ブログ、引っ越しましたhttps://ameblo.jp/usato3/お引越し
久方ぶりのお大尽ご飯。冬の日、長い友の車に乗せてもらってお多度さんに行く。上げ馬神事はいろいろに言われているけれど、奥の天津彦根様も天目一箇様も浄き山水の中に変わらず坐す。さてさて今日は参道のその昔の旅籠の大黒屋さん。随分前にお多度さんに参った時、これはこれはいずれお邪魔したいと思った鯉料理屋さん。お昼なら私でもいただけそうなお品書きを、あの日の私は決して見逃しはしなかった。上り口でおたおたしていると、「初めてですか」と声をかけてくださる。案内されて、暖房の入った部屋に通される。廊下は鯉を放っている池を囲む庭に面している。お多度さんのあの山水の流れる池の中で鯉は清められているのだね。そんな庭を見ながら料理を待つ、なんと贅沢。煮凝りやらうろこの天ぷらやらあらいやら煮つけやら鯉こくやら、たっぷり鯉をいただく。...お大尽詣り
dealとは取引の意であるが、早い話が、商売、商いであろう。人民共和国を冠する国だって、国家資本主義と商いが大事よね、っと言ってしまうのだから、世界はみんなみんな、商売に奔走し、商売に熱狂する。商いは飯を食うためであり、食わねば人は生きていけぬのだから、イデオロギーとか、倫理とかは霞であるのだから、それは仕方がないし、生きるために商うのは、もちろん、必要悪でもない。しかし、商売が無敵になってしまっては、商売だから、食うためだからと思えない。経済が無敵になって、自分の商売のために、難しい民を排除したり、よそのものは莫大なtaxをおさめなきゃ売り買いできなかったり、地図の上の名前を変えたり、閲覧数稼ぎっていう商いのために根拠のない発言をアップして言われなく貶めたり、選挙ポスター枠売ったり。商売になるからいいじ...無敵の商売
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この冬は、「御上先生」と「金と銀」ってドラマを見ている。「金と銀」ふうかちゃんはこっちの方が断然いいなって思うほど、細腕繁盛記かあかんたれかってほど面白い。で、今回は「御上先生」のこと。松坂桃李さん、「今ここにある危機とぼくの好感度について」とか「あのときキスしておけば」とか、侮れないいい役者さんよね。学園ドラマって、たいていは見ないのだけど、だって、聞き分けのない青春の圧やら、聞き分けのない教師の圧くるしさやらが満載で、でも、やっぱきれいごとだからね。もう結構、もう勘弁なんだけど、御上先生はちょっと違うっぽいぞ。学園といってもそこは進学校、偏差値高くて偏差値高い大学目指す子ばかりが出てくる。それが、嘘っぽくないよね。進学校の高校生にとって、最優先事項は受験なんだからさ。そして、それぞれのセリフがたいてい...先生の歌、先生と唄
久方ぶりのお大尽ご飯。冬の日、長い友の車に乗せてもらってお多度さんに行く。上げ馬神事はいろいろに言われているけれど、奥の天津彦根様も天目一箇様も浄き山水の中に変わらず坐す。さてさて今日は参道のその昔の旅籠の大黒屋さん。随分前にお多度さんに参った時、これはこれはいずれお邪魔したいと思った鯉料理屋さん。お昼なら私でもいただけそうなお品書きを、あの日の私は決して見逃しはしなかった。上り口でおたおたしていると、「初めてですか」と声をかけてくださる。案内されて、暖房の入った部屋に通される。廊下は鯉を放っている池を囲む庭に面している。お多度さんのあの山水の流れる池の中で鯉は清められているのだね。そんな庭を見ながら料理を待つ、なんと贅沢。煮凝りやらうろこの天ぷらやらあらいやら煮つけやら鯉こくやら、たっぷり鯉をいただく。...お大尽詣り
dealとは取引の意であるが、早い話が、商売、商いであろう。人民共和国を冠する国だって、国家資本主義と商いが大事よね、っと言ってしまうのだから、世界はみんなみんな、商売に奔走し、商売に熱狂する。商いは飯を食うためであり、食わねば人は生きていけぬのだから、イデオロギーとか、倫理とかは霞であるのだから、それは仕方がないし、生きるために商うのは、もちろん、必要悪でもない。しかし、商売が無敵になってしまっては、商売だから、食うためだからと思えない。経済が無敵になって、自分の商売のために、難しい民を排除したり、よそのものは莫大なtaxをおさめなきゃ売り買いできなかったり、地図の上の名前を変えたり、閲覧数稼ぎっていう商いのために根拠のない発言をアップして言われなく貶めたり、選挙ポスター枠売ったり。商売になるからいいじ...無敵の商売
兵庫県知事選。SNSやら、動画サイトやら、私の嫌いなおじさんの立候補やら、何が何だか、いろんな方面からの乱暴な運動やら恫喝やらを見せられながら、いろいろいろいろがあって、あのお方が当選なさった。この結果をあれこれ言う権利は私にはない。県民でないからね。しかし、この選挙の流れ、これは分断だなと唐突に思った。分断とは、そう分断とは、同じものを見ているはずなのに、違う様を見ること。本人はそれと信じているが、同じものを論じていると思っているが、見えているものは全く違っていて、誰もが他の人の見えている景色を知らぬまま、お前は間違っていると言い合うこと。そりゃ、違っているさ、見え方が違うんだもんね。変換間違いみたいにね。雨が見えてる人と飴が見えてる人が、真偽を競っても決着はつかない。確かに多かれ少なかれ、人はそんなと...分れてもすえに
食べ物とペットと花と。それが年を重ねた人たちのお楽しみ。私もおいしい店があると知ると行きたいし、おいしいレシピは作りたいし、季節の花は愛でたいし、ペットはかわいいし。それは個人的なお楽しみ。たぶん、他人にはそのおいしさ、かわいらしさ、美しさは、ちょっと曖昧なちょっと遠いお楽しみであり、「他人事」であろう。「いいですね」とコメントがついたとしても、ね。そんな、私事を日々お写真を撮って更新するのもお楽しみ。他人様に、素敵でしょ、とするお楽しみ。確かに、投資でこんなに勝っているとか、外国語どんどんマスターしましたってのも、他人事としては、息苦しいものではあるが、自分と意見の合わぬ団体や思想を弾劾するのも暑苦しいが。これまで働いて、何やらにつとめてきたのだから、ゆるゆるお楽しみに浸るのは、非難されることではないの...発信ってさ
物理でも医学でなく化学でもなく、日本被団協にノーベル賞。日本国はといえば核兵器禁止条約を批准していない。世界は日本被団協のある国として、日本を見ているのだ、ということを考えねばならない。個の力に頼るばかりの国である。平和を冠する
やっぱり、井上尚弥が勝って、ぷっつり中断のようなTKOだったけど、ラウンドなはじめはパンチのラッシュも見られたし、彼はやっぱり勝ったし、今日は新月だしLeminoのスポットCMで聞いたasobiのHurtsSoGoodはほのさびしくていい曲で、そうか、なんだか林檎の丸の内サディスティックに似てて聴いてて気分がいいし、いい夜だな、いい夜だね、いい夜よGoodNightGoodNight
「虎に翼」を見ている。夫婦別姓、LGBT、原爆裁判、そして認知症に、更年期障害。これに対して、政治的だとか、左だと評する人がいるのに、ちょっと驚く。確かにそれらは、憲法や法律の問題となるが、始まりは個人の問題であり、終わりも個人の問題である。困っているのはワタシであり、何とかしたいと思っているのはワタシである。問題の奥には、ご飯を食べ、眠り、怒り、笑う、たくさんのワタシがいるのだ。それは大きな課題の前に見えづらくなってしまうけれど。法は個人の問題への対策であり、個人に還元されなくては法の法としての意味はないと思う。それを、主義の問題、主張の問題としてひとくくりにしてしまうことは、危ないことだ。人は主調のために生きているのではない。初めに個人の問題があり、そのために主義のカテゴリー分けで便利になることはある...ワタシの問題
「家族だから~」というドラマを見ている。母が車いすになり、外出をしようと娘は車いすを押す。娘は周りの人に「すみません」「すみません」と何度も言いながら道を行く。「すみません」と言わねば、車いすではすんなり道を行けないのだ。「すみません」は謝罪の言葉だ。自分がいけないことをしているとき、迷惑をかけた時、世の中に謝る言葉だ。しかし、車いすに乗っていること、車いすで外出すること、車いすで道を行くことは、いけないこと、迷惑をかけていることなのだろうか。車いすになっていることは、いけないこと迷惑なことなのだろうか。そもそも車いすになることをその本人も望んでしているわけではないし、本人の落ち度があっての結果でもない。だのに、謝らなければ道を行けないことって、どういうことなのだろうか。車いすで外出すること、ひいては車い...してもらう人してあげる人
私は小中学校と委員長だった。委員長として、責務をstrictに実行した。そして、カシコイオナゴであった私は、高校以降は委員長にならぬように過ごしてきた。多くのカシコイオナゴは知っている。そうして賢明である故に計算をする。委員長などやる女子が男子からどのようにみられるかを。同じ仕事をしていても男子は責任感があり前向きに取り組んでいるとされるが、女子は出しゃばりだと後ろ指をさされ陰口を言われ疎まれることを、賢明である故にちゃんと想像してしまう。よほどの覚悟か、事情を持たねば人の上にむやみに立つものではないとの算術をする。賢ければ賢いほどそれがわかってしまう。自分を押し込め、にこにこと笑って身を潜め、誹謗中傷と徒労のリスクを避けようとする。そんな私に、あの言葉は胸元に刃を突き付けるように迫ってきた。私を束ねない...女の詩
ちょっとだけ、自分で生きることを取り戻しかけている。詮ないことは考えないこととし、暑くなりすぎない時間に家仕事をし、ちょっとだけ、下界に出てみる。恐る恐るだけどね。って、こんなときはなぜか、スピッツの歌がくるくる思い出されて、スピッツの歌が聴きたくなる。遠い昔に聴いたことがあったような、今初めて聴くような、塗りつぶした傷にそっとスピッツを捧げ君も大変だったからさ、と自分に言ってみる復活の時(ちょっとだけだけど)
記憶の中にちゃんとメモ。現兵庫県知事と前安芸高田市長なんかの選挙に出たら彼らには注意すること。処理が速いって万能の才能ではないのに、他者を無能と切り捨てるのは世の一部しか理解できていないということだ。一時期のN先生のよう(以前の『N先生のこと』をご覧くだされ)だね。N先生もなんだか失速してしまい、逆につまんないけど。彼らも一度、名前とか経歴とか引っ剥がしてコンビニとかで働いてみるといいよね。学歴経歴のない名無しの自分がどれほど心許なく、その場の行動のみで判定されるかを知るべきだ。東大京大卒だの、省庁キャリアだのアナリストだのをアナウンスできない自分がどれだけ無力か、どれだけ即座の快適な対応を求められるかを知るがよい。なんとかちゃんのパパでしかない自分が子からも他のパパからも嫌われているのを知るがよいのだ。...メモメモ
久しぶりに曇っていない七夕の夜。1-99とAIが言っているから残り時間も少ないし渡辺さんの勝ちとなってしまうよねと思い、都知事選の開票結果を見に行って、やっぱ結局百合子さんは勝つのね、一番じゃなきゃダメなんですかにも、元市長にもと思って将棋中継に戻ったら99-1と全く逆になってて、いつの間にと思ってるうちに藤井君第一局勝利となってた。そしてやっぱそんなに面白くもなかろうと見ずにおいた井岡戦はマルティネス判定3-0で勝利。井岡の敗北に終わっていた。ドラマメイクの晴天七夕の夜。ある程度予想されていた勝敗とはいえ、やっぱりね、ってだけではないのだよね。わかっていたはずではあっても、結果が眼前にあると(そういうことだったのか)と思う。こうなるだろうと思っていた未然の時とは違う、のだ。事実現実というのは、揺るがず決...七夕の夜は
私は最近、不自由な人、である。そこで、考えた。そうだ、私は今まで自由を手に入れるために生きて来たのだ、と。優先順位一番は「自由」リベルテだった。家の、過去の、親のしがらみから逃れるために、それに囚われない自由を手に入れるために、我慢したり、受験勉強したり、妥協したり、折り合いをつけたり、した。自由のために我慢するって、いささか矛盾を孕むのだけれど、誰だってなんらかに対する自由を手に入れようとしたら、それ以外については切り捨てねばならぬものであろう。全方向の自由なんて、いずれは他者を害し、他者から糾弾、阻害され、短命のものでしかない。だから、誰もが自分の自由に優先順位をつけることとなるし、どうしても自由にせねば耐えられぬものに対する自由を手に入れようとする。なんて色々言ってはみるが、要するに、兎も角、何はと...リベルテ
