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多摩川の筏道 https://tamaikada.hateblo.jp/

「筏道」とは、江戸時代から大正まで続いた「多摩川の筏流し」の筏乗りたちが、歩いて帰った道のことで、その「筏道」を散策するための案内マップです。

たまいかだ
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2022/12/26

  • 国分寺崖線の高低差を探る

    はじめに 資料で探る・参考資料と立体地図で見る国分寺崖線 国分寺崖線とは 国分寺崖線の範囲を一般地図で見る 国分寺崖線の範囲を立体地図で見る 引用文と立体地図・詳細1 引用文と立体地図・詳細2 引用文と立体地図・詳細3 歩いて探る・国分寺崖線上を実際に歩いた全体図 国分寺崖線の全体範囲と歩いた範囲 歩いた範囲を立体地図で見る 国分寺崖線の立体地図を斜め上から見る 歩いた範囲で採集した観察地点での高低差 記録・崖線上の観察地点から崖下を見る 歩いた区間・国分寺駅~深大寺元町5丁目 歩いた区間・深大寺元町5丁目~成城3丁目 歩いた区間・成城3丁目~上野毛3丁目 歩いた区間・上野毛3丁目~田園調布4…

  • 〈資料で探る〉江戸の町で使われた多摩炭

    はじめに 話のきっかけ 話の目的 話の進め方 江戸で使う炭の量と生産地 江戸で使う炭は年間250万俵 炭の生産地に武蔵がある 江戸の町に入っていた炭に「多摩炭」があった 好評な多摩炭とその理由 八王子の炭として名前が通っていた 多摩炭が好評なのは、筏で運ぶので安価だった 多摩炭の運び方 炭焼き農家から氷川村の集積場まで 《地図で見る》 氷川村の集積場から筏に乗せる築地村まで 《地図で見る》 築地村からは筏に乗せて多摩川を下る 筏の上に載せた炭俵は25〜30俵 炭は世田谷村野毛でも陸上げした 多摩炭の出荷量と炭俵の形 多摩川で運ばれた炭は年間2万〜3万俵 炭の量を裏付ける資料 炭俵の二つの形と実…

  • 筏の種類・多摩川を流れた筏の数・木材の量

    目的・背景・方法 筏の種類 筏の姿・寸法 長杉筏(ながすぎいかだ) 長杉筏の寸法 角筏(かくいかだ) 角筏の寸法 多摩川を流れた筏の数 一枚の筏で使う木材の量 考察 項目「筏の姿・寸法」から 項目「多摩川を流れた筏の数」と「一枚の筏で使う木材の量」から 江戸時代後期、1842年の年間の木材は22万7千本 明治6年は、約100万本の木材が運ばれた 目的・背景・方法 目的:多摩川を流れた筏の数と木材の量を推定する。 背景:江戸時代の江戸の町には大火が頻繁に起きました。火事の詳細は別の記事にしています*1。火事の復興のために「青梅材」といわれた奥多摩の木材が、筏流しで運ばれたのです。 また、筏流しは…

  • 多摩川の急傾斜は、筏流しに向いていた

    川にも傾斜があった 疑問:多摩川は筏流しをするのに都合が良かったのか 筏流しが盛んになった理由 疑問の答え 「急坂」という言葉があります。 これは、坂の傾き具合が急になっていることです。 そしてこの傾き具合を「勾配」(こうばい)といいます。 川にも傾斜があった じつは、河川にも勾配があります。 河川の勾配は「河床勾配」(かしょうこうばい)といいます。 では、多摩川の河床勾配の具合を、いろいろな河川と比較してみて、次のことを確認します。 疑問:多摩川は筏流しをするのに都合が良かったのか では、疑問を探ってみることにします。 次の図は、多摩川の縦断面のイメージ図です。 次は他の河川の河床勾配と比較…

