京都や奈良などのお寺巡りを、今からかなり以前の関西単身赴任時代に行いましたが、その時訪れたお寺などの拝観記を、地域別かつ訪れた順に記載していきたいと思います。
二尊院より南下して、小倉池のそばを通り大河内山荘の前を左に折れて、竹林の中を進むと、そこが天竜寺の北門である。こちらから天龍寺にはいるのは、始めてである。裏山の紅葉を見つつ、曹源池に出る。この庭の紅葉は未だ紅葉しているのが少なく、やや風情がない。 以前ここを訪れたときは、...
化野念仏寺より参道を戻る。このあたりは道の左右が、全て土産物屋となっておりこの奥嵯峨の地域まで、観光化の波が押し寄せてきているのがよく判る。瀬戸内寂聴の棲む寂庵はこの近くにあるようだ。いっぷく処・つれづれの店先に、緋色の和傘が立てられており、その後ろにあるもみじの紅葉と調和して、...
本日は嵯峨野巡りでの紅葉狩の日とする。京都に来てもう何度も嵯峨野には来ているが、この化野念仏寺に来たのは、二十三年ぶりである。化野は古くより、鳥辺野、蓮台野とともに葬送を行う野辺の地であった。あだし野の名の起こりは、「あだし」がはかない・悲しみの意味を持つことから、「あだしな...
龍安寺よりさらに欲張って仁和寺まで行くが、残念ながら四時を回っていたため庭園は既に閉まっていた。それで五重塔を写真に収めて帰路に就いた。 桜の時季の鏡容池
石庭の石についての感想) 左端の大きな石は獅子の頭のようであり、又拡大した写真で見ると一角の鬼の頭が左を向いているように、目と鼻が浮き出て見える。次の横に細長い石は、その左の石と共に獅子の背が川の中より出ているようにも見える。又瀬戸内海に浮かぶ島のようでもある。三番目の石...
又この石組みは人の世の移り変わりの中にあっても、ただ厳然としてそうして寂としてここに存在し続けてきたという事実。時間の重みの前にあっては、自らの一時の心の迷いなどは如何ほどのものかという感が強くなるものである。石組は自然はそして宇宙は、何も変わることがない。そこに存在するのは...
歩いて十五分くらいで龍安寺に着く。茶店でうどんを食べる。龍安寺は大雲山龍安寺といい、臨済宗妙心寺派に属しているお寺である。 ここはもともと徳大寺家の別荘であったものを、一四五〇年(室町中期第八代将軍足利義政の頃)管領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山とし...
参道より総門を入ると、鏡湖池の南東に出る。葦原島を手前にして、金閣の秀麗華美な形姿が池面に映えている。この場所にはかつて釣殿があったようであり、瓢箪の形をした池が左手奥にも深く入り込んでいたようである。釣殿があったということは、ここからの景観がそれだけ見所であったということに...
夕闇の迫る中、大河内山荘に入る。最初にお休み処に行き、抹茶を頂く。お休み処より、大乗閣のあるに登る。茅葺きのなかなか立派な建物で、その前庭は見晴らし台となっており、京の町並みが見下ろせる。そこから茶室滴水庵へと行く。 庵には赤い毛氈が敷いてある。そこに坐って露地...
落柿舎への道を横に見ながら、常寂光寺へ向かう。この寺の開山は、究竟院日シン(示+真)上人(一五九五年頃)である。上人はもともと日蓮総本山本圀寺の法灯を継いでいたが、秀吉建立の東山方光寺の大仏殿供養のおり出仕に応ぜず、本圀寺を出てこの地で当寺を開創したのである。上人は歌人として...
本堂前庭は、「龍神遊行の庭」と呼ばれている。その昔この地に龍女が棲みついていたが、正信上人によって解脱・昇天した故事に倣って、そう呼ばれているようである。竹の半円に折り曲げたもので、三つの円形の島が造られており、樹木と刈り込みを配している。右端の島には枝垂れ桜がある。柿葺きの勅使...
二尊院の総門より入る。紅葉の馬場と呼ばれる巾広い参道が開けているが、紅葉はやはり盛りを既に過ぎている。入り口左手に、西行庵の碑がある。このお寺は正式には小倉山二尊院尊教院華台寺と言い、天台宗に属している。平安前期の八四〇年に嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が開山、鎌倉初期には法然...
