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多摩川の筏道 https://tamaikada.hateblo.jp/

「筏道」とは、江戸時代から大正まで続いた「多摩川の筏流し」の筏乗りたちが、歩いて帰った道のことで、その「筏道」を散策するための案内マップです。

たまいかだ
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2022/12/26

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  • 〈資料で探る〉江戸の町で使われた多摩炭

    はじめに 話のきっかけ 話の目的 話の進め方 江戸で使う炭の量と生産地 江戸で使う炭は年間250万俵 炭の生産地に武蔵がある 江戸の町に入っていた炭に「多摩炭」があった 好評な多摩炭とその理由 八王子の炭として名前が通っていた 多摩炭が好評なのは、筏で運ぶので安価だった 多摩炭の運び方 炭焼き農家から氷川村の集積場まで 《地図で見る》 氷川村の集積場から筏に乗せる築地村まで 《地図で見る》 築地村からは筏に乗せて多摩川を下る 筏の上に載せた炭俵は25〜30俵 炭は世田谷村野毛でも陸上げした 多摩炭の出荷量と炭俵の形 多摩川で運ばれた炭は年間2万〜3万俵 炭の量を裏付ける資料 炭俵の二つの形と実…

  • 筏の種類・多摩川を流れた筏の数・木材の量

    目的・背景・方法 筏の種類 筏の姿・寸法 長杉筏(ながすぎいかだ) 長杉筏の寸法 角筏(かくいかだ) 角筏の寸法 多摩川を流れた筏の数 一枚の筏で使う木材の量 考察 項目「筏の姿・寸法」から 項目「多摩川を流れた筏の数」と「一枚の筏で使う木材の量」から 江戸時代後期、1842年の年間の木材は22万7千本 明治6年は、約100万本の木材が運ばれた 目的・背景・方法 目的:多摩川を流れた筏の数と木材の量を推定する。 背景:江戸時代の江戸の町には大火が頻繁に起きました。火事の詳細は別の記事にしています*1。火事の復興のために「青梅材」といわれた奥多摩の木材が、筏流しで運ばれたのです。 また、筏流しは…

  • 多摩川の急傾斜は、筏流しに向いていた

    川にも傾斜があった 疑問:多摩川は筏流しをするのに都合が良かったのか 筏流しが盛んになった理由 疑問の答え 「急坂」という言葉があります。 これは、坂の傾き具合が急になっていることです。 そしてこの傾き具合を「勾配」(こうばい)といいます。 川にも傾斜があった じつは、河川にも勾配があります。 河川の勾配は「河床勾配」(かしょうこうばい)といいます。 では、多摩川の河床勾配の具合を、いろいろな河川と比較してみて、次のことを確認します。 疑問:多摩川は筏流しをするのに都合が良かったのか では、疑問を探ってみることにします。 次の図は、多摩川の縦断面のイメージ図です。 次は他の河川の河床勾配と比較…

  • 江戸の火事と多摩の木材

    古民謡のなかの江戸の火事 資料にある江戸の町の火事 資料1 江戸時代から明治時代の火事一覧 資料2 江戸の大火41件の一覧 まとめ 古民謡のなかの江戸の火事 東京都西多摩郡、檜原村(ひのはらむら)は、JR五日市線の武蔵五日市駅から先にある地域です。 次はこの村に伝わる古い民謡です。 お江戸が焼けて 山栄ゆ 杉丸太 ヤンソレ もみ 栗 角の値のよさ やれ もみ 栗 角の値のよさ あれみよ雲が 江戸へとぶ 雲にのり ヤンソレ わが身も 江戸へ 江戸へと やれ わが身も 江戸へ 江戸へと 檜原村の古い民謡にこのようなものがありますが、江戸の大火と地元林業との密接な関係を、「お江戸が焼けて山栄ゆ」と露…

  • 多摩川が蛇行した旧流路を資料で見る

    府中本町駅周辺の旧流路 資料で見る 資料の旧流路をトレースして見る 川崎駅周辺の旧流路 資料で見る 資料の旧流路をトレースして見る 別資料で見る旧流路図 かつて、多摩川は「暴れ川」と言われていました。 大きな台風が来ると、そのたびに多摩川には大水が出たのです。 昭和49年の洪水では、東京都狛江市の多摩川近くに被害が出て、いくつかの住宅が川に流されニュースになったことは記憶に新しいです。 そして、多摩川に近代的な堤防ができる前は、大水のたびに多摩川は蛇行したのです。 ここでは、多摩川の蛇行の跡になる「旧流路」について、いくつかの資料を見ることにします。 府中本町駅周辺の旧流路 資料で見る 資料の…

  • 長崎堤防の名前の由来

    北見方には長崎堤防がある 北見方には長崎山もある 地名辞典で長崎山の所在地は「北見方355」 「北見方355」を古い住宅地図で探す 新旧の地図で見る「長崎山」と「長崎堤防」 「北見方355」は、現在の地図ではどこなのか 「北見方355」の位置を、明治時代の地図で見る 北見方には長崎堤防がある ここで当サイトの別の記事、「右岸の筏道(3) 引用文献から明治期の地図に右岸順路を描く」の「平間〜諏訪の一本松」で使った引用文を確認します。 つぎの内容です。 その先は無堤防なので、丸子、小杉、宮内と府中街道を歩き、北見方の長崎堤防を通って、諏訪の一本松のところに出る 《引用文献》平野順治,2008,大田…