慶應は慶應義塾大学である。が、最近、ニュースだけでなく出版物まで、慶應大学と義塾を省略しているのをよく見かけるようになった。確かに2字の画数の多い漢字を略した方が面倒はないだろう、とも思うが、今までのメディア、公式のものなどは律儀に慶應義塾と書いていたのに、どうしてしまったことなのだろうと思う。ひょっとして、これまでは慶應義塾自体が、慶應と略すものには「うちは慶應義塾です」といっていたのに、最近は緩くなったとも考えられなくない。さて、その慶應であるが最近、塾長(学長)が、国立大学の授業料を上げるよう文科省の会合で国に提案したらしい。半世紀ほど前にも国立大学の授業料は値上げされたが、その時も私立大学から国への要望によるものであった。その時も今回も私立大学の経営が厳しく、学問の充実のために学費を上げるべきとい...義なきところ
ある時、あちらとこちらがある事に気づく。私はこちら側に来てしまったので、あちら側にいるままの知人や周囲の人は、もう、もう、どこかで遠い人。こちら側は静かだ。そうして今までの私は、あちら側にいた昔の私は、こちら側の人を、自分とは隔たりある人と見てきた。そして、自分がそうなっている事に茫然としている。人の間を歩きながら、私以外はあちら側を生きているのだなと思う。その間には、越えられない、どれだけの深さがあるのかわからないような靄が立ち込めている。違うところに来てしまったのだな思う。それは事実であるのだけれど、私はもう一度あちら側に戻りたいのだと思っているのだな、やっぱり。あちら側こちら側
これまで私は私という器を作って育ててきたのだな。いろいろな言葉、いろいろな実、いろいろな絵を入れて。いろいろな喜び、いろいろな悲しみ、いろいろな驚き、いろいろな憤りを入れて。そうして匣としての私は今は容れ物となっている、と、なろうとしている、の間くらいの感じ。知らぬ事柄を世の中の学問の力借りて、少しだけ整理しながら箱に入れてきたこれまでの私。これとこれは関係ありとシナプスを繋ぎながら。大人になって色々を見聞きする間に、学問を超えた関係にも繋がりがあるのだとわかってきて、それは楽しい驚きだ。理科と社会、数学と文学、経済と人脈、羨望と諦念、などなどをね。今は器を開放している。なんでもはいっておいで、という状態になってきている。これまでの中で、これが一番面白い。私はただ、いくつかの要素やら繋がりの入っている器に...器としての匣または筺としての我
雨が上がり、雲間から出た陽の光で木々が照らされている。さっきまで暗かった木の葉が明るく白く照らされてゆっくりゆっくり風に揺られている。同じ木の葉なのに、命を得たように西日に照らされ右は左へ、私はこうやって、本当はあなたにもよく見える明るい顔を持ち、あなたに顔をちゃんと見せ、動いて見せることができるのだよと。さっきまでの暗い顔、動けない私ばかりではないのだよと。空に向かってこうやって私はいるのだと言える私も、ちゃんと居る。陽があたっている時も、暗闇の中、全く姿が見えない時でも、私はここにいるのだけれど、陽があたっているから、さも力強く揺れているように見えるのだけど、見える私も、見えぬ私も私であると思ってくれる人もいる。見えぬ私がいる事を知る人よ。見えねば存在せぬに等しいはずなのに、存在を覚えてくれている人よ...雨上がれば
私は今、人生最大の絶体絶命のピンチにある!!のだ!!と思いあたった。はてさて、ここまでの人生最大の絶体絶命とはなんだったんだろうと、ふと考えた。それよりも絶体絶命でないと、人生最大とは言えない。冷や汗たらりて、息もできなくなる、背筋がピリピリする、そんな絶体絶命、ここからどうやって逃げればいいのかわからん、絶体絶命、確かになくはなかったけれど、すぐに思い出せもしないところをみると、大した絶体絶命ではなかったのだろう。危機一髪なんて、髪の毛一筋分しか猶予がないというものだしね、そんなギロチン目の前なんて危機もなかったよね。交通事故とかは息も詰まる思いだったが、幸運にも大事には至っていない。はてさて、人生最大の危機とはそもそも、解決が困難だから人生最大なのか、はたまた、解決不可能だからなのかは、重要な問題であ...人生最大の絶体絶命
