曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「あずさわ日記」に準じて新たに 「あずさわたより」を開始いたしました。 同じく光明思想の発信をとおして、 自己啓発のお役にたてればうれしいです。
光明思想『生命の實相哲学』を学ぶ機会です宗教法人 生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会の全国大会が始まる!ゲスト講師:石 平(せき へい)氏評論家お申込みは学ぶ会本部のサイト(お問い合わせ)まで電話03
しかし物質界の法則を透過して別の次元に住む「靈的自己」を悟得したとき、その人はこの垂示の示すところの「透得し了った人」となるのである。自己の實相が“肉體”といふ物質でないといふ眞理を、物質世界を透過して
それは譬へば檻の中に棲んでいる動物園の熊みたやうな存在である。動物園に飼はれている熊にとってはその容れられている檻が「偏に銀山鐡壁に似たり」であって、それから透得することはできない。この世界を“物質的
第五十七則 趙州至道無難【垂示】垂示に云く。未だ透得せざる巳前一へに銀山鐡壁に似たり。透得し了るに及んで、自己元來、是れ鐡壁銀山。或は人有りて、且く作麼生と問はば、但、他に向って道はん。若し箇の裏に
敵将を斃すには、その箭がどっち向いて行くか、先ず放たれた箭の描く路線をハッキリ見なければならないのである。玄沙の岑和尚が言った言葉に「大丈夫、天に先立って心の祖となる」といふのがあるが、「祖師曾て西來
この唯物論将軍が出生したそもそもの根因は、眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)の感覺であるから、唯物論を退治するために、眼耳鼻舌身の錯覺的認識を否定しなければならない。即ち『般若心経』がいみじくも説いているや
過去長い人生の歩みの中で、幸福にも尊師のご講話(音声データ)を数多く入手する事になりました。昨今の情報によりますと、地球には古代より太陽光が降り注ぎ、その中にはネット社会に多くの障害を与える恐れがあり
すなはち「觸れる」といふことを通して自分の存在が「肉體」といふ物質であると錯覚し、外界に存在するものも、母親の乳房をはじめとして物質であると錯覺する。つまり“觸れ合ふ”といふ偶然の出來事を通して忽然ヒョ
貪瞋癡の三關は人間に無限の税を課し、人間からすべての幸福を奪い去る税關の官吏であるが、その司令たる「根本無明」は何處から生じたものであらうか。『大乗起信論』には「忽然念起」と示されているが、“忽然”とは
【頌】頌に云く。君が與に放出す關の主。放箭の徒、芥鹵(ぼうろ)なること莫れ。箇の眼を取れば耳必ず聾す。箇の耳を捨つれば、目雙(めふたつ)ながら瞽(こ)す。憐れむべし一箭破三關。的々分明なり箭後の路。君見ずや
良禪客は『傳燈録』にもその名の出ている相當立派な僧で巨良和尚といふ名の人ださうだが、貪瞋癡の根元になっている“根本無明”を今直ぐ考へ出さうとしたが、どうしても思ひ出せないので、「三關を一鏃で見事に破った
良禪客は、一本の悟の箭をもって貪瞋癡の三關を打ち破ることが出來るとは言って見たものの、その三つの關所を支配している司令官たる“根本無明”が何者であるかを知らず、それを射殺すことが出來ていなかったら、三つ
【本則】擧す、良禪客、欽山に問ふ。一鏃破三關の時如何。山曰く、關中の主を放出せよ看ん。良曰く、恁麼ならば則ち過を知りて必ず改めん。山曰く、更に何の時をか待たん。良曰く、好箭放ちて所在を著けずと云ひて便
それだから、吾々が外に眞理お求める對象となる諸佛や祖師を抹殺するために、この垂示は、「諸佛曾てこの世に出でず」だから、そんな諸佛からから眞理を授からうと思っても、外にそれを求めたのでは「一法の人に與ふ
眞理といふものは釋尊や達磨大師のやうな特殊な宗教的天才にのみ與へられているのではなく、各人の脚跟下に、各自の“生命の實相”そのものの中に、今現にあるのである。それを外に向かって諸佛にもとめたり、達磨に求
「一段の大事因縁」といふ語は法華経に「吾れ一大事因縁を以っての故に世に出興せり」とあるのを引用したのであって、何も釋迦だけが一大事因縁を以っての故にこの世に生まれて來られたのではないのである。すべての
第五十六則 欽山一鏃破三關【垂示】垂示に云く。諸佛曽て出世せず、亦一法の人に與ふるなし。祖師曽て 西來せず、未だ曽て“心”を以て傳授せず。自ら是れ時人了ぜず、外に向って馳求す。殊に知らず、自己脚跟下(き