  • 狛江の造り酒屋「かくみせ」

    造り酒屋「かくみせ」が載っている資料の記事 現在の地図で、狛江市内のグリーンハイムの位置を確認する グリーンハイム前の道の写真 グリーンハイムの位置は、明治時代の地図ではどこになるのか さらに古い地図を見る 明治時代の品川道を、現在の地図に載せる 明治時代の品川道は少し残っていた 造り酒屋「かくみせ」があった四つ角 品川道はゆるやかに曲がっていた 筏乗りたちが帰る道の途中には、いくつかの飲み食いの店がありました。 この狛江にも、お酒を出す店があったのです。 お店の名前は「かくみせ」と呼ばれていて、品川道にありました。 造り酒屋「かくみせ」が載っている資料の記事 現在の地図で、狛江市内のグリーン…

  • 茶店の「おかつみせ」で、ひと休み 大田区下丸子

    資料のなかの「おかつみせ」と「下郷橋」 「下郷橋」は古い住宅地図にあった 「下郷橋」と下丸子駅の位置関係を見る 「下郷橋」の位置を、明治時代の地図に載せる 明治時代の地図で「下郷橋」を細かく見る 現在の地図に「下郷橋」の位置を示す 「おかつみせ」があったと思われるところを訪ねる 全体の景色 昔の筏道 昔の筏道と六郷用水跡 筏道の資料を見ていたら「おかつみせ」という名前の茶店があって、筏乗りたちがその店で一休みした、とありました。 そこで、資料を基に「おかつみせ」があったと思われる場所を探してみることにします。 資料のなかの「おかつみせ」と「下郷橋」 《引用文》 しばらく進むと、下丸子駅の少し北…

  • 盛土道、土手道を江戸時代の絵図で見る

    ここは調布市の『多摩川白衣観音』の境内で、すぐ脇を多摩川が流れています。 境内には『武蔵国調布多摩川絵図』がありました。 この絵図には天保二年(1831年)と書かれてあります。 ということは、絵図が書かれたのは江戸時代も終わりごろです。 図1は、絵図の一部を切抜きしたもので、多摩川の様子が描かれています。 そして土手の姿もはっきりとわかります。 当時の土手は、文字通り土を盛って作りましたので、盛土(もりど)ということになります。 図2は、土手の上を歩く人が描かれています。 土手の高さは、人の背丈よりも少し高い程度です。 図3は、現在の多摩川の土手の写真です。 サイクリングロードになった土手の上…

  • 当サイトで使う地図記号の呼び名

    地図記号 四つの道 盛土道(もりどみち) 徒歩道(とほみち) 畑道(はたけみち) 一般道(いっぱんどう) 地図記号の引用元 このページでは、当サイトの地図によく出てくる記号の呼び名を示します。 これらの呼び名は、当サイト内だけの呼称です。 地図記号 四つの道 盛土道(もりどみち) 徒歩道(とほみち) 畑道(はたけみち) 一般道(いっぱんどう) 地図記号の引用元

  • お酒の店『さかや』を訪ねる

    はじめに 「さかや」の一階の様子 「さかや」の二階の様子 二階の広さを測る 主屋の向きを知る 明治時代の地図で「さかや」の位置を知る はじめに この建物は、江戸時代の農家の主屋です。 場所は、世田谷区の次太夫堀公園にありました。 こうして見ると農家の建物ですけど、普通とは少し違っていて、この農家は酒屋もしていたのです。 酒屋の名前は「さかや」でした。 この「さかや」には、筏乗りたちも帰り道に立ち寄ったということなので、お店の様子を見ることにします。 まず、目に着くのは「さかや」という看板明かりです。 「さかや」の一階の様子 ここからは、お店の中の様子です。 「さかや」の二階の様子 ここまでは、…

  • 矢野口の渡しから甲州街道への筏道で見つけた話

    1.筏の松 2.川崎側の矢野口の渡し場を望む 3.広く残った昔みち 4.「旧品川みち」の案内 5.路地になった「旧品川みち」 6.大通りと出会う昔みち 話のいどころ それぞれの話 1.筏の松 多摩川の上流から筏に乗った筏乗りたちは、この松に筏を繋いで休憩をしたそうです。 それで呼び名も「筏の松」になりました。 当時、松の木は二本あったそうで、目の前の切り株も二つありました。 2.川崎側の矢野口の渡し場を望む 川崎側の「矢野口の渡し場」は、上のイラスト画の大きなマンションの左側にあります。 そして今いる場所は、多摩川左岸の矢野口の渡しです。 ジョギングをしている人の向こうにも芝生が広がっています…

  • 矢野口の渡しから甲州街道へ

    順路をGoogleマップで修正する ではここで、Googleマップを使って明治期の順路と現在の順路を比較します。 青い線は、明治期の地図で作成した順路です。 赤い線は、現在の地図で作成した順路です。 順路の途中には、昔の道がそのまま残っている個所があります。 全体に、明治期と現在の順路の違いは少ないです。 記 事 ペ ー ジ 「矢野口の渡しから甲州街道へ」の各ページ 矢野口の渡しからの順路を描く 順路をGoogleマップで修正する 矢野口の渡しから甲州街道への筏道で見つけた話

