マルクス剰余価値論批判序説その97、物象による媒介さらに、社会は、物象に媒介されることによって成り立っている諸個人の連関であり、ゲマインシャフト性が人間から疎外されて物象のものとなっている状態である。物象こそがゲマインシャフトをなしており、人間はそれに支配されることによって、間接的に共同存在でありうるにすぎない。この、媒介されている状態を社会とするか、それとも媒介を抽象して単なる諸個人の連関を社会とするのか。ここでもマルクスは揺らいでいる。どちらをも、社会的であると一言うのである。『資本論』においても、社会的であることの曖昧さは、克服されていない。それどころか、さらに混乱が深まっている。まず、商品の価値は、ゲマインシャフト的であるとともにゲゼルシャフト的でもあるような実体の結晶であると言う(14)。これは、商品...マルクス剰余価値論批判序説その9
マルクス剰余価値論批判序説その86、階級の抽象マルクスは社会を、個人と個人との連関の様態として捉えた。それは、没個別性としてのゲマインシャフトからの、個人的人間の発生であった。さらにマルクスは、社会における個人が、階級に規定されて、階級的諸個人としてのみ存在していることを把握した(『哲学の貧困』)。ところが『経済学批判要綱』以降のマルクスは、諸個人の階級的規定を、曖昧にするのである。それは、マルクスの階級規定そのものが、生産(労働)的規定であると共に政治的規定でもあるというところにある。マルクスは階級を、実在的土台において規定すると同時に、上部構造における行動(政治闘争)においても規定しようとするのである。だが、上部構造(社会の上部)においては、資本家も労働者も共に人間であり、対等で同等な人格である。階級的観点...マルクス剰余価値論批判序説その8
マルクス剰余価値論批判序説その75、ゲマインヴェーゼン貨幣の本質的な研究によってマルクスは、ゲマインシャフトを解体して成立したはすのゲゼルシャフトが、ゲマインシャフトを物の姿で持っており、この物(貨幣)こそが主体となってゲゼルシャフトが成り立っていることを、捉えたのである。(13)人間は、本源的に共同存在である。だが、それだけでは何も言っていないに等しい。人問は一人では、あるいは全く孤立した状態では、生きることすらできない。たとえ、動物的に生存することができたとしても、人間になることはできない。奴隷制も對建制も、資本制においても人間(諸個人)は、それぞれの共同制度によって生活している。このことは、何ら学問的な真理などではない。資本家は、労働者との共同制度がなければ、生活できない。労働者もまた、同様である。しかし...マルクス剰余価値論批判序説その7
マルクス剰余価値論批判序説その64、ゲマインシャフト一体性としてのゲマインシャフトを解体して、個別性としてのゲゼルシャフトが発生した。しかし、ゲゼルシャフトの個別性は、単なる個別性ではなく、個別化された個々体は直接に連関しておらず、物象を媒介として連関している。ゲゼルシャフトもゲマインシャフトと同様に、人間の連関の一形式ではあるが、全く異なった形式である。ところがマルクスは、時折この区別を抽象してしまうのである。ゲゼルシャフトは、原生的なゲマインシャフトの解体であるとされる。(12)以前にマルクスは、ゲマインシャフトはもの言わぬ一般性であるとして、それを否定した。しかし、ここでは、マルクスが否定したゲマインシャフトは原生的なゲマインシャフトであり、ゲマインシャフトそのものを否定するのではないという姿勢が見られる...マルクス剰余価値論批判序説その6
マルクス剰余価値論批判序説その53、社会的なことマルクスは、社会の内部で生産する諸個人から出発する。しかし、彼らの生産は、直接には社会的ではないと言う。したがって、マルクスが前提とするのは、社会的な諸個人の直接には社会的ではない生産である。これは、どういう意味だろうか。マルクスは、「社会的であること」の反対を表現するために、「直接的に社会的であること」という言い方をする。つまり、社会的なこととは、個々人が非直接的に連関していることである。諸個人は、物象に媒介されて連関している。この、人間以外の物象に媒介された諸個人の連関が社会であり、社会的な形式なのである。そして、物象に媒介されないで、諸個人自身が媒介の役をなして個々人が連関していることを、直接的に社会的な形式であると、言うのである。ところが、「社会的であるこ...マルクス剰余価値論批判序説その5