パンフレットによれば、この祇王寺は大覚寺の塔頭で真言宗のお寺である。有名な祇王の物語は次の通りである。 「祇王は近江の国江辺生の庄司の娘であったが、父が罪に問われ北陸に流されたため、母・妹の祇女と共に京に出て白拍子となる。そののち祇王は清盛の寵を得て、安隠に暮らし...
祇王寺に入る。陽が傾いていたこともあろうが、紅葉そのものもここではピークを過ぎており、二十数年前の秋に広島の友達と訪れたときの優美な印象は再確認出来なかった。 新緑の祇王寺
宝篋院から祇王寺へと向かうその途中の厭離庵近くに、定家に因んだ立て札がある。それを見て定家は嵯峨野近くに時雨亭を有していたことを思い出す。 中里恒子の「時雨の記」では、二尊院の時雨亭趾が出てくるが、嵯峨野にはこれ以外に二つの時雨亭趾があるようである。又嵯峨野はその地形より...
庭園は受付横の折戸を押して入るようになっている。中に入ると同時に、「照る花紅葉」の世界が開ける。期待していた以上の素晴らしい紅葉の世界を愛でながら苑路を進み、本堂のほうへと入って行く。 本堂から眺めると苔と石組みで構成された部分はあるが、その他は楓樹と苔に覆われた回遊式枯...
嵐電の嵐山駅を降りて清涼寺に向かつて北上して行く。もうかなりの人々が紅葉を見終えて、駅のほうへと戻って来ている。途中JR嵯峨野線を渡ったあたりで、小雨が降り始める。傘も帽子も持っていないので、少し雨宿りをするも雨は降り止まない。小雨なのでそのまま歩いて行くと、お店で帽子を売ってい...
天 球院は一六三一年に、姫路城主・池田輝政の妹である天久院により創建された。この折りに地中より瑞宝が出たので、天球院と命名されたようである。 方丈内部は狩野山楽・山雪の筆による襖絵で飾られている。やや装飾過多な感じで、狩野永楽の筆致との差があるように思う。金碧画であることも...
大法院に寄る。当院は一六一二年真田幸村の兄・信幸の孫である千種大納言有能の側室・長姫を開祖とするお寺である。真田家とその縁戚の千種、久我、内藤四家の香華寺である。信幸の院号が大法院と言うそうである。またこのお寺には、佐久間祥山の墓もあるようである。 庭は苔庭であり、右手...
退蔵院は正面の庫裏が立派なお寺である。袴越しの大玄関より、方丈へと入る。方丈前庭は庭らしい作意のない庭で、趣なし。方丈の西側に枯山水がある。 これは狩野元信作庭の庭である。石組みの滝口から流れる白沙は、石橋を潜り中之島を巡って、左手の海へと出て行く。その左端にもまた石橋が...
大心院は応仁の乱が終わった義尚の時代(一四七九年)に、管領の細川政元が上京に建立したものを、細川幽斎(藤孝)が妙心寺に移築したものである。その子三斎(忠興)もこのお寺を外護したと言う。 方丈前庭は、花壇のようなものが造られており風情に欠ける。書院の前庭を阿吽庭と言い、白...
最初に桂春院を訪れる。当院は織田信長の長男信忠の、そのまた次男である津田秀則により当初見性院として創建された。その後美濃の豪族であった石河(いしこ)貞政により、現在の建物が造られている。石河貞政は幼少より豊臣秀吉に仕えて重臣となり、江州長浜城主となっている。しかし後の関ヶ原の...
花園の妙心寺へは北門より入る。花園天皇の離宮があったとされる妙心寺は、本坊を中心に四十七の塔頭が境内に犇めいている。本山は大徳寺開山の大燈国師の弟子・夢窓大師(関山慧玄一二七七―一三六〇年)が花園上皇の帰依を受けて、建武四年(一三三七年)の南北朝時代に創建されたものである。応...
大徳寺より等持院へと行く。当院は一三四一年に足利尊氏が夢窓国師に帰依して創建したお寺で、その後室町幕府の近くにあった等持寺もこちらに移建されて、足利家の菩提寺となった。応仁の乱などで火災にあったが、豊太閤も秀頼に命じて当院を再建し、この寺の保存に努めている。 現在の方丈は一八...
妙満寺より、高野八幡の蓮華寺に行く。この寺は加賀前田家の家臣が再興したお寺である。その最高の折には、石川丈山・狩野探幽・木下順庵・黄檗の隠元禅師・木庵禅師などが協力している。お堂に入って、お庭を拝観する。今日はあまりに天気が良すぎて、かえって庭の景色が露出過多になってしまう。...