  • 登戸の渡しから甲州街道への筏道で見つけた話

    1.水神社 2.六郷用水取入れ口の碑 3.玉川碑(万葉歌碑) 4.旧品川道との合流点 5.小高い場所 6.山谷庚申塔 7.旧品川道の案内 8.庚申塔 9.「旧品川みち」の案内 話のいどころ それぞれの話 1.水神社 ここは六郷用水の取入れ口のすぐ近くです。 水神社としっかり彫られた大きな石柱と対称的に、目の前にはこじんまりとした鳥居があります。 そしてこの神社には、水に因んだ神様が祀られているそうです。 きっと、六郷用水の守り神だったのでしょう。 2.六郷用水取入れ口の碑 一枚目の写真を見て、六郷用水は横断歩道のあたりを右方向へ流れていました。 それは明治時代の地図を見ると、六郷用水の流れがよ…

  • 羽田から府中までの左岸の筏道全体

    文献にある筏道をGoogleマップで見る 左岸の筏道のための文献著 者 : 平野順治発行年 : 1979年編 集 : 大田区史編さん委員会出 版 : 東京都大田区書 名 : 『 史誌12 』記事名 : 「 消えゆく筏道 ある歴史の時間のなかで 」ページ : 16-17の地図

  • 登戸の渡しから「甲州街道」へ

    順路をGoogleマップで修正する 青色の線・・明治期の地図で作成した筏道順路赤色の線・・青色の線を、現在の道路事情に合わせて修正した順路 全体的に見て、青色の線と赤色の線に大きな差はない。 この範囲では、明治期の道が現在までも残っていると言える。 この筏道のように、古い道が現在まで残っていることは、多摩川の河口周辺でも少ない。 記 事 ペ ー ジ 「登戸の渡しから甲州街道へ」の各ページ 登戸の渡しからの順路を描く 順路をGoogleマップで見て修正する 筏道で見つけた話

  • 地形図で見る羽田から府中までの筏道

    つぎは、府中市内から多摩川の河口までの高低差を付けた地形図です。 赤い線は筏道です 二本の筏道の間にある濃い青色が、多摩川です 筏道が多摩川の左岸と右岸にあることがわかります 右岸の筏道が矢野口の渡し場で終わっているのは、ここから左岸へ渡ったためです

  • 羽田から府中までの筏道で引用させてもらった文献

    「筏流し」についての記事は、いくつかの書籍に少しだけありますが、「筏道」についての出版物は探した範囲ではありませんでした。そのなかで、下記の書籍が目に留まりました。 引用資料のページ16ー17は一般的な地図です。この地図にある順路を、このサイトの羽田から府中までの筏道の順路とします。 《引用文献》著者名 : 平野順治編 集 : 大田区史編さん委員会出 版 : 東京都大田区発行年 : 1979書籍名 : 『 史誌12 』記事名 : 「 消えゆく筏道 ある歴史の時間のなかで 」ページ : 16-17の地図

  • 筏道は羽田から奥多摩まで

    筏流しと筏乗りについては『筏道は筏乗りが歩いて帰った道』のページに示しました。では、筏道の全体はどうなっているのでしょうか。つぎの地図は多摩川の筏道の全体図です。 赤色と青色の線が筏道で、全体の距離は76kmになります。資料によると筏道は16里*1、現在の64kmだったという説明がありますが、これは筏乗りたちが帰る奥多摩の場所をどこにするかと、途中の順路の設定によって違ってきます。 全体距離の違いは多少ありますが、多摩川の筏道の全体像は変わりません。 *1:福島和夫,2012,福島和夫,『多摩川最後の筏乗り 高野近太郎翁の聞き書き』,p22

  • 筏乗りの村と奥多摩の風景

    別ページでは、筏乗りの人数と出身の村について述べました。資料によると明治20年の筏乗りの中で、いちばん遠い出身の村は奥多摩の棚沢村でした。棚沢村の筏乗りたちは筏を届けた後、六郷から棚沢村まで歩いて帰ったのです。 では筏乗りたちが歩いた奥多摩の筏道は、どういう風景だったのでしょうか。立体地図を使って見ることにします。別ページ:筏乗りの人数と出身の村 つぎの地図は、別ページで扱った4つの村を示しています。この4つの村の風景はどのように見えたのでしょう。 つぎは、斜め方向から見た4つの村で、鳥が空から眺めているような絵になっています。手前が川の下手(しもて)です。赤い丸は村の場所です。多摩川と筏道が…

  • 筏乗りの人数と出身の村

    明治20年の筏乗りの人数 明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す 地形がわかる立体地図で村の場所を見る 村の集まりを3つに分ける 分割3-1 分割3-2 分割3-3 明治20年の筏乗りの人数 江戸時代から明治時代を経て大正時代まで、多摩川の筏流しはたいへん盛んでした。では、その筏に乗っていた筏乗りは、何人いたのでしょうか。 つぎに示す表は、明治20年の筏乗りの人数です。当時、筏乗りたちが仕事をするのには名前を登録する必要がありました。 明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す 青梅から先への鉄道が使えるまでは、筏乗りは六郷から奥多摩まで歩いて帰りました。そこで、明治20年の196人の筏乗りたちが帰っ…

