曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「あずさわ日記」に準じて新たに 「あずさわたより」を開始いたしました。 同じく光明思想の発信をとおして、 自己啓発のお役にたてればうれしいです。
むかしむかし、西洋文化が黒船が我が国に持ち込んだ文明とやらが、今世界中を席巻して様々な争いを巻き起こしています。確かに西洋文化の良きものも有りましたが。散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする。 と
これこそ説法で、今まで千佛萬租の諸聖たちが、未だ説かざるところの法を、説かずして説き給うた無言説法であった。その意を解した者はただ迦葉尊者ひとりであったといふことであるが、本當に迦葉が、金波羅華の秘沈
釋尊は、菩提樹下に結跏趺坐して「永劫の一點を睥睨して」その一點に引っかかる事なく、一點を“無”の門關としてその關扉をひらいて、更に進百歩してそこに、毘盧遮那佛(大日如來・天照大神)が中座にましまして盡十
百丈は、「我れ、はなはだ儞がために説き了れり」(説かれない眞理は説きやうがないと、こんなにくどくどお前のために説き了っているではないか。お前にはそれがわかっている筈だ)かう問答して、つひに両僧はテレビ
過去、想う処があり、復刻を続けていた「大日本史」ですが、余りにも膨大な大著故、個人的には手に余り、遂に筆を止めてしまいました。しかし、世に多くの歴史書有るも、未だ未だ大日本史の多くの情報を巷に広める意
私が二十歳頃、国鉄大塚近くに住んでいました。ある日、駅前の古書店で運命的な出会いがありました。店の前の陳列の中に分厚くボロボロの書物を発見致しました。それが水戸光圀公の編纂された『大日本史』でした。ど
南泉は「不是新、不是佛、不是物」と答へた。この答へは幾様にも解せられるが、「人は是れが心、是れが佛、是れが物と、心に執して心を説明し、佛に執して佛を説き、物に執して物を説くが、その心に非ざるもの、その
南泉和尚が兄弟子であるところの百丈の惟政和尚を訪問して、教へを受けたのだといふ説もある。しかし、そんなことは、誰と誰との問答でも、問答の中味さへ眞理を説くものであれば問題とすべきでないと思ふ。さて、そ
【本則】擧す。南泉、百丈の涅槃和尚に参ず。丈問ふ、従上の諸聖還って人の為に説かざる底の法ありや。泉云く、有り。丈云く、作麼生か是れ人の為に説かざる底の法。泉云く、不是心、不是佛、不是物。丈云く、説了也
スター・ディリーは刑務所の労役の作業としてミシンを掛ける時にも、衣服の仕立てその物を、一つのゲームとしてやる様になった。一枚一枚の仕立てを前にやった裁縫よりも一層良くするゲームとして努力する事にした。
氏は時には駒澤大學講師といふ名刺を使って學生を導き、今度の参院選にも駒澤大學関係から何萬かの票を得ているのである。氏はまた著述家として田中忠雄全集十巻の執筆者でもある。かくの如く氏は一定の“位”に据わる
あなたは「興道老師の鉗鎚を受けた一居士が、全國區から立候補した」と攻撃の矢を放っている相手は、我々生長の家の人たちが推薦し應援した田中忠雄氏のことを言っていられるのだが、氏は何も一党に偏している譯では
さて田中圓海師におたづねするが、あなたは静かに背筋を伸ばして永劫の一點を睥睨して、どれほど人倫に貢獻することが出來ましたかお答へ願ひたい。鎌倉時代の佛教は「劍禪一如」の心境に達した武将を養成したり、北
その次に田中圓海師は澤木興道老師に言及して、老師の許へ参禪に集まった人たちが熱心のあまり「参禪者の集りを發起してこの運動を弘めよう」と發案したとき澤木興道老師は「そのやうなものは作ることはない。坐りた
それからですね、其の中居さんと云う方から其の翌日です。他所から帰って来ると向こうからね、何処かで見た様な顔のちいちゃい女の子が走って来る。「あれ、何処の子だろう。」と思って居ると。「お父ちゃん。」と抱
先日、中外日報を見ていると、箱根の興禪院の禪僧・田中圓海師が「政治と宗教」といふ題で書いた随想風のものが載っていたのが眼に觸れた。それには中々よい事が書いてあったのでその一節を引用すると、「本物は野に
第二十八則 涅槃和尚諸聖 【垂示】この第二十八則にも垂示はない。それだから假に私が垂示を書いておくことにする。私は禪僧の問答の仕方や、その生活の仕方に“わしは禪僧だから、このやうに構えて問答をしなけ
山々は、登ったことのない者にとっては地球の絶望の姿だと映ずることだろう。タゴール信仰と云うものはその感動に触れた者でなければ、詰まらぬものに映ずることだろう。信仰は生活の中に入った時、その輝きを増す。
「一鏃空に遼る」といふのは、蒼空に向かって射た矢の鏃が遼かなる幽玄の眞理を射抜いて、たしかに手ごたへがあったといふ意味である。その爽かさは廣野を秋風が颯々と、さわたるやうな感じで眞理の言葉の風が吹くと
【頌】頌に云く。問既に宗有り。答も亦同じきところ、三句辨ず可し。一鏃空に遼る。大野涼飆颯々、長天疎雨もうもう(検索)、君見ずや少林久坐未歸の客、静かに依る熊耳の一叢々。【解釈】「問既に宗有り」といふの
しかし茲では必要なことは迷いの貧しさの正體が暴露されるだけではなく、もう一皮剥いて、秋風にも散らず、劫火にも焼けず、洪水にも溺れざる實相の正體があらはれるといふことだ。樹木は落葉して凋んだやうに見える
訓古的に仏教経典を研究する学者は、著作の年代とか、本当の著者の名前とかを問題にし、従って肝腎の問題であるべきその書に、本当に「久遠を流るるいのち」が生きているかどうかを忘れてしまう傾向があるのは遺憾で
【本則】擧す。僧雲門に問ふ、樹凋み葉落つる時如何。雲門云く、體露金風。【本則】「樹凋み葉落つる」といふのは、恰度、眞夏になって隆々と枝葉が榮えて経済大國になっていた日本國が、アラブの石油ショック以来、
「眉毛を惜しまざる」とは、“あまりに法を説きすぎると、眉毛が脱けて薄くなる”といふ言ひ傳へが支那にはあるが、説教者が説教するのは當然のことであって、それも兎や角論争ふほどの大事でもないといふのが「且く置
「兎を見て鷹を放ち」といふのは兎狩をするときの常套手段であり、「風に因って火を吹く」といふのは、田舎の婆さんが、竃に薪をくべて、火をつけて燃えあがるうやうに酸素を余計に供給してやるために「火吹竹」とい
玄奘三蔵法師は、貞観3年(629年)、唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、許されなかったため、国禁を犯して密かに出国、河西回廊を経て高昌へ旅立ちました。天文12年8月25日ポルトガル人は大航海の末に亜細亜最東
物價を下げるといふ目的は國民を愛するといふ一大事そのことではなかったのか。「國民を愛する」といふその一大事を忘れてしまっていて、「物價を下げればよい」といふのは、患者が高血圧で苦しんでいるからとて、血
その政策の浸透で卸物價が三パーセントさがった。金融の引き締めで、換金の売物が殺到して小売物價も下がる傾向にあるなどと、大蔵當局が稍々安堵の色をあらはしたなどといっていると、雲門和尚に、「馬鹿野郎、貴様
雲門和尚は洞山の世間竝の挨拶をきいて、“俺はそんな世間竝の返事を聞くために問をしかけているのではないんだぞ”とばかり、「馬鹿野郎、貴様に三頓の棒を食はしてやるところだが、今日は赦すから歸れ」と怒鳴りつけ
雲門和尚は雪峰義存禪師に嗣法した人で雲門宗の開祖として、禪家の中では一家を成した名僧である。ある日雲門和尚のところへ洞山といふ修行僧がやって來て教へを請うたのであった。雲門は問うた。「近ごろ何處からお
第二十七則 雲門體露金風 【垂示】垂示に云く、一を問へば十を答へ、一を擧ぐれば三を明らめ、兎を見て鷹を放ち、風に因って火を吹く。眉毛を惜まざることは則ち且く置く、只虎穴入る時の如きは如何、試みに擧す
【頌】頌に云く、祖域交馳す、天馬駒る。化門の舒巻、途を同じうせず、電光石火、機變を存す。笑ふに堪へたり、人来って虎鬚をなずることを。【解釈】これは、百丈和尚の悟境を讃へる語であるが、百丈和尚は、馬祖大
「ブログリーダー」を活用して、kuratyan5357さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの
曰く、「至道の本體なるものは、南北東西烏飛び兎走ると、無限の空間に充塞し、無邊の時間に貫通して、所謂る無量の光明であるからして、盡十方至らぬひまもなく、天を該ね地を括りて、一草一葉の上にも其の全眞露現
「天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超」えるものは宇宙の當體であるのである。『碧巖録』のやうな禪の公案をあつめた本では、趙州和尚がたびたび好んで用ひる「至道無難、唯嫌揀擇(ゆいけんじゃく)」の語句の「至道