妙満寺は日蓮宗の一派の顕本法華宗の総本山である。そしてこの寺の開基日什上人は、もともと天台宗の人で比叡山三千の学頭にまでなった玄妙能化である。彼は六十七歳の時に日蓮上人の教えに帰依して改宗し、自解仏乗して名を日什と改めて日蓮門下になったという。日蓮上人は釈迦牟尼仏に帰一するこ...
実相院門跡は、当初紫野にて鎌倉時代の初期に開創されたお寺である。開基は鷹司兼基の子、静基(じょうき)僧正と言う。ご当地に移ってきたのは、室町時代の足利義満の頃である。その後兵火で伽藍の多くを消失したが、江戸初期の第十七世義尊僧正の時に、皇室と徳川家光の支援により再建・復興した...
山門の上に銀杏の木が垂れ下がっており、これが逆光となってまぶしいほどの金色の光景を作り出している。Oさんが見つけ出したアングルで、何枚か撮す。それから本堂に上がって、お庭や「迷いの窓」「悟りの窓」を見る。角窓の「迷いの窓」は人間の一生を象徴して「生老病死四苦八苦」を表し、丸窓...
そこから歩いて、源光庵に立ち寄る。このお寺の正式名称は鷹峰山樹林源光庵と言い、もともとは臨済宗大徳寺派のお寺として一三四六年に創建されたが、元禄時代(一六九四年)に加賀の国より曹洞宗の復古道人卍山(まんざん)道白禅師が当寺に入山し、爾来曹洞宗となっている。 源光庵 悟りの窓
回廊の下を潜って境内に入り、一巡する。光悦作庭の池の側には、茶席三巴亭がある。そこから進むと光悦垣(臥牛垣)のある大虚庵茶席である。そしてその先には了寂軒茶席がある。そして見晴らしの良いところに立っているのが本阿弥庵茶席という。これ以外にも徳友庵茶席、騎牛軒茶席などがある。こ...
光悦寺もまた沢山な人出であり、門前の紅葉の回廊も人出で溢れている。この光悦寺は本阿弥光悦が、徳川家康から賜った鷹ヶ峰の地にあり、光悦はここに一族縁者や工芸の職人と共に住居を構え、工芸部落を営んだ跡地にある。光悦の没後、日蓮宗光悦寺となったものである。 光悦寺 参道
茶店でお寿司の盛り合わせを頂き、又苑内を逍遥する。苑内は八重の紅枝垂れがもっとも多いが、それ以外にも一重の枝垂れ桜、白の八重桜、それに遅咲きの染井吉野も咲いており、又赤い皐月もすでに咲いているものもあり、色とりどりの花に体も染められそうであった。 帰りはバスで立命館大学前まで...
清涼寺を出たところでタクシーを捕まえて、御室仁和寺に行こうとするが、運転手さんが(桜なら、原谷苑がよろしゅうおまっせ)と言うので、原谷苑に連れていって貰う。鳴滝・福王子経由の衣笠街道がえらく混んでいるので、迂回して金閣寺手前の道から原谷へと登って行き、原谷苑へと着く。大変な人...
本日は如何にしても真珠庵を見るべく、やや早めに西宮北口を出る。大徳寺について、すぐに真珠庵へ入る。真珠庵は大徳寺四十八世の一休宗純禅師が草庵を建てた跡であり、応仁の乱で焼失したが、これを堺の豪商尾和宗臨が一休のために没後十周年の延徳三年(一四九一年)に再興した。 庫裡より...
ついで高桐院に行く。ここも人影が少ない。高桐院は門前、それから参道が石畳と落ち着いた緑に囲まれていて、何時来てもその端正さに心が洗われるような気がする。先ず松向軒の茶室から拝観する。松向軒は細川三斎お気に入りの茶席であり、二畳台目の席となっている。手前が主人座、その向こうが客座で...
詩仙堂より金福寺へ廻る。この寺は貞観六年(八六四年)に慈覚大師が国家安泰衆生救済を念じて、自作の聖観音菩薩を祀って創建したお寺である。正式名称は佛日山金福寺と言う。その後荒廃していたが、元禄時代に鉄舟和尚が再興して臨済宗となった。その頃に松尾芭蕉が、時々鉄舟和尚を訪ねて親交を...
丈山はこの詩仙堂に凹凸カ十境を見立てている。入口に立つ(一)小有洞の門、参道を上り詰めたところに立つ(二)老梅関の門、建物の中に入り(三)詩仙堂、読書室である(四)猟芸巣(至楽巣)、堂上の(五)嘯月楼、至楽巣の脇の井戸(六)膏盲泉(コウコウセン)、侍童の間(七)躍淵軒、庭に下...
圓光寺より詩仙堂に廻る。現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸カ(穴+果)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸カとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名前の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、その画に石川丈山自らが各詩人の詩...
曼殊院より詩仙堂の近くにある圓光寺に向かう。この寺の正式名称は瑞厳山圓光寺と言い、もとは徳川家康の建立になるもので、開山は三要閑室禅師である。一六〇一年、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校の学頭閑室禅師を招いて伏見に圓光寺を開いて学校とした。 この学校は僧俗...
次に小書院の方に廻り、庭園の左側を見る。正面の滝口は二つの立てた石の下部に、薄い平石を橋に見立てて架けてある。立てた石の右側は左のそれよりかなり高い石で、蓬莱山を思わせる。滝の流れはそこから手前に流れてきて、水分石に当たって川は大きな流れとなり、その右側の流れは大きく右奥に迂...
今日は曇り空であり、昼からは雨模様になりそうな日である。阪急で四条河原町に出て、そこからタクシーで曼殊院へ向かう。四条大橋を渡ってすぐ左折し、鴨川沿いに川端通りを北上する。出町柳の賀茂川と高野川の合流しているところから今度は高野川に沿って曼殊院通りに出る。この道を通るのは初め...
「しょうざん」は鷹ヶ峰の南に位置している。昭和二十三年に創始者・松山政雄が着物の「しょうざん」をこの地に誕生させ、昭和二十六年より大庭園を造り上げていった。この「しょうざん」は、紙屋川に沿って造られている。紙屋川は平安時代には朝廷御用達の紙漉きに使われていた川であり、源氏物語...
次ぎに黄梅院へ向かう。玄関を迂回して細い露地を通って、園内に入る。本院は一五六一年に春林宗俶禅師が創立した庵居黄梅院が前身で、釈尊三十二代目の法孫・弘忍大満禅師の縁の地である中国黄梅県波頭山東禅寺より命名されたという。春林和尚は信長の帰依を得ており、現在の建物は天正十年(一五...
大徳寺本坊の隣にある聚光院へ入る。本塔頭は織田信長の台頭迄京の派遣を握っていた三好長慶の菩提を弔うため、養子義継が笑嶺宗訴和尚を請じて一五六六年(信長入京の二年前)に建立したものである。聚光院は三好長慶の法号である。 方丈内の国宝・四季花鳥図は、狩野永徳二十四歳の作である...
本日は秋の特別拝観寺巡りである。 最初は大徳寺の芳春院へ向かう。タクシーで大徳寺境内の北側へ廻り、そこから歩いて境内へと入る。そのコースで入っても、やはり信長の菩提寺である総見院の前を通り、大徳寺本坊の横から芳春院へ入ることとなる。この境内の道は京都の色々なお寺の中でも、...
ついで特別公開の興臨院を訪れる。当院は一五二〇年に能登の守護、畠山義総により建立された。畠山家は足利幕府管領の末裔で、義総の法名より興臨院と名付けられている。開祖は小渓和尚(仏智大師)であり、畠山家没落の後前田利家により修復され(一五八二年)、以降前田家の菩提寺となっている。...
大仙院の創立は古岳和尚(大聖国師)であるが、以降笑嶺和尚(千利休が帰依)、春屋和尚(石田三成と関係あり)、古渓和尚(秀吉と対抗)、沢庵和尚(紫衣事件 — 徳川幕府に対抗)、玉室和尚、江月和尚と北派の名僧を輩出している。大聖国師は近江の国守、六角高頼の実弟であり、応仁の乱後の復...
ついで昔訪れたことのある大仙院のお庭を見に行く。大徳寺は名庭園のある塔頭を多く有しているが、それは南北朝の名僧で自ら作庭もした大徳寺二世の徹翁(てっとう)禅師(霊山和尚)の伝統による。そのため歴代の愛庭家の僧が続出したという。そうして応仁の乱後の一休禅師による復興の頃から、枯山水...
再び大徳寺を訪れる。今秋の特別公開により、大徳寺本坊や興臨院などを拝観できるためである。大徳寺は平安の昔は紫野の茂る野原であったが、ここに臨済宗の大燈国師が大徳庵を営んだのが始まりである。その後大燈国師の徳望が拡がり、まず北朝の花園天皇が勅願所とし、次いで南朝の後醍醐天皇の勅...
