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毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

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  • 中論・2-19頌 実行することと実行そのものとの融合

    第十九頌 実行することと実行そのものとの融合西嶋先生の訳そのように行くという動きが行くという現実の行いを実際に作り出して行くことが、現実の問題として起こり得るのであるから、その際には、(行くという動きと行くという現実の行いとが、)たった一つのものに纏まることであり、それは正に実行することと実行そのものとが、全く一つのものとして重なっていることである。中論を勉強していますその様に「行く」と言う行為が...

  • 中論・2-18頌 行くという動きと行くという現実の行い

    第十八頌 行くという動きと行くという現実の行い西嶋先生の訳行くという動きが、行くという現実の行いを作り出して行くという考え方は、そう拘わった考え方ではない。更に別の云い方をすれば、行くという動きが行くという動作の中に含まれているということであって、この考え方も決して拘わった考え方ではない。中論を勉強しています行いにおいて「行く」と言う行為がある、その「行く」と言う行為が「行く」と言う動作を作り出し...

  • 中論・2-17頌 認識、追憶、想像のような想念の損失と現実の行い

    第十七頌 認識、追憶、想像のような想念の損失と現実の行い西嶋先生の訳「行きつつある」という認識や「行った」という追憶や「まだ行っていない」という想像のような想念から抜け出した場合には、固定的なものは一切あり得ない。どんな場合においても、行くという事実が瞬間的に生まれ、瞬間的に消えて行くことによって、行くという現実の行いが作り出される。中論を勉強しています「行きつつある」という認識や「行った」という...

  • 中論・2-16頌 行くという現実の行いと行くという動き

    第十六頌 行くという現実の行いと行くという動き西嶋先生の訳行くという動きがほんの僅かでも固定的であるというようなことは、将来といえども絶対に起こり得ない。行くという現実の行いがない場合には、行くという動きがこの世の中に現われて来るということも、絶対にあり得ない。中論を勉強していますこの世の中の全ての事象は現在の瞬間の事実であるから、「行く」という動きがほんの僅かでも固定的であると言う様な事は、、将...

  • 中論・2-15頌 一切の動きの躍動性

    第十五頌 一切の動きの躍動性西嶋先生の訳行くという動きも固定的なものではないし、それと同じように、行かないという動きも固定的なものではない。行くという動きとか行かないという動きとかを離れて、三番目の全く別のものが、やはりどうして固定的なものであり得よう。中論を勉強しています「行く」と言う動きは現在の瞬間における事実であり固定されたものではない、それと同じ様に「行かない」と言う動きも現在の瞬間におけ...

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