マルクス剰余価値論批判序説その42、社会の上部マルクスはここで「社会の外部」と言っているが、『経済学批判』と併せて見れば、ここで「社会の外部」と言われているものが、実は「社会の上部」であることが確認できる。「社会の上部」とは、現実の社会の抽象、つまり公的幻想的ゲマインシャフトのことである。この「社会の上部」を指す言葉として、マルクスはsocialを使っている。有名な、『経済学批判』の序言の一節を見てみよう。人間たちは、彼らの生活のゲゼルシャフト的生産において、特定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の特定の発展段階に照応する生産諸関係を受け入れる。これらの生産諸関係の総体がそのゲゼルシャフトの経済的構造を形成するが、これが実在的土台であり、その上に法的および政治的な上部建...マルクス剰余価値論批判序説その4
マルクス剰余価値論批判序説その3第一章、社会とその上部1、生産関係としての社会『経済学批判要綱』と『資本論』とを、それ以前のマルクスから区別づけるものは、マルクス独自の剰余価値論の存在である。マルクスの剰余価値論は!古典派政治経済学の労働価値論に対する批判であり、その労働価値論に基づいた社会主義や共産主義に対する批判である。マルクスは、古典派政治経済学の労働価値論の批判において、まず労働価値論そのものを完成させる。そして、自ら完成させた労働価値論が、いかに「狂った」観念であるのかを、論証したのである。マルクスは労働価値論を提唱しただけではなく、それ自体を解体しようとしたのであるが、後者については前者ほどには注目されなかった。それは、マルクスの剰余価値論が、あまりにも社会的だったからである。『経済学批判要綱』にお...マルクス剰余価値論批判序説その3
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその12十二、労働価値論の可能性労働の価値は経済的な価値ではなく、人間的・生命的な価値なのだ。中上の言い方では、経済学や社会科学ではなく文学的価値、ということになる。「人間の在り方」と「価値」とが同義であり、存在概念と価値概念とが合致する世界を「文学」と呼んでいることになる。この合致を実践において「哲学」と捉える廣松(『新哲学入門』第三章)と、同じ立場になるのかもしれない。柳田も、政治的や経済的ではない農民の生活の在り方として、労働を捉えた。生活そのものとしての労働に、価値を見たのだった。労働時間以外の自由時間の為に嫌々働くとはいえ、人は労働においてより良い仕事をしようとし、物や人々と協力しようとする。それらは全て、経済的利益のためだろうか。支配・監督されているからなの...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその12
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその11十一、贈与としての労働労働を価値生産的労働に限定することは誤りだった。それでは、労働を人間身体の全ての活動に拡張することはどうだろう。ジョギングや睡眠時の夢をも労働だとすると、労働概念は必要なくなる。労働を人間活動という言葉に置き換えることは、思考を放棄するに等しい。贈与として労働を見る場合には、人間活動の内、自他への贈与可能なものを労働であるとする。労働が賃金で拘束され、労働の生産物が商品となったり、あるいは家事労働に賃金が支払われない、といった労働を取り巻く政治経済的情況は、労働そのものの規定には影響しない。物を作る活動も物を作らない活動も、それが人に役立ち、贈与可能なものならば、全て労働となる。肉体労働と精神労働の区別もない。経済的価値の生産・非生産の区別...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその11
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその10十、縄紋時代の労働階級や権力的支配のない時代、例えば縄紋時代を考えてみよう。縄紋集落の基本単位は、三軒ほどの家屋と墓や祭場などがある広場(または広い前庭)を利用する居住集団である、と見られている。そこに一年中暮らしていたのではなく、地域によっては食料事情等で移動もしていたと考えられるが、そのような集団が縄紋時代での基本的な協同労働組織、すなわち家族と言えるだろう。考古学者たちの多くは、一軒の家屋に一つの家族を想定しているが、この時代にすでに核家族のような、固定した夫婦や親子の関係が形成されていたとは考えられない。次の記述は弥生時代の九州地域に関するものだが、このような見解を更に弛めたものが、縄紋時代の成人男女や子供の関係だったと思われる。「たとえ単婚的な男・女の...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその10