  • 野毛にあった「炭河岸」を探す

    炭を扱うから「炭河岸」 炭河岸に関係する二つの話 一つ目の話 二つ目の話 二つの話に合う、昔の野毛の絵地図を見る 絵地図のポイントを迅速地図に載せる 迅速地図で見る「谷沢川が多摩川に注ぐ」場所 野毛の炭河岸の場所がわかる 「炭河岸」跡を現在の地図で見る 現地を見に行く 炭を扱うから「炭河岸」 ときどき聞く言葉に、何々「河岸」(がし)があります。「魚河岸」もその一つです。 ところで、江戸時代から明治にかけて、世田谷区にも「河岸」と呼ばれた場所がありました。そこは、多摩川の川岸で炭を船から荷揚げしたところなので、名前を「炭河岸」(すみがし)といいます。「炭河岸」は多摩川の筏道の順路にも近いです。 …

  • 登戸にあった「石屋河岸」を探す

    話の中心地は「旧吉澤石材店」の場所 「旧吉澤石材店」の場所を、明治時代の地図で見る 明治時代の地図から「石屋河岸」の場所がわかる 「石屋河岸」があった場所を、現在の地図で見る かつての「用水路」と「石屋河岸」を見に行く 明治時代、登戸村に「石屋河岸」(いしやがし)と呼ばれた場所がありました。よく聞く「魚河岸」は魚を降ろした場所で、「石屋河岸」は石を荷下ろしをしたところです。 そこで、登戸にあった「石屋河岸」の場所を探すことにします。参考にして引用させてもらった資料を次に示します。 書名 :川崎歴史ガイド・津久井道と枡形城址項目 :「石屋と石屋河岸」発行 :川崎市文化財団発行年:昭和60年 次か…

  • 菜種を積んだ船が出航した「油屋河岸」の場所を探る

    古市場1863番地の場所を古い地図で見る 古い流れに沿って歩く 道標は「古多摩川流路跡」 古市場の「油屋河岸」の場所 先ずは、次の引用を読んでください。 油屋河岸 あぶらやかし 古市場1863番地の下あたり。古い流れができていた。葛西の油問屋が下平間産の菜種を買い付けて、この岸から輸送したという。 《引用文献》(編)日本地名研究所,2004,川崎市,『川崎地名辞典・下』,p131 古市場1863番地の場所を古い地図で見る ときどき聞く言葉に「〇〇河岸」というのがあります。魚河岸もその一つです。ただし、この引用にある「油屋河岸」という言葉は初耳です。引用によると、多摩川の川岸に「油屋河岸」と呼ば…

  • 喜多見の知行院前はお店がいろいろ

    ここは世田谷区喜多見にあるお寺「知行院」です。 上の図は、世田谷区にある図書館の蔵書を参考にして、イラストにしたものです。 図の知行院前の道には、ひらがなで「い か だ」とあります。この道は世田谷区を通る筏道です。そして知行院のまわりにはたくさんのお店があります。現在でもお店が並んでいますが、筏乗りたちが通った明治時代のころは、この地域の繁華街だったことが想像できます。

  • 登戸の渡しから「甲州街道」へ

    多摩川右岸の順路作成には、参考資料『多摩川の筏流し』の内容を引用しました。そのなかの登戸の渡しの場面に、右岸から左岸へ渡る記述がありましたので、次に示します。 それから二子の筏宿・亀屋に寄って一休みし、川沿いの道を選んで、宿河原堰のところから登戸の渡船場に着く。 上述のようにここで左岸へ渡る者もあったが、さらに先へ行く者は、中野島のカリタス学園の中を突つ切るような形で 《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p236-237 上の引用には “ ここで左岸へ渡る者もあったが ” とあります。そこで登戸の渡しの左岸側から甲州街道を目指す順路を探ってみることにします。 最…

  • 右岸順路を描く 稲田堤 ~ 矢野口の渡し

    資料から明治期の地図に描いた順路図 順路図を描くための文献とキーワード 「菅の多渡様」とは 「矢野口の渡しを利用して、調布の町へ」とは このページは、右岸の筏道の順路を作成した経緯を示します。 資料から明治期の地図に描いた順路図 青い線が作成した順路 順路図を描くための文献とキーワード そして菅の多渡様(堤防上の小祠)付近から、矢野口の渡しを利用して、調布の町へ入って行った。 《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p237 キーワード・菅の多渡様(堤防上の小祠)・矢野口の渡しを利用して、調布の町へ 「菅の多渡様」とは 《考察》「多渡様」の読みは「たとうさま」です。…

  • 右岸順路を描く 登戸の渡し ~ 稲田堤

    資料から明治期の地図に描いた順路図 順路図を描くための文献とキーワード 「中野島のカリタス学園の中を突つ切る」とは 「二ヶ領用水を越えて」とは 「稲田堤に出る」とは このページは、右岸の筏道の順路を作成した経緯を示します。 資料から明治期の地図に描いた順路図 青い線が作成した順路 順路図を描くための文献とキーワード 上述のようにここで左岸へ渡る者もあったが、さらに先へ行く者は、中野島のカリタス学園の中を突つ切るような形で歩き、野土呂堰から取り入れた二ヶ領用水を越えて、桜の名所・稲田堤に出る。 《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p237 キーワード・中野島のカリ…