方丈の東にあるのが、我が国で最も小さな壺庭で、東滴壺と呼ばれる。小さいながらも個性があり、見ていて飽きの来ない庭である。長方形の庭の三方が濡れ縁となっており、残りの一辺は壁に面している。白沙に縦に線が引かれていて、その両端に円形が描かれている。そして庭の中央に石がひとつだけ置...
北庭の龍吟庭は、須彌山型式の室町時代特有の枯山水庭園である。青々とした杉苔が、あたかも山海の如きうねりを見せており面白い。この世界は九つの山・八つの海からなっており、その中心にあるのが須彌山とのことである。この庭では、その須彌山を表している石を、やや右に傾かせているが、それが...
三番目に訪れたのは、龍源院である。当院は臨済宗大徳寺の塔頭のうち最も古いお寺であり、その名の由来も大徳寺の山号である「龍宝山」と臨済禅の「松源一脈」の字より二文字を取って名付けられたものという。大徳寺は一五〇二年に大燈国師により開かれたが、当院はその後まもなく能登の領主畠山義...
ついで瑞峯院を拝観する。当院は九州のキリシタン大名大友宗麟が、室町時代の一五三五年に方丈を建立、宗麟の院号より瑞峯院と呼ばれている。開祖は大徳寺開山の大燈国師から法系九十一世の大満国師である。方丈前の独坐庭は、寺号瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園である。蓬莱山の石組みの下は苔庭...
大徳寺の門前に到着する。昭和五六年頃に、この門前にある「一久」で、本店営業部の同僚であったS君と精進料理を食べたことも思い出される。境内はちょうど大茶会の時期であり、和服を着た女性が行き交っている。塔頭のひとつは織田信長の菩提寺となっており、そこでも茶会が開かれている。信長の葬儀...
立原正秋の「日本の庭」に書かれていた正伝寺に向かう。阪急の十三より快速で四条烏丸に出る。そこよりバスで堀川通りを上ったが、途中で方角の違うことに気付き下車する。そしてやむなくタクシーに乗り、正伝寺の山門に到着する。山門を入ると川が流れており、折からの小雨で林の中は薄暗い。参拝客は...
むかし桓武天皇が平安京を開かれるにあたって、都の鎮めの意味で武将の像を埋めた塚をこの地に築かれたのが、将軍塚の始まりと伝えられている。その後の平安時代は密教が栄え、大日如来を中心とする世界観が世人のものとなったが、この大日堂の地で明治の初めに発掘された石像大日如来像は、京都の...
源光庵を見終えて外に出ると、都合良くタクシーが乗客を降ろしている。それでそのタクシーを捕まえて、お昼をすでに廻っていることもあり南禅寺あたりで湯豆腐でも食べようと思い、その旨運転手に告げると、南禅寺あたりはもう人出で車も動かないとのことである。そして写真を撮るなら人出の少ない...
時間も迫ってきたので、同窓会の開かれる二条苑へと向かう。旧O外国事務課の同窓会は正式には昨年の十二月に続いて二回目であるが、今回は東京のメンバーにも声をかけて総勢四十名余りが集う。二条苑での昼食と庭園での記念写真の後、出町支店にいたO君の紹介のスナックに行く。そこで夕方まで歓...
門前にある紅葉を写真に撮った後、境内に入り四阿(あずまや)より紅葉を鑑賞、幾葉かの写真を撮る。その後堂内に上がり、中庭・釈迦堂前庭を見てそれから急な階段を上って本堂に行く。本堂内は薄暗くほのかな燈明の灯りのなかに、有名な「みかえり阿弥陀」を拝む。その後右手に廻るとちょうど「み...
創建に当たって真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に「仏法は人によって生かされる。従って我が建てる寺は、人の鏡となり薬となる人づくりの修練場であらしめたい」と願っている。ために当寺は爾来数多くの指導的人材を輩出している。なかでも歌人としても知られる永観(ようかん)律師(一〇三三―一...
今日は旧O外国事務課の同窓会の日である。昨日来阪された O さんを迎えに、日航ホテル大坂に行く。昨日は富士トータルサービスのSさんと三人で、堀江寮にて小宴を開き、その後は日航ホテルのスカイクルーザーで歓談をさせていただいた。 O さんとホテルの二階ロビーで落ち合い、JRの新快...