今、尊師谷口雅春先生に、凡ての宗教を完成し日本の實相を顕現するものとして天降られ、また嘗て道元禪師をして『正法眼蔵』を道得せしめた光耀と歡喜滿ち溢れる神の生命が、今私たちをも等しく貫いていると見得され
即ち、無常變轉の現象界における一時的顕現としての生死の中に佛があって、“生死”と“佛”とが重なり合っているといふのではない。現象生死即佛涅槃即實在であるといふのではない。道元禪師にあっても無常不定の現象生
久遠生き通しの佛のいのち、實相の生のみ獨在するが故に、人間をさして不生といひ、不滅といふ。人間は未だ嘗て女の子宮から生れたことはないのである。死もないのである。肉體なし。肉體などないから掴みやうがない
獨在するは宇宙いっぱいの佛のいのちそのものである。佛の生命の中には、のちもさきも既に含まれていて久遠である。時間・空間がただ一點に巻きをさめられている“未發の中(みはつのちゅう)”が佛の生命であり、實相の
先日、縁がありまして、あの有名な拉致被害者に視点を集めたドキュメンタリー映画の試写会にお招き頂きました。とても辛く、胸を打つ作品でした。一つ思う事は、被害者様の親ごさんは、熱心なご信仰をお持ちのご様子
四、「ひとときのくらい」の解釋次の「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり、生はひとときの位にて、すでに先あり後あり。かるがゆえに佛法のなかには、生すなはち不生といふ、滅もひとときの位にてま
『神 真理を告げ給う』四四頁には次の如きお言葉がございます。「あなたは仏教の『煩悩即菩提』という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。“迷い”がそのまま“菩提”の道程であるということで
そして次に続く「ただ生死すなはち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり」との道元禪師のお言葉は、日常生死の巖頭に立って大宇宙いっぱいの
そのとき、今此處の久遠の一點に於いて佛のいのちがいっぱいに生きるのである。蓮華は泥中にあって既に華咲く。悉く善に向かふひとすぢの道ひとつひとつの踏石としてのかかる生死から、たとへ苦しくとも逃げださうと
三、「もし人、生死のほかにほとけをもとむれば……」との道元禪師の言葉實相の見地から觀て、道元禪師が夾山・定山兩和尚の句の何れにも獨在する實相を當觀し、その夫々に勝ち點を與へていると解釋すると、「もし人生
そしてこの一節を中心にして、かかる實相獨在の見地から、「生死の巻」全體を當觀すると、冒頭の「生死のなかに佛あれば、生死なし」との夾山和尚のおことばは、先生ご教示の如く「生死未だ發せざる根元の“中”に於い
二、夾山・定山両和尚のことばさて、「漸源弔慰」文中での先生のご引用は、そこまで及んでをりませんが、『正法眼蔵』“生死の巻”の中心となる道元禪師のお言葉は「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛のいへに
「盡十方世界一顆明珠なり、兩顆三顆といはず。全身これ一隻の正法眼なり、全身これ眞實體なり、全身これ一句なり、全身これ光明なり、全身これ全心なり。全身のとき全身の罣ぎなし、圓陀陀陀地なり、轉轆轆なり、明
かかる世界を相即相入、一即多即一の華嚴の時々無碍法界と觀るも自在であります。「佛性海といひ、毗盧蔵海(びるざうかい)といふ、ただこれ萬有なり。海面みえざれども、游泳の行履に疑著することなし」(海印三昧の
道元禪師が道得するところは、如上のやうに實相そのままであります。 龍宮海を底打つ濤、その光波萬波の久遠のきらめきが『正法眼蔵』の一字一句であります。 觀るままの事實、證驗するままの事實を直截に語るので
道元禪師はまた、「夢中説夢の巻」に於いて、「いはゆる拈華瞬目、すなはち夢中説夢なり、體拝得隨、すなはち夢中説夢なり。……解脱の夢中説夢にあらずといふことなし。夢これ盡大地なり、盡大地は平なり、このゆえに
ただ、『神 真理を告げ給う』に於いてお示しの如く、道元禪師が肉の眼によらず正法眼で、はっきりと實在の光耀を當觀し、その實相を禪師獨自の賦彩をもって『正法眼蔵』に開示されたのも眞實であります。道元禪師は
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曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの
曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの