FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
<19Dec’2021、多摩湖東側堤体から> 「日本で一番美しい取水塔」と解説されたパネルがある多摩湖東南端近くにある、村山下第一取水塔。 今日は、東大和市の狭山丘陵に位置する村山貯水池(西側の村山上貯水池と東側の村山下貯水池を合わせて、俗称『多摩湖』)とその
<07Nov’2021、神栖市> 以下同左 息栖神社社殿です。 今日は東国三社の最後、息栖神社です。 平安時代にはすでに創建されていたようで、古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されていたといわれます。 現在の常陸利根川に面しており、息栖の河
<07Ndv’2021,香取市> 以下同左 香取神宮拝殿。 今日は、昨日の鹿島神宮と並び称される東国三社の一つ、香取神宮です。 香取神宮も昨日の鹿島神宮と同じく「神宮」の呼称が多雨買われています。 平安時代の「延喜式」神名帳(平安時代の官社一覧)では、「神宮
<22Oct’2021、笛吹市> 以下同左 浅間神社です。 今日は通称「一宮浅間神社」、甲斐国一宮の浅間神社です。 古代甲斐国の中心地で、付近には甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡が残っている場所に、865年(貞観7年)に遷座されたと伝わっています。 864年(貞観6年)
<22Oct’2021、甲府市> 以下同左 甲斐善光寺金堂(本堂、重文)です。 今日は、武田信玄が第三次川中島の合戦の後、信濃善光寺の焼失を恐れ、1558年(永禄元年)信濃善光寺の本尊の如来像等を奉遷したことに始まった「甲斐善光寺」です。 正式名は定額山浄智院善
<22Oct’2021> 武田神社本殿です。 今日は躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられ、武田信玄を祭神としている甲府市の武田神社です。 本殿です 甲陽武能殿。
<21Oct’2021、上社本宮、諏訪市> 上社本宮神楽殿(重文)。 今日は昨日の続き。 上社本宮の下の段に降り、一之御柱からかつては本宮の正門であった南鳥居(二之鳥居)へ向かって行く途中の重文などの歴史的建造物です。 信州小県郡出身の雷電為衛門の像。
<21Oct’2021、上社本宮、諏訪市> 以下同左 幣拝殿です。 今日は諏訪大社四社の最後、上社本宮です。 重要文化財の布橋から入口御門の辺りまで修復工事中で入ることも見ることもできませんでしたが大半の歴史的建造物は見ることができました。 北参道の北鳥
<12Dec’2021,増上寺> 以下同左 今日は芝公園にある浄土宗の三縁山増上寺の紅葉です。 徳川家康の江戸入場のころから徳川家の菩提寺となり、江戸城の拡張に伴って家康によって芝に移転して現在に至っています。
<21Dct’2021、上社前宮、茅野市> 以下同左 前宮本殿。 今日は、諏訪大社上社前宮です。 諏訪大社四社のうち唯一本殿を有しています。 鳥居の向こう階段の左側に見えるのが「十間廊」、右側が「内御霊殿」です。 四社で唯一の本殿です。
<12Dec’2021,芝公園> 以下同左 今日は都内の紅葉でも最も遅い場所の一つ、芝公園19号地の「もみじ谷」とそのすぐ西側の東京タワーです。 もみじ谷はもともと明治。大正期の造園技術の第一人者で東京府の公園係長などとして活躍した長岡安平の作庭。 令和2年に解
<21Oct’2021、下社秋宮、下諏訪町> 以下同左 幣拝殿です。 今日は諏訪大社下社秋宮です。 秋宮の神楽殿です。 再び幣拝殿です。
<12Dec’2021、浜離宮恩賜庭園> 以下同左 今日は昨日言及した、浜離宮恩賜庭園の紅葉です。 将軍家の鷹場だった葦の湿原が起源で、現在に海水を引き入れた塩入の池と二つの鴨場を伝え、江戸時代には江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園でし
<21Oct’2021、下社春宮 下諏訪町> 今日はこの万治の石仏です。 春宮の大鳥居の建立にあたり、石工がこの地の大石を使おうとノミを打ち入れたところ、血が流れ出ました。驚き恐れた石工は大鳥居にこの石を使うを止め、あらためて阿弥陀様を刻んだそうです。
<12Dec’2021, 旧芝離宮恩賜庭園> 以下同左 いよいよ東京の紅葉シーズンの終わりです。 西の奥多摩に始まり、東京湾に向かって進んできた東京の紅葉前線ですが、とうとう東京湾岸まで来ました。 今日は、港区海岸一丁目にある旧芝離宮恩賜庭園です。 江戸幕府の