第五十九則 趙州語言【垂示】垂示に云く、天を該ね地を括り、聖を越え、凡を超ゆ。百草頭上に涅槃の妙心を指出し、干戈叢裏(かんかそうり)に衲僧の命脈を點定(てんぢゃう)す。且く道へ、箇の什麼人(なんびと)の恩力
飛ぶものは墜落す」と形容してある。これは趙州和尚のやさしい言葉のうちに機鋒の峻嶮なること獅子吼にたとへて、趙州和尚が一聲高く聲を出せば、百獣怖れをなして縮み上って聲も出なくなる。“至道無難”の問題で趙州
【頌】頌に云く、象王哮吼(こうく)す、無味の談、人口を塞断(そくだん)す。南北東西烏(うと)飛び、兎走る。【解釋】これは趙州和尚を讃めた言葉である。『大般涅槃経』の徳王品に「大涅槃は唯大象王、能く底を盡す、
『新撰谷口雅春法話集』第六巻(『善と福との實現』)に「牝鹿の脚の話」といふ章がある。自分の脚を“牝鹿の脚の話”となしその牝鹿の脚にのれば人間は自由を得るといふ寓話である。そして、“牝鹿の脚”に乗って自由自
すると、彼女は短期間のうちに元通りの肥胖した肉體となり元の木阿彌になったといふ二つの實例を擧げている。「至道無難」といふ場合の無難な「至道」といふのは、そんなに安手あがりの安易の道であり、本能のままに
わたしは今「白鳩」誌に、荒俣芳樹君と共譯で、ウイリアム・ホルナディ博士の講演集の録音テープ『神をわが内に生きる』の和譯を連載中であるが、その七月號掲載分の中にアルコール中毒患者がホルナディ博士の指導を
けれども趙州和尚はさすがである、「五年かかっても、それを私は言ひ解くことはできない」(五年、分疎不下)と正直に答へているのである。生長の家の携帯用聖典のなかに『聖光録』(新編)といふのがあって、その第
ところで、趙州はこの問いに對してかう答へた。「隋分前のことだったが、ある人が(會て人有りて)私にそれと同じ事を問うた事がある。その問の意圖が直ぐわかった。問ふのは無理もないと思ったが、『五年、分疎不下
第五十八則 趙州時人窠窟垂示はなくて直ぐ本則が掲げられている。【本則】擧す。僧、趙州に問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、是れ時人の窠窟なりや否や。州曰く曾て人有りて我に問ふ、直に得たり、五年、分疎不下なること
ついでに、逃げださうといふ揀擇の心を棄てて、「獨坐宇宙の一枚巖」の心境になり「絶對生活」に入った倉田百三氏はその後どうなったかといふと、心の動揺が消えると共に、自分の身體内の生理作用の擾乱も消えて、さ
しかし、これは揀擇ではないのであって、“獨坐宇宙の一枚巖”の心境に於ては、「自分のほかに宇宙はなく、宇宙のほかに自分は無い」自分自身が“絶對者”であり、“宇宙”であるから境對から揀擇(えらびとり)のありやうが
それに對して趙州が答へた語が「天上天下唯我獨尊」である。これはまことに適切な答であって、本當は「天上天下唯我獨存」の意味である。天上天下に唯我のみが獨存するのだから、揀(えら)び取るべき對立も外界もない
やがて、その對立が消えて、宇宙の動きと一枚巖になり、不動なること大磐石となった心境を、倉田氏は「絶對生活」といふ語で表現していられた。對立がある生活に於ては、我と彼との對立があり、“心”と“境”との對立が
倉田氏自身の心が「獨坐宇宙の一枚巖」の心境となり、すべての對立が消えて、動かざること大磐石の如くなると、氏の周囲にあらはれていたすべての動揺も振動も消えてしまった。無論、文字が二重に見えることもない。
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
そして今まで危険から“逃げ出さう”“逃げ出さう”とばかりに考へていたのを一轉して、逃げ出す卑怯な心境から、來るものすべてをそのまま素直に受ける心境になったのである。“逃げ出さうとする”心境は“追ひかける者”又
やがて自分の住む世界が地震のやうに動いている。何時屋(いつや)の棟が崩れ落ちるかわからないやうに家が振動する。危険でたまらないので、家から逃げ出して外に出ると、戸外の地面も動いている。ひどい地震で、いつ
それについて思ひ出すのは大正末期及び昭和初期時代の日本の文豪倉田百三氏のことである。氏は大正五年『出家とその弟子』と題して親鸞聖人を主人公とし、唯圓坊をワキ役にした戯曲を發表して一躍、名作家となったの