳時代の遺跡の空白地域を形成しており、相模湾岸的領域と坂東の内海(うちつうみ)としての東京湾的領域との「大きな結界」をなしているとする。 「武蔵と相模の古墳」という本を手にした(2007年季刊考古学別冊15)。広瀬和雄・池上悟が編者となっている読みやすいいい本だと思う。 東京から…

  • 樋口一葉と鏑木清方・朝倉摂

    4か月ちょっと前、台東区のところで竜泉にある樋口一葉記念館に寄り道した。 武蔵の国の項、最終としてそれに関連することを。 訪れたのは2021年12月19日であったが、樋口一葉の作品を舞台化した資料として舞台の模型が展示してあった。 そして、その舞台美術担当というのだろうかビッグな二人のお名前が記されていた。 鏑木清方 朝倉 摂 亡き一葉を偲ぶ演劇公演に参画したお二人であるが、月日がたち、今やこのお二人が優れた表現者として偲ばれることになっている。 鏑木清方は歿後50年として東京国立近代美術館で(5.8まで) 朝倉 摂は生誕100年として神奈川県立近代美術館葉山で(6.12まで) 葉山は遠いが東…

  • 田園調布 の街並み

    多摩川台公園を北に進み、宝來山古墳に近づくと公園の東脇を通る道越しに、ちらちら家々の屋根が見えだしてくる。 どこかで見たような風景 ドイツに防御のため街の外周を城壁で囲んだ古い都市がある。その城壁は人が通れるようになっていて町並みを見下ろしながら歩ける。それに似ている。 塀からしてお金をかけている。 駅に向かう途中でいったん谷となる。いや、台地のふもとというべきか。 途中で目にはいる街の風景を。 ベンツが2台並んでいるなど、目立つのはやめ、風景として溶け込んでいる落ち着きのある地味目のものにした。 下のお宅、四つ角で目立つせいかよく取り上げられている。 敷地は広く、桜もきれい。 だんだんと日没…

  • 古代東海道更級日記の道 武蔵国㉕ 大田区と田園調布

    大田区ってどうもつかみ難く一口で特性を言い難い。 下町工場街?高級住宅街? 東京湾対岸の市原市に似ている。 ベイエリアの重工業工場地域と沢蟹のいる山間部の養老渓谷、地磁気逆転スポット! 大田区は1947年,大森区と蒲田区を合わせる形で成立したが(大+田=大田区)、地域はこの2地域+糀谷・羽田地域+調布地域(北西部)の4域に区分けされている。23区最大面積だそうだ。羽田空港もあるしね。 田園調布のある北西部は武蔵野台地の東南端で高いところの海抜は42.5m、南東低地部の海抜は1~5mというから生業、住まいの様子も変わるはずだ。 さてさて、この多摩川左岸の武蔵野台地東部には遺跡・古墳がとても多い。…

  • 古代東海道更級日記の道 武蔵国㉔ 多摩川台公園の古墳(大田区田園調布1丁目)

    3か月くらい前に新聞で紹介されていた(読売 2021.12.13)。 丸子橋に近いし、そばにある遺跡として是非とも寄ってみたかった。 日没までまだ時間があるのは幸いだ。 手前に神社があるが、俗っぽいたたずまいに見えたし、一般に多摩川台公園内の古墳と共に紹介されることはないようでパスして後ろの多摩川台公園内に直行した。 不勉強・準備不足ゆえの機会喪失となってしまった。ご近所で何度も来られるのでない限りもったいない。 多摩川浅間神社は古墳を擁している。 脇の道を進み急階段を上って公園内に。 途中で目に入る多摩川の光景は国府台里見公園で目にする江戸川の風景にそっくり。 大田区立多摩川台公園古墳展示室…

  • 古代東海道 更級日記の道 武蔵国㉓ 高輪台→五反田、荏原、中延、旗の台、洗足、雪谷→丸子橋へ

    1号線(桜田通)に出て高輪台駅先ですぐに港区から品川区に変わる。 さほど遠くない五反田駅にかけて驚くのが坂道の傾斜度。 こんなに高度差があるとは。 そして長い。 東京の坂道について書く人、書かれた本は多いが、坂道の大半は短めだ。 ここは長い。 これじゃ昔の人は人力の車で荷物を運ぶのに難儀しただろう。海沿いに東海道ができたあと、そちらを利用するはずだ。 進行左手(東南側)に「島津山」という名称が多く残存することに合点がいく。 駿河台の神田山と同じだろうと思う。 有名な新興宗教団体のビルがあり、 雉子神社というお宮があった。由緒ありそうな立派な門構えであるがお宮本体が見えない。変だなと思いながら通…