  • 江戸の火事と多摩の木材

    古民謡のなかの江戸の火事 資料にある江戸の町の火事 資料1 江戸時代から明治時代の火事一覧 資料2 江戸の大火41件の一覧 まとめ 古民謡のなかの江戸の火事 東京都西多摩郡、檜原村(ひのはらむら)は、JR五日市線の武蔵五日市駅から先にある地域です。 次はこの村に伝わる古い民謡です。 お江戸が焼けて 山栄ゆ 杉丸太 ヤンソレ もみ 栗 角の値のよさ やれ もみ 栗 角の値のよさ あれみよ雲が 江戸へとぶ 雲にのり ヤンソレ わが身も 江戸へ 江戸へと やれ わが身も 江戸へ 江戸へと 檜原村の古い民謡にこのようなものがありますが、江戸の大火と地元林業との密接な関係を、「お江戸が焼けて山栄ゆ」と露…

  • 多摩川が蛇行した旧流路を資料で見る

    府中本町駅周辺の旧流路 資料で見る 資料の旧流路をトレースして見る 川崎駅周辺の旧流路 資料で見る 資料の旧流路をトレースして見る 別資料で見る旧流路図 かつて、多摩川は「暴れ川」と言われていました。 大きな台風が来ると、そのたびに多摩川には大水が出たのです。 昭和49年の洪水では、東京都狛江市の多摩川近くに被害が出て、いくつかの住宅が川に流されニュースになったことは記憶に新しいです。 そして、多摩川に近代的な堤防ができる前は、大水のたびに多摩川は蛇行したのです。 ここでは、多摩川の蛇行の跡になる「旧流路」について、いくつかの資料を見ることにします。 府中本町駅周辺の旧流路 資料で見る 資料の…

  • 長崎堤防の名前の由来

    北見方には長崎堤防がある 北見方には長崎山もある 地名辞典で長崎山の所在地は「北見方355」 「北見方355」を古い住宅地図で探す 新旧の地図で見る「長崎山」と「長崎堤防」 「北見方355」は、現在の地図ではどこなのか 「北見方355」の位置を、明治時代の地図で見る 北見方には長崎堤防がある ここで当サイトの別の記事、「右岸の筏道(3) 引用文献から明治期の地図に右岸順路を描く」の「平間〜諏訪の一本松」で使った引用文を確認します。 つぎの内容です。 その先は無堤防なので、丸子、小杉、宮内と府中街道を歩き、北見方の長崎堤防を通って、諏訪の一本松のところに出る 《引用文献》平野順治,2008,大田…

  • 狛江の造り酒屋「かくみせ」

    造り酒屋「かくみせ」が載っている資料の記事 現在の地図で、狛江市内のグリーンハイムの位置を確認する グリーンハイム前の道の写真 グリーンハイムの位置は、明治時代の地図ではどこになるのか さらに古い地図を見る 明治時代の品川道を、現在の地図に載せる 明治時代の品川道は少し残っていた 造り酒屋「かくみせ」があった四つ角 品川道はゆるやかに曲がっていた 筏乗りたちが帰る道の途中には、いくつかの飲み食いの店がありました。 この狛江にも、お酒を出す店があったのです。 お店の名前は「かくみせ」と呼ばれていて、品川道にありました。 造り酒屋「かくみせ」が載っている資料の記事 現在の地図で、狛江市内のグリーン…

  • 茶店の「おかつみせ」で、ひと休み 大田区下丸子

    資料のなかの「おかつみせ」と「下郷橋」 「下郷橋」は古い住宅地図にあった 「下郷橋」と下丸子駅の位置関係を見る 「下郷橋」の位置を、明治時代の地図に載せる 明治時代の地図で「下郷橋」を細かく見る 現在の地図に「下郷橋」の位置を示す 「おかつみせ」があったと思われるところを訪ねる 全体の景色 昔の筏道 昔の筏道と六郷用水跡 筏道の資料を見ていたら「おかつみせ」という名前の茶店があって、筏乗りたちがその店で一休みした、とありました。 そこで、資料を基に「おかつみせ」があったと思われる場所を探してみることにします。 資料のなかの「おかつみせ」と「下郷橋」 《引用文》 しばらく進むと、下丸子駅の少し北…