私は最近、不自由な人、である。そこで、考えた。そうだ、私は今まで自由を手に入れるために生きて来たのだ、と。優先順位一番は「自由」リベルテだった。家の、過去の、親のしがらみから逃れるために、それに囚われない自由を手に入れるために、我慢したり、受験勉強したり、妥協したり、折り合いをつけたり、した。自由のために我慢するって、いささか矛盾を孕むのだけれど、誰だってなんらかに対する自由を手に入れようとしたら、それ以外については切り捨てねばならぬものであろう。全方向の自由なんて、いずれは他者を害し、他者から糾弾、阻害され、短命のものでしかない。だから、誰もが自分の自由に優先順位をつけることとなるし、どうしても自由にせねば耐えられぬものに対する自由を手に入れようとする。なんて色々言ってはみるが、要するに、兎も角、何はと...リベルテ
慶應は慶應義塾大学である。が、最近、ニュースだけでなく出版物まで、慶應大学と義塾を省略しているのをよく見かけるようになった。確かに2字の画数の多い漢字を略した方が面倒はないだろう、とも思うが、今までのメディア、公式のものなどは律儀に慶應義塾と書いていたのに、どうしてしまったことなのだろうと思う。ひょっとして、これまでは慶應義塾自体が、慶應と略すものには「うちは慶應義塾です」といっていたのに、最近は緩くなったとも考えられなくない。さて、その慶應であるが最近、塾長(学長)が、国立大学の授業料を上げるよう文科省の会合で国に提案したらしい。半世紀ほど前にも国立大学の授業料は値上げされたが、その時も私立大学から国への要望によるものであった。その時も今回も私立大学の経営が厳しく、学問の充実のために学費を上げるべきとい...義なきところ
ある時、あちらとこちらがある事に気づく。私はこちら側に来てしまったので、あちら側にいるままの知人や周囲の人は、もう、もう、どこかで遠い人。こちら側は静かだ。そうして今までの私は、あちら側にいた昔の私は、こちら側の人を、自分とは隔たりある人と見てきた。そして、自分がそうなっている事に茫然としている。人の間を歩きながら、私以外はあちら側を生きているのだなと思う。その間には、越えられない、どれだけの深さがあるのかわからないような靄が立ち込めている。違うところに来てしまったのだな思う。それは事実であるのだけれど、私はもう一度あちら側に戻りたいのだと思っているのだな、やっぱり。あちら側こちら側
これまで私は私という器を作って育ててきたのだな。いろいろな言葉、いろいろな実、いろいろな絵を入れて。いろいろな喜び、いろいろな悲しみ、いろいろな驚き、いろいろな憤りを入れて。そうして匣としての私は今は容れ物となっている、と、なろうとしている、の間くらいの感じ。知らぬ事柄を世の中の学問の力借りて、少しだけ整理しながら箱に入れてきたこれまでの私。これとこれは関係ありとシナプスを繋ぎながら。大人になって色々を見聞きする間に、学問を超えた関係にも繋がりがあるのだとわかってきて、それは楽しい驚きだ。理科と社会、数学と文学、経済と人脈、羨望と諦念、などなどをね。今は器を開放している。なんでもはいっておいで、という状態になってきている。これまでの中で、これが一番面白い。私はただ、いくつかの要素やら繋がりの入っている器に...器としての匣または筺としての我
雨が上がり、雲間から出た陽の光で木々が照らされている。さっきまで暗かった木の葉が明るく白く照らされてゆっくりゆっくり風に揺られている。同じ木の葉なのに、命を得たように西日に照らされ右は左へ、私はこうやって、本当はあなたにもよく見える明るい顔を持ち、あなたに顔をちゃんと見せ、動いて見せることができるのだよと。さっきまでの暗い顔、動けない私ばかりではないのだよと。空に向かってこうやって私はいるのだと言える私も、ちゃんと居る。陽があたっている時も、暗闇の中、全く姿が見えない時でも、私はここにいるのだけれど、陽があたっているから、さも力強く揺れているように見えるのだけど、見える私も、見えぬ私も私であると思ってくれる人もいる。見えぬ私がいる事を知る人よ。見えねば存在せぬに等しいはずなのに、存在を覚えてくれている人よ...雨上がれば
