田切誠人2月の本県沖地震で五輪塔や灯籠が崩れた、桑折町にある仙台藩伊達氏の始祖・伊達朝宗(ともむね)公墓所が修復された。10月30、31日には伊達氏ゆかりの桑折西山城跡で全国山城サミット桑折大会が控えており、町の生涯学習課歴史文化係は「墓所をはじめ、関連する史跡を巡り、伊達氏発祥の地と知られる桑折を知ってほしい」と話す。詳しくはこちら福島県桑折町生涯学習センターで検索田切誠人「全国山城サミット桑折大会」情報提供
MakotoShiraishi私が好きな本。初めての土地に行くときのガイドブックとしてこの「ひとりあるき」シリーズすごく良かったのに無くなりました。最近の絵ばかりと違って名所旧跡は今も参考にさせてもらってます。全巻集めたかったですゲーム「信長の野望」のデータブック(今手元に残ってたのはこれだけでした)戦国武将を短い文章で端的に説明されてて、何した人か忘れた時などちょい調べに役立ちます。これで800人超え。1000人超えのシリーズもありました。時代とともに所在地や名前も変わって、能力値の変化などみてもおもしろいです。MakotoShiraishi私が好きな本。
城下町津山が形成されたのは、慶長8年(1603)森忠政(森蘭丸の末弟)が信濃川中島より美作国18万6千5百石に封じられたことに始まる。忠政は町づくりにあたってまず治水に力を注いだ。つづきはこちらからどうぞ松田信二「城下町津山」&「吹屋を歩く」
栗原たみ私のベスト3小説。1)「孤闘」は立花宗茂の人生。紹運との別れのシーンは泣けます。2)「小早川隆景」に関しては私にとって初めての毛利家。お父ちゃんの元就よりも惹かれました。(人生として)3)「直江兼続と妻お船」ははっきり言って予想外にお船さんの心に女性として惹かれました。強い。一人娘で幼馴染の兼続と結婚。夫を男として育てた強い女性だなぁって思いました。最後に昨日は左端の「孤闘」をかいた上田先生の「傀儡にあらず」を読み終えまして、大感激の嵐です。また写真撮ってコメント残します栗原たみ私のベスト3小説。
筑前「城下町秋月」秋月藩は元和9年(1623年)福岡藩主黒田長政の三男黒田長興が5万石の分与を受け立藩し、12代、248年統治した。城主ではなく無城主(陣屋主)なので正確には城下町ではなく陣屋町になる。つづきはこちらからどうぞ武藤達也「自分探しの城たび」
1584(天正12)年、羽柴秀吉VS織田信雄・徳川家康の「小牧・長久手の戦い」の関連遺跡を訪ねるにあたり戦いを時系列に追ってみた。ほかつづきはこちらからどうぞ飫肥城は標高20~30mのシラス台地上にあり、西から南に流れる酒谷川を天然の堀とし、本丸・中の丸・松尾の丸など多くの曲輪に分かれています。ほかつづきはこちらからどうぞ平山輝「自分探しの城たび」~小牧長久手の戦いほか3件
1584(天正12)年、羽柴秀吉VS織田信雄・徳川家康の「小牧・長久手の戦い」の関連遺跡を訪ねるにあたり戦いを時系列に追ってみた。ほかつづきはこちらからどうぞhttps://csn.tokyo/face02.html平山輝「自分探しの城たび」
Hidenobu Fujioka 「城下町 登米」&「城下町 三春」
『おかえりモネ』の舞台となる登米城下町です。田舎てなんでしょう過疎地てなんでしょう私には玉手箱です。つづきはこちらからどうぞhttps://csn.tokyo/face01a.htmlHidenobuFujioka「城下町登米」&「城下町三春」
伊達氏北端の要だった金ヶ崎要害(城)跡と武家屋敷群です。陸奥の大地に流れる北上川には、雄大という言葉が相応しく思われます。https://csn.tokyo/face01.html HidenobuFujioka「金ヶ崎要害」
ここでは、会員の皆様が普段どのような本やネットを読んでいるのかを紹介するページです。それぞれ本の特色や良いところを書いていますので、貴方の参考になるかもしれません。「城と城下町、古い町並みを訪ねて」の本屋さんへようこそ
大坂和信「100名城」
群馬県伊勢崎市本町にある相川考古館という所に来ている。この相川家は、江戸時代は脇本陣であったようだ。内部は主屋、土蔵、茶室などが残る。詳しくはこちらからどうぞ。古民家シリーズ群馬県