  • 盛土道、土手道を江戸時代の絵図で見る

    ここは調布市の『多摩川白衣観音』の境内で、すぐ脇を多摩川が流れています。 境内には『武蔵国調布多摩川絵図』がありました。 この絵図には天保二年(1831年)と書かれてあります。 ということは、絵図が書かれたのは江戸時代も終わりごろです。 図1は、絵図の一部を切抜きしたもので、多摩川の様子が描かれています。 そして土手の姿もはっきりとわかります。 当時の土手は、文字通り土を盛って作りましたので、盛土(もりど)ということになります。 図2は、土手の上を歩く人が描かれています。 土手の高さは、人の背丈よりも少し高い程度です。 図3は、現在の多摩川の土手の写真です。 サイクリングロードになった土手の上…

  • 当サイトで使う地図記号の呼び名

    地図記号 四つの道 盛土道(もりどみち) 徒歩道(とほみち) 畑道(はたけみち) 一般道(いっぱんどう) 地図記号の引用元 このページでは、当サイトの地図によく出てくる記号の呼び名を示します。 これらの呼び名は、当サイト内だけの呼称です。 地図記号 四つの道 盛土道(もりどみち) 徒歩道(とほみち) 畑道(はたけみち) 一般道(いっぱんどう) 地図記号の引用元

  • お酒の店『さかや』を訪ねる

    はじめに 「さかや」の一階の様子 「さかや」の二階の様子 二階の広さを測る 主屋の向きを知る 明治時代の地図で「さかや」の位置を知る はじめに この建物は、江戸時代の農家の主屋です。 場所は、世田谷区の次太夫堀公園にありました。 こうして見ると農家の建物ですけど、普通とは少し違っていて、この農家は酒屋もしていたのです。 酒屋の名前は「さかや」でした。 この「さかや」には、筏乗りたちも帰り道に立ち寄ったということなので、お店の様子を見ることにします。 まず、目に着くのは「さかや」という看板明かりです。 「さかや」の一階の様子 ここからは、お店の中の様子です。 「さかや」の二階の様子 ここまでは、…

  • 矢野口の渡しから甲州街道への筏道で見つけた話

    1.筏の松 2.川崎側の矢野口の渡し場を望む 3.広く残った昔みち 4.「旧品川みち」の案内 5.路地になった「旧品川みち」 6.大通りと出会う昔みち 話のいどころ それぞれの話 1.筏の松 多摩川の上流から筏に乗った筏乗りたちは、この松に筏を繋いで休憩をしたそうです。 それで呼び名も「筏の松」になりました。 当時、松の木は二本あったそうで、目の前の切り株も二つありました。 2.川崎側の矢野口の渡し場を望む 川崎側の「矢野口の渡し場」は、上のイラスト画の大きなマンションの左側にあります。 そして今いる場所は、多摩川左岸の矢野口の渡しです。 ジョギングをしている人の向こうにも芝生が広がっています…

  • 矢野口の渡しから甲州街道へ

    順路をGoogleマップで修正する ではここで、Googleマップを使って明治期の順路と現在の順路を比較します。 青い線は、明治期の地図で作成した順路です。 赤い線は、現在の地図で作成した順路です。 順路の途中には、昔の道がそのまま残っている個所があります。 全体に、明治期と現在の順路の違いは少ないです。 記 事 ペ ー ジ 「矢野口の渡しから甲州街道へ」の各ページ 矢野口の渡しからの順路を描く 順路をGoogleマップで修正する 矢野口の渡しから甲州街道への筏道で見つけた話