私は今、人生最大の絶体絶命のピンチにある!!のだ!!と思いあたった。はてさて、ここまでの人生最大の絶体絶命とはなんだったんだろうと、ふと考えた。それよりも絶体絶命でないと、人生最大とは言えない。冷や汗たらりて、息もできなくなる、背筋がピリピリする、そんな絶体絶命、ここからどうやって逃げればいいのかわからん、絶体絶命、確かになくはなかったけれど、すぐに思い出せもしないところをみると、大した絶体絶命ではなかったのだろう。危機一髪なんて、髪の毛一筋分しか猶予がないというものだしね、そんなギロチン目の前なんて危機もなかったよね。交通事故とかは息も詰まる思いだったが、幸運にも大事には至っていない。はてさて、人生最大の危機とはそもそも、解決が困難だから人生最大なのか、はたまた、解決不可能だからなのかは、重要な問題であ...人生最大の絶体絶命
必然を偶然と考えたくなる、偶然を必然と思いたくなる、それが人のサガなのだろう。起こるべくして起こった必然であっても、その因果を認めたくはない。どこか己の預かり知らぬところに問題があったに違いない、自分のせいばかりではない、偶然そうなってしまったのだと思いたいのだろう。偶然というのは自分の外にあるものであるが、自分の中に偶然があると錯覚しているのだ。それは、己の必然から逃げようとしているのだ。己の必然から逃げることは必然であるが故に不可能であるのに、人はやはり己の必然を全て引き受けることは辛くて苦しくて耐えられない。また、偶然に必然を見つけたくなるのも人のサガであろう。きっとこれは私を選んで起こってきたのだ。この出来事の中には、運命が私に伝えるべきことがあって起こったのだ。これが起こったのは過去のあのことと...throughbias-正常性バイアス
思えばこんなに遠くまで、怒りながら、憤りながら来てしまった。そのために私は私を蝕んだと書いたが、怒りながら、憤りながらしていなかったら、私はここまで来られもしなかったかもしれない。不公平、不条理、不潔、不道理、ふにゃふにゃなことに、憤り続けてきた。マイナス要因をいっぱい投げつけてくる運命にも怒れてきたし、そんなものに屈することも嫌だったし、やったことは何らかの形で報われるべきと思っていたし、逃げればそれだけのものしか手に入れられないと思ったし、何処にも何らかの光はあるはずだと信じたし、その光を信じる気持ちを誰もが持っていいと思ってきたし、誰もに持って欲しいと動いてきたし。だから、怒りながら、憤りながら私はそこそこなものを獲得した。他人から見れば価値はないかもしれないが、私は私に必要なものを憤りながら手にし...怒る、憤る、界隈
前回、民藝と聞くと寅さんを思い出してしまうという話をしたのだけど、一体そのつらさはどこからくるものなのだろうか。民藝は優越的立場の人、ブルジョワジーだったりが、プロレタリアートを評価するものであるが、その、一瞬「嫌らしい」感じは、ブルジョワジーに対しても、プロレタリアートに対しても上位から語ってしまっているところだろう。優越的立場にいるのに、優越の享楽に浸る人とは違い自分は民衆の美をも理解できるのだ、という他の富めるものの堕落とは一線を画しているという特別感。民衆に対しては、富める私ではあるがあなた方の美を理解できるのだという特別感。どちらの側に立つというリスクを負わず、安穏な立場から美を語っているように見えてしまう。また、一生、東大卒と通行手形をスタンプされる経歴を持ちながら、フーテンを評価するという特...民藝は、なぜつらいのか