六波羅密寺より清水道に抜ける途中に、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)があるので、これに寄ってみる。門前は昔此の世とあの世を分ける場所であったと言い、毎年八月のお盆前に六道参りが行われていると言う。これはお盆に帰ってくる精霊を、鐘を打って迎える行事である。境内の閻魔堂には、閻魔...
豊国神社より北上して、五条通りを越えて、六波羅蜜寺に着く。この寺は天暦五年(九五一年)に、醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された、西国十七番の札所である。上人は当寺京都に流行した悪疫退散のために、十一面観音を刻み、御仏を車に安置して洛中を引き廻り、青竹を八葉の蓮弁の如く...
京都駅から七条大橋を渡って、「わらじや」の前を通過して左折し、豊国神社に着く。豊国神社の前にある公園のそばに、耳塚がある。ここは秀吉の朝鮮出兵の折りに持ち帰った敵の武将の耳を、供養のために葬ったところである。豊国神社内に入る。この神社の由緒は、次の通りである。豊臣秀吉は慶長三...
紫野より、バスで河原町まで出て、そこからタクシーで高台寺に向かう。高台寺は夜の拝観できたことはあるが、昼間は見たことがないので、庭の写真を撮るつもりで入山する。先ず方丈にあがって、宝物の展示を見る。それから開山堂を拝観して、臥龍廊のうねった屋根を写真に撮った後、霊屋(おたまや...
次に京都大学の北側にある百万遍知恩寺を訪れる。この寺は浄土宗五大本山の一つであり、慈覚大師の草創により、もとは相国寺の北側の今出川通りにあった。一三三一年、第八世善阿が後醍醐天皇の命で大念珠を操って、七日間疫疾除滅のために百万遍の念仏を修した。その効あり、天皇より「百万遍」の...
秋の特別公開の寺巡りの第二回目は、昨年に夜の拝観しかしていない銀閣寺、百萬遍知恩寺、それと昨年見た特別公開の中でその端正な美しさで秀逸していた黄梅院とする。 河原町より車で四条大橋を渡り、川端通りを北上する。そして丸太町通りを右折して、岡崎神社の前を通り過ぎて白川通りに入...
智積院より血塗り天井のある養源院の前を通って、三十三間堂にいく。このお寺は、高校の修学旅行の時に来たことがあるかもしれないが、その後O外事の時代にも訪れたことはない。入口は外国人の旅行者も含めて、大変な人出である。ここは本堂そのものが国宝となっており、正式名称は蓮華王院本堂三...
宝物館を出て、門を潜って智積院の中にはいる。そこには立派な新金堂が建っている。当院の沿革によれば、昭和四十八年の弘法大師生誕千二百年事業として造営が開始され、昭和五十年に完成され、本尊は大日如来とのことである。しかし五年ほど前に来たときには、この本堂の印象がないのは不思議であ...
妙法院を出て、その南にある智積院を訪れる。この寺を訪れるのも五年ぶりくらいである。当院は真言宗智山派の総本山である。真言宗は弘法大師により、平安初期に開創されたが、それより三百年後の平安末期に興教大師が出て高野山において真言教学を刷新・再興した。興教大師はその後根来山に移った。そ...
東山七条にある妙法院を訪れる。当院は、延暦寺の別院として当初比叡山の上に創立された天台宗の門跡寺院で、後に祇園そして当地へと移転してきた。当地に移ったのは江戸時代であり、その昔後白河法皇が構えた法住寺殿の広大な境域の中に建立され、大仏で有名な方広寺、さらには蓮華王院をも管領す...
三門から出て南門を潜ると、もうそこは円山公園である。この公園は明治十九年に開かれた京都最古の公園であり、その後二度の拡張で現在の広さとなり(明治四十年)、大正二年に植治(小川治兵衛)が現在の庭を造った。疎水からの水を滝として取り込み、曲水として流し池に導入している、池泉回遊式...
青蓮院の門前で、ぜんざいを食べる。そこより南下すると、知恩院の黒門に着く。黒門坂はまるで城郭の一部のようである。これまで知恩院というと三門の前を通るのみで、知恩院そのものには全く訪れたことがなかった。今回が初めての拝観である。知恩院は浄土宗総本山であり、青蓮院の一部を慈圓より...
青蓮院は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつであり、天台宗の五つの門跡寺院五ヶ室のひとつでもある。最澄が比叡山を開いた折りに造った僧侶の僧坊の内のひとつが青蓮坊であり、それがこの青蓮院の起源である。鳥羽法皇が十二代座主行玄大僧正に帰依し、平安末期に行玄を第一世として創建。...
