「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」(マルコ2:22) 政府により「新しい生活様式」が提唱されて、4ヶ月が経つ。 「新しい生活様式」という言葉じたいが古めかしいと感じたのはわたしだけではないだろうが、それはともかく、浸透しているのかいないのかよくわからない状況だ。 厚生労働省のウェブサイトを見ると、細かい具体例が思いのほかたくさん載っている。 人との距離の置き方、手の洗い方、スポーツや娯楽時の留意点、交通機関の使い方、食事のとり方、は…
ご訪問くださり、ありがとうございます。 このブログでは、一日一章ずつ、聖書を読むなかで考えさせられたことを書いています。 自分勝手な解釈に流れることを恐れますが、同時に、正しい解釈とか、正当な読み方といったものに縛られたくないとも思っています。 なぜなら、みことばは食べるものであり、食べものは味わっていのちの糧とするためにあるのであって、切り刻んで研究するためにあるのではないからです。 きょうから、マルコの福音書に入ります。 また新しく、生き生きとイエスさまを見上げることができるよう、聖霊をとおして主が導いてくださいますように。 「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっ…
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20) 復活のイエスさまは、女たちに最初に姿を現わされた。 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(9) わたしは、この箇所が大好きだ。 「おはよう」。 なんとやさしいお言葉だろう。 この言葉は、新改訳のほかに、新共同訳でもそう訳されている。 ほかには、「平安あれ」(口語訳)、「安かれ」(文語訳)、英語では、「Greetings」(NIV)、「Rejoice!」(NKJV)などとあるが、個人的には「おはよう」が一番好きだ。 「ひれ伏せ」でも、…
百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。(マタイ27:54) イエスさまが十字架にかけられたとき、全地は暗くなった。 息を引き取られたとき、神殿の幕が避け、地が揺れ動いた。 見ていた人々は、「ああ、この方は、やはりただ者ではなかった。まことに神の子であった」と、あらためて胸を打たれた。 彼らの言葉は、半分当たって、半分間違っている。 イエスさまが神の子であることは、そのとおりだ。 しかし、「神の子であった」と、“過去形”で言うのは違う。 彼らは、思った。 「ああ、惜しい方を失くした…
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。(マタイ26:72) イエスさまは、捕えられる直前に、弟子たちに言われた。 「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。」(31) そのとき、いつものように、ペテロがまっさきに答えた。 「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(33) これが、ペテロという人だった。 「私は」「私が」と、つねに「私」が主語だった。 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、…
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40) 主は、「小さい」ことにわたしたちがどう関わっているかを、見ておられる。 小さい者、小さいお金、小さい時間、小さい用事、小さい賜物、など。 しかし、わたしたちは、これら小さいことを気に留めず、大きなことにばかり目を向けがちではないだろうか。 目立つもの、派手なもの、影響力の強いもの、称賛されるようなもの、などに。 「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミ…
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。」(マタイ24:45-46) マタイ24章では、ご自身の再臨や世の終わりの前兆について、イエスさまが弟子たちに詳しく教えておられる。 そのなかで、「忠実な思慮深いしもべ」と「悪いしもべ」のたとえ話をされた。 「忠実な思慮深いしもべ」とは、どんなしもべだろうか? 第一に、主人を敬い、主人に全幅の信頼を寄せている。 だからこそ彼は、主人に忠実であることに喜びを見出す。 悪いしもべは、主人を完全に…
「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」(マタイ23:4) マタイ23章では、イエスさまが律法学者やパリサイ人たちに向かって、「忌まわしいものだ」とくり返しながら、その偽善的なあり方を痛烈に批判しておられる。 上は、そのひとつだ。 この言葉は、「律法主義」の本質をずばり突いている。 つまり、人に重荷を負わせるが、自分のことは棚に上げて、助けようともしない。 と考えたとき、わが身を省みる思いになった。 自分が「律法主義」に陥っているときは、どんなときか? それは、周りの人に対して、ことに家族など身近な者に対して、要求や指示(はっきりいえば小言)が多…
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40) 律法の専門家が、「イエスをためそうとして」(35)尋ねた。 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」(36) 動機は悪かったが、質問は良かった。 イエスさまが、ていねいに答えておられる。 「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」、この二つの戒めに「律法全体と預言者」とがかかってい…
そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。 「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21:9) いよいよイエスさまが、エルサレムに入られる。 その栄光の場に選ばれたのは、なんと、ろばの子だった。 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(4-5) あのナポレオンは絵画のなかで、白馬にまたがり、きらびやかな衣をまとい、実に勇壮かつ美しく描か…