上杉家は戦国期を語る上で外せない一方の旗頭であった事が分かる資料であり、中央の政治感覚にわ疎かった(関心がなかった)と思えるのは、結果を知っている我々の感覚?と感じる資料ですHidenobuFujioka「」
根岸明さんが追加しました。私の専攻は、城の要害つまり堀切とか空堀など城の防御のしくみを見ることです。中田正光氏のこの本は、武田流築城術について解説されたもので私のお気に入りです。城の縄張り図を見るのが好きな人ならば理解できると思います。ですから歴史や人物像は不得手です。次は宮坂武男氏の「境目の山城と館」です。ご覧の通り、宮坂氏のイラストと中身はなんと手書きです。お値段はなんと8,000円この二つは実は本ではなくてイラストを見てもらいたいんです。作者はお城絵本作家の香川元太郎氏です。私の絵の師です。根岸明「戦国武田の城」ほか
平山さんとかぶってしまいますが、読書の得意でない僕がいつも攻城するときに持って歩いている本です。愛知と岐阜と近江はほぼクリアしましたが、三重の南部と長野はまだまだ。これから挑戦です冨田昌弘「城を歩く」
ざっくり知るならこちらですね日本全史子供の頃から地図を見るのが好きで、「ここで何が起きたのかなぁ〜」みたいな感じで、興味が湧いてきました「歴史人」は、勉強になります人物像、史跡、お城等特化してあります吉田節子「日本全史」ほか
自分の専攻は山城の要害つまり、防御のしくみなんです。ですから歴史や人物像は不得手です。こちらは中田正光氏の「戦国武田の城」です。お城の縄張り図が好きな人にはあっているかもこれは本ではなくイラストです。お城絵本作家の香川元太郎さんです。実は私の絵の師なんです。半年ほど習いましたがコロナのおかげで出来なくなりました。根岸明「戦国武田の城」ほか
お城も好きなのですが、元々歴史の方を詳しく追及しているので、歴史本は小説から学術系の本まで沢山…(積ん読多しw)気になっているお城があるので、もっとお城のことを知りたいな、と思い買ったのがこれら。このグループの方には基本中の基本だと思います。初心者はこういうのから入るという一例として挙げます。お城初心者には解りやすい1冊。白石ひとみこれもわかりやすい。雑誌です。九州の歴史ならこの雑誌「忘却の日本史」。不定期刊行。白石ひとみ「」
山城歩きリアル(雑誌)これを見て山城歩きをしようとバイブルとしてみています。目次は次の写真で紹介します男の隠れ家シリーズ城下町の秘密(雑誌)これも町と城と関係がよくわかってとてもいいです。迷わず買いました。地図が好きで当時の地図をもとに色々書かれているのでお勧めです。栗原たみ「山城歩き」ほか
日本名城の旅(上巻、下巻)全国津々浦々大体揃っています。全国にこれだけあるんだって思わせる本です。 栗原たみ「日本名城の旅(上・下)」
土の城が好きな方にはオススメです。城の歴史から縄張りの解説、代表的な山城の紹介などがされています。中村浩文「歴史家の城歩き」
城郭関連の本はたくさん持ってますがここ最近で一番使用頻度が高いのがこれですねベスト50とありますが、尾張・三河の山城50城と平城17城が紹介されています。特に山城に行く際は縄張図が必須になりますので必要に応じてコピーまたは写メしてから登城してますね平山輝「愛知のお城ベスト50を歩く」
城郭関連の本はたくさん持ってますがここ最近で一番使用頻度が高いのがこれですねベスト50とありますが、尾張・三河の山城50城と平城17城が紹介されています。特に山城に行く際は縄張図が必須になりますので必要に応じてコピーまたは写メしてから登城してますね。 平山輝「愛知の山城ベスト50城を歩く」
長崎県大村市に来ている。朝から既に30℃を超えている。大村といえば玖島城を思い出すが、国道から一歩中に入るとしっとりとした武家屋敷街が拡がっている。玖島城は何とも作り物という感じだが、武家屋敷はどんな姿を見せてくれるか楽しみである。ここは慶長4年(1599)大村氏が城を築き家臣を城下に住まわせたのが武家屋敷街の始まりである。本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路と五つの通りが造られ「五小路」と呼ばれていた。上小路は名の通り家老などの上級武士の屋敷が多く、この白壁のある高い石垣は家老浅田大学の屋敷跡である。この中で草場小路にあるこの漆喰壁がとてもモダンで美しく気に入った。ただ草場とは余り上級ではない。それは昔の事なので今はもう関係はない。この壁を五色壁といい大村地方独特なものだそうだ。城下町大村ご覧いただき...城下町シリーズ玖島