<21Oct’2021、下社春宮、下諏訪町> 以下同左 諏訪大社下社春宮の幣拝殿です。 今日から、諏訪大社四社です。 この日の朝松本城を後にして岡谷ICで高速を降り、諏訪湖の周りを時計回りに 下社春宮→万治の石仏→下社秋宮→上社前宮→上社本宮 と回りました。
<22Oct’2021、舞鶴城公園、甲府市> 以下同左 甲府城稲荷櫓です。 今日は、甲府で武田氏滅亡後に徳川家康が命じて築城させたらしい甲府城、別名舞鶴城です。 白壁が重なり合う優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味で舞鶴城とよばれたようです。
<21Oct'2021, 高島城址公園、諏訪市> 以下同左 高島城の復興天主(1970年)。 今日は諏訪市のかつて「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城です。 江戸時代初期に諏訪湖の干拓が行われ、水城とは呼べない姿になりました。 現在復興天主閣から諏訪湖までは1km弱もありま
松本城その3黒門、太鼓門と二の丸御殿跡、松本市 Oct’2021
<21Oct’2021,松本市> 以下同左 まずは黒門です。 内堀を渡ると堀の石垣は直接黒門の二の門(高麗門)と桝形になっています。 桝形の右奥に櫓を持つ一の門(渡り櫓門)があり、ここをくぐると本丸御殿に通じます。
<21Oct’2021,松本市> 以下同左 堀を渡り正門に当たる黒門を通ると本丸跡です。 天主の中は見学することができます。
<21Oct’2021,松本市> 以下同左 今日は国宝松本城です。 五つある国宝の城のうち姫路城、犬山城に続きこれで三城目です。 なんとか五城制覇したいですね。 説明不要ですね。
<20Oct’2021、長野市> 以下同左 一昨日の続きです。 古戦場の両軍の陣の再現です。 武田方の陣の再現。 上杉方の陣の再現。
<05Dec’2021、井の頭恩賜公園> 今日は、井の頭恩賜公園の紅葉です。 Zfcの28mm f/2.8 Special Edition キットが届いてから、28㎜を使う機会がなかったので試し撮りに出かけました。 東京都内の紅葉もそろそろ終わり。 とはいえ、今年行った那須塩原や奥多摩な
川中島古戦場八幡社, 長野市八幡原史跡公園 Oct’2021
<20Oct’2021、長野市> 以下同左 この神社の場所が、第4次川中島の戦いの際に武田信玄が本陣を置いたとされる場所です。 両将一騎討ちの伝説を生んだ地でもあります。 この日、社務所はたまたまの2連休。 御朱印を頂こうと思っていたのに空振り。 しかし社
<20Oct’2021,長野市松代町> 以下同左 今日は長野市松代町の松代城址(海津城址)です。 天主閣は再建されていません。 現在の栃木県佐野市の新町薬師堂での「犬伏の別れ」により関ヶ原の合戦で東軍(兄信之)と西軍(父昌幸と弟信繁)に分かれた真田家の父子で
<20Oct’2021, 千曲市> JR東日本篠ノ井線の姨捨駅。 全国でも数少ないスイッチバック方式を擁する駅です。 今日は姨捨エリアのその他スポットです。 棚田です。
<20Oct’2021, 千曲市> 今日は千曲市の姨捨山放光院長楽寺です。 この大きな岩が「姥石」です。 ここが、田毎の月の月見と棄老伝説の更科の姨捨山らしいとされています。 48枚の棚田は明日の記事で。 芭蕉翁面影塚の向こうの月見堂の屋根の上に茂っている
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現
直箆温泉神社、大田原市余瀬白旗山南端。 今日は、那須与一が源平合戦の後、矢竹を奉賽するために創建したと伝えられる直箆温泉神社です。 最初、鎮座の地は現大田原市北金丸地内の直箆でしたが、享保年間(江戸幕府8代将軍徳川吉宗の頃)に現在の余瀬白旗山南端に
駒込の池、黒羽(現大田原市大輪字長谷田) 今日の写真は、那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の生まれ故郷の地、「駒込の池」です。 鵜黒の駒誕生の伝説は「歴史的風土のなかの黒羽の民話(黒羽町編1993/12)」の要約によると、『長谷田の溜池に、毛は鳥の羽根のようで
稲積稲荷神社(福原)、玄性寺 今日の写真は、玄性寺境内の那須与一の墓の南隣に鎮座する那須一族の守護神稲積稲荷です。 お寺の中にある神社です。那須与一が屋島合戦で扇に向かって矢を放つ際に稲荷明神が白狐と化して守護したという霊験ある稲荷です。主催神は倉
玄性寺、大田原市福原 今日の写真は、那須与一公の墓所がある福原玄性寺です。 那須氏の菩提寺で、伝承によれば、3代那須資之が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆)の分骨を受けて福原(現大田原市福原)に建立した功照院が始まりといわれ
楼門(重文)、那須神社(大田原市南金丸)。 国指定名勝「おくのほそ道の風景地」 今日の写真は、金丸八幡宮として仁徳天皇の時代に建立されたと伝えられ、中世、近世を通じて那須氏、大関氏(江戸期黒羽城主)の氏神として信仰された「那須神社」です。 一
九尾稲荷神社、那須温泉神社内 今日の写真は、昨日少し説明した本殿の東側に鎮座する「九尾稲荷神社」とその北東奥にある「殺生石」です。 「九尾の狐」(玉藻前)の平安時代の退治については近いうちに、源頼朝の那須の篠原での巻狩り(1193年)か松尾芭蕉の所縁の
那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)、本殿、(那須町湯本) 今日の記事は、「平家物語」の中で那須与一が源平合戦屋島の戦い(1185年)で扇を射る際に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ
高館城址、大田原市大輪、川田 今日の記事は、那須与一の生い立ちと高館城址の写真です。 那須余一の出生から成人するまでに関しては、今なお不明な点が多く、むしろ謎に包まれてます。 私が源義経、那須与一、松尾芭蕉の下野での足跡を調べるのに最も信頼して利
大田原市余瀬の白旗山南東端にあたる、旧東山道沿いの「余瀬の道標」近くの「白旗城跡の説明看板」 今日の写真と記事は、東山道の関東最北の黒川駅家(うまや)の次の駅家である粟野駅家があった、現大田原市余瀬の白旗山です。 余瀬は元は旧東山道(関街道)粟野駅
弁慶下駄掛石、那須町睦家。 今日の写真は、那須町睦家にある「弁慶下駄掛石」です。 弁慶下駄掛石の伝説は、治承4年(1180年)、義経一行が旧東山道黒川駅家(現伊王野付近と推定される)から、かつて祖先源頼義が軍兵を募った粟野駅家(現大田原市余瀬)に向かう
伊王野城山公園。伊王野山城(霞ヶ城、伊王野城)跡。 今日の写真は、伊王野山城跡を公園にした「伊王野城山公園」です。 伊王野城は室町時代の長享元年(1487)に当時の領主である伊王野資清によって築かれた城郭で、これまで居城として利用した伊王野氏居館
伊王野氏居館跡(手間広場)と伊王野氏山城跡、那須町伊王野 今日の写真は、昨日の馬頭観音堂があった、伊王野氏の山城跡その1とそれ以前に約300年間平城として使われた伊王野氏の居館跡です。 1180年に義経一行が鎌倉へ向かう途中で、弁慶が昨日の馬頭観音堂で
馬頭観音堂、那須町伊王野伊王野氏山城址 今日の写真は、那須町伊王野の「馬頭観音堂」とその境内に湧き出る「判官清水」です。 馬頭観音堂は、那須町伊王野の伊王野山城跡に上る途中にありました。 那須町の義経伝説には、「東山道伊王野を義経一行が進んでいる
沓石。那須町大畑沓石地区 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、大畑地区の「沓石」と「大畑」、伊王野地区の「御幣石(おんべし)」です。 まずは、「沓石」(那須町大畑沓石地区)です。 旧東山道(義経街道)をさらに伊王野方面に向かうと、街道
「月夜見山」伝説地(那須町簑沢) 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、簑沢地区の 「月夜見山」、「具足岩・五両沢」、「矢の根石」です。 まずは「月夜見山」。 「陸奥と下野の国境の追分明神に着いたころは、もう夕もやが境内の杉木立に深くたち
追分の明神(住吉玉津島神社)、那須町簑沢追分地区。 今日の写真は、那須町の義経伝説No.1「追分明神」です。 治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で平家追討の旗を挙げたことを源義経が奥州平泉で聞き、鎌倉へ駆けつける際に古代の街道である東山道を通ったといわれ、
キクザキイチゲ、白河神社(白河市旗宿)Apr’2017 今日の写真は、白河の関跡、白河神社の巨木と山草の花です。 今から50年以上前に初めて訪れた時、子供だったこともあり私の白河の関の思い出に残ったのは、大木に絡みついたり、絡みついた大木を枯らして地面から
白河神社拝殿、拝殿、白河市白河市旗宿関の森 今日の写真は、白河神社です。 昨日は、源義経に関わる事跡と白河の関跡の関の森砦跡などの写真を紹介しましたが、今日はそれらを除いた写真です。 白河神社は福島県白河市大字旗宿字関の森に鎮座している神社で、創