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその9九、搾取以前の労働労働が人間の自由の妨げであり、苦痛でしかないものならば、それは短縮されるのではなく廃止されなければならない。労働時間の短縮という改良主義は、奴隷の存在を容認している。自由時間が増えたとしても奴隷であることに変わりはなく、たとえ政治経済的に奴隷から解放されたとしても、マルクスの労働観では人間は自然(神)の奴隷として労働に従事しなければならない。いかなる生産力の増大によっても、人間が全く労働をしないで生活できるとは思えない。労働廃止論に現実性を持たせることができないマルクスは、労働時間の短縮という惨めな妥協をせざるをえなかった。マルクスは搾取される労働しか、いや、現実の労働の政治経済的側面しか見ることが出来なかったのだ。マルクスは自然との敵対に終始し...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその9
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその8八、マルクス労働観への批判柳田は家族共同体や村共同体の協同労働に、労働の価値を見いだしている。そこでは労働は、生きることと同様の喜びであり、至福の労働となっている。自分の労働が共同体に役立ち、喜ばれることへの誇りでもある。そこでは、労働は報酬を得るための労苦ではなく、遊技やスポーツと同じだった。マルクスは原始的な協同労働について、次のように書いている。「人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで、またおそらくインドの共同組織の農業で、支配的に行なわれているのが見られるような、労働過程での協同は、一面では生産条件の共同所有にもとづいており、他面では個々の蜜蜂が巣から離れていないように個々の個人が部族や共同組織の臍帯からまだ離れていないことにもとづいている。」(『資本論』...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその8
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその7七、柳田の労働組織の内実協同労働組織の基本単位としての家族とは、決して一軒の家に同居する集団をさすのではない。一軒の家に何組かの夫婦(一夫一婦とは限らない)が共に棲もうが、別々の家に住もうが、一つの組織として労働を協同し、生活を共同するものを家族であるとする。「家族」という言葉に騙されてはならない。「家族といふ言葉は古い日本語では無い。従うて今の民法できめられた範囲が、昔の通りであったとは無論言へない。戸とか家という漢字が我々のヘ又はイへに宛てられ、双方共に建築物の名と共用になって居たことは、歴史を尋ねる人にとって大きな不便、もしくは不幸であったと言ってもよい。」(「大家族と小家族」)協同労働組織としての家族では、その成員はそれぞれの労働を行なうのだが、それに対し...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその7
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその6六、柳田国男の「家族=労働組織」論柳田は、家族やその集まりである村を、労働の組織であるという観点で考察した。「現在の村生活を見ると、単に大小区々の農場、貧富色々の階段に立つ労働団即ち家族が、偶然に相隣りして集落を作って居るかの如き観があるが、実は其間には隠れた連帯があるので、互ひに意外の拘束を各住民の経済活動の上に加えつつあると云ふことは、少しく其成立の事情を考へると、之を認むることが困難で無い。」(「日本農民史」)「親子」という言葉でさえ、それが血縁的な親と子を示すようになる以前には、労働組織・体系上の親方と子方、労働におけるリーダーとメンバーを指す言葉だったと、柳田は言う。(「オヤと労働」「親方子方」「大家族と小家族」)。協同労働の組織として村や家族が形成され...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその6
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその5五、中上の労働論の限界労働が、人間が物として自然と連携する行為であるという認識は、マルクスにもある。「人間自身も労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物であり、そして労働そのものは、そのカの物的な発現である。」(『資本論』第一巻)だが、マルクスの物(ディング)と中上の物(もの)とは、対象は同じでも意味が全く異なっている。中上の物には至福があり生命の感動がある。しかし、マルクスの物としての人間には、自己意識はあるが感情(感性)がない。人間の現存在が現実的感性的個体的人間であるというフォイエルバッハの唯物論では、労働論がないために〈愛〉という言葉に原理を与えている。フォイエルバッハの〈愛〉を批判したマ...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその5
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその4四、中上健次の労働論Ⅱ物としての労働肉体労働は中上にとって、歪められていない労働のイメージ、〈至福の労働〉のイメージに最も近いものだった。「汗水たらす労働の報酬としてのキレイな金とは、〈キレイな〉この社会での一人の男の在りようであるなら、ひょっとすると、その汗水たらす労働とは、今の、われわれの時代の労働という言葉とは別のものかもしれない。労働者がいつの日か解き放たれて名づけることもいらなくなった状態、ただ、人間としか言いようのない十全な存在の至福の労働である。つまり汗水たらす労働とは、至福の労働のイメージが一等濃いのではないか、と思うのである。狩人のように狩をし、漁師のように漁をする。」(「作家と肉体」)中上は忘れているが、太古において狩人や漁師の労働は孤立した個...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその4
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその3三、中上健次の労働論Ⅰ土方労働中上の労働論は、『黄金比の朝』(一九七四年)での《売り》と《買い》との非対称性の強調に伴う素朴な労働価値論の描写を見過ごすことは出来ないが、やはり何といっても、『岬』(七五年)や『枯木灘』(七七年)における「土方労働」に託した、自然的労働価値論の表現に輝いている。「秋幸は土方を好きだった。日と共に働き、日と共に働き止める。一日、土を掘り、すくい、石垣を積み、コンクリを打った。土を掘りすくっても、物が育ち稔るわけではなかった。石垣を積み、側溝をつくり、コンクリを打って、自分が使うのではなかった。人には役立っても秋幸には徒労だった。だがその徒労がここちよかった。組の現場監督の秋幸は銭勘定ではなく、日を相手に働くその事だけでよかった。」(『...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその3
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその2二、労働論の深層化批判の思想家であるマルクスの労働論には、近代労働者の労働論と、それに対する批判も含まれている。先に見た二つの観点も、マルクス労働論の主要な論点であることは、田畑稔『マルクスのアソシエーション』で掘り起こされている。労働という人間の活動が、価値生産的な活動だけでなく、また、労働が個人の孤立的な行動ではない事は、マルクスにとって基本だった。問題は、マルクス労働論の核心を突いて、西洋労働観という歪んだ観点の下に築かれたそれを崩し、より正しい労働論の構築にある。マルクス労働論を崩す道具はある。柳田国男と中上健次の労働論だ。まず、中上の労働論を見てみよう。マルクスは労働論を、自然対人間という観点と、人間対人間という観点の、二つの観点で分析した。しかも、この...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその2