  • 港区 仮仙洞御所と幼稚園どんぐり採取

    武蔵の国㉒で古代東海道のルートと考える二本榎通りについて述べたばかりであるが、近世以降も色々歴史が濃いようだ。 この、お屋敷、もとは細川藩の屋敷であったようであるが2年間、上皇の住まいである仙洞御所(仮)であったとは知らなかった。二日前、葉山御用邸に移り、そのあとは新規の仙洞御所へ移るとのこと(ニュース)。 近所の幼稚園がドングリを拾わせてもらい、園児が見送りをする映像が映っていた。 また、前述の都営アパートが大石義男自刃の場所で記念碑が建っているとは知らなかった。 平安時代、中級貴族の菅原孝標一行が地方任官を終えて帰京する同じ道を当時のトップの末裔が今の時代に通ったと考えると感慨深い。 追記…

  • 江戸城至近の大名上屋敷とブラタモリ雑感

    一昨日土曜日のブラタモリ、ちょうど当ブログで最近扱った内容にダブるところがあるので興味深く拝見した。 番組で時間をかけ、特に強調していたのが井伊氏の優遇とその上屋敷位置の優越性だった。 上屋敷の場所は海抜の高い、桜田門を見渡せる絶好の位置。 現況はこうだ。 その場所の優越性から維新後も参謀本部の場所となったことに言及していた。 その当時と現況の比較はこうなる。 例によって登場する識者はこの桜田門から虎ノ門への道は古い東海道ですと説明。 タモリは思った以上に高度ある地形であること、ここはあまり人が来ないところだねと印象を語る。 確かにそのとおり。私も職場が目の前だったので昼休みに何度か来たがいつ…

  • 古代東海道/更級日記の道 武蔵国㉒ 高輪皇族邸、東海大、高野山東京別院、味の素前、高輪台交差点

    伊皿子交差点を過ぎ、すぐ100mくらいでこんもりした森。よく見ると門前に機動隊の車両1台と立っている警察官。 高輪皇族邸だ。立哨警備とは現に皇族が居住中? その50mくらい先に茶色系の外壁(冴えない)の高層マンションが建っているが、なんと都営アパートだそうだ。 こんな超一等地に都営アパートはないだろう。京都御所の隣に京都府営アパートをたてるようなもの。 会計検査院的発想で考えれば民間に高値で土地売却し、そのお金で湾岸埋め立て地にキャパ数倍の都営アパートを作るのが筋ではないか。 ここでも尾根道らしく、脇は下り坂で海へ連なる。 二本榎通り(海側)には高輪中・高校と東海大付属高輪台中・高校が並んでい…

  • 古代東海道・更級日記の道 武蔵国㉑ 三田3丁目交差点から聖坂、済海寺・亀塚へ v2

    通説?への疑問と中原街道ルートについて 「古代の道」(武部)は多摩川から桜田門までのコースを次のようにとらえている。 (同著78頁) これに(中原街道)にしたがってそのまま多摩川を渡り、 中原街道の中延付近で東に折れ JR京浜東北線大井町駅前が大井駅(品川区大井)比定地である。 前の小高駅から12.5キロである。 大井駅で90度左折し、直進する。 現在のJR品川駅付近からは近世東海道、現在の国道15号に沿って北上し、 JR田町駅付近からほぼ国道1号(桜田通り)の筋で皇居前を通り 名前が変わって本郷通りを直進し、直進路がなくなってもそのまま上野公園の西端を 通っていけば谷中霊園に達する。 上の一…

  • 古代東海道更級日記の道 武蔵国⑳ 桜田門、霞が関、虎ノ門、芝公園(芝丸山古墳)、赤羽橋、慶大前、三田3丁目へ

    3月28日月曜日。JR有楽町で地下鉄に乗り換え桜田門駅へ 駅がこんなに近いとは思わなかった。 どこか違う。 そうだ、地下鉄出入口に屋根がない。景観第一の特異地点だからだろう。 それより海抜6.8mの表示がうれしい。この高さは微高地というのだろうか。 これより南下したら1000年前は海になってしまう。 直ぐに西進するのも何なので前回通っているけどもう一度桜田門内へ行くことにした。 夕暮れより朝がいい。 と、門内に入った次の瞬間、感激することに。 こんなに見事な桜を見たことがない。 とくに幹がすばらしい。 行ってよかった寄り道だ。今日は東京の桜満開日だった。 ではいよいよ今日のスケジュールにのっと…

  • 古代東海道 武蔵国⑲ 順天堂大→明治大→駿河台下→一ツ橋二丁目(一橋大)→二重橋・桜田門

    首府の防御防備(ウクライナと江戸城) 本郷通りを本郷3丁目、壱岐坂上、その先の二股を右折して外堀通り(順天堂前)までやってきた。 芳賀氏は言っている。 江戸以前に現在の外堀はなく、本郷台地は神田山の山すそ(現在の神田小川町付近)まで一続きだった。その屋根筋の本郷通りをたどり、急斜面を一気に駆け下りれば往古の城下。江戸城を攻撃するには最もふさわしい経路となる。 ウクライナでロシアの侵攻を防ぐために橋を落としたなどのニュースを目にすると数百年前のこの城の防御策がリアルなものに感じられる。 堀がなかったら現在の三楽病院(東京都関連の病院)あたりに出ることになろう。 「神田山」とはわかりやすい。「駿河…