  • 右岸順路を描く 諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し

    このページは、右岸の筏道の順路を作成した経緯を示します。 資料から明治期の地図に描いた順路図 青い線が作成した順路 順路図を描くための根拠 引用した文献の内容 それから二子の筏宿・亀屋に寄って一休みし、川沿いの道を選んで、宿河原堰のところから登戸の渡船場に着く。 《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p237注:北見方・・きたみかた 文献中のキーワード “ 二子の筏宿・亀屋に寄って ”“ 川沿いの道を選んで ”“ 宿河原堰のところ”“ 登戸の渡船場に着く ” キーワードの考察 二子の筏宿・亀屋の場所はどこか 結論から示すと、次の地図の赤丸の位置が「二子の亀屋」の場…

  • 右岸順路を描く 平間 ~ 諏訪の一本松

    このページは、右岸の筏道の順路を作成した経緯を示します。 資料から明治期の地図に描いた順路図 青い線が作成した順路 順路図を描くための根拠 引用した文献の内容 その先は無堤防なので、丸子、小杉、宮内と府中街道を歩き、 北見方の長崎堤防を通って、諏訪の一本松のところに出る 《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p237注:北見方・・きたみかた 文献中のキーワード “ その先は無堤防 ”“ 丸子、小杉、宮内と府中街道を歩き ”“ 北見方の長崎堤防 ”“ 諏訪の一本松 ” キーワードの考察 その先は無堤防、とは何を指しているのか 考察:下の地図は六郷橋~平間のページで使…

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  • 右岸順路を描く 六郷橋 ~ 平間

    このページは、右岸の筏道の順路を作成した経緯を示します。 明治期の地図に描いた順路図 青い線・・順路 引用した文献の内容 まず六郷橋の近くから土手伝いに平間に出る 文献中のキーワード キーワード“土手伝いに平間に出る” キーワードから生まれる疑問 疑問1 土手とは、明治期の地図のなかでどこを指しているのか。 疑問2 土手伝いとは、なにか。 疑問3 平間とは、明治期の地図のどの場所か。 キーワードの疑問と考察 疑問1:土手とは、明治期の地図のなかでどこを指しているのか 考察:「土手」とは、この地図の場合、六郷橋から続いてる旧堤防を指す。 土手の範囲は六郷橋近くから「鹿嶋田」で終わっている。詳しく…

  • このサイトの使い方

    狛江市を例に挙げて、使い方の説明をします。

  • 左岸の筏道で見つけた話 世田谷区

    「料亭やなぎや」と「大山道道標」 丸子川を背にした「南大山道道標」 筏宿をしていた「池田屋」 地蔵店(じぞうみせ)があった場所は駅ビル 諏訪神社の境内にある「筏道石標」 二子玉川駅の近くの「江戸道道標」 昔このあたりは岸と呼ばれたので「岸橋」 岸橋の名前を刻んだ「岸橋石標」 喜多見の「念仏車」 話のいどころ それぞれの話 「料亭やなぎや」と「大山道道標」 料亭「やなぎや」の看板の下の道路脇に、大山道道標はありました。その昔、神奈川県伊勢原市にある大山を目指した人たちが歩いたのが大山道です。そして大山道と筏道はときどき重なることがあります。ここもその一つでした。 丸子川を背にした「南大山道道標」…

  • 左岸の筏道で見つけた話 狛江市

    「品川道」へ入る脇道 「二の橋」の大きなケアキ 一の橋信号の「石橋供養塔」 話の場所 「品川道」へ入る脇道 狛江三叉路から狛江通りを駅に向かって歩くと、左側に路地があります。路地の入口には「品川道」と書かれた大きな案内がありました。 「品川道」はその昔、大國魂神社から品川湊まで、お清めの水を求めて歩いた古い道です。そしてこの案内に沿って品川道を歩きました。道は自然にゆったりと曲がっていました。 「二の橋」の大きなケアキ 二の橋の信号で、大田区から続いた筏道は世田谷通りに出会います。 この二の橋バス停の横には、直径80センチにもなるケヤキが、筏道を覆うように葉を広げていました。資料によれば、当時…

  • 左岸の筏道で見つけた話 調布市

    国領町1丁目の庚申塔 「八町首無し」と言われた真っすぐな道 鋸の「二見屋甚八碑」 小島一里塚 話の場所 国領町1丁目の庚申塔 この庚申塔とマンションの間を、南の方角へ細い道が続いていました。そしてこの細い道の先の国領5丁目あたりを明治時代の地図で見ると、「上ケ給村」と記されてありました。明治時代、この先には小さな村があったようです。そしてこの庚申塔さんは、村の入り口に立って、いろいろな災いから村を守ってきました。筏乗りたちも、ここで手を合わせていたのでしょうか。 《引用文献》参照した地図です。『農研機構地図』の「迅速地図(関東)」農研機構の地図については「地図の見方・資料の引用」ページで詳細に…