  • 登戸の渡しから甲州街道への筏道で見つけた話

    1.水神社 2.六郷用水取入れ口の碑 3.玉川碑(万葉歌碑) 4.旧品川道との合流点 5.小高い場所 6.山谷庚申塔 7.旧品川道の案内 8.庚申塔 9.「旧品川みち」の案内 話のいどころ それぞれの話 1.水神社 ここは六郷用水の取入れ口のすぐ近くです。 水神社としっかり彫られた大きな石柱と対称的に、目の前にはこじんまりとした鳥居があります。 そしてこの神社には、水に因んだ神様が祀られているそうです。 きっと、六郷用水の守り神だったのでしょう。 2.六郷用水取入れ口の碑 一枚目の写真を見て、六郷用水は横断歩道のあたりを右方向へ流れていました。 それは明治時代の地図を見ると、六郷用水の流れがよ…

  • 羽田から府中までの左岸の筏道全体

    文献にある筏道をGoogleマップで見る 左岸の筏道のための文献著 者 : 平野順治発行年 : 1979年編 集 : 大田区史編さん委員会出 版 : 東京都大田区書 名 : 『 史誌12 』記事名 : 「 消えゆく筏道 ある歴史の時間のなかで 」ページ : 16-17の地図

  • 登戸の渡しから「甲州街道」へ

    順路をGoogleマップで修正する 青色の線・・明治期の地図で作成した筏道順路赤色の線・・青色の線を、現在の道路事情に合わせて修正した順路 全体的に見て、青色の線と赤色の線に大きな差はない。 この範囲では、明治期の道が現在までも残っていると言える。 この筏道のように、古い道が現在まで残っていることは、多摩川の河口周辺でも少ない。 記 事 ペ ー ジ 「登戸の渡しから甲州街道へ」の各ページ 登戸の渡しからの順路を描く 順路をGoogleマップで見て修正する 筏道で見つけた話

  • 地形図で見る羽田から府中までの筏道

    つぎは、府中市内から多摩川の河口までの高低差を付けた地形図です。 赤い線は筏道です 二本の筏道の間にある濃い青色が、多摩川です 筏道が多摩川の左岸と右岸にあることがわかります 右岸の筏道が矢野口の渡し場で終わっているのは、ここから左岸へ渡ったためです

  • 羽田から府中までの筏道で引用させてもらった文献

    「筏流し」についての記事は、いくつかの書籍に少しだけありますが、「筏道」についての出版物は探した範囲ではありませんでした。そのなかで、下記の書籍が目に留まりました。 引用資料のページ16ー17は一般的な地図です。この地図にある順路を、このサイトの羽田から府中までの筏道の順路とします。 《引用文献》著者名 : 平野順治編 集 : 大田区史編さん委員会出 版 : 東京都大田区発行年 : 1979書籍名 : 『 史誌12 』記事名 : 「 消えゆく筏道 ある歴史の時間のなかで 」ページ : 16-17の地図

  • 筏道は羽田から奥多摩まで

    筏流しと筏乗りについては『筏道は筏乗りが歩いて帰った道』のページに示しました。では、筏道の全体はどうなっているのでしょうか。つぎの地図は多摩川の筏道の全体図です。 赤色と青色の線が筏道で、全体の距離は76kmになります。資料によると筏道は16里*1、現在の64kmだったという説明がありますが、これは筏乗りたちが帰る奥多摩の場所をどこにするかと、途中の順路の設定によって違ってきます。 全体距離の違いは多少ありますが、多摩川の筏道の全体像は変わりません。 *1:福島和夫,2012,福島和夫,『多摩川最後の筏乗り 高野近太郎翁の聞き書き』,p22

