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  • 後醍醐の昆布 その9

    堀口の報告を聞いて、義貞は弟と息子と共に三千騎の兵を引き連れて天皇を取り囲み、覚悟を決めて会見に臨んだ。天皇がどうしても自分を捨てて叡山を降りるのなら、刺し違えて死するつもりの義貞であった。誰の目にも、他に道は無いと思われた。義貞は後醍醐への恐怖も忘れ、ただ怒りに沸き立つ腹を堪えて、後醍醐を睨みつけた。その手は何の迷いもなく、刀に伸びようとしている。義貞の憤慨を目の当たりにして、後醍醐は内心、笑いが込み上げた。それを何とか涙に変えて、さも悩み煩うような演技をした。「貞満が我を恨み訴えたのはもっともな事だと思うぞ。しかし我の話も聞いてくれ。このままではどうしようも無いから、我は尊氏の懐に入る振りをしようと思うのじゃ。そして、機を待って軍勢を建て直すのじゃ。そのために我は、尊氏の還幸の誘いに乗る事にした。お前たちは...後醍醐の昆布その9

  • 後醍醐の昆布 その8

    三、二皇子敦賀へ延元元年(一三三六)十月初め、還幸を決意した後醍醐は、文観と練った計画を実行に移した。まずは、義貞の耳に届かないように還幸の準備を進め、そして準備が整ってからわざと義貞に知られるように仕向けた。京を奪回できず、尊氏に敗れ続けた新田一族の武将の中には、陣から姿を消す者が増えた。それは、後醍醐天皇が京へ還幸するという噂が広がったからである。その噂は義貞の耳にも届いた。義貞とて、後醍醐を全面的に信頼して戦って来たのではない。鎌倉を落としたのも、執権北条が余りにも悪どく、武将たちに怒りの輪が広まり、幕府の主力軍が京へ派遣された好機を逃せば、他の武将が必ず鎌倉を攻める状況にあったからである。その時には、天皇をどうするとかの考えはなかった。義貞が実際に天皇に会ってみると、後醍醐は自分を神だと思っているような...後醍醐の昆布その8

  • 後醍醐の昆布 その7

    自身への難を逃れた後醍醐は、持明院統の皇子が即位の動きを強める中、着々と次なる手を打ち続けた。後醍醐の密教護持僧文観を権僧正に抜擢し、翌年(一三二七)には息子の尊雲法親王を天台座主に就かせ、元徳二年(一三三〇)には南都北嶺に行幸して、また延暦寺大講堂の修造供養を行った。そしてこの間、嘉歴元年(一三二六)から元徳三年(一三三一)の春に幕府に知られるまで、中宮の平産と称して、幕府調伏の祈祷を文観・円観・忠円・知教・教円らに行わせ、天皇自らも、大聖歓喜天浴油供の祈祷を為した。日本の神を身に帯びた天皇が、密教の神の呪力で幕府を呪うのであるから、これを耳にした幕府の高官たちは恐れ戦き、血の気を失ったのである。密告により捕まった文観らは鎌倉へ送られ、この年(一三三一)六月に流罪となる。しかし幕府は、天皇を逮捕する動きは見せ...後醍醐の昆布その7

  • 後醍醐の昆布 その6

    これに対して幕府は翌年二月、今更変更できないと退けた。天皇家が幕府の下にあるのは、天皇家が分裂して力が纏まらないからである。天皇家を一つにするためには、天皇家の財産を一つに集中しなければならない。しかし、幕府がそれを邪魔する‥‥。このまま天皇の分立が続けば天皇家は幾つにも家系が細分され、両統が四統にも八統にもなる恐れがある。そうなれば小さな天皇家が幾つも出来てしまい、その間を皇位がたらい回しにされ、権威も何もかもが失われてしまい、そこらの公家でさえ天皇になる日が来てしまう。あるいは公家たちはそれを目論んで幕府に両統迭立を進言しているのかも知れない。幕府にしても、天皇家が小さく分立し、自然消滅するならばそれでいいのだ。それを防ぐには、幕府を廃して、天皇自らが政権を握るしか手はない。後醍醐はそう考えた。幕府の言いな...後醍醐の昆布その6

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