FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社その3、フクロウの神社のふくろう像達 Feb'2025
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
鷲子山上神社その1、栃木県と茨城県の県境の神社 Feb'2025
鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、栃木県と茨城県を分けている八溝山地の鷲子山(とりのこさん)の山頂、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界に鎮座し、フクロウの神社として有名
記事一覧-日本遺産「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」
日本遺産認定証、那須野が原博物館、那須塩原市三島。 日本遺産「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」の構成文化財の記事に興味のある方は、下のリストからオレンジ色になった構成文化財の名前をクリックして、記事に飛んでください。本ブログ内の「明治
日本遺産「那須野が原開拓」32.「矢板のリンゴ」、矢板市長井、中地区 Jan'2025
矢板のリンゴ、栃木県矢板市長井、中地区。 今日の写真は、矢板市長井地区、中地区の、日本遺産「那須野が原開拓」No.32「矢板のリンゴ」です。矢板のリンゴ 矢板市は、標高の低い土地でリンゴが生産できる南限といわれ、現在は18のリンゴ園が盛んに生産してい
日本遺産「那須野が原開拓」30.「南ヶ丘牧場」、那須町大字湯本 Jan'2025
南ヶ丘牧場、栃木県那須町大字湯本。 今日の写真は、那須町大字湯本の、日本遺産「那須野が原開拓」No.30「南ヶ丘牧場」です。 南ヶ丘牧場創始者岡部勇雄夫妻の像南ヶ丘牧場 日本遺産「那須野が原」 昭和24 年(1949)、満州からの引揚者が入植した地域で、
日本遺産「那須野が原開拓」29.「千本松牧場」、那須塩原市千本松 Jan'2025
千本松牧場、栃木県那須塩原市千本松。 今日の写真は、那須塩原市千本松の、日本遺産「那須野が原開拓」No.29「千本松牧場」です。千本松牧場 千本松牧場は、総理大臣を務めた松方正義が1893年(明治26年)に那須開墾社よりこの地を譲り受け、大農具を導入して欧
日本遺産「那須野が原開拓」27.「大田原市大野放牧場」、大田原市湯津上 Jan'2025
大田原市大野(おおや)放牧場、大田原市湯津上 Jan'2025 今日の写真は、大田原市湯津上の、日本遺産「那須野が原開拓」No.27「大田原市大野放牧場」です。大田原市大野放牧場 大田原市営牧場で、牧区面積は約27ha あります。明治期には御料地でしたが、後に陸
日本遺産「那須野が原開拓」26.「大田原市歴史民俗資料館収蔵資料」、大田原市湯津上 Jan'2025
大田原市歴史民俗資料館収蔵資料、栃木県大田原市湯津上。 今日の写真は、大田原市湯津上の下侍塚古墳の南向かいに建つ、日本遺産「那須野が原開拓」No.26「大田原市歴史民俗資料館収蔵資料」です。大田原市歴史民俗資料館 展示室休止のお知らせ 大田原市歴史
日本遺産「那須野が原開拓」25.「『開拓』碑」、那須町豊原丙 Jan'2025
「開拓」碑、栃木県那須町豊原丙。 今日の写真は、那須町豊原丙の千振開拓地に建つ、日本遺産「那須野が原開拓」No.25「『開拓』碑」です。「開拓」碑 栃木県北部の那須町・千振(ちふり)開拓は、1946(昭和 21)年、満州開拓引揚者 73 戸が入植。千振の名
日本遺産「那須野が原開拓」24.「『拓魂』碑」、大田原市湯津上 Jan'2025
「拓魂」碑、栃木県大田原市湯津上。 今日の写真は、大田原市湯津上にある、日本遺産「那須野が原開拓」No.24「『拓魂』碑」です。「拓魂」碑「戦後開拓」としての金丸原開拓の歴史と、開拓初代の氏名を記す記念碑で、昭和51年(1976)に金丸原開拓農業協同組合によ
日本遺産「那須野が原開拓」23.「謝恩碑」、那須町寺子乙 Jan'2025
謝恩碑、栃木県那須町寺子乙。 今日の写真は、那須町寺子乙の上の原地区にある、日本遺産「那須野が原開拓」No.23「謝恩碑」です。謝恩碑 明治24年(1891)に山田農場を開いた、山田顕義(伯爵・司法大臣)及び山田家への謝意を記した碑です。昭和30年(1955)建立され
日本遺産「那須野が原開拓」21.那須基線(観象台)南端点、大田原市親園 Jan'2025
那須基線(観象台)南端点、栃木県大田原市親園。 今日の写真は、大田原市親園にある、日本遺産「那須野が原開拓」No.21「那須基線(観象台)南端点」です。 昨日の那須基線北端点との間を結ぶ約10.63の道路は当時「たて道」と呼ばれ、本州一長い南北に走る直線道
日本遺産「那須野が原開拓」20.「那須基線(観象台)北端点」、那須塩原市千本松 Jan'2025
那須基線(観象台)北端点、市指定、栃木県那須塩原市千本松。 今日の写真は、那須塩原市千本松にある、日本遺産「那須野が原開拓」No.20「那須基線(観象台)北端点」です。那須基線(観象台)北端点 観象台(北点)は、畜産草地研究所の正門左側(国道400号沿
日本遺産「那須野が原開拓」19.「那須疏水旧取水施設」、那須塩原市西岩崎 Jan'2025
那須疏水旧取水施設(国重文)、那須疏水公園、栃木県那須塩原市西岩崎。 第一次取入口(明治18年(1885)、第三次取入口(大正4年(1915) 今日の写真は、那須塩原市西岩崎の那須疎水公園に残る、日本遺産「那須野が原開拓」No.19「那須疏水旧取水施設」です。
日本遺産「那須野が原開拓」18.「蛇尾川」、那須塩原市、大田原市 2024,2025
蛇尾川(さびがわ)洗い越し、栃木県那須塩原市箕輪。 大雨時以外水がないので車が通れるようjになっています。 今日の写真は、那須塩原市から大田原市にかけて流れる、日本遺産「那須野が原開拓」No.18「蛇尾川」です。蛇尾川 大佐飛山を源流とする大蛇尾川と日
日本遺産「那須野が原開拓」17.「那須野が原公園(県北大規模公園)」、那須塩原市千本松 Jan'2025
那須野が原公園(県北大規模公園)、栃木県那須塩原市千本松。 今日の写真は、那須塩原市千本松にある、日本遺産「那須野が原開拓」No.17「那須野が原公園(県北大規模公園)」です。那須野が原公園(県北大規模公園) 当時の原生林が残る旧千本松牧場、旧三島
日本遺産「那須野が原開拓」16.「御亭山緑地公園」、大田原市北滝 May'2024
御亭山(こてやさん)緑地公園、栃木県大田原市北滝。 今日の写真は、大田原市北滝にある、日本遺産「那須野が原開拓」16.「御亭山緑地公園」です。御亭山緑地公園 御亭山(標高512.9メートル)山頂からの眺望はすばらしいもので、山頂付近には、伝説とロマン
日本遺産「那須野が原開拓」15.「平田東助の墓」、大田原市蛭田 Jan'2025
平田東助の墓、栃木県大田原市蛭田。 今日の写真は、大田原市蛭田にある品川天満宮の境内にある日本遺産「那須野が原開拓」No.15「平田東助の墓」です。平田東助の墓 品川弥二郎から譲渡された傘松農場を経営し、信用組合(今日の農業協同組合の前身)の礎を築
日本遺産「那須野が原開拓」14.「烏ヶ森の丘」、那須塩原市三区町 Jan'2025
烏ヶ森の丘、市史跡、栃木県那須塩原市三区町。 今日の写真は、那須塩原市三区町にある日本遺産「那須野が原開拓」No.14「烏ヶ森の丘」です。烏ヶ森の丘 烏ヶ森は標高297メートルの丘で、かつて那須西原(那須野ヶ原の一部)と呼ばれる原っぱのほぼ中央にあった
日本遺産「那須野が原開拓」12.「西郷神社」、大田原市鍛冶屋 Jan'2025
本殿(市指定有形文化財)、西郷神社、栃木県大田原市鍛冶屋。 今日の写真は、大田原市西部の野崎街道沿いにある日本遺産「那須野が原開拓」No.12「西郷神社」です。西郷神社 西郷隆盛の弟で、加治屋開墾を開いた西郷従道(じゅうどう)を祀る石造の神社です。
日本遺産「那須野が原開拓」11.「山縣農場」、矢板市上伊佐野 Jan'2025
旧山縣農場、栃木県矢板市上伊佐野。 今日の写真は、矢板市の高原山の裾野にある日本遺産「那須野が原開拓」No.11「山縣農場」です。山縣農場 山縣農場は、元来第三種官有地であった天然林約150町歩、草山600余町歩の山野を渋澤栄一氏が牧場経営を計画していた
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
那須殺生石、那須町那須湯本温泉那須温泉神社 かつて九尾の狐が化身したといれる大きな岩の国指定名勝史跡「殺生石」の写真です。 2022年3月二つに割れたことが確認されました。 今日の写真は、那須湯本温泉の那須湯前神社付近に存在する溶岩で、付近一帯に
「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」、松尾芭蕉 『那須湯本の温泉大明神では、京都の石清水八幡宮が合祀されているので、ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくう(むすぶ)と、両神社にお参りしたことになるという。これは湯が結ぶ縁である。』 この句は奥の細道にはあり
芭蕉翁塚「杜鵑の墓」、那須町史跡 今日は、那須町高久本郷地区内の芭蕉所縁の地や句碑です。 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚
高福寺楼門、那須町大字高久甲 黒羽を立った4月16日から4月20日に那須湯本から下山し、芦野の遊行柳、白河の古関跡近くの旗宿に投宿するまでの5日間の「奥の細道」はあっさりと、『是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。や
「俳聖松尾芭蕉と黒羽」、浄法寺桃雪邸跡脇の芭蕉の句碑一覧、旧黒羽芭蕉公園(現大田原市前田) 今日は、「芭蕉の里くろば」というキャッチフレーズを掲げている現大田原市の旧黒羽地区の黒羽田町、黒羽向町、余瀬、雲巌寺などに点在する10か所の芭蕉、曾良の句碑の
鍋掛八坂神社(那須塩原市鍋掛)から望む早春の那須連山。 旧鍋掛宿(現那須塩原市鍋掛)「野を横に馬牽きむけよほととぎす」 今日の写真は旧鍋掛宿の八坂神社と芭蕉の句碑です。 鍋掛八坂神社芭蕉句碑(那須塩原市鍋掛) 「黒羽町誌(黒羽町誌編さん委員会
那須連山、那須高原大橋から、那須塩原市西岩崎 那須野ヶ原は山ぎわの部分で標高500メートル、これが南東に緩やかに傾斜して標高100~150メートルまで下っていきます。ところが全体的には緩やかですが、ちょうど那須塩原市と南東の大田原市の境のあたりで5~10m急に下
源実朝の歌碑、玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 「武士の矢並つくらふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原」(柳営亜槐本金槐和歌集) 『那須の篠原』が那須野を表す歌語として使われるようになった有名な歌。 初めて文献上に「那須野」あるいは「
那須神社(金丸八幡宮)楼門、重文。 大田原市南金丸。 今日の写真は、「那須神社」その2です。 元禄2年4月13日余瀬に住む津久井翅輪は、芭蕉と曽良を鹿子畑家に見舞った。そして余瀬の西南、約一・五粁のところにある「金丸八幡宮」に参詣すべく誘いました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 今日はの写真は、昨日境内にある源実朝の和歌碑と松尾芭蕉の俳句碑を紹介した玉藻稲荷神社です。 境内には句碑の他に、九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がありました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須篠原地区今日の写真は、大田原市の旧黒羽町エリアの余瀬の修験光明寺跡、蜂巣地区の犬追い物跡、篠原地区の玉藻稲荷神社と狐塚之址の碑です。 芭蕉は元禄2年(1689年)4月5日に雲巌寺まで往復約25Km を歩いた後は、雨降りだったり、休養
雲巌寺。大田原市雲巌寺。 今日の写真は、松尾芭蕉が元禄2年4月5日に訪れた雲巌寺です。 雲巌寺は、江戸深川での芭蕉の禅の師であった仏頂禅師が当時住職をしていました。 雲巌寺は、高峰顕日(仏国国師)が弘安6年(1283年)に復興開山した臨済宗妙心寺派の名
黒羽芭蕉の館、黒羽藩の藩庁だった黒羽城の三の丸跡に建つ。 今日の写真は、「おくのほそ道」で最長の14日間逗留した松尾芭蕉に関する展示や黒羽藩主大関氏に関する展示を行っている黒羽城の三の丸跡の建てられた「芭蕉の館」、句碑などが野外展示してある芭蕉の広場な
本丸跡と本丸廓を囲む城塁とその上に建つ後に物見櫓を模して作られた展望台。大田原市前田黒羽城址。 今日の写真は、元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)に芭蕉が訪れた門弟の浄法寺桃雪が城代家老をしていた黒羽藩の黒羽城と藩主大関家の菩提寺大雄(だいおう)寺で
旧浄法寺邸、大田原市前田芭蕉公園 黒羽藩城代家老で芭蕉の弟子だった浄法寺高勝(たかかつ/俳号・桃雪〈とうせつ〉)の屋敷跡に改修整備した建物。余瀬の鹿子畑翠桃は浄法寺桃雪の弟。 元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)、余瀬(大田原市)に宿泊後、翌4日に黒
蛇尾川、遅沢橋(那須塩原市東遅沢)付近。東北新幹線「那須塩原」駅から西に3㎞ 今日の写真は、昨日の記事で松尾芭蕉が日光北街道から奥州街道に入り、大田原宿を過ぎて大田原城(龍城)を右に見ながら渡った蛇尾川です。 記事では、冒頭の水の無い蛇尾川が、どうし
日光北街道標柱、大田原市末広1丁目 今日から1か月近くは、那須野が原(旧大田原、湯津上、黒羽、那須町)、白河、須賀川、二本松の松尾芭蕉の「奥の細道」所縁の地の写真です。 「奥の細道」の日程と道程に従って、芭蕉所縁の地の記事をアップしていきます。
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現
直箆温泉神社、大田原市余瀬白旗山南端。 今日は、那須与一が源平合戦の後、矢竹を奉賽するために創建したと伝えられる直箆温泉神社です。 最初、鎮座の地は現大田原市北金丸地内の直箆でしたが、享保年間(江戸幕府8代将軍徳川吉宗の頃)に現在の余瀬白旗山南端に