  • 左岸の筏道で見つけた話 府中市

    「鍋屋横丁」の石標 「府中宿新宿入口」の石標 品川街道との合流地点 話の場所 「鍋屋横丁」の石標 ここで写真を撮っていると、途切れること無くクルマが通り過ぎます。府中市内でも交通量の多い交差点のようですね。「鍋屋横丁」の石標は信号の隅にありました。 では、ここの「鍋屋横丁」の名前の由来を、石標に記されたまま載せます。 《引用》鍋屋横丁(なべやよこちょう)の名は 旧甲州街道からこの道に入る角の家(佐藤家)の屋号 “ 鍋屋 ” に由来します。同じ鍋屋の屋号のついた「鍋屋道」が北の方にあります。 「府中宿新宿入口」の石標 この碑は、小金井街道と書かれた案内板の下にありました。普段なら見過ごすほどの、…

  • 左岸の筏道で見つけた話 大田区

    羽田の筏宿(いかだやど) 羽田の渡し場への分かれ道 羽田の長いレンガ堤防 羽田の渡し跡 六郷神社と八幡塚(はちまんづか) 六郷最後の筏宿 北野天神の「六郷の渡し跡」 六郷橋の親柱に乗る小舟 筏乗りは六郷橋を渡って川崎へ 東八幡神社の「矢口の渡し跡」 鎌倉道と筏道が出会うところ 西嶺町の嶺西向庚申塔 話のいどころ それぞれの話 羽田の筏宿(いかだやど) かつて、このあたりは「羽田猟師町」(はねだりょうしまち)と言われました。漁師ではなくて「猟師」と書きます。 江戸時代は「猟師」と表記することが多かったようで、他にも品川猟師町、深川猟師町、神奈川猟師町などもありました。そして、この近くには、筏乗り…

  • 話の場所を地図に示す

    大田区 世田谷区 狛江市 調布市 府中市 話題に挙げた内容の場所について、それぞれの地図に載せました。 大田区 記事のページ 大田区 世田谷区 記事のページ 世田谷区 狛江市 記事のページ 狛江市 調布市 記事のページ 調布市 府中市 記事のページ 府中市

  • 稲田堤 ~ 矢野口の渡し

    稲田堤 ~ 矢野口の渡し - 多摩川の筏道

  • 登戸の渡し ~ 稲田堤

    登戸の渡し ~ 稲田堤 - 多摩川の筏道

  • 諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し

    諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し - 多摩川の筏道

  • 平間の渡し ~ 諏訪の一本松

    平間の渡し ~ 諏訪の一本松 - 多摩川の筏道

  • 六郷橋 ~ 平間の渡し

    六郷橋 ~ 平間の渡し - 多摩川の筏道

  • 府中市の筏道

    府中市の筏道 - 多摩川の筏道

  • 調布市の筏道

    調布市の筏道 - 多摩川の筏道

  • 狛江市の筏道

    狛江市の筏道 - 多摩川の筏道

  • 世田谷区の筏道

    世田谷区の筏道 - 多摩川の筏道

  • 大田区の筏道

    ワンポイント取説

  • 時代と共に移動した「矢野口の渡船場」

    古い地図に載っている矢野口の渡船場 多摩川右岸の筏道を六郷橋から歩いてくると、このサイトでは、終点は矢野口の渡船場です。そして、いくつかの古い地図を見ると、矢野口の渡船場の場所が違っていることに気づきます。 さて、一般的に川の渡船場は川の流れによって移動しました。古くから「あばれ川」といわれた多摩川も同様で、渡船場は移動しました。そこでつぎに示したいくつかの地図は、古い地図に載っている矢野口の渡船場です。年代ごとの場所の違いを見てください。 明治初期~中期 つぎの地図では、渡船場にある小舟と、小舟の後ろにある船頭小屋が確認できます。 明治39年 多摩川の中に道が描かれています。 明治45年 つ…

  • 矢野口の渡船場から「しながわ道」

    調べている資料のなかに、次のような記述がありました。それは青梅市内にお住まいの明治18年生まれの男性の話です。つぎはその男性からの聞き書きで、調査は昭和40年とのことです。 筏乗りは十人ぐらいが一組になり、丸子から二子を経て登戸、中野島を通って菅に出た。菅の渡船場から調布に出て品川道を通り、府中で一休みをして立川まで歩いた。 《引用文献》角田益信,2000,稲田郷土史会,『あゆたか38号』,p32 資料の中のキーワード この聞き書きにはいくつかのキーワードがあります。 一つ目・・菅の渡船場二つ目・・調布に出て品川道を通り 菅の渡船場 別のページ「矢野口の渡船場から甲州街道へ」で、地図にある「矢…

  • 矢野口の渡船場から「甲州街道」へ

    いままで、多摩川の左岸と右岸の筏道を歩きました。そしてこのサイトでの右岸の終点は、矢野口の渡船場にしています。 矢野口の渡船場 明治39年 参考にした引用文献を読むと、当時の筏乗りたちは矢野口の渡船場から多摩川を渡って甲州街道へ出た、とあります。これは、このサイトのタイトル『多摩川の筏道』の範囲とは少し離れてしまいますが、筏乗りたちが歩いた道としてみれば、許容の範囲だと思います。ということで、古地図を使って、その順路を探してみることにします。 次の地図は、このサイトで使っている古地図からの抜粋で、地図のなかに矢野口の渡船場の記載を見つけました。 この地図からわかること。 「矢野口渡」と書かれた…