今日はまだ桜の開花には一週間早いかと思いながらも、タクシーで南禅寺に向かう。運転手さんに「どこか桜の咲いているところはありますか」と聞くと、「ではひとつだけ咲いているところへお連れしましょう」と言うことで、岡崎公園の近くの京都会館横にある枝垂れ桜の処へと連れていってくれる。それは...
南禅寺より西方に向かい、動物園の前に出る。ここに無隣菴があるので、四時を回っていたが寄ってみると、まだ開いているので入園する。ここは明治の元勲山縣有朋が、明治二十九年に造営した別荘であり、有朋の長州の草庵が隣家のない閑静な場所にあったことから、無隣菴と名付けられたようである。...
次は金地院に行く。金地院は室町幕府第四代将軍、足利義持が大業和尚に帰依して開創した寺である。当初北山にあったが、慶長の初めに金地院崇伝が南禅寺塔頭に移建したものである。金地院崇伝は徳川家康に近侍し、天海和尚と共に幕議に参画し、自らは天下僧録司として社寺を司り。寺門繁興、威勢す...
書院南庭に廻る。この庭の池割から見ると、鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えているということである。東池と西池は流れで繋がっており、心字形を為している。東池には滝があり、手前に板橋が置かれている。板の橋を渡りながら、池に垂れ下がって紅葉している楓の木を愉しむ。また西池は東池より大き...
つぎに訪れたのは、天授庵である。ここは南禅寺の開山、大明国師普門禅師を奉祀する開山塔である。大明国師は東福寺の第三世であり、亀山法皇が奉じて開山としたときは老齢であり、南禅寺が寺として整う前に東福寺の龍吟庵で入寂した。 そもそも亀山法皇が大明国師に帰依されたのは、法皇が妖怪の...
疎水沿いの最勝院をのぞく。低い幹の楓の古木あり。ついで南禅院へ行く。この南禅院は亀山天皇(鎌倉中期、一二六〇年頃在位)の離宮、禅林寺殿の遺跡であり、南禅寺発祥の地である。庭園は鎌倉時代末期の代表的池泉回遊式庭園であり、周囲を深い樹木で包まれた幽邃閑寂の趣格別である。作庭は亀山...
永観堂より南禅寺に向かう路も、また風情がある。湯豆腐を食べさせる聴松院の前を通って、南禅寺の山門のところに出る。山門の楼上にも、沢山の人が登っている。当寺は瑞龍山太平南禅禅寺と正称し、臨済宗南禅寺派の大本山である。鎌倉時代の半ば過ぎの一二九一年に亀山法皇が自らの離宮を施捨して開山...
真如堂の正門より出て左へ曲がり歩いて行くと、黒谷さんへ出る。平安神宮と岡崎公園の間の路を東行すると白川沿いの路に出て、永観堂へと着く。流石に京の紅葉の名所と言われるだけあって、大変な人出である。 当寺は弘法大師の弟子真紹が開き清和天皇より禅林寺の名を賜ったが、中興開山の永観の...
わらべ歌 ああ真如堂 (ああしんどいな) 飯黒谷さん (めしくったか) ここらで一服永観堂 (ここらでいっぷくええだろう) お茶漬けさらさら南禅寺 (お茶漬け更々何千目...
本堂に入る。浄土曼荼羅(当麻観経曼荼羅)が開陳されていた。本坊へ向かう。その途中の庭に本歌「燈明寺石燈籠」(九基名物のうち鎌倉時代)があり、三井家より寄贈されたものである。傍らにシャシャンボウと言う石楠花科の見事な木が植えられてあり、その右には蹲いの面白い形をしたものもある。...
今日は紅葉を見るために、東山を南下することとした。京都駅より地下鉄で丸太町へ、京都御所の南西よりバスに乗り、丸太町通りを東へ向かい、白川通りを少し北上したところでバスを降りる。真如堂は吉田山の南にあり、急な坂道を登って境内に入る。 当寺の正式名称は鈴声山真正極楽寺といい、...
小さな門を潜って、開山堂への道を進む。右手には臥龍池がある。この池の畔には、石組みはまったくない。そして池のまわりは楓樹などが植えられている。この池を跨いで、開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ臥龍廊があり、その廊下は竜骨のように急勾配で撓って一段と高いところにある霊屋へと繋がっている...