  • 古代東海道 武蔵国⓲ 本郷通りのゆくえと参考文献

    これでいいのかと、少々不安ながらの、お茶の水行きであったが、帰ってからとても良い本に巡り合った。 著者は元柏書房の社長さんで、地図学会の評議員や東京経済大の客員教授を務めている。書名からは元社長さんの趣味的なものに感じてしまうが、中身は専門的研究書と言えるしっかりしたものだ。 初版は2013年。それが2020年新版となったものだが「増補 坂の5種類と道について」その中でとくに「本郷通りのゆくえ」「本郷通りの謎」は古代道を考えるうえでも参考になること極めて大きい。 また、添付古地図などは他に例を見ない鮮明かつ必要サイズに拡大されたものであり読みやすい。この分野の基本書ともいえる貝塚爽平氏「東京の…

  • 古代東海道 武蔵国⓱ 向ヶ丘弥生町→東大本郷キャンパス→本郷3丁目→お茶の水橋

    さて、あまり寄り道ばかりをしていると時間が無くなる。浅野キャンパス(弥生2丁目) を出て本郷キャンパス(本郷7丁目)を横切り、正門から本郷通(国道17号)に出ることにする。 浅野キャンパスと本郷キャンパスに挟まれたところにひっそりと隠里っぽい格調高い町並みがある。ここもかって広島藩主浅野家の屋敷のあった所らしい。そのせいか、広島県人会の修道館があるようだ。 街路名は見当たらないがつけていないのだろうか。 進行右側に弥生美術館・竹久夢二美術館がある。ごちゃごちゃしてイマイチの感。 本郷キャンパスに弥生門から入る。 工芸品のような門だ。修学院各ブロックの門より手が込んでいる。 ここは南禅寺の疎水よ…

  • 古代東海道 武蔵国 ⓰ 漱石旧居跡→根津神社→根津小学校→東大浅野キャンパス・弥生二丁目遺跡

    漱石旧居跡前(千駄木1丁目)の道を南下すればすぐ日本医大前交差点。 少々くたびれた感じ。再開発されるのかな? ここで90度右に曲がれば本郷台地の尾根道である本郷通りにつながる455号にぶつかる。そのルートで道なりに進むのが手っ取り早いが、薮下通りなどせっかく一工夫で進んできたので根津神社を見、遺跡のある東大キャンパス内を通って行きたい。 東大キャンパスは弥生、浅野、本郷の3キャンパスに分かれる。遺跡(星印)があるのは弥生キャンパスではなく浅野キャンパスなのでここを目指す。 根津神社 交差点を左折して根津神社裏門へ進む下り坂だから「根津裏門坂」というがかなり高度は下がる。 高度を上げるため少し戻…

  • 古代東海道 武蔵国⑮ 3⃣日本医大→漱石旧居跡

    薮下通りに戻り、進む。 方角的にはどこかで右折することになるが、期待していた案内表示はない。 多分このあたりかと勘で入ったのが下図の解剖坂。 少しのぼりとなる。日本医大の建物が多い明るい高台。 突き当たって右側すぐにあった。 祝日のせいか散歩中の父と幼い息子がいて、父が「塀の上を見てごらん」と言っている。それを耳にして私も見た。 おや、面白い。ちょっと太りすぎの感じもするが。 このあたりで「吾輩は猫である」が書かれたかと思うと感慨深い。 車谷長吉さんは晩婚・初婚同士で結婚した高橋順子さん(詩人)から出身の東大近辺に住みたいとおねだりされて駒込千駄木町に家を求めたと書いている。 確かに千駄木は高…

  • 古代東海道・武蔵国⑭ 東日暮里から桜田門2⃣ 森鴎外住居跡→薮下通り→千駄木ふれあいの杜と太田道灌末裔

    昔はなかった不忍通りを越えて団子坂下に入る。 実際は写真より急 横から撮ると傾斜がわかる。舗装がない時代、雨の時は大変だっただろう。 団子坂上に到着して振り返った。距離は短い。 右折すると(写真では左)公的施設がある。 反対側を見ると変わった建物が。 森鴎外記念館だ。 文人たちのサロンであったとか。 敷地320坪、建物101坪であった。当時としても極めて広い。 鴎外は生前から文学者として認められ、世俗的地位も高く、国際恋愛もし、立派なお屋敷も建て、と、はたから見ると恵まれた人生。能力があるのだからねたんでもしようがないけど。 薮下通りに面するこちらが当時の玄関入り口だったようだ。 薮下通り側か…

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