ここは旧足尾銅山の中才鉱山住宅(なかさい)という。足尾銅山は江戸時代の慶長15年(1610)に鉱床が発見され、幕府直轄の鉱山となった。銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われる発展を見せた。この鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染を引き起こした。そして樹木が無くなった山地からは、大雨になると鉄砲水が精錬所の有害廃棄物を渡良瀬川に押し流し、下流に鉱毒を押し流した。いわゆる足尾鉱毒事件である。足尾鉱毒事件は、別に編集していますので、ここでは足尾千軒と謳われた街並みが鉱山閉鎖後にどうなったのかを見るのが目的である。1973年2月28日銅山は採鉱を止めその歴史を閉じた。鉱山はなくなったが、鉱山住宅は古河鉱業からそのま...足尾鉱山住宅の今
愛読書と言えば、他のメンバーさんの紹介にあった「日本100名城ガイドブック」とかディアゴスティーニの「戦後武将データファイル」とかなんですが・・・「鬼と人と信長と光秀」堺屋太一織田右大将信長と惟任日向守光秀の独自形式で書かれた小説です。功績と評価、期待と失望、独裁者信長と常識的秀才光秀のそれぞれ自分の立場からみたそれら出来事を、どう考えどう理解して行動したかを、独自形式(俺は……)で表現!作者さんによって評価(武将のね)の違いがあって面白いですね。 松田信二「鬼と人と信長と光秀」
「城と城下町、古い町並みを訪ねて」の本屋さんへ大坂和信さんが投稿を寄せました。大坂和信「図説・日本名城集」学研の歴史群像シリーズの別冊です。80城以上のお城が掲載されていて、築城年、築城主、歴代城主等のデータと歴史が載っています。20年前に購入写真が多く見やすいです 大坂和信「図説・日本名城集」
メンバーさんから「皆さんがどんな本を読んでいるのか知りたい」というリクエストがあり、それをどういう形で実現するか調べましたが、あまりいい方法が見つかりませんでした。仕方なく外部のこの場所に「本屋さん」を設置しました。まず私から、城の本は余り読まないのですが、しいてあげれば❶「余湖君のお城のページ」ですね。https://yogokun.my.cococan.jp彼の「余湖君のコレクション」は私の山城巡りに欠かせないバイブルです。山城のほとんど多くは、駐車場はおろか登り口さえはっきりしない所が多く、けものみちのような所を登っていきます。そんなとき彼の情報が役に立ちました。❷こちらはさすがに今は読む機会が少ないのですが、お城を好きになるきっかけとなった大切な本です。❸今読んでいる本はこちらになります。なかなか忙しく...「城と城下町、古い町並みを訪ねて」本屋さんを開店
群馬県前橋市の厩橋城(前橋城)跡地に建つ「臨江閣」に行ってきました。臨江閣は近代和風の木造建築で、全体は本館・別館・茶室から成る、国指定の重要文化財です。本館は明治17年9月、当時の群馬県令・楫取素彦(かとりもとひこ)や市内の有志らの協力と募金により迎賓館として建てられました。茶室はわびに徹した草庵茶室で、京都の宮大工今井源兵衛によって明治17年11月に完成しました。 別館は明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築です。さてここもコロナ禍の中、お休みである。それでも日本庭園は自由に出入りできたので撮影することができた。なお表紙は当館のパンフレットを引用させていただきました。臨江閣いかがでしたでしょうか。コロナが落ち着けばまたゆっくりと訪ねてみたいと思います。ありがとうございました。古民家シリーズ