労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその1一、労働論の二つの観点労働を人間の生産的(対象化的)活動として考察したマルクスに対する批判は、次のような二つの潮流となって現われているようだ。一つは、対象化的労働すなわち使用価値生産労働だけではなく、労働者(人間)の身体的活動の全域にまで、労働概念の拡張を求めるもので、アレント『人間の条件』やフェミニズムの労働論などがある。労働から活動へ、あるいは労働から仕事へというように、経済的価値生産労働のみを重視する労働観に対する批判になっている。もう一つは、労働を対自然活動としてだけではなく、対人間活動としても捉えるものだろう。労働が、自然を対象にして使用価値物を作り出す行為であることは認めても、労働者は他の労働者たちと直接間接に連携して労働しているのであるから、その連携...労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその1
マルクス剰余価値論批判序説その2社会の土台(外部)と出会い、経済学研究のはじめに、「国民経済学は、労働者(労働)と生産とのあいだの直接的関係を考察しない(3)」という問題を創出して、この問題に最後までこだわったマルクスであるが、労働と生産との「直接的関係」そのものの内実、あるいはそれらの区別と関連を、明確に認識しえたのだろうか。たとえば、「土台」(労働活動、労働過程)は「社会」の内部にあるのか。マルクスの剰余価値論では、「土台」は「社会」の外部になければならない。等価交換の「社会」の内部において剰余価値は産まれない。直接的労働が「社会」の外部で行なわれるからこそ、外部を社会が取り込むことで剰余価値が産まれることになるのである。マルクスは最初に、「土台」は「社会」の外部にあると見ていた。それは、常識的な観点であっ...マルクス剰余価値論批判序説その2
マルクス剰余価値論批判序説その1はじめに驚異は哲学の始まりであると、アリストテレスは言っている。(1)マルクスはこのように書いて、自分が驚異と出会っていることを隠していないこの出会いについてマルクスは、『経済学批判』の序言の中で整理して述べている。その文章から、マルクスが第一に、「物質的利害」との出会いに驚いたことが判る。そして第二に、「フランスの社会主義と共産主義」に対する驚きが窺える。前者には困惑し、後者には判断できないことを白状したほどの、深刻な驚異だったことが読み取れる。これらの驚きは、マルクスにとって、問題に遭遇した、問題を問題として自覚させられたことの驚きであって、何らかの答えに遭遇したことの驚きではない。時事問題というものは……合理的などの問題とも同じように、答えではなくて、問いが主要な困難である...マルクス剰余価値論批判序説その1
鳩のレースで人が駆ける人が走っていますね。しかも、口にバスケットを銜えています。実はこれ、バスケットの中には鳩が入っているのです。鳩が放鳩地から自分の家の鳩舎に帰ってきました。その鳩を籠に入れて、レースの記録事務所へ急いでいるのです。飛ばした鳩が確かに帰ってきましたと、その現物の鳩を持って行き、確認の下に時間を記録するのです。もちろん、レース上の不正を防ぐためにです。レースでは、鳩は羽にスタンプを押します。そのレース名と個別番号です。スタンプで鳩を識別します。その鳩が帰ってきたら直ぐに事務所へ持って行って、スタンプを確認してもらって、時間を記録します。自分の鳩舎へ帰って来た時間ではなく、その鳩を持って事務所へ到着した時間が順位を決めるのです。鳩は鳩舎へ帰ります。鳩が判りやすいように、鳩舎は家の上階にあります。少...鳩のレースで人が駆ける
四、蝦夷島の親王海が荒れていたため、鷹良を乗せた船が蝦夷島へ着いたのは十一月の末だった。船には時元配下の昆布衆の男たちと、水主(かこ)が二十人ばかりも乗っていた。時元は尊良親王を、時元の主筋の者で、源鷹良だと紹介した。源氏の姓は親王が宮家を離れる時に賜る姓である。それに時元は倣ったもので、鷹良が後醍醐天皇の一宮である事は、時元と桔梗の二人しか知らない。昆布衆の頭である時元が鷹良にかしずき、娘の桔梗もしきりに世話をするので、船上では自然と鷹良が主のように皆から奉られた。鷹良自身の品格や器量が、他の昆布衆や乗組員をそうさせたのである。それは蝦夷島に着いてからも同じで、鷹良には一番立派な館があてがわれ、桔梗を妻としての生活が始められた。翌年(一三三七)一月、後醍醐天皇が十二月に京を抜け出して、吉野で朝廷を開いたとの知...後醍醐の昆布その15
