曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「あずさわ日記」に準じて新たに 「あずさわたより」を開始いたしました。 同じく光明思想の発信をとおして、 自己啓発のお役にたてればうれしいです。
そこで洞山和尚は多分その悟のない問僧がいまいましくなったのであらう。「寒時には闍黎を寒殺し、熱時には闍黎を熱殺す」と突っ撥ねているのである。“闍黎”というのは“阿闍黎”の略で僧侶の尊號である。ここでは相手
そこでどういふ風に、どの程度に鉗鎚を加えるかといふことを明らかにしなければならぬ。これは、日本刀なら、その作者たる刀匠の火加減によるのであって、それは刀匠各自の極秘である家風につたはる秘伝ともいふべき
ただいまこのブログサイトの アクセスが丁度10,000回を超えました。より多くの皆様が、真理に目覚めて お幸せになられます様に。
これは“眼薬”の譬喩どころではなく、心を向上せしめるには日本刀を鍛へる時のやうに鐡鎚で叩き直してやらなければならないといふのである。“鉗鎚”の“鉗”は鐵片を挟んで火爐の中に入れる柄の長いヤットコ(ペンチとも
ほんのちょっと「心の眼」をひらいて、「この世界は唯一の神の創造になる世界であるから、どこにも敵は無い、みんな味方だ」といふ實相の觀點にお立ちになるならば、「全機處に隨って齊しく彰る」であって、自己に宿
突然、こんなニュースが舞い込んだ!長年、光明思想『生命の実相哲学』を学び、下記サイトにて尊師の高邁な思想を、極力其の侭お伝えさせて戴きたい所存でした。今後継続可能かは不明ですが、続限り投稿をさせていた
しかし天地の萬の物が“神のコトバ”によって生じたる吾々の兄弟姉妹であるといふことを自覺せず、唯物論に陥りて、自他分裂の對立關係にすべてのものがあるといふやうな見解に立つならば、同じ“働きの場”ではたらく人
「乾坤を定むるの句」の“句”といふのは、神が“天地は斯くあれ”と神が發せられた句である。“句”とは字畫の中に“口”があるので明らかなやうに、コトバのことである。聖書の「ヨハネ傳」福音書の第一章には、「太初に言
人間の頭脳智では、船が衝突しないやうに水路を定めておいても、必ず一年間に十数回位は互いに衝突したり、船體が大破損をしてタンカー積載の原油が海中の流出して、公害ははなはだしく、魚貝が汚染せられ、死滅する
第四十三則 洞山寒暑廻避【垂示】垂示に云く。乾坤(けんこん:天と地)を定むるの句、萬世共に遵ふ。虎兕(こじ)を檎(とら)ふの機、千聖も辨ずる莫し。更に繊翳(せんえい)なくんば、全機處に隨って齋しく彰る。向上の
實相は、ただ白皚々(はくがいがい)の銀世界、それをも超えたる世界である。眼ありとも眼裏にはあらはれず、耳ありとも耳に聞くことが出來ない。「白皚々瀟灑(せうしゃ)の世界をも超絶しているのが、實相である。肉眼
【頌】頌に云く。本則は、垂示が示しているやうに入り込んでいて、判断に苦しむところがあるのである。雪竇が、「初問の處に、但だ雪團を握って、便ち打たん」といったとき、その初問の處とは全禪客が「それならその
その時、居士は、「儞恁麼に禪客と称せば、閻老師、未だ儞を放さざること在らん」といった、易しい語で言ひかへると、「お前、恁麼ことで禪客だなど偉さうなことを言ってをったら、閻魔の廳へ往ったら閻魔大王に引っ
「好雪片々、別處に落ちず」と龐居士がいったのを「動いているままで、そのまま天地静寂だ」といふやうな深い悟の言葉だとは氣がつかないところの、まだ未熟な全といふ名の客僧が、その言葉尻を捉へて、「別所に落ち
この公案は、龐居士が、馬祖大師から得法の寺院に老師をたづねて参禪修行を重ねていれれるうちに、たまたま、もと石頭和尚門下の同参であった藥山大師の住持せられるお寺に到て、入室参禪して、さて暇乞をするときに
あずさわたよりを日頃閲覧下さいます皆様へ深くお詫び申し上げます。実はしばらく以前の書き込み○努力は惜しんではいけませんね(2023年05月23日)辺りから、ブログ投稿の文章の引用先に本来(『碧巖録解釈』谷口雅
