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  • リアル

    私が中学生の頃、メロトロンという鍵盤楽器があり、それは実際の、例えばバイオリンの音を録音したテープが、鍵盤を抑えることにより何秒間か流れる、というような仕組みだったと思うが、当時プログレバンドが多用していた。海外の演奏家協会みたいな連中が職が失われるということで訴えたかデモをした、とかの記事をロック雑誌で読んだ覚えがある。演奏技術はともかく音に関しては本物の楽器を録音したものであるから、仕事の機会を失うこともあったのかもしれない。現在のAI技術の発達は驚くべきものであり、リアルさにおいては私などとても足元にも及ばないが、勝手に実写と勘違いされることはあるが、外側の既存の成分は含まれておらず、あくまで組成は私の頭の中の世界である、とかたくなに粘土丸出しで良かった。と思う今日この頃である。リアル

  • 母のこと

    近所の大型スーパーに行って母の好物を見かけて、あっと思った直後に「そうだった。」と気付いて通り過ぎる。一緒に買い物にいき、嬉しそうに食品棚を見上げる母の横顔が忘れられず、ホームで撮ったスマホの動画は未だ観ることが出来ないでいる。昨年顔を見に行くと、建長寺の高井和尚様にご恵投いただいた『建長寺物語』を膝に車椅子で眠り込んでいる姿に、起こすことが出来ずにしばらく座って眺めたことを思い出す。私の手がけるモチーフは友人の間でさえ年々、馴染みのなさに遠目に目を細めて眺めているような有様であるが、ホームに持っていった蘭渓道隆(大覚禅師)の頭部の私の説明に、何も知りもしないのに知ったかぶりまでして興味深そうにしてくれる母であった。母のこと

  • ようやく答えが

    10年前に2000年から始めたHPがネット上から消えているので、数十年前の作品を引っ張り出してスマホで撮影し、インスタやフェイスブックでアップしている。寺山修司を三沢、泉鏡花を金沢まで持っていけば数十カットはものにして帰って来たが、そう考えると人形作ってものになったのははたった1カット、などということがしばしばある現在は、いわゆるコスパは最低である。(そんな場合、人形は写るところしか作らない)その代わり、画面の中には私のイメージしたものだけ。乱歩いうところの“現世(うつしよ)は夢夜の夢こそまこと“的にいえば、私のイメージこそまことにはなっていて、頭に浮かんだことは、どこへ消えていってしまうんだろう?と考えていた鍵っ子時代の私の悩みに、ようやく答えられている気がする。村山槐多ようやく答えが

  • 画竜点睛

    私でも画竜点睛ということで、人形制作の最後に目を入れるが、大伸ばしするようになり数ミリの手描きでは耐えられず、瞳はフォトショップで入れるようにしている。なので展示用にはあらためて目を描き入れることになる。乱視がひどく左右不均衡。メガネを作ろうにも補正しても効果がなく、長らく素通しメガネである。世の中が振動していたりロマンチックではあるけれど、おそらく脳内で補正して見えてる気になっているだけだろう。近いうちに眼科に行くことにする。万博会場に大量のユスリカが発生しているという。刺さないようだが気持ちの良いものではない。昭和30年代の夕暮れに「お前あの電柱の下でンーん、て低い声でいってみ?」とやったアレだろう。人呼んで忍法蚊柱の術。画竜点睛

  • 人生一度きり劇場

    午前中にふげん社より残りのプリントが届く。縁とは不思議なものである。ふげん社がふげん社でなかったらこのプリントはなかった。まだ築地にあった頃、個展の話をいただいてプリントを持って伺った。その中にギャラリーに断られながらようやく2011年に開いた三島由紀夫へのオマージュ展『男の死』の作品が数点。意外にもふげん社移転後に続編が決まった。三島はともかく死んでるだけの作品ですが、と私の勘違いではないかと後日確認に出向いたくらいだったが2022年に『没後50年・三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』となった。私が1日でも早くしなくては、とずっと恐れ続けてきた篠山紀信撮影の『otokonoshi』出版5ヶ月前だった。三島ではこのモチーフ以外やりたいことはない。ところがふげん社は寒山拾得の拾得が普賢菩薩の化身だということ...人生一度きり劇場

  • 欅の一枚板

    蘭渓道隆坐像は周囲が溶岩のような欅の一枚板に乗せるが、本来半憎坊用に入手したのであった。あらゆる災難に対処する半憎坊だが、特に火伏せで知られる。そこで書割りのような火焔に囲まれ印を結び呪文を唱える予定で少し大きめだったが、写真作品が想定よりカッコ良くなり過ぎ、被写体の出品を断念するという、良いんだか悪いんだかという事態に。そこで蘭渓道隆に変えてみたら少しも騒がず、むしろもっと大きくても、という感じである。無学祖元は元の兵隊に剣を向けられた『臨刃偈』(りんじんげ)あるいは『臨剣の頌』(りんけんのじゅ)と呼ばれる場面だが、こちらは当初製材された板を考えていたが、この名場面にも不定形な自然木を使いたくなってくる。欅の一枚板

  • 組成、成分の異なる肖像

    ある人物を制作したいと思うのは、人間性が当然大きいが、その面相が決め手となる。作家シリーズの頃は写真画像を集めて制作してきた。資料としての写真は、個々のカメラマンの趣向が反映されていたとしても写真である。しかし絵画しか残されていない場合、話が少々異なる。臨済宗では師の肖像画(頂相)を卒業証のように与え、それ自体を師の教えそのものとしてきた。そのため世界に数多ある肖像画、肖像写真とは組成や成分が異なる気がする。蘭渓道隆のたった一枚の肖像画で、私のような不信心者の晩年の方向性を変えてしまった可能性がある。蘭渓道隆の頂相に込められた念を七百数十年後の私が受信してしまったといえそうである。組成、成分の異なる肖像

  • 頂相が私に伝えること

    大燈国師という京都大徳寺を開いた人物がいた。悟りを開いたと師から認められた後になお師の教えを守り、東山に隠れ住み夜は修行僧を指導し、昼は五条の橋の下で物乞い病人と共に二十年間修行したという。大燈国師の視線が横目でそっぽを向いた肖像画を見て、そんな表情は一休宗純以外に見たことがない。それが興味を持った最初である。そして知ったのが、一休は国師の没後五十六年後の生まれだが大尊敬した人物であった。横目は一休が真似たものだろう。当時の五条橋は現存していないが、ロケ場所はすでに目星は着けてある。またいったい何を作ろうとしている?といわれそうだが、昨日のブログで書いたが、鈴木大拙が”禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教である“といっている。一休宗純、蘭渓道隆、大燈国師の頂相が私にそう伝えてい...頂相が私に伝えること

  • 振り返らぬカレーライス

    鈴木大拙は『禅と日本文化』で、禅は道徳的および哲学的二つの方面から武士を支援した、と禅と武士道の精神的結びつきについて語っている。“道徳的というのは、禅は、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教える宗教だからで、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからである“そう思うと一般的武士のイメージは禅の影響を受けて以降のものという気がする。月に一、ニ度入る蕎麦屋へ。蕎麦湯割りとカレーライスを注文。2品頼んでこの有様だが、目的は昭和30年代的絶滅種カレーライスである。小麦粉を煎りつけるのがなにはともあれ、と進路を決定した以上は、振り返らぬことを親方に教わったという趣。毎回今日は違うものを、と思って入るのだが、口をついて出るのが「蕎麦湯割りとカレーライス。」抗い難し。振り返らぬカレーライス

  • 木場のTや

    昨晩は、飯沢耕太郎さんの文化センターでの講座の後Tやに寄った。店に入るのは何年ぶりか。母親のお米と共に牡丹灯籠のお露をやってもらった三女Aちゃんが私が昨年入院手術した病院の栄養管理をしていたと思ったら結婚したという。小学生の時から知っている。母親と長女には『貝の穴に河童の居る事』に出てもらったし、屋上で母親にひしゃくで水をかけてもらって『潮騒』の初枝をやってもらった。彼女は三人めの子度が産まれるそうである。軍医総監姿の森鴎外を作った時は、肩の飾緒の三つ編みなど不器用な私にはできないので朝定食の時間に、娘3人いるから、とあっという間にやってもらい、ついでにサーベル用に使い古しの菜箸をもらって帰った。相変わらず帰ろうという気配にオヤジに注がれ帰宅は朝4時だったが、4時間で目が覚めてしまう。どこから読み始めるか...木場のTや

  • 日本への写真渡来〜幕末・明治の初期写真

    飯沢耕太郎さんの講座第1回(古石場文化センター)何故日本は本来光画と訳すべきところを写真としたのか。写真という言葉を選んだことで写真は写真だ、と日本人はなったのではないか。そう思うと会場にいる石塚公昭さんは珍しい、といっていただいたが、写真を始めた最初から、まことを写すという用語に居心地の悪さを感じ、まことなど写してなるか、とあらがい続けてきた。光画だったらどうだったのか。日本人が写真は写真であるとなったのが、その言葉のせいだったとしたなら、私がこうなったのも、やはりその言葉のせいだったろう。野島康三を見てオイルプリントの実験を始めたのが91年ごろである。絵画主義写真(ピクトリアリズム)に関して知るには飯沢さんの『芸術写真とその時代』しかなく貪るように読んだ。寒山拾得日本への写真渡来〜幕末・明治の初期写真

  • 母と聖路加病院

    この作品の頃は国定忠治の刀のように人形を捧げ持ち、カメラを額に当てて撮影する『名月赤城山撮法』で撮り歩いた。どこに持って行っても絵になるのは荷風と寺山である。背景は聖路加病院。昨年暮れに亡くなった母はここで産まれ、撮影している私の背中側の明石小学校に通った。戦中米軍は聖路加病院を爆撃しないとビラを撒いたそうだが、町内の蕎麦屋だったかに一発だけ不発弾が落ちたと母に聞いた気がする。大空襲の後、永代橋を越えて江東区側に姉と行ってみたそうだが、惨憺たる有様で、私がその辺りに越した時に、未だにあまり来たくないといっていた。疎開したのは終戦戦後で、美人三姉妹(本人談)のため進駐軍を恐れてのことだったという。母を含め、うず高い死体の山を見た人達は、何があってもあれ以上のことはない、という思いで戦後を生き抜いたのだろう。母と聖路加病院

  • ないものはでてこず

    人物にしか興味がないので、仏像作る気は全くない。仏像は祈る人の思いを受け入れる容量のようなものが必要だろう。どうすればそんな物が作れるのか想像もつかない。幼い頃からリアルな物が好きで、子供向けの挿絵は『星の王子さま』を別にして受付けなかった。作る側に回ると、必要としたところが表現されていれば、あとは触れない。ここをもっとこうすればよりリアルに、とアドバイスされても、興味がない部分は必要を感じないのでやらない。結果的に私の重要視していることがより強調される気がする。結局自分の中に在るものしか出てこないし、無いものはいくら逆立ちしても出てこない。借り物はお天道様にすぐバレる。ニジンスキー牧神の午後ないものはでてこず

  • 『慧可断臂図』

    グーグル翻訳でメール用文章を英訳するが、私が大覚禅師を作って〜と入れるのだが、文章に難があるのか、どうしても寺が作った物と譲らず、そんな人物作る一般人がいる訳ない、といわんばかりに上手くいかない。仕方なくはしょる。これは私が全部作った、といいたがりの私であるが、それがうまく伝わらないまま終えるのかと思われたが陰影を排除したり、挙句は鎌倉時代の人物である。ここに至ればもう、単純にわかりやすく作り物である。なぜこんなモチーフを?という疑問は相変わらずだろうけれど。『慧可断臂図』達磨太子に弟子入りを願い出たが、相手にされない慧可は己の左腕を切り落とし覚悟を示す。達磨太子が背を向けたままの雪舟作と違って振り向かせた。作りたいという私の念が通じ、見る人が呆れて微笑んでくれれば何よりである。『慧可断臂図』

  • メーカーと製品と製造中止

    モノクローム作品は、コダックのエクタルアという印画紙が製造中止になってやめた。写真は製品に依存しているので、古典技法を始めた頃は、紙にゼラチン塗ったり自分で作るので、これでもう怖いものはない、と思ったが薬品もメーカーが作っているのであった。昔、小学校の図工の先生のところに遊びに行くと、最近こんな粘土が出たと教わり、合間に好きなブルースやジャズの架空のミュージシャンを作るようになり、それが始まりだった。85年に今はないプランタン銀座で粘土メーカー主催の『第一回人形達展』に招待作家として出品したが、社長が「石塚さん使ってる粘土小学生用ですよ?」慌てて粘土を変えたが、以来使い続ける粘土は人気がないと聞く。製造止めるなら、私が死んだ後に願いたい。記憶では、人工甘味料チクロが製造中止になり駄菓子は不味くなった。メーカーと製品と製造中止

  • 浮かぶイメージ

    近頃は私の頭に浮かんだ程度のものはそのまま作品になるようになった。私にとって作るということは頭に浮かんだイメージを可視化して気のせいでなく「やっぱり在った」と確認する行為である。私としては満足していて不満もない。なので作品がつまらなければ私の頭に浮かんだイメージ自体がつまらないということである。またどんな巨匠の作品だろうと私にはよその家の芝生でしかない。満足したら終わりだ、というけれど、満足していないものを人に見せたり販売出来るほど神経が太くない。終わらないのは、鮫の歯のように作るものが縦列に順番を待っているからで、脳科学者によると人は頭に浮かんだ物を作るように出来ているという。この仕組みのせいで、いちいち形にしなければならない。好きでやってるから良いようなものの。虚無への供物中井英夫浮かぶイメージ

  • 作るべくして

    “門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし“小四で母にねだって買ってもらった『一休禅師』のこの言葉が思いのほか私の死生観に影響を与えていたことに気付いたのも、まさにその場面を制作していた時であった。常に作りたいものがある私は死の床で、あれを作るべきだった、これも作るんだったと後悔して苦しむに決まっている、と若い頃からうんざりしていた。しかし結果的に作れるものは作っておくしか対処のすべがない、と作り続ける原動力になっただろう。その本には横目でこちらを見る、一休の弟子でもある曽我派の手になる肖像画が載っていて、あれがこちらを見ていなければ、ここまでのことになっていなかった。人の姿を作る渡世に生きる私にとって作るべくして作った一作といえるだろう。作るべくして

  • 最初と最後に阿羅漢

    実在した人物を手がけると相関関係とか、この人物と人物の間にはこの人が、とつい考える。子供の頃から人物の物語が好きなので、具体的な場面を作りたくなるのだが、いずれはただ単純に、誰ということもない男の種々相を作りたい。となると羅漢像だろう。以前書いたが、途中挫折を避けるために十六羅漢だ、なに羅漢だ、などと頭に数をつけるのは避けたい。そこに達したなら付けるのは良いけれど。20代の頃、一つ140円で公団などのベランダにぶら下がっている物干しを作りながら、架空のブルースミュージシャンを作っていた。数が溜まってきて初個展を開いたが、出品に至らなかったそれ以前の作品は、今思えばいずれも羅漢じみていた気がする。最初と最後に阿羅漢

  • 迷わず作れよ

    ここに至れば作品を毎日制作するという私なりのことを、今まで通り続けた方が“真相“に近づく気がしている。考えるな感じろは良いとして、何でそうなったか、に関して理解が追い付き、ハタと手を打ち納得、なんて時が来るのかは判らないけれど。幼い頃から伝記の類を読み耽り。人の形にも関心が高く、TV番組の誰かを当てるシルエットクイズが得意であった。肖像画に関して蘭渓道隆の寿像(生前描かれた)ほど何かを感じたことはない。この2年私ほど穴のあくほど見つめた人はいないだろう。臨済宗では頂相が師の教えそのものとされた。その念が七百数十年後の私のような不信心者にまで何某かが伝わってしまったということだろう。そんな時、私は作る。迷わず作れよ、作れば判るさ。となるのだろうか。迷わず作れよ

  • 建長寺の開山と蒙古兵

    午前中建長寺に行って展示場所の確認。大した案が浮かぶではなし。随分個展をして来たが、一度も自分だけで飾り付けたことがない。高校の同級の精神科医から空間を把握する能力に難があることを指摘されたことがあるが、引越しして人に間取りなど説明していると大抵紙からはみ出る。責任持てるのが手が届く範囲ということなのか、何とか人形は作れている。方丈の龍王殿の一画、こじんまりとした場所である。回り廊下の外に広がる庭園は、開山蘭渓道隆が作ったのではなかったか。昔火災の際は、まずは寺宝をその池に放りこんだらしい。鎌倉幕府といえば元寇との戦いだが、あろうことか建長寺の開山大覚禅師こと蘭渓道隆と、蒙古兵がテーブルの上で並んでしまう予定である。訂正最終日は15時まで建長寺の開山と蒙古兵

  • 肝心な表情

    80年代の終わり頃、あるジャンルの実在した人物を描く画家と話したことがある。その人は主に既存の写真の背景を独自に変えて描いていたが、陰影のなかった日本画と違い、西洋画ではコラージュ感が否めず、複数の人が同じ空気を吸ってる感じがあまりしなかった。その人はもうネタが尽きて来たので、写真を裏焼きにして描くしかない、という。人間の顔というものは左右対称ではないので、顔を知られた著名な人では、そう都合良くは行かないだろう。その後どうしたかは知らないけれど。しかし、参考にした写真は、写真家が人物のある表情をある時切り取った写真家の成果である。ポーズや背景変えても肝心要の表情がそれではと思った。肝心な表情

  • タイムラグ

    考えるな感じろはブルース・リーにいわれるまでもなかったが。これが最後だと7、8年も陰影のない手法をやっていたのに去年の暮れから急に方向転換。何度こう言うことを繰り返したろうか、原因は丹田あたりにいる何某かが発動するせいだが、それに任せた方が、結果が必ず良いのだけは判っている。あれだけ石塚式ピクトリアリズムなどといって嬉しそうにしてたのに、少々気恥ずかしくはあるが、メリットといえば糠床を底の方から掻き回すように常に新鮮であるし、自分で作っておいて頭の中の想定と違い、感心したりするのでオメデタイとしかいいようがない。単純に考えれば頭の理解が遅れ、それによるタイムラグのせいだろうけれど。タイムラグ

  • 文句いうマジシャン

    被写体の人形が目の前にあるのに、人間の実写と間違う人がいて冗談じゃない。と作家シリーズに転向したが、年寄りの江戸川乱歩がピストル構えて気球に乗っている写真でさえ、乱歩の書斎に置いてあるのを本人だと思った編集者がいた。「どこ見てるんだ粘土丸出しだろ?私が作ったのだ。」仕舞には被写体のどこかにサインを彫ることを本気で考えたことさえある。しかしよく考えてみると、マジシャンが驚いてる観客に、何で騙されるんだ、と文句をいってるようなものである。ようやく丹田あたりの、もう一人の私のしようとしていることの概要を頭が把握し始めた、という今日この頃であろう。まあ頭の出来に自信がある人は、なかなか“考えるな感じろ“とはいかないものである。文句いうマジシャン

  • リアル感について

    二十代で始めた最初期の架空のジャズ、ブルースシリーズの頃から着衣の調子はまるで変わっていない。頭部に時間をかけ、身体部分は一気に作るのは最初からである。自分にとって肝心な部分が込められていれば余計なことはしない。その肝心だと思った部分に重きを置いて写真を撮る。さらに拡大することにより、その部分が強調され表に出てくるようである。昔、デボラ・クロチコさんに私の作品は大きく伸ばした方が良い、といわれた時、そんなことをしたら粘土丸出し感がモロに出てしまうではないか、と思ったのだが。初めて人形と写真を展示した時、人間の実写と間違えた編集者がいた。今にして思うとコダックのTMZの像感現像が、それと同じ肝心なことを表出させる効果を生んでいたのだろう。プリンターの田村政実氏の勧めに従っただけだったが。リアル感について

  • 身辺雑記

    gooblogは11月に閉鎖になるので、何処かに移行しなければならない。それ以前、2000年に立ち上げたHPがネット上から消えたままなのだが、友人がデータを保存してくれていて、それも復旧可能ではある。HPはその年に開いた廃れた写真の古典技法オイルプリントに初めて見る手法に来廊者の目に灯りがともらないのを目の当たりにして技法公開を目的とした。古典技法花盛りの今思うと隔世の感がある。当時の身辺雑記はごく短く、不定期だったが、だんだんダラダラと牛のヨダレのようになり、近所の酔っ払いの話が続いたこともある。しかし父が亡くなった頃のことや、三島を様々な死に方させたら絶対三島にウケると思ったら、本人が最後に篠山紀信に撮らせていたことを知ったこととか書いてあるはずだが、ネットにアップしないと見られないそうである。すでに...身辺雑記

  • GWが終ったのに寒い

    写真作品が最終形であるので被写体である人形は、披露しない方が謎のままで良いような気がするのだが、そちらも観たいという方もおられるので、今回は4体だけ展示することにした。写真を撮るようになったのは、個展会場にただ並べても、この人物を、こういうつもりで制作し、私にはこう見えている、というところまでは表現出来ないと思えたからだが、結果、荒れたシナ海で霊力を発する半憎坊の登場シーンは、想定より格好良くなり過ぎ、お陰で被写体は陽の目を見ることはないだろう。井上尚弥が77年ぶりにジョー・ルイスの世界線KO記録22を更新したという。ジョー・ルイスは車椅子姿しか知らないが、軽量級で抜いたというのが凄すぎる。GWが終ったのに寒い

  • いつかこんな人が現れる

    先月、椅子に座ってではあるが、生まれて初めて坐禅したような、そんな私からすると、ある宗派の、ある寺の開祖など、創建からそれなりの年月以降、新たに手掛けられることなく埃を被ったままのモチーフの宝庫に思える。90年代に写真のことなど何も知らず、相談する相手もおらず、廃れた写真技法オイルプリントに孤軍奮闘していた頃、画像がなんとか出た小さなプリントを持って、紹介された人に会いに行くと「いつかヨドバシなどの写真用品店でなく薬種問屋に通うような人が現れると思っていた。」といわれたのを覚えている。今はそんな人は大勢いるけれど。こんな夢想をする。ボロボロの雲水姿の私が、ある寺の開祖を描いた作品をたずさえ、山深い寺を訪ねると白いモヤとともに山門から現れた老和尚がいう「いつかこんな御仁が現れると思っていた。」いつかこんな人が現れる

  • 一日

    来月の展示は6月19日(木)から22日(日)の4日間と会期は決まっているが、展示がどんなスペースになるか決まっていないので、出品作が何点になるかまだ決められない。新作の縦位置150センチに合わせて構成し直したので、長辺2メートルの作品1点、追加分含め全13作品が完成。減らすことがあっても増やすことははないだろう。立体は4点程度を考えている。『半僧坊』は最初から展示するつもりで制作していたが『半僧坊荒海祈祷図』を長辺150センチのプリントで見たらヒーローみたいでカッコ良すぎて被写体の展示は断念。タイトルを写真展としてしまえば話は早いのだが。前回は、寒山拾得写真展では、定年後の写真好きおじさんが、女房孝行をかね、中国は寒山寺や山深い風景など撮った写真展にしか見えないので辞めた。一日

  • 乃木大将とステッセル

    来月の展示は実在した人物で、と思っていたが、つい蝦蟇仙人と鉄拐仙人の『蝦蟇鉄拐図』を再構成してみた。古来から禅画のモチーフとして描かれれ来たが、なぜ二人がコンビなのかは未だに判らない。それはともかく。こう見えて、カメラで撮っていないのは鉄拐仙人と三足の蝦蟇が口から吐く部分くらいで、地面でさえ撮影したデータを使っている。などと余計なことをいってしまうのは、まことを写す、という意味の写真という用語を蛇蝎の如く嫌い続けたバチであろうか。カメラという自分の外側専用機器を眉間にむけて、私の中のまことを撮っているのだから、いいかげん写真とは乃木大将とステッセルと行くべきだろうか。、乃木大将とステッセル

  • 寒山と拾得

    寒山拾得がいつから私の中に巣食っていたのかは不明だが、森鴎外の『寒山拾得』を読んだのは中学の時だったが、寒山と拾得が笑いながら何処かに行ってしまい、二度と戻ってこなかったという。実に唐突な終わり方で、作中の人物と同様に、放りっぱなしに取り残され立ち尽くした。この終わり方がずっと巣食い続けて来た理由であることは間違いない。その思いが醸され続け、良きところで、ということだろう。唯一最初から決めていたのは癖毛のボサボサ頭で、古来からの寒山拾図でも見た覚えはない。それより大きな特徴は絵でなく写真であることだろう。しかしあれだけ写真という用語を蛇蝎の如く嫌い続けた私が以降、これは写真である、といいつのる羽目に陥ったのは皮肉というしかない。寒山と拾得

  • 三作見直しの事

    昨日は『虎溪三笑図』の再構成。長辺150センチのプリントにすることを意識した。線描の深山風景でなく、実物の鉱物を撮影したものであるから拡大することによって趣が出るだろう。二案で迷った部分があったが決定は一旦寝てからにする。”ラブレターの投函は翌日にせよ”頭はいったん冷やすべきである。幽谷の雰囲気を出すためにガスらせていたら夜が開けていた。キャプションに『虎溪三笑図』を加える。一応ステートメント的なものも書いたが、作った人物像を被写体に、と書いて被写体を展示しても、通じないことが多いのは判っている。人の思いこみは強固である。『四睡図』『慧可断臂図』の投函は明日に。三作見直しの事

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