  • 筏道に関連するはなし

    筏道に関連する話です

  • 渡し舟の船頭小屋

    ここは、小田急線向ヶ丘遊園駅から歩いて15分の「日本民家園」という川崎市の施設の中です。ここには、かつて多摩川の渡し舟で使われていた、船頭小屋の本物が展示してあります。つぎからの写真が船頭小屋です。 この船頭小屋は、川崎市多摩区の「菅」という場所と対岸の「調布」を結んでいた渡船場で使われていました。小屋の幅は一間、約180センチ、奥行もその位です。たいへんに小さいものだったのですね。 小屋には簡単な囲炉裏が作ってあり、大人が四人座れる広さですが、かなり狭いです。当時は日がな一日、ここでお客さんが来るのを待っていたんです。 小屋の周りの四カ所には、つぎの写真のような鉄の輪が付いてました。説明によ…

  • お問い合わせ

    このサイトでは、多摩川の筏道のいろいろについて書いてみました。 ほとんど知られてない筏道についての資料は少なく、調査に時間がかかりました。現地を何度も歩いて写真を撮り、参考資料もできるだけ調べたつもりですが、内容に疑問なところや間違いがありましたらご指摘ください。 そして、GoogleMapに載せた風景などは、写真よりもイラストにしたほうが雰囲気が出ると思い、写真をイラスト風に加工してあります。また、多摩川の筏道に関係した情報やご質問、表示の不具合などもどうぞ。 最後に、みなさんの中には、多摩川の河岸を散歩されている方も多いと思います。散歩の途中、なにげなく細い道を見つけたら、それはまだ知られ…

  • 資料の引用と出典

    文献からの引用 筏道のポイントの説明には、文献からも引用させてもらいました。 文献などの文章をそのまま使う場合は、引用した文頭に《引用》と入れました。引用した文献の書名等の表記は《引用文献》とし、下記のようにします。 ・書籍から引用の場合 著者、発表年、出版社、書名、引用ページ ・雑誌、研究誌から引用の場合 著者、発表年、編集発行、書名、記事タイトル、巻号、引用ページ ・インターネットサイトから引用の場合 著者、サイト名、記事タイトル、入手日、記事URL 地図の出典 このサイトでGoogleマップ以外の地図を使う場合は、下記の地図を使っています。地図はそれぞれのサイトから抜粋して、文字や記号等…

  • サイトの目的と方法

    サイトの目的 筏道という言葉は、だれもが知っている “ メジャーな言葉 ” ではないため、まったくというほど知られていません。それでも、多摩川の筏道について書かれたものが、いくつかの出版物のなかにあります。 目的の一つ目 筏道という道があったことを知ってもらうために、筏道の順路をインターネットで見れる地図にします。また、筏乗りたちが帰り道に歩いた道中には、安全を祈った道祖神があったり、歩き疲れての休憩でちょっと一杯のお店もあったり、小腹がすいて団子屋に寄ったこともあったはづです。 途中、仲間たちと旅籠に泊まったという内容の資料もありました。帰り道の道中は、まるで小さな旅のように、村ごとに新しい…

  • 修正した順路を五つに分ける

    [地図全体を表示する] 上の「地図全体を表示する」をクリックして出る地図は、実際に歩けるように修正した右岸の順路全体です。 赤色の線が修正済の順路で、オレンジ色の星印は、順路を五つに分けるポイントです。 つぎの五つは、右岸のそれぞれの道をGoogleマップで表示します。六郷橋 ~ 平間の渡し平間の渡し ~ 諏訪の一本松諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し登戸の渡し ~ 稲田堤稲田堤 ~ 矢野口の渡し 前書きのような、あと書き サイトの目的と方法資料の引用と出典

  • 古い順路を修正する

    [地図を表示する] 上の「地図を表示する」をクリックして出る地図は、修正した順路です。 赤色の線は、現在の道路に上に描いてあます。ところどころに道路から外れたようになっていますが、歩ける場所です。 そしてこの順路を、多摩川右岸の筏道とします。 つぎのページ >> 修正した順路を五つに分ける

  • 古い順路を現用地図で見る

    [地図を表示する] 上の「地図を表示する」をクリックして出る地図は、古い地図で作成した順路を、現用地図にそのまま載せたものです。青色の線がその順路です。 地図をよく見ると、いくつかのところで、順路の線が多摩川の川の中にあるのが確認できます。このことは当然と言えば当然で、明治の頃の多摩川の流れと現在の流れ方が違っていることによるものです。 しかし、筏道の順路を歩いて探すには勝手が違ってきます。そこで、この古い地図から作成した順路を、実際に歩ける順路に変更することにします。 つぎのページ >> 古い順路を修正する

  • 文献と古い地図で作成した右岸順路

    全体図 《出典》このページの地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。表示地図:首都圏1896-1909。同地図から一部を抜粋し記号等を追記して使用。青線の追記には「地理情報システム ひなたGIS」を使用。その他の追記は本サイト作者による。参照>>資料の引用と出典 文献の内容から全体を五つに分ける 文献の内容(a) 「まず六郷橋の近くから土手伝いに平間に出る」 文献の内容(b) 「その先は無堤防なので、丸子、小杉、宮内と府中街道を歩き、北見方の長崎堤防を通って、諏訪の一本松のところに出る」 文献の内容(c) 「それから二子の筏宿…