「さあ、もう良いぞ、桔梗。間もなく大船に着く」桔梗とはこの女だろうかと尊良が考える間もなく、尊良に抱き着いていた女が手足を動かそうと身を捩った。「父上、着物を剝いでください。動けません」「おお、そうだな。これはまた、大層にくるんだものだな」時元が着物を剝いでいくと、尊良の視界が明るくなってきた。女の肌の白さが分かる。女の顔は近すぎて見えない。「さあ、これで最後だ。あとは桔梗の着物だけだぞ」時元が言うのと同時に、桔梗と呼ばれる女は尊良から離れると素早く着物の前をかき合わせた。尊良に被さっていた着物も女も全てが目の前から消え、仰向けに横たわったまま眩しい空の青さに目を慣らした。「時元よ、もう動いても良いのか?」「上手く行きましたぞ。誰も気づいておりません。起きていただいて、大丈夫ですぞ」起き上がった尊良の目に見えた...後醍醐の昆布その14
そこで昆布衆をはじめ気比社の神人・僧兵ら三百人は、北の杣山城から援軍が押し寄せた風を謀るために、中黒の旗を何百本も夜のうちに山の木々に結び立て、夜明け間際に敵軍に飛び込み、「杣山よりの後攻めに仕る。城中の者ども出向いあれ。敵を討ち取るべし!」と大声で叫び回った。寄せ集めの敵の軍勢はこれに驚き、我先にと近江・若狭へ逃げ帰った。敦賀の町には一人の敵兵もいなくなり、功を奏した自らの奸計に昆布衆たちは腹を抱えて笑い転げた。何が起こったのか知らない義貞は、城を幾重にも取り巻いた敵が忽然と消えたのを怪しんだが、気比の大神の仕業であると話す神人の弁を真に受けて、これも天子様の威力と悦に入って喜んだ。このようにして平穏になった初冬の晴れた日、敦賀の商人たちは義貞に船遊びの宴の挙行を申し入れた。これは時元の計画で、宴に酔う義貞か...後醍醐の昆布その13
それが北の方である事を、二人の皇子は玄観に耳打ちされた。玄観は文観の弟子で、密命遂行のために遣わされた僧である。「この時節は海が荒れるので、船は向かいの常宮浦に繋いでおりますが、我らは海の男ゆえ、必ずやお役目を果たしてみせます」鎧を着た神人が言った。神人と紹介されたが、船戦の強者であると見える。「見た事のあるような顔だが‥‥」尊良が、その神人に訊いた。「ここの主人は近江の出で、手前は日吉社の神人を兼ねております。昆布衆の頭を致しておりますので、主上のもとへも幾度か参上仕りました。その折に、一宮様の目に止まったものかと」そう言われて、尊良も思い出した。「そうか。しかし船の件は、武士どもには‥‥」「承知致しております。気比社の裏山にある山城は、崖下がすぐに海で、城から抜け出せば船に乗るのは容易です。小舟で沖へ漕ぎ、...後醍醐の昆布その12
「良いか、二人とも。義貞では、この戦は、勝てぬぞ」後醍醐の言葉に二人の息子は顔色を変えた。明日はその義貞と共に山を降りる身の二人である。それなのに、その行く先が敗北であるとは、親の言葉とは思えない言い様である。二人の皇子は後醍醐の真意が見えずに唾を飲み込んだ。青ざめ戸惑う皇子たちを見る後醍醐の目が、細く光った。「敦賀へ着いたなら、義貞は捨てて昆布衆に頼るのじゃ。そして、昆布衆の船で、十三湊(とさみなと)か蝦夷島へ、渡るのじゃ」尊良には後醍醐の真意が見えて来た。後醍醐の言葉を待つ。「義貞はあのような男じゃ。逃げ出そうとすれば切り殺されるに相違ない。上手く騙して、船に乗るのじゃ。敦賀の昆布衆には、我の手の者によって話を通してある」僧兵か神人か、はたまた異形の男女など、後醍醐の手の者は多い。既にその者を走らせて、手配...後醍醐の昆布その11
後醍醐の言葉は義貞の魂を捕らえた。義貞は感激のあまり顎の力が抜け、あんぐりと開いた口から涎が垂れた。義貞の恍惚感は忽ちその場の一同へ伝播した。上手くいった。これで決まったと、後醍醐は腹で笑った。十月九日、慌ただしくも春宮践祚の儀が行われた。これで義貞は新たな天皇を戴き、天子を奉る将軍として敦賀へ向かえる事となった。出発は十月十日、後醍醐の還幸と同じ日である。義貞と恒良らの一行は、一宮の尊良親王も含めて、総勢七千余騎で北を目指した。京へ向かう後醍醐の一行と、敦賀へ向かう義貞の軍勢。これとは別に、尊澄親王は船で遠江へ、懐良(かねよし)親王は吉野へと向かった。出発の前日、践祚の儀を終えた後、恒良と尊良の二人は後醍醐に呼ばれて奥の間に進んだ。別れの言葉かと思っていた二人に後醍醐は、敦賀へ向かうにあたっての策を授けた。越...後醍醐の昆布その10
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