岐阜石徹白の野良着などを元にした洋品店、しばらく前から欧州のアート関連で評価されていると聞く。型紙集を去年夏、岐阜川原町で見た。オリジナルのものであり、ヨーロッパで評価されているのではあるが、気軽に購入するにはちょっと高価であった。はてさて、これはいわゆる「民藝」なのである。高山日下部民藝館のように「民藝」なのである。働く庶民の知恵が生み出したものは確かに素晴らしく美しい。ただ、それを評価するのは、働く庶民ではなく、庶民を我の下と位置付け、市井の農村の人々の営みを卑しいものとしてきたアッパーグループの層の人々から生まれてきた人だったり、その層に育てられた人だったりするのだという矛盾。「民藝」に触れると、私はよく、日本の最高学府とされる学校を出た人が、放浪のバナナの叩き売りを映画に撮り続けていたことを思って...民藝はつらいよ
井上尚弥のネリ戦を、今朝見た。リアルタイムでは見られなくて、結果を知ったのちの視聴であったが、大変楽しんでみた。リアルタイムだったらば1ラウンドのサプライズのために、もっとドキドキした視聴になったであろうが、勝利を知ってはいるので、お互いに煽っているのも心の余裕をもってみた。王者も大人になり、狙いを定めることだけに試合のポイントを考えるところから、駆け引きを見せながら試合を楽しむことへと、変わっているのだな。しかし、彼の試合を見るようになって他の格闘技の試合は、つまらなくて見られなくなってしまった。これはいわば、ボクシングの試合を見るというよりは、美しいもの、真実のもの、「芸術」というものをみているのだなと思う。王者を喩えるとすれば何だろうと、ふと考えた。そうだね。曜変天目みたいだね。曜変天目はその現存す...王者を喩えるならば
突然の軌道修正を余儀なくされて自分の気持ちがとても整理できなくなってしまってこれまで、目前の処理すべきことを無理やりに力づくでちぎっては投げ、してきたのだな、わたし。気が付くと、近くには泣き言をいう友もいない。目前のことをやりこなすことで、私は考えたくないことを、気づかぬことにしてきたのだな。これまで、頑張ってきたのだから、しばらく休めばいいと言われるのだけど、休まぬことで逃げてきた私は逃げ場をなくしているつらい昔を、忘れてしまったことにしてきた。そうやって生き延びてきたでも、私の中ではやはりつらいことのままだったので、昔のことを気にしていないように手助けをしなければならないことは、私にとっては、随分、理不尽な思いを持って動いてきたのだね。自分がそれをしなければならないことを、つらいと思いながらもそう思っ...平気、ということについて
私は何を手に入れたいと思い続けてきたのかをやっと思い出したその名は自由リベルテ
秋から取り掛かっていたことに、身も心もへとへとになりながら、何とかけりを付けた。正月明けの二週間は毎日が目まぐるしく、やることだらけだった。自分の決心を迷いながら、本当にやり遂げられるのだろうかと思いながら、体の不調は続いたけれど、何とか決着をつけた今週は少しずつ体調も戻ってきた。少しずつ妥協をし、関連先には少しばかりの心づけをした。人生のベストいくつかに入るような案件だったけど、その件について話をするのだけど、もうすこし、「よくやったね、たいへんだったね」と言ってほしいものだ。本当に本当に大変だったのだ。私は、あちらもこちらも考えながらよくやった。そんなこと、きっと私だけのことなんだけどね。そうなんだけどねほめてほしいってこと
試合が始まった。前の試合の時に書いたもの。今度も試合を見られる幸せを感じながら、王者に捧ぐーーーー昨夜、井上尚弥の試合を見た。地上波で放映されないのは、日本国民にとっては残念だけど、何はともあれリアルタイムで見せてくれたLeminoさん、ありがとうございます。ボクシングの王者は昨夜もやはり、王者の試合であった。王者の仕事は「時の支配」であり、「場の支配」である。多くの人は、対戦相手を支配することと思っているかもしれないが、王者は人に勝とうとしているのではない。であるからこそ、王者は王者であるのだ。藤井君しかり、平野君しかり、である。人に勝とうと思っている人は結局、人との戦いの中でしか戦えない。王者が時と場とに戦いを挑んでいるからこそ、私を惹きつける。気負いなく見つめ、先を読み、狙いをすますこと。浄らかな戦...井上尚弥に捧ぐ