彼は、一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。(マタイ20:2) イエスさまがなさったたとえ話の中でも、おそらく、もっとも「納得いかない」という声が上がりそうなのが、この箇所だ。 朝から働いた者も、終業前の1時間だけ働いた者も、同じ「一デナリ」の賃金を支払われた、というお話。 「朝から組」が怒るのも無理はない。 わたしは学生の頃、よく日雇いバイトをしていた。 たいていは工場での単純労働で、立ちっ放しでの作業はきつく、とにかく休憩のベルが待ち遠しかった。 あのとき、もし、終業1時間前から働いた人が5千円を受け取ったとしたら、自分はその7倍はもらえると思っただろう。 けれども、わたさ…
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マタイ19:21) この「富める青年」は、とてもまじめな人だ。 品行方正で、話しぶりも実にマナーをわきまえている。 いまでいう「一流ビジネスパーソン」だ。 けれども、心は満たされていなかった。 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(16) 富も得た、素晴らしい人間性も得た、教養も得た、人脈も得た、さあ今度は最高のゴールである「永遠のいのち」だ、とい…
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイ18:21-22) イエスさまは、「七度を七十倍するまで」赦せ、と言われた。 何度でも赦せ、ということだ。 なかなかできることではない。 ここで注意したいのは、罪を赦すことと、罪をあいまいにすることとは違う、ということだ。 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」(15) 罪を…
・・・家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」 ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。」(マタイ17:24-26) 宮の会計係がペテロに、「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」(24)と質問した。 そのときのペテロとイエスさまの会話だ。 このあとペテロに、魚を釣って、その口にあるお金を納めるよう指示された。 多くの人がそうかもしれないが、わたしは、税金の期日がくるたびに…
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23) イエスさまが弟子たちに、ご自分がキリストであることを明らかにし、エルサレムで殺され、三日目によみがえることを示し始められた。 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(22) このペテロに対し、イエスさまは、「下がれ。サタン。」と、強い叱責の言葉を返された。 「下がれ。」という言葉は、英語の聖書をみると、「Get behind m…
「口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:17-20) エルサレムからはるばる、イエスさまのところに来た人たちがいた。 パリサイ人や律法学者たちだ。(1) その目的は、イエスを訴える口実を見つけることだった。 彼らは、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことに気づき、ニヤリと目配せした。 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの…
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」(マタイ14:17-18) イエスさまが、五つのパンと二匹の魚で、男だけで五千人、女性と子どもを入れるとその倍近くの人たちを満腹にしたという奇蹟の記録だ。 この「五千人の給食」は、イエスさまがなさった奇蹟のなかでも四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のすべてに記載されているという点で、珍しい。 それほど重要な意味をもつ出来事ということか。 弟子たちは、「もう暗くなる時間だ。こんな辺ぴな所に、こんなに人が集まってしまって、早く帰らせないと・・・…
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」(マタイ13:10-11) マタイ13章には、イエスさまが話された「たとえ話」がたくさん出てくる。 種蒔きのたとえ、毒麦のたとえ、からし種やパン種のたとえ、などだ。 そこで弟子たちがたとえ話をされる理由を訪ねたのが、冒頭の聖句。 イエスさまは、「天の御国の奥義」をたとえているのだと、答えられた。 たしかに、ここにあるたとえ話はどれも、「天の御国」について語られている。 「ですから、種蒔きの…
「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」(マタイ12:5-6) ひもじくなった弟子たちが、安息日にもかかわらず、麦畑の穂を摘んで食べた。 それを見たパリサイ人がすかさず、イエスさまを糾弾した場面だ。 ここは福音書のなかでも、個人的にとても好きな箇所だ。 まず弟子たちの、のびのびした姿がいい。 律法に無知だったのか、それともイエスさまとともにいて解放されていたのか、なんとも自然体である。 そして、パリサイ人に対するイエスさまのお答えも嬉しくなってくる。 「『わたし…
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30) イエスさまは一点のけがれもなく、きよさそのもののお方だ。 それでありながら、言葉では表せないほど、ふところの深いお方だ。 これは、考えてみれば、不思議なことだと思う。 ふつうは、きよくあればあるほど、近寄りがたいものだ。 ところがイエスさまは「取税人や罪人の仲間」(19)と揶…
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34) このみことばは、イエスさまのお言葉のなかでも特に激しく、印象的だ。 さらに、こう続く。 「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(35) どうだろう。 多くの人がつまずきそうなみことばではないか。 キリストの教えは家族と敵対することを推奨するものなのか、と。 これが、聖書を読む難しさだ。 というのは、聖書はつねに聖書全体から読み取るこ…
イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。(マタイ9:28) マタイ9章では、イエスさまによっていやされた人たちの話が、たくさん出てくる。 中風の人と彼を運んできた人たち、死の床につく娘をもつ会堂管理者、十二年の間長血をわずらっている女、そして目の見えないふたりの人たち。 彼らはみな、イエスさまによっていやされ、よみがえらされるという奇跡にあずかった。 そこには、ある共通点が見られる。 それは、彼らは「イエスさまにはできる」と信じていた、ということだ。 「・・・おいでくださって、娘の上に御手を置い…
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。(マタイ8:3) 山上の垂訓が終わり、イエスさまと群衆が山から降りて来た。 そこに、ひとりの病人が現れた。 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。(2) 彼は重い皮膚病(ツァラアト)のせいで、社会から隔絶された状況で暮らしていた。 その彼が、群衆の中にとび込み、主の前まで進み出てひれ伏すのは、それだけでも勇気がいることだった。 しかし彼は、「いましかない。いまを逃したら、もうお…
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24) 主は、口先だけの信仰者ではなく、その信仰が「行ない」に表れる本物の信仰者が御国にはいるのだと、語られた。 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(21) 口先だけで『主よ、主よ。』と言う者も、主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡をたくさん行なった。(22) ひとことで言えば、“派手な”あり方だ。 これは、その直前に語られた「滅びに至る門」ではなかろうか…
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34) マタイ6章でイエスさまは、徹底して、人々の目を天の御国に向けさせようとしておられる。 人からの称賛や尊敬を得ようとすることは、「すでに自分の報いを受け取っている」(2・5・16)ことであり、「自分の宝を地上にたくわえる」(19)ことだ。 そうではなく、「隠れた所で見ておられるあなたの父」(4・6・18)からの報いこそ求めるべきであり、それは自分の宝を「天にたくわえ」(20)ることになる、と。 そして、食べ物や、からだや、着物や、いのちのことで心配してはいけない、と断言さ…
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17) このあとイエスさまは、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「妻に離婚状を与えよ」「偽りの誓いを立ててはならない」など、具体的な律法をあげながら、その真意を述べられた。 そこではイエスさまは、律法を廃棄するどころか、より強調しておられることがわかる。 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(28) 例えてみれば、わたしたちは十個の器を与えられ、常に水で満たすよう命令されたようなものだ。 懸命に水を注ぐけれども、わたし…
すると、試みる者が近づいて言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるよう、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:3-4) 四十日四十夜の断食のあと、イエスさまは、悪魔の試みを受けられた。 三つの誘惑に対し、イエスさまはすべて聖書のみことばをもって退けられた。 「人はパンだけで生きるのではなく」というみことばは申命記8章からの引用だが、この章には神がイスラエルの民を「試みた」ことが書いてある。 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。…
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3:16) マタイ3章は、バプテスマに関する記事だ。 前半(1~12)ではバプテスマのヨハネの宣教のようすが、後半(13~17)ではイエスさまがヨハネからバプテスマを受けたときのようすが書いてある。 ヨハネの呼びかけは、簡潔だ。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(2) つまり、バプテスマとは、「悔い改め」の象徴だった。 だから、表面上を取り繕って、「はいはい、私共も悔い改めの大切さは、もちろん承知しております。喜んでヨハネ先生からバ…
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。(マタイ2:10-11) はじめて聖書にふれた頃、なんとも不思議な本だと奇異に感じたことを覚えている。 イエス・キリストの伝記が4つも並んでいるのは、なぜ?、と。 しかも、それぞれで内容が異なったり、同じことが書いてあったりする。 一つにまとめたほうが良かったのではないか、と思ったのも無理はない。 しかし、これも神の深いご配慮でなされたこと。 きっと意味があるはずだ。 イエスさまの誕生については、四福音書のうち、マタイとルカに詳しく、マルコとヨハネはふれていない。 さらに、マタイ…
こんにちは。このブログを運営しております、たあくん(とはいえ50代男性)です。 何気なく始めたこのブログも、訪問してくださる方がちょっとずつ増えてきて、とても嬉しいです。ありがとうございます。 長かった梅雨も明けましたね。一気に暑くなりそうですが、ブログのほうはたんたんと続けて行けたらと思っています。 ここまでヨハネの福音書から1章ずつ、思わされたことを書いてきました。きょうからは、マタイの福音書を読んでみます。聖書は何度読んでも新しく、まさしく“汲めども尽きぬ泉”のようです。引き続き、よろしくお願いいたします。 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていた…
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。(ヨハネ21:12) よみがえったイエスさまが、お姿を弟子たちの前に二度現わされてから、またしばらくの時が経った。 夜通し漁に出たが収穫はなく、明け方頃、落胆しながら戻りかけたとき、岸べにイエスさまが立たれた。 イエスさまのほうからかけられた言葉は、とても優しい。 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(5) そして主のおことばどおり、舟の右側に網をおろしたところ、153匹…
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