  • 古い地図に文献の順路を描く方法

    《出典》この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。表示地図:首都圏1896-1909。同地図から一部を抜粋し記号等を追記して使用。追記は本サイト作者による。参照>>資料の引用と出典 文献と古い地図を使って、筏道の順路を作る ではここで、右岸の筏道の設定方法について、例を挙げて説明します。 使うものは、1)引用する文献『多摩川の筏流し』のなかにある記事2)「今昔マップ on the web」の 地図そして上の地図は、1と2を使って、例として地図の上に描いた筏道です。 例に挙げた筏道の作成方法についての細かな説明 場所について明…

  • 文献に合う古い地図を探す

    「左岸と右岸順路の作成比較」のページに示しましたように、右岸の場合は、古い地図を使って作ることが最初です。つぎは地図について示します。 選んだ古い地図 参考文献による年代から選択時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」同地図の首都圏1896-1909※ 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(C)谷謙二により作成されたものから一部を抜粋し、記号等を追記して使用 地図中へ記号等の追記をするためのサイト名「地理情報システム ひなたGIS」 「迅速地図」という地図を使用する場合のサイト名「農研機構農業環境研究部門」内「歴史的農業環境閲覧システム」※ 上記の各サイ…

  • 右岸筏道の文献を探す

    ページ「左岸右岸の順路作成方法の比較」に示しましたように、資料の選択が重要になってきます。つぎは、右岸の全体を作るために引用させてもらった資料についての詳細です。 右岸筏道の順路を作るために引用させてもらった文献 筆 者:平野順治発行年:2008年発行者:大田区郷土の会書 名:『多摩川の筏流し』 この文献を選んだ理由 左岸の順路の作成で参考にさせてもらった資料は『大田区史誌12』です。 同じ資料を使って右岸の順路を作成できるのが最良だと思いましたが、この資料には右岸の筏道についての内容はほとんどありませんでした。そこで、同じ筆者によるものであれば、書かれた資料などの背景は同じではないか、と思い…

  • 順路作成方法の比較

    左岸筏道の順路は、既に出版されてる大田区の資料を使わせてもらいました。 右岸筏道の地図については、図書館などの郷土資料なども含めて調べたましたが、調べた範囲ではありませんでした。資料に筏道という文字を見つけても “ 筏道があった ” という言葉で終わっています。 ということは、筏道の地図を探すのではなくて、「川崎にあった筏道」に関係した資料を探して、その中から右岸筏道の順路を作ることができる内容を、見つけ出す必要があります。 つぎのページ >> 右岸筏道の文献を探す

  • 左岸の順路図の見方

    このサイトはGoogleマップ上の細かな操作が多くありますので、広いモニターで見ることができるパソコンの利用を推奨します。 では、このサイトで使うGoogleマップの操作について、説明します。 手順0 共通の操作 共通する操作は、見ている地図を閉じる方法です拡大地図を見ているとき×印をクリック▼表示中の地図は閉じます 手順1 地図とポイント一覧を表示 例えば、目次ページで[ 世田谷区の筏道 ]をクリック▼地図は別のタブで表示画面左に、世田谷区で扱うポイントの一覧が出ます 手順2 一覧から選ぶ 見たいポイントをクリック地図上のポイントでも可能▼画面左に、選択したポイントの絵とメモが出ます別のポイ…

  • 左岸の順路は羽田から府中まで

    《出典》地図は地理院地図から一部を抜粋して、記号等を追記して使用 左岸の筏道の全体 上の地図は、このサイトで扱う「多摩川左岸の筏道」の全体です。 赤色の線が筏道で、出発点は大田区の羽田、このサイトでの到着点は府中市内までです。 地図中に大田区、世田谷区などとあるのは、行政区分のイメージを持ってもらうために書き込みました。行政区分の境界点は記号で示し、それぞれの境界は大掴みな位置です。 引用させてもらった文献 このサイトでは、下記に示した文献に掲載された順路を使います。 文献のなかの地図では、府中市内の終点は京王線・東府中駅近くの旧甲州街道上でした。そこで旧甲州街道上の順路を少し延長して、府中市…

  • 筏道は筏乗りの帰り道

    さて、公園で小学生の男の子が、お父さんに質問をしています。Q:筏道ってなんなの?A:それはね、江戸時代から大正時代の頃の話なんだよ。東京と神奈川県の境を流れている多摩川での話なんだ。多摩川のずっと上流で、切った山の木を川に並べて、結んで、多摩川の流れに乗せて、河口近くまで運んでいたんだ。それを「筏流し」(いかだながし)って呼んでいるよ。筏には男の人が乗っていて、筏を操っていたんだ。そして、流れに乗って無事に到着したら、筏は受け取りの人に渡して、まだ鉄道が無いころは、筏に乗っていた男の人は歩いて帰ったんだ。その「帰り道」のことを「筏道」(いかだみち)って呼んでいるんだよ。そして「筏道」は、多摩川…

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