  • 筏乗りの村と奥多摩の風景

    別ページでは、筏乗りの人数と出身の村について述べました。資料によると明治20年の筏乗りの中で、いちばん遠い出身の村は奥多摩の棚沢村でした。棚沢村の筏乗りたちは筏を届けた後、六郷から棚沢村まで歩いて帰ったのです。 では筏乗りたちが歩いた奥多摩の筏道は、どういう風景だったのでしょうか。立体地図を使って見ることにします。別ページ:筏乗りの人数と出身の村 つぎの地図は、別ページで扱った4つの村を示しています。この4つの村の風景はどのように見えたのでしょう。 つぎは、斜め方向から見た4つの村で、鳥が空から眺めているような絵になっています。手前が川の下手(しもて)です。赤い丸は村の場所です。多摩川と筏道が…

  • 筏乗りの人数と出身の村

    明治20年の筏乗りの人数 明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す 地形がわかる立体地図で村の場所を見る 村の集まりを3つに分ける 分割3-1 分割3-2 分割3-3 明治20年の筏乗りの人数 江戸時代から明治時代を経て大正時代まで、多摩川の筏流しはたいへん盛んでした。では、その筏に乗っていた筏乗りは、何人いたのでしょうか。 つぎに示す表は、明治20年の筏乗りの人数です。当時、筏乗りたちが仕事をするのには名前を登録する必要がありました。 明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す 青梅から先への鉄道が使えるまでは、筏乗りは六郷から奥多摩まで歩いて帰りました。そこで、明治20年の196人の筏乗りたちが帰っ…

  • 野毛にあった「炭河岸」を探す

    炭を扱うから「炭河岸」 炭河岸に関係する二つの話 一つ目の話 二つ目の話 二つの話に合う、昔の野毛の絵地図を見る 絵地図のポイントを迅速地図に載せる 迅速地図で見る「谷沢川が多摩川に注ぐ」場所 野毛の炭河岸の場所がわかる 「炭河岸」跡を現在の地図で見る 現地を見に行く 炭を扱うから「炭河岸」 ときどき聞く言葉に、何々「河岸」(がし)があります。「魚河岸」もその一つです。 ところで、江戸時代から明治にかけて、世田谷区にも「河岸」と呼ばれた場所がありました。そこは、多摩川の川岸で炭を船から荷揚げしたところなので、名前を「炭河岸」(すみがし)といいます。「炭河岸」は多摩川の筏道の順路にも近いです。 …

  • 登戸にあった「石屋河岸」を探す

    話の中心地は「旧吉澤石材店」の場所 「旧吉澤石材店」の場所を、明治時代の地図で見る 明治時代の地図から「石屋河岸」の場所がわかる 「石屋河岸」があった場所を、現在の地図で見る かつての「用水路」と「石屋河岸」を見に行く 明治時代、登戸村に「石屋河岸」(いしやがし)と呼ばれた場所がありました。よく聞く「魚河岸」は魚を降ろした場所で、「石屋河岸」は石を荷下ろしをしたところです。 そこで、登戸にあった「石屋河岸」の場所を探すことにします。参考にして引用させてもらった資料を次に示します。 書名 :川崎歴史ガイド・津久井道と枡形城址項目 :「石屋と石屋河岸」発行 :川崎市文化財団発行年:昭和60年 次か…

  • 菜種を積んだ船が出航した「油屋河岸」の場所を探る

    古市場1863番地の場所を古い地図で見る 古い流れに沿って歩く 道標は「古多摩川流路跡」 古市場の「油屋河岸」の場所 先ずは、次の引用を読んでください。 油屋河岸 あぶらやかし 古市場1863番地の下あたり。古い流れができていた。葛西の油問屋が下平間産の菜種を買い付けて、この岸から輸送したという。 《引用文献》(編)日本地名研究所,2004,川崎市,『川崎地名辞典・下』,p131 古市場1863番地の場所を古い地図で見る ときどき聞く言葉に「〇〇河岸」というのがあります。魚河岸もその一つです。ただし、この引用にある「油屋河岸」という言葉は初耳です。引用によると、多摩川の川岸に「油屋河岸」と呼ば…

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