城下町シリーズ上里見藩ここは安中市上里見町にあった上里見藩の城下町で、国道406号線の上里見信号の近くに位置する。上里見藩とは、余り聞かない名前であるが、国道406号の南西に上里見城があったようだ。実際にこの城に行ったわけではなくて知識として知っている程度である。城といっても陣屋なのかもしれない。表石高2万石の上里見藩主・松平忠恒は、奏者番や寺社奉行を務め若年寄まで出世し、八代将軍吉宗公死去にあたっては、その諸事を処理した。その後も徳川家重や家治の下で功績を挙げ、明和4年(1767)に上野甘楽郡小幡に所領を移され小幡藩主として存続した。これによって上里見藩は廃城となったが、草津街道の宿場町(神山宿)として発展したという。城下町シリーズ上里見藩ご覧いただきありがとうございます。ちょっと取材不足で消化不良な感じです...城下町シリーズ上里見藩
岐阜県中津川市にある苗木城を訪ねた。ここに来る多くの方々は百名城の一つとして訪れているのだと思います。私は動機がちょっと不純で、映画「十三人の刺客」で苗木藩に挨拶をするとかしないとかいっていた、その苗木藩というものに興味を惹かれて、いろいろ探し回りついに見つけることができた。来てみて実感したことは、やはり一万石という小藩が城を維持することがいかに難しかったかがよく分かる。城というよりもまるで炭鉱かバラックのような、建物はみな板張りか土壁だったので別名「土壁城」というそうだ。そんな苗木城は、石垣だけが残りどこかノスタルジックな雰囲気を今に伝えている。天守閣はこの石垣の上に建っていた。本丸から見下ろすが見た通り田んぼなど見渡す限りない。田んぼがないということは年貢が取れないということである。向こうに見えるのは、中津...苗木城を訪ねて
myzardの山城ナビ№128いつもご覧いただきありがとうございます。本日のお城は、長野県茅野市から朝倉城をお届け。朝倉山城は、茅野市北山の湯川にある朝倉山に築かれていた。城址遠望朝倉山城への案内は、国道152号線大門街道の湯川、功徳寺あたりに出ている。案内に従って県道424号線を行くと朝倉山城登リ口の案内があった。しかし登リ口は藪状態でここから登るのは断念し、西登城口を目指す。その入口は県道から山道に進んでいくと道路際に案内が出ていた。その辺りに駐車スペースがあり、後は歩いて攻城する。西登山口最初は緩やかな山道であり、東口からの登城路と合流する辺りで向きを変えると傾斜がきつくなった。登リ口からの比高は150mあるという。ここで少し勘違いをしていたのは、西口は東口よりも比高が少なくすむと思っていたが、実際には東...myzardの山城ナビ
myzardの山城ナビ№128いつもご覧いただきありがとうございます。本日のお城は、長野県茅野市から朝倉城をお届け。朝倉山城は、茅野市北山の湯川にある朝倉山に築かれていた。城址遠望朝倉山城への案内は、国道152号線大門街道の湯川、功徳寺あたりに出ている。案内に従って県道424号線を行くと朝倉山城登リ口の案内があった。しかし登リ口は藪状態でここから登るのは断念し、西登城口を目指す。その入口は県道から山道に進んでいくと道路際に案内が出ていた。その辺りに駐車スペースがあり、後は歩いて攻城する。西登山口最初は緩やかな山道であり、東口からの登城路と合流する辺りで向きを変えると傾斜がきつくなった。登リ口からの比高は150mあるという。ここで少し勘違いをしていたのは、西口は東口よりも比高が少なくすむと思っていたが、実際には東...myzardの山城ナビ
ここは下関市長府といいます。関ヶ原の戦いの後、毛利藩は二カ国に減封されたため萩に本藩を置き、長府は毛利秀元が5万石で入りました。 今でも毛利邸の周囲に土壁の美しい武家屋敷が立ち並んでいます。ここの塀は漆喰で固めることなく、茶色い地肌が露出しているのだが、それがかえって時代を感じさせてくれる。町内は観光客も少なく、静かに時がすぎてゆく・・・城下町長府ご覧いただきありがとうございました。城下町を訪ねて「長府」
コロナ禍の中、なかなか移動を制限されていますが皆さんどうやってお過ごしですか。ここでは日本全国、車中泊で旅したときに車内をいろいろと工夫した経過を紹介します。車はスズキのスベイシア、軽自動車です。このロードバイクを積み込むために、プリウスから乗り換えました。車内にご注目、ロードバイクを立てて積んでいます。前輪は外してます。暫くこの状態で北海道から九州まで、行った先々で乗っていました。しかし道の駅などコンロを外に出して料理してると叱られるので、調理セットは車の中で出来るように改善しました。それがこの頃です。自転車は積めなくなりましたが、その代わり全国の城巡りにハマり1,000城制覇しました。一度旅に出るといろんな問題が発生し、帰ってはいろいろと試行錯誤を繰り返しました。夏の暑さ対策と調理時の排気のため強制ファンを...車中泊装備の遍歴
日本海の荒波が洗う能登半島の曾々木海岸、ここに北前船交易で巨万の富を築いた上時国家がある。ここを登った先に上時国家がある。ここが玄関です。茅葺なのに圧倒される。お庭を覗いてみましょう。うん。落ち着くね離れがある上時国家の祖先は、平大納言時忠つまり平清盛の義理の弟で、源平合戦に敗れここに落ちてきた。そしてここに住み着くこと800年、江戸時代は天領大庄屋として13カ村を束ね、北前船交易で巨万の富を築いたという。上時国家ご覧いただきありがとうございました。北前舟の湊、曽々木海岸の上時国家
ここは若狭熊川宿という。かつて日本海の小浜から京都まで海産物を運んでいたルートの宿場という。当時、若狭から鯖を塩漬けにして運ぶと京都に着くころには丁度いい塩加減になったという。それでこの街道のことを「鯖街道」と呼ぶそうだ。街並みは統一感がありなんか落ち着くこの家は虫籠窓で重量感がある。永禄13年(1570)4月、信長は越前の朝倉義景を討つためにここ熊川で一泊している。ここは敦賀の金ヶ崎城である。(天気が悪く暗いのはご勘弁)ここで信長は浅井長政の裏切りにあい、命からがら京都へ逃げ帰った。鯖街道熊川宿、ご覧いただきありがとうございました。次は宿の背後にある熊川城に登城します。旧街道シリーズ「鯖街道」
八墓村を後にして次は備中松山城に登ってみよう・・・ということで駐車場まで登ってきた。みんなサッサと本丸目指して登っていくのだが、ちょっと穴場を探検してみよう・・・ということでやってきたのは、下太鼓の丸。入り口は石垣でガードされています。その奥は平場があって、ここにかつては伝達用の太鼓を叩く建物があったのだろう下太鼓の丸から、中太鼓の丸を見上げたが、なんも見えないここが中太鼓の丸で本丸との伝達の中継地なんだろうここから城下を見下ろすと汗水たらしてやっと本丸への入り口にやってきたもう一息これが小松山の城跡です。正に難攻不落とはこのことかテレビ等でよく見るところじゃ裏の方はどうなってるのかの岩の上に石垣を築いて櫓を立てている・・・ということで備中松山城をご覧いただきありがとうございました。次はどこに行こうかのう。ちょっと足を延ばして登城してみよう
昨日(?)は八墓村の庄屋、広兼邸を訪ねました。今日は、集落内を彷徨います。集落の入り口です。この感じだとかつては桝形だったのかも今どこかのう?多分、旧片山家住宅脇の駐車場から歩いてきたのだからおおっ、これはスゴイ。もっと近づいてみると街並みにあまり統一感はなく、それぞれが個性を出している感じこのお宅はまた凄い屋根の赤色瓦がいい雰囲気を出しているここは元名主さんだっかかなあの天窓のついた蔵に上がってみたい奥はどうなってるのかなさぞかし維持が大変だねこりゃあ八墓村集落を歩く
映画「八墓村」でロケが行われた岡山県吹屋ふるさと村にある広兼邸に来ています。広兼氏はこの地方の庄屋で、銅山経営とローハ製造を営み、莫大な富を築きこの屋敷を構えた。城郭を思わせる高石垣と広壮な屋敷は、映画の世界へとわたしを誘う。この坂を登ると楼門の上からわたしを監視している。失礼のないように(・・;)この楼門は、かつてここに門番が住んでいたという。楼門の下を潜り・・・内部はこんな感じ中は狭い。あの小窓で監視していた。次に・・・こちらが主屋。今は入場者の受付になっています。お値段はこの時500円妥当だね。主屋の座敷はこんな感じ台所と奥が居間タイル張りのお風呂は、この当時モダニズムの最先端。こちらは離れの客間だが、当主の結婚式に一度だけ使われただけでて以後一度も使われていないという。もったいない・・・離れのお庭を通し...八墓村のふるさとを訪ねて
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