銀閣を出て次の目的地である清水寺に向かおうと思ったが、タクシーの運転手さんに高台寺行きを勧められる。今回の夜間拝観は、銀閣寺・高台寺・清水寺の他に、圓光寺もライトアップをやっているそうである。 高台寺の参道を登って、庫裡の左手より入山する。この寺は東山霊山の山麓、八坂法観寺の東北...
方丈も各部屋の戸をはずして開放しており、部屋の畳の中央にある花籠に花を挿したりしている。方丈と東求堂の間の壺庭に、銀閣寺型手水鉢が置かれてある。これは角張った形のもので、なかなかモダンな感じの作りである。そこから池に浮かぶ白鶴島、仙袖島を見ながら、龍背橋を渡る。更に臥雲橋を越...
仕事の終わった後京阪淀屋橋より、久しぶりに京阪電車に乗り京都に向かう。途中枚方の駅を通過する。昔小学生一年の時に、ここには父と一緒に菊人形を見に来たことがある。京阪終点の出町柳の駅で降りる。そこからタクシーで銀閣寺に向かう。今出川通りの突き当たりが、銀閣寺である。疎水の支流の辺り...
清水寺へ向かう。そして三時半過ぎに成就院へ入る。もとは赤松氏の邸宅趾であったという当院は、応仁の乱の後に清水寺を再興した願阿上人により創建されたお寺である。現在の建物は寛永九年(一六三九年)に、徳川家光により再建されている。 庭園の作者は相阿彌が原作者でその後小堀遠州が補...
最後に両足院を訪れる。両足とは元来如来の別号であり、二徳兼備の尊者を意味するようである。開山は龍山和尚 ( 一二八四~一三五八年 ) であり、鎌倉から室町にかけて元に四十年余りも渡っていた僧である。この時に同道していた林和清の子孫・浄因は、日本に饅頭の製法を伝えている。林家は...
次ぎは、開山堂を拝観する。興禅護国院と称し、栄西禅師の廟所である。堂内は瓦敷であり、内陣の中央の方形石垣の中に栄西禅師の坐棺が埋葬されていると言う。庭は山門より開山堂への石畳が、菱形に並べてあるのが印象的であった。
次に建仁寺の塔頭の、久昌院を見る。美濃加納城主・奥平信昌が三紅紹益和尚を開祖として一六〇八年に創建、信昌の院号の久昌院が寺号となっている。奥平信昌は織田・徳川軍が武田軍を破った長篠の合戦で、長篠城を死守した猛将であった。もとは定昌と言っていたが、この戦功により信長の名前から一字を...
今度は建仁寺へと向かう。四条通から建仁寺へと入って行く道が、大変混雑している。建仁寺の入り口の少し手前に競馬の場外馬券売り場があり、今日は競馬の日であるための混雑のようである。この通りには祇園の歌舞練場もあり、御茶屋の多い祇園の真只中である。建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山であり、...
霊鑑寺から、タクシーに乗って金戒光明寺へと行く。運転手さんによれば、金戒光明寺と呼ぶのではなく京都の人は皆「黒谷さん」と呼ぶと言っていた。正式名称は紫雲山金戒光明寺と言う。比叡山で修行を終えた法然が念仏弘通のため山を下りてこの地で唱名念仏を唱えていたところ、紫雲光明の生ずるの...
ついで霊鑑寺へと廻る。当時は臨済宗南禅寺派に属する尼門跡寺院で、正式名称は円成山霊鑑寺と言う。後水尾天皇の皇女を開基として一六五四年に創建、以降皇女皇孫が入寺された。庭園は山畔池泉鑑賞式で、書院の南面に池がある。面白いのは池の周りの石組みは大きく左側に造られており、池そのもの...
法然院より、安楽寺に回る。このお寺は法然が流罪地より戻った後、安楽と住蓮の菩提を弔うために草創されている。しかしその後荒廃を繰り返した後、一六八一年に現在の仏堂が建立されている。正式名称は住蓮山安楽寺という。山門より本堂に至る道の左右が庭となっていて、躑躅の大小の刈込が中心の...
雨降りで暗くはあったが、山門への登り口は風情がある。山門がやや高くなっており、そこから堂内の白砂壇と池が見下ろせる。白砂壇の中を通る事で、心身を清めて浄域に入る事を意味するようである。本堂は本尊阿弥陀如来を須彌壇に祀ってある。方丈庭園は山畔池泉鑑賞式で、池に石橋が架かりその向...
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