一、天皇神格説を日本民族の魂から抜きとらなければならないので、天皇の名に於いて、「天皇は神に非らず、人間のひとりである」といふ意味の「人間宣言」の詔勅を公布せしめたのである。二、天皇を政治家がかついで
三木首相が十二月一日になって、記者會見で「法秩序を守る」ことを第一項目としてストによる威嚇によっては政府は断じて屈しないことを明らかにし公労協の職員にスト権を與へるか與へないかは、自分は独裁者ではない
政府側の主張と公労協側との主張と、どちらも自分の方を「是」としているが、どちらの側も必ずしも「是」ばかりではないのである。わたしはこの月「白鳩」誌の箴言の中では、三木首相にスト権といふ“抽象的な名”は素
どちらが「是」か「非」か、どちらが「順」でどちらが「逆」か、日本崩壊の目的で起草した「日本國憲法」側に立っている社会党の成田委員長に言はせれば政府が「非」で、スト権奪還闘争のストを継続する公労協が「是
「聖も亦知ること能はず、逆順縦横の時、佛も亦辨ずること能はず」である。何故ならお釋迦さんにはこんな政治問題を、“國家を護る”愛國者の側に立って、どんなに處置する能力などはないのである。だから釋迦生誕の祖
そんな人物なら、進退擧措自由自在、あるときは氷を結んでいる湖面を、スケート選手の如く自由自在に滑走し、刃渡りの秘術をつくす修験者の如く劍刃上で曲芸をする奇術師、松旭斎天勝の如く、どんな危険も克服して自
【本則】擧す。趙州、投子に問ふ、大死の人、却って活する時、如何。投子云く、夜行を許さず。明に投じて須く到るべし。【解釈】趙州和尚は六十歳で出家して南泉和尚の下に二十年間も修行して、八十歳にして悟をひら
投子和尚曰く「夜行を許さず」といふのは、大死底の人は、肉體的障壁を超えているから自在無礙であるから夜行即ち闇討ちして相手の不用意を衝いて勝利を得たり、武装していない第三者の國民を人質にして、それを苦し
第四十二則 龐居士好雪片々【垂示】垂示に云く、単提獨弄、蒂水だ泥。敲唱倶に行ずれば銀山鐡壁。擬議すれば則ち髑髏前に鬼を見る。尋思すれば則ち黒山下に打坐す。明々たる杲日天に麗き、颯々たる清風地をめぐる。
「敲唱倶に行ず唱倶に行ず」といふのは、鐘を敲けば、同時同所にその唱を發するのである。「鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか、鐘と撞木の間が鳴る」といふ教歌があるが、敲けば直ぐに相手に適當な答が響でるのであって
もっとスラスラと、人間といふものは、槍術の達人が一棹の槍を自由自在にもてあそぶやうに自在無礙ならなければならない。「かうしては此處に隙が出來るから駄目だ。ではかうしたら、その反對の裏側に隙が出來る」と
【本則】擧す。龐居士、藥山を辞す。山、十人の禪客に命じて、相送って門首に至らしむ。居士空中の雪を指して云く、好雪片々、別處に落ちず。時に全禪客といふものあり、云く、什麼の處にか落在する。士打つこと一掌
07心の向きを変えよスター・ディリーは刑務所の労役の作業としてミシンを掛ける時にも、衣服の仕立てその物を、一つのゲームとしてやる様になった。一枚一枚の仕立てを前にやった裁縫よりも一層良くするゲームとして
我と彼とは本来一体で有る。其処から此の平方は生まれて来る。戦うんでは無いんです。無敵なんですから。敵は無いんだから喧嘩じゃ無いんですね。平方なんだ。平らかなんです。平等の平です。平等だ。其れの嫡孫で有
第四十一則 趙州大死底人【垂示】垂示に云く。是非交結の處、聖も亦知ること能はず、逆順縦横の時、佛も亦辨ずること能はず。絶世超倫の士たるは、逸群大士の能を顕はす。冰凌上に向って行き、劔刀上に走る。直下に
これら各々異なる國家成立の根本たるアイディア又は「理念」は、單に國旗にのみあらはれるのではなく、所謂るその國の國體として、不動不變に継続して、日本國に於いては「大日本帝國は萬世一系の天皇これを統治す」
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曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの
曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの