川村伸寛です。 僧侶向け仏教学習メルマガ「サルブツ通信」を発行しています。 専門は「親鸞浄土教(浄土真宗)」ですが、人間の宗教行為すべてに関心があります。
前回は三つの悪道を順にみてきました。怒りの世界=阿修羅欲の世界=餓鬼言葉を失った世界=畜生私たちは、毎日毎日、当たり前のように、この悪道を経めぐっているのではありませんか?時々「天」で一息つくこともあるかもしれませんが、また、落っこちて、悪道を経めぐる。餓鬼が阿修羅を産み、阿修羅が畜生を呼び込み、我を忘れ、人であることを忘れ、六道とは言うものの、主に悪道を経めぐって、喘いでいるのです。「阿修羅」「餓鬼」「畜生」、どれも、私たちが陥りがちな、人の在り様です。ここでは、三つありますが、上手く譬えられるなら、数はいくつでも構いません。誰か、よく観察して、五十道くらい考えてくれると、きっと、面白いと思います。例えば、自分の子供可愛さに、周りが全く見えなくなっている「鬼子母神道」とかどうですかね?エロい妄想で頭がいっぱい...【ホントに怖いのは地獄です】
さて、前回の続きです。今回は、悪い方、つまりマイナス方向の煩悩に狂わされた世界のお話です。怖いですねえ。4「阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」これを、またまた二つに分けます。5「阿修羅、餓鬼、畜生」6「地獄」5は、それぞれに特徴を持つ、マイナス感情に支配された世界だとお考え下さい。6は、5の世界をひっくるめた総称だと思ってください。「地獄」には地獄の恐ろしい特性があるのですが、それは後回しとして、まずは、5を解説します。「阿修羅」怒りや憎悪に我を失った状態。つまりは、争いの世界ですね。怒ってますか?はい。争ってますか?はい。自分で応えてしまいましたが、かなり頻繁に、この世界に落っこちています。駄目ですよ。怒っても、争っても、良いことなんて一つもないんですから。それは、誰でもわかってることなのです。平和が一番。でも、無理...【四悪道、怖いですねえ】
人生は苦しい。苦しくないなんてまやかしなんだ。それを、きちんと自覚したところからはじめましょう。そこに立てるのが仏教の強さです。ということで、本題に入ります。私、「輪廻はしない」って言いましたよね?実は、してるんですよ。「死んで生まれ変わる」と言う「輪廻」はありません。でも、「六道(天・人・阿修羅・餓鬼・畜生・地獄)」を回ることを「輪廻」と言うのであれば、それはあります。私たち、クルックルックルックルと、回りまくっています。いつ?どこで?今、ここで。死んだ後に生まれ変わるところが「六道」だという理解が多いようですが、「六道」は空想の産物ではありません。というか、実のところ、「輪廻思想」と「六道思想」は、辻褄が合っていないと思うんですよ。これ、細かくは触れません。とにかく、死後の世界を想像して作られた、おとぎ話で...【六道なんだもの】
酷いテーマですねえ。でも、しょうがないんですよ。仏教だから。と、ここで終わってやろうか、という考えが頭を過ぎりましたが、続けましょう。実は、この「死にたくもなるよな」というところに立てるのが、仏教の強みでもあると思うんですよ。生きてるのって辛すぎる。そこが出発点でしょ?何の?ってお釈迦様のですよ。そいでもって、お釈迦様は、「煩悩を消せば苦しくないよ。」という、ありがたいお教えを下さったけれど、これっぽっちも煩悩(欲)が無くならない私たちは、常に、「生きてるのって辛い、苦しい、もう嫌だ!」という自分を託って生きているはずなんですよ。生きるのが嫌になるのなんて、特別なことじゃないんです。私たちに、そのことを気付かせてくれるのが仏教です。そんな、弱い自分のまま、「それでいいよ」と、そこに立たせてくれるのが、仏教なんで...【死にたくもなるよね】
課題だ!と言って、投げっ放しにしている話題に、少しだけ触れておきましょう。「生きてることをありがたいと思わせるには、どうしたらいいのか?」という課題ですよ。皆さん、考えてくださいましたか?てゆーか、皆さん自身は、「生きてて良かった!」「生まれて良かった!」と、思ってらっしゃいますか?思ってらっしゃるなら、「なぜ、そう思えるのか?」ということを、よくよく考えてみてください。そうは思えないと言う方、いらっしゃいますか?いらっしゃったら、教えてください。全力で発剄をブチかましに行ってあげますからね。死にそうな目にあうと、本当に、「生きてて良かった!」と、実感できますよ。あ、じゃあ、これで問題解決だ。違いますね。「生きてて良かった!」と、思えるのは、「生きていたい」「死にたくない」という煩悩の所為です。その点では、「生...【生きてることって、ありがたいですか?】
別に謎なんてないんです。「坊主嫌い」という人には、「嫌い」な原因があります。その原因なら、私だって実例を上げ乍ら24時間語り続けることができます。「宗教団体が嫌い」という人にも、「嫌い」な原因があります。過分に八つ当たりである傾向もありますが、許容範囲内だと思います。腐ってる団体、多いです。しかし、「宗教嫌い」と言う人のほとんどは、アホだからそう言うのです。間違いありません。何故か?「宗教嫌い」な人達の圧倒的多数は、宗教について、ほとんど何の知識もないからです。良く知りもしないのに批判するのは、頭が悪いだけでなく、人間としての品性にも欠けていると言わなければなりません。前から歩いてきた見知らぬ人に、突然、「俺、あんた嫌い」と言うのと同じですからね。「宗教なんて必要ない」と、言う人も同じですね。たいていの場合は、...【宗教嫌いの謎】
前回までで、親鸞浄土教(浄土真宗と言うのやめますね)の大まかな骨格と、それが、他宗教とも通底するものだということは、ご理解いただけたかと思います。が、何か足りないものがありませんか?それにしては、まだ念仏の話が出てこないのだけれど?と、思った方は正解です。浄土教と言えば念仏です。「南無阿弥陀仏」を抜きにして、浄土真宗は語れません。それなのに、なぜ、これまで念仏の話をしなかったのか?それは、浄土真宗は語れなくても、親鸞浄土教は語れるからです。要するに、念仏も方便(方法論)であって、骨格ではないんですよ、これが。もちろん、方便の中では最重要項目です。浄土教発生時に、既にして仕組まれていた方便ですからね。しかし、念仏などしなくとも、成仏はするんです。成仏できるのではなく、するんです、死ねば。だから、方便なのです。「念...【たかが念仏、されど念仏】
往生も浄土もいらないなどと、正気の沙汰ではないと思われるかもしれませんが、これ、正気になったから言えるんですね。セクトの利益に忖度する「教義」というものを全否定して、普通に、極正常な立場から、「教理」を学んでいきたいと思います。そもそも、仏典というものは、99%の方便(どっちでもいいこと)と1%の真理(大切なこと)で成り立っています。割合は適当に言ってますけどね。中には100%方便というものも少なくありません。方便の山の中から、真理を掘り出すのが、宗教を学ぶということです。真理が掘り出せたら、後は、自分で方便をくっつけていけばいいわけですよ。まあ、お坊さんでなければ、方便をくっつける必要はありませんけどね。この、腐るほどある「方便」というものが、なかなか曲者なのです。善良な方便と、悪質な方便があると言っても良い...【「神」は千変万化する】
二枚のマスクを奪い合う家族と譲り合う家族。どちらが理想的な家族の姿なのでしょうか?そんなことを考え、ほくそ笑む川村です。今し方、ふと気になったので、言っておきます。私は無神論者じゃないですからね?浄土真宗のお坊さんには多いんですが、私は違いますからね。仏様も神様も大好きです。「阿弥陀如来は縁起の総体としての無限である」なんて言ってるものだから、阿弥陀さんに対する信仰心がないんじゃないかと疑われたりもしておりますが、それ故に、阿弥陀様を信仰させていただけるようになったんですからね。ちなみに、他宗のお寺にも、神社にも、キリスト教会にも、お参りします。どこへ行っても、手を合わせたら「南無阿弥陀仏」ですけどね。それでいいのです。皆さん、阿弥陀如来のお手伝いをされている方々ですから。では、本題に入ります。本日は、頭に入れ...【「無限」は矛盾を吹っ飛ばす】
今日も生きてますか?さて、「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」まあ、皆さんに限れば大丈夫だと思いますが、これ、「世界は俺のためにある」感がありますねえ。「自我」は野放しにされていると肥大し、やがて世界が「自分(のもの)」となる。と、言われておりますが、宗教(信仰)が、その厄介な「自我」というものを抑制する役割を持っているという見方もあります。まあ、そうかな、と思います。そんな宗教の役割とは、真逆とも思える、「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」というフレーズですが、これ、自分という視点からであって、「自分以外のもの」という逆の視点に立てば、「俺たちのおかげで、生きていられるんだからな。」ということになります。さらに踏み込めば、「俺たちはお前の命を支え...【生かされて生きることの意味その2】
阿弥陀さんの御利益によって、生まれてこられたし、今、生きていられる。というお話をしてきたかと思います。つまり、私たちは、「阿弥陀様に生かされて生きている」と、言えるわけです。問題は、その視点に立つと、どんな世界観と出会えるかということですね。それが、人生にとってプラスになるなら、はっきりと「御利益」ですよね?さあ、どうでしょうか?まず、これまでの学習を踏まえて、「阿弥陀様に生かされて生きている」私が、社会的存在として、どのように社会と対峙しているのか?ということを考えてみましょう。この世界に存在するのは、「自分」と「自分でないもの」でしたね。その「自分」と「自分でないもの」は、「自分」から見た場合、「自分」を「自分でないもの」が支えている(存在させている)という関係性で繋がれています。「縁起」ですね。「縁起」は...【生かされて生きることの意味その1】
【浄土随想】「浄土」はいらない。「往生」はする場がない。と、デリカシーの欠片もないことを言ってしまったわけですが、漠然と「浄土」だ「往生」だと言ってる人よりは、はるかに強くなれたはずですから、ご安心ください。言ってる意味がわかりませんね?そうだと思います。本日は、もう少し「浄土」について考えてみたいと思います。「浄土」は「阿弥陀仏国土」です。つまり、阿弥陀さんが作られた国、ということですね。そういう意味では、この世界の原因が阿弥陀如来だというところから考えると、この世界そのものが、阿弥陀さんの国土、即ち「浄土」であるとも言えるわけです。「この世界こそが浄土である」これ、どう考えますか?「この世を浄土に!」とかいう、甘ったれたムシロ旗ではありません。この世界が、実際に、もとより、浄土なんです。そう仮定して、その妥...【浄土随想】
ええ、前回は需給バランスに見る「浄土」の必要性ということについて考えて来た?わけですが、今回は、なぜ、「往生」というものが必要になったのかということを考えてみたいと思います。「浄土」というものが建立されてしまったものの、本来であれば、「浄土」で「成仏」すれば事足りるわけで、わざわざ、「浄土」に「往生」して「成仏」すると一手間増やす必要はないのです。「往生」逝ってよし!です。なのですが、これ、必要だったのですね。昔から、仏教では、修行を達成して成仏しなければならないという掟のようなものがあったようです。「仏教は自因自果だから」などという文脈で言われるのですが、要するに、成仏(自果)したいなら、自分で修行(自因)しろ、ってことですかね。浄土教の場合、阿弥陀さんに助けてもらうので、修行という部分が、非常に怪しい、グレ...【往生するんだよ】
いよいよやって参りました。「往生」そして「浄土」のコーナーです。これまで言うのを我慢していたことがあります。なんで先に成仏の話をしなければならなかったのか?と、いうことにも関係があるのですが、本当に、今まで誰にも言いませんでした。言いたくて言いたくて、ウズウズしていましたが、堪えていました。それでは、発表です!「浄土」も「往生」も、無くてもかまいません。「浄土」が無くても構わないのであれば、当然、そこへ往き生まれるという「往生」という概念も不必要です。本源的には、「成仏」があれば、それで事足りるのです。それだけで、阿弥陀如来の主上救済は成立します。前回をご理解いただけているなら、すでにお気付きのことと思います。「浄土」も「往生」も方便です。これ、そんなに難しい話ではありません。やっぱり、死んだ後問題の解決案の一...【往生、そして浄土へ】
今回は、人間側の都合から、「成仏」を考えてみたいと思います。そもそも、死んだ後のことがわかる人間などいません。臨死体験だとか言う人もいますが、臨死は生の一形態であって、死ではありません。同じ系列で付け加えるなら、仮死も生であって、死ではありません。死んだ後のことは、生きている人間には確かめようのないことなのです。当たり前か?・・・・・だね。どうなるかわからない。どうなったかわからない。そんな状況は不安ではないですか?だから、「死」に思いを馳せる時、人は不安を感じます。人間は不安に弱い生き物なんだと、今回のコロナ騒動を見ていても思います。なぜ、デマ一つで、街からトイレットペーパーが消えてしまったのでしょうか?「死後」についても、様々なデマゴーグが溢れています。「地獄に堕ちる」「この世で迷っている」「どこかで生まれ...【死と成仏その2】
こうしてみると、重々しいテーマに見えますね。けっこうなことです。問題は、いよいよ核心へと迫ってまいりました、のか?そんなことは、どうでもいいのですが、本日は、「なんで、死ぬと成仏するの?」ということについて、考えてみたいと思います。とりあえず、「往生」「浄土」は後回しにしますね。触ってしまうかもしれないけれど、基本、今回は触れません。「成仏」って、どういうことですかね?「仏に成る」ということですね。そうすると、「仏」とは何か、ということを理解しておかなければなりません。「仏」くらいわかるって?本当に?意外と、これ、わかってることにして捨て置かれている場合が多いですよ。大丈夫ですか?大丈夫ではない、と仮定して、話を進めます。まず、前提として、「目覚めた人」=「仏陀」=お釈迦様(人間)、という場合の「仏」、つまり、...【死と成仏その1】
「人は死んだらどうなるの?」「人は死んだら仏になります。」ま、そういうことです。もう少し詳しく言えば、「人は死んだら、浄土に往生して、仏に成る。」これ以上は、詳しく言えません。ちょっと、待てや!そう言われても、これ以上のことは・・・・・。そうじゃないですか?私、お釈迦様が死後のことについて、何も仰らなかったのは、「死んだら何も無くなる」と、思われたくなかったからではないかと思うのです。お釈迦様の時代には、今、我々が考えるような「仏」という概念もありませんでしたし。困っていらっしゃったのではないかと、思うのです。と、言うのも、「死んだら何も無くなる」というのも、あながち間違いだとは言えないからです。間違いではないと言うか、実際、何も無くなるんですね。例えば、Aという人が死んだとします。Aという人は、その肉体ととも...【人は死んだらどうなるの?】
結局、終わりませんでした。やはり、この問題は込み入ってますね。様々な角度から、複合的に論理を組み立てる必要がありますね。完全に理解するために必要なパーツが多すぎるのです。なので、骨格だけに絞ります。少し方向性は変わるかもしれませんが、そのうち繋がります。阿弥陀如来の御利益は、1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)2「今、生かしていただいていること」(現在)3「死んだら成仏させていただけること」(未来)という三つの普遍則(誰にでもあてはまる)で表現できると思います。「生まれて、生きて、死ぬ」のが人間ですから、人生すべてが、阿弥陀様からの「いただきもの」と考えるのも間違いではありません。そもそも、阿弥陀如来の定義に従えば、この世界のすべての事象が、阿弥陀様の御利益として存在するわけですからね。しかし、す...【阿弥陀如来を考えるその7】
このシリーズ、長くなってきた上に、ほかに話したいことも出てきたりしているわけですが、大切なことなので、頑張って続けましょう。飽きないでね。前回、お話ししたことをまとめると、阿弥陀様の救済であるところの、「人間の死=成仏」という方程式は、「人は死んでも生まれ変わらない」というお釈迦様の発見に、大衆を誘導するための方便である、という側面を持つ。と、いうことになりますね。他の側面は、おいおい考えましょう。それでは、今回は、残された、前前号の「②③」と「2・3」の関係について、考えることにしましょう。兄さんと兄さん?ま、兄というのは、やっかいなものです。阿弥陀様の救済は、②「私は、阿弥陀様の働きによって、この世に生まれてくることができた」③「私は、阿弥陀様の働きによって、今、生きていることができる」でしたね。お釈迦様の...【阿弥陀如来を考えるその6】
【阿弥陀如来を考えるその5】前回は、阿弥陀様の「救済」の内実(具体相)として思い浮かぶこと、①「死んだらお浄土に往生して成仏できること」②「生まれてこられたこと」③「生きていられること」と、お釈迦様の教え、1「人間は死んだら生まれ変わることはない。」2「だから、ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。」3「そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。」が、密接に関係しているというところまで、お話ししたかと思います。ちょっと、理屈っぽくなってますねえ。つまんないかもしれません。ごめんなさい。でも、はじめに、必要な方程式を頭に叩き込んでおくことで、今後の学習が可能になりますからね。我慢して、知恵熱が出るくらい考えてみてください。本題に戻ります。まず、①に...【阿弥陀如来を考えるその5】サルブツ通信0008
お約束通りに、今回は、阿弥陀さんに「救われる」とは、どういうことなのか?それを考えてみたいと思います。おそらく、一回では終わらないと思いますので、のんびりとお付き合いください。とりあえず、私たちが阿弥陀さんに「救われる」とはどういうことなのか、思い付くことをならべてみましょう。と、その前に、一つだけ前提条件を理解しておいてください。それは、「阿弥陀如来の救済は、すべての人間に平等に、かつ、無条件で与えられるものでなければならない」ということです。これは、非常に重要なポイントです。詳しくは、いずれ説明するかもしれませんが、「平等かつ無条件」が親鸞聖人の真骨頂です。この前提を忘れて考えると、茶番劇が始まります。それでは、話を戻します。阿弥陀さんの「救済」の内実として、まず第一に思い浮かぶのは、やはり、①「死んだらお...【阿弥陀如来を考えるその4】サルブツ通信再録
阿弥陀さんの話が続きます。しつこいですか?当然です。信仰の対象を知らずして、どうして信仰が語れるのでしょう?「阿弥陀さん?知ってるよ。キンキラでパンチパーマの、チョロ髭生やしたおっさんでしょ。」という程度の理解?から一歩も出ていないくせに、「阿弥陀さんを信じて、おまかせするんです。」とか言ってるやつ、多いですね。詐欺師以下のクズですね。阿弥陀さんのこと知らないのに、「歎異抄」読んで、「親鸞聖人は弟子一人ももたずと仰ったんです。」とか言って気触れてる人、多いですね。他の表現が見つからないので言いますが、アホですね。親鸞聖人がどんな表現をされたのか、なんてことは、どうでもいいんです。我々の関心事は、親鸞聖人が何を表現されたかったのか、ということなのです。親鸞聖人が、「何をどのように信じたのか?」それを明らかにするの...【阿弥陀如来を考えるその3】サルブツ通信再録
阿弥陀さまには、謎が多い。まあ、それは確かです。私にとっての一番の謎は、生きてる人間を幸せにしてくださるための阿弥陀さんが、何故、一般的には、冥府の主というか、死後の世界担当の仏様になってしまったのか?と、いうことです。もしかすると、パクリ元の阿弥陀如来は、冥府の主だったりするのだろうか?だとか、もしかすると、阿弥陀さんに死後を担当していただくことによって、お釈迦様亡き後の輪廻問題に終止符を打ったのではないか?なんてことを考えたりもしております。それはさておき、前回、「阿弥陀如来とは、この世界のすべての事象の存在の原因である」と、言いましたが、これ、表現を変えると、「阿弥陀如来は造物主である」と、言えなくもありません。なので、私がこれを口にすると、「それじゃあ、君は、阿弥陀如来とキリストの神が同じだと言うのかね...【阿弥陀如来を考えるその2】サルブツ通信再録
阿弥陀様について考えてみたいと思います。これ、実は、考えると怒られます。私は、偉い先生方に、「結局、阿弥陀さんって、何なんですか?」と、質問しまくって、随分と切れられました。「言葉で説明できるようなことではないんだ!」いや、説明してよ。「頭で考えてわかるようなことではないんだ!」頭以外で考えられる?ブルース・リーかよ。「親鸞聖人だって、不可称、不可説、不可思議だと仰ってるんだから、君ごときにわかるわけがないだろ!」わからないから聞いてるの。わかりたくないの?東本願寺を代表するような先生方に詰め寄っては、盛大に叱られました。懐かしく、微笑ましい思い出です。別に、ほろ苦くはないですよ。親鸞聖人だけを見ていると、わからないものなんですね。わからなくても困らないのかもしれません。だが、私は困った。阿弥陀如来さまは、私の...【阿弥陀如来を考えるその1】サルブツ通信再録
お釈迦様が、「人は死んだら、もう、生まれ変わることはない」と、覚られたのは、この世界のすべての事象を存在させる「縁起」というシステムを発見されたからです。「すべての事象は、その外部に原因を持つ」ということになるわけですが、外部の原因(概ね複数)それぞれにも、また、原因が存在します。外部の原因の原因にも、当然、原因が存在します。原因のない原因は存在しえないので、この連鎖は、どこまでも続きます。すなわち、無限に連鎖します。この、「無限に連鎖する」ということが、大きなポイントです。連鎖する「無限」の全貌は、人間には、決して知りえることができません。どこまで頑張ったとしても、必ず人間の認識領域を凌駕するのが「無限」です。つまり、事象を存在させるところの原因は、厳密には「不可知」なのです。「すべての事象は、不可知である原...【縁起は無限に連鎖する】サルブツ通信再録
お釈迦様は、「人は死んでも生まれ変わらない」ということを発見した。というのが、前回のお話だったと思いますが、それでは、なぜ、人は生まれ変われないという答えを導き出されたのでしょうか?それを考えてみたいと思います。お釈迦様は、「縁起」という方程式によって、「我(常住不変)」は存在しえないこと(無我)、したがって、「生まれ変わる」という行為は主体不在によって成立しないという答えを導き出しました。「縁起」とは、この世に存在するあらゆるものの存在を可能にする原理です。この世界のすべてを存在させるシステムだと言ってもいいかもしれません。お釈迦様は、このシステムを発見することによって、人は生まれ変わらないという回答を出し、覚るをことができました。そういう意味では、お釈迦様の発見は、むしろ、この「縁起」という方程式の方である...【人が生まれ変われない理由】メルマガ「サルブツ通信」再録
いつも、ことあるごとに、誰かれ構わず聞きたくなるのですが、「阿弥陀さん、ありがたいですか?」いやいや、坊さんがしていい質問ではない、といことは十分に承知しておりますが、でも、気になりませんか?正直に白状するとですね、私、坊さんになってから20年以上、「阿弥陀様がありがたい」とは、思えていなかったんですよ。もちろん、その間でも、機会があれば、「阿弥陀さま、ありがたいですね。感謝しましょうね。」だとか言ってはいましたが、そもそも、そんな気持ちが無いものですから、かなり虚しく感じていました。その問題に関して、簡単に、自分史を振り返ってみます。まず、学生の頃は、阿弥陀さんと浄土真宗というものが、頭の中で結びついてすらいなかったので、そんな悩みを持つことは、微塵もありませんでした。当然、浄土真宗は勉強し始めていましたから...阿弥陀さん、ありがたいですか?
なんだか、つまらない話ばかりで、少しも楽しい話ができていませんね。非常に反省しております。でもね、楽しくない話ばっかり耳に入って来るんですよ。というのは、大袈裟ですね。非常に楽しいできごとも、毎日、たくさんあります。どうも、私、楽しくない話の方に引っ張られる傾向があるようです。阿修羅化!そして、畜生化・・・・・。楽しいことは、プワー!っと忘れて、地獄で唸る、私。ささやかな幸せが、次から次へと積もり続けてくれているのに、どうでもいいことに心を動かされ、阿修羅化する、私。実に、愚かです。で、一つ、答えが出ました。ファイナルアンサー・・・・・・?か、どうかはわかりません。私ね、詐欺と洗脳が嫌いです。宗教界に蔓延る、「詐欺」と「洗脳」が、嫌いです。女性に騙されるのは、嫌いではありません。むしろ、「わかっていても、騙され...天は儚い。阿修羅化して畜生化する、餓鬼な私の地獄絵図。
昨日からの続きになるのかもしれません。いずれにせよ、ただの思い付きですから、垂れ流しをお詫びします。修行をしない坊さんである、私たちの役割は、「人に仏教をお伝えすること」私の場合は、親鸞聖人にご恩がありますから、「親鸞聖人を通じていただいた、お釈迦様の教えを、皆様にお伝えすること」それだけですね。それ以上でも、それ以下でもない、まさに、それだけ、です。「お伝えする」ということが、非常に難しいことなので、「伝わるか」「伝わらないか」という問題は、ここでは無視して、仮に「伝えられる」とすれば、ということで話を勧めます。個別のミッションとしては、「教えを伝えることができた」ら、そこで終了ですよね。ミッション完遂です。極めてシンプルです。仏教を伝えるということは、伝えられた人は、幾分かでも、何かの呪縛から逃れられる可能...代償を期待することによって、仏教が逃げて逝くんだね。
仏教は人間を開放するという意味で珍しい宗教だと思うが・・・。
宗門であるとか、宗派であるとか、坊さん同士の「おつきあい」であるとか、そういうことを考えるのを一切やめようと思い立ち、そこそこ時間が経過しました。相変わらず、「で、自分はどうしたいの?」ということは見えてきませんが、さして考えてもいないので、仕方ありません。案外、「このまま消えてしまいたい」というのが、本音なのかもしれません。しかし、まあ、しがらみを離れてみて、良く見えるようになったことも、たくさんあります。例えば、「教学」というものが、いかに教団というものに都合良く組み立てられているのか、ということは、理解していたつもりでいましたが、様々に遠慮したというか、忖度したところで考えていたんだなあ、と、つくづく思ったりしています。逆に、今、困っているのが、「良い坊さん」というのが、どんな坊さんなのかがわからなくなっ...仏教は人間を開放するという意味で珍しい宗教だと思うが・・・。
本日は「サルブツ通信」番外編としてお届けいたします。親鸞聖人の主著とされる『教行信証』の「後序」ですね。『教行信証」の一番最後の部分について、一言、思う所を述べさせていただきます。だって、「触らない方が良いよ」と言ってるのに、触る人がいるからね。詳しいことは、サルブツ本編で、いずれ取上げますので、ここでは、中身には触れません。あしからず。私たちは、「『教行信証』は、まず、後序から学ぶ」と言われて育ちました。それは、たぶん、「後序」と呼ばれている部分に、『教行信証』撰述の理由が述べられているからだと思います。親鸞聖人というのは、自分についてほとんど何も語っておられません。その親鸞聖人が、ご自分の生涯において忘れ得ぬ出来事として、①法然上人への入門②法然上人の著書『選択本願念仏集』の書写を許されたこと③流罪にあった...親鸞聖人は、流罪を恨んでなどいないと思う。
神仏を拝むのに理由はいらない。でも、理由を説明したくなるよね。
○○だから、神仏を拝む。この「○○」には、何が入ると思いますか?別に文字数の制限はありません。私は、ですね・・・・、そうですねえ・・・。「だから」というよりは「なんとなく」?自分で言いだしておいて、申し訳ないんですけれども、これ、「○○だから」という理由、必要ですか?理由が、あるのは、良い。理由があっても、かまいません。何も問題は無いと思います。でもね、無くても、かまいませんよね?拝むにしたって、「なんとなく」「いつもやってるから」「ばあちゃんが拝んでたから」「拝みたいから」で、問題ありませんよね?まあ、私の場合、上の理由に、「職業上の義務だから」という場合が追加されますが、つまるところ、特に理由らしい理由はないのではないかと、思い始めてきました。しかし、たぶん、坊さんだとか、宗教家と名の付く方は、皆そうだと思...神仏を拝むのに理由はいらない。でも、理由を説明したくなるよね。
要するに、恥ずべし痛むべし。僧侶は悲泣せよ。ってことだと思う。
日本政府が、香港に対する中国政府の動きに反対する声明への参加を拒否してしまったと聞き、たいへん、凹んでいます。https://news.yahoo.co.jp/pickup/6361814いつも思います。個人(企業)の利得は、大勢の命よりも優先されるのか?と。香港のことは、対岸の火事ではありません。僧侶は政治に口を出してはいけないというのが、信条なので、台湾の民主化運動からも離れ、長いこと黙っていましたが、これは、政治の問題ではありません。人の命の、人権の、自由の問題です。台湾を応援すれば「右」、中国を応援すれば「左」、各論は問わない。もう、ただただ、うんざりしています。もう長いこと「極右」指定されて暮らしてきましたが、私の政治思想は、「中道左派」です。それは、どうでもいいことですね。政治家だけではなく、「中国...要するに、恥ずべし痛むべし。僧侶は悲泣せよ。ってことだと思う。
坊さんは、坊さんであることを、一度、忘れてみた方が良い、と思う。
坊さんに、坊さんであることを忘れろというのも、おかしな話だと思います。本質論をすれば、「坊さん」であることなど、忘れられっぱなし、だとも言えますし。常に忘れていたり、忘れる以前に、覚えたことすらない方には、どんな風に表現しても、まず伝わらないとも思います。「坊さん」が社会的存在であるとするならば、「坊さん」であることを忘れて、「坊さん」でない視点から考えてみないと、「坊さん」について考えることはできないじゃないですか?そこに立てなければ、今以上に、社会から孤立する、というか、社会から取り残されてしまうのではありませんか?徳川幕府の遺産で、これまで食い繋げてしまったことって、驚くべき幸運であって、当たり前のことではありませんよね?葬儀にしろ、法事にしろ、日本人という優しい人たちが、恐ろしく他人の目を気にするという...坊さんは、坊さんであることを、一度、忘れてみた方が良い、と思う。
なぜだかわかりませんが、私が育った環境では、浄土真宗は、ペット供養をしてはいけない、という空気が支配していました。「へえ、そういうものなんだ」と、長い間、深く考えたこともありませんでしたが、ある時、所属していた大学の教授会で、ある教授が、私のことを、「彼はペット供養をしているので、大事な仕事は任せられない」というような発言をし、問題になったことがあります。まったく身に覚えがなかったので、後に、その教授からは謝罪されました。その頃はすでに、何も期待してはいなかったので、「はいはい」と、笑って済ませましたが、「俺、頼まれれば、やる!」と、力強く思いました。「坊さんは、頼まれたことは、ひとまず引き受けろ。引き受けてから、どう実行するかを考えろ。」というのが、その当時からの私の信条で、今もそう教えているわけですよ。「真...なぜ、ペットを成仏させてはいけないのだろうか?
基本的な考え方として、私は、人は死んだら成仏すると考えています。だから、「生きる」ということは、それだけで、「成仏」に向かって頑張っているということだと理解しています。その前提で「六道(天・人・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生)」ということを考えてみると、「六道」というのは、この世を生きている人間の有様であると思うようになりました。長くなるので、ここでは説明しませんが、つまりは、煩悩に狂わされて、苦しみ、迷う、人間の姿、そのものだと思っています。各宗派、色々とお考えがあると思いますので、私は、こう考える立場だというご理解のお読みください。今日は、その「六道」の中で「畜生」ということを、少しだけ考えてみたいと思います。「畜生」というのは、一般的には人間以外の「動物」のことですかね?「動物」と「人間」の違いは、「人間には言...6月4日に考える「畜生」である生き様
卑屈になるのは、動機が無いからなのではないかと、思い始めました。
お坊様方とお付き合いさせていただいていると、あまりの常識の差異に、あんぐりとさせていただくことも多く、いささか、猜疑心が強くなってきております。恐る恐る物を言っているわけですね、私。例えば、「あまりの常識のなさ」とは言わずに、「常識の差異」とか言わなきゃいけないわけですよ。気を悪くされるのは、本意ではありませんから。なので、はじめに、お断り申し上げますが、「私、自分が伽藍を持たない僧侶であることを、今、心から良かったと思っております。」羨ましくないですからね。正直、伽藍(寺という箱)を背負われている皆さんは、本当にたいへんなご苦労を背負われているんだな、と、同情を禁じ得ません。寺院経営の表も裏も、たくさん見てきました。ずっと、「ビジネスマンとして呆れて見てる」ということは内緒で、ゾッとしながら眺めてきました。「...卑屈になるのは、動機が無いからなのではないかと、思い始めました。
昔、論文を教授に見せたら、「親鸞聖人はまずい、親鸞で良い。」と、注意されたことがあります。「貴様、それでも坊主か!親を呼び捨てしろとは、何事か!」と、黙って一人憤慨し、「宗祖」は通ったので、以降、「宗祖」と呼ばせていただくことにしました。法話を聞いていると、やはり、平気な顔をして、「親鸞の教えは!」だとか、「だから、親鸞は・・・・・」だとか、呼び捨てにしてるのを、けっこう見かけます。そういう人の話は、聞かないことにしているので、見かけるだけにしているますが、「あの説教師さん、どう?」などと、聞かれた時には、「親を呼び捨てにできるような人間の話を聞かせて、何か良いことあるの?」と、答えたりもしています。私、嫌な奴ですね。つい最近も、「親鸞さん」と書いていた「さるぶつ」読者に、「あんたは、親を呼び捨てにするのか?」...わかってます。親鸞聖人は人間ですよ。
浄土真宗には「信心決定」という言葉が大好きな人がたくさんいるようです。まあ、蓮如上人がしつこく仰るもんだから、かもしれません。浄土真宗は「信心為本」(ある意味正解)だとか、解説してあるしね。「信心を定めなきゃダメだ!」「あんたは、まだ信心が定まってない!」だとか、未だに耳にすることがあります。定まりますか?ずっと、フラフラしてますよ、私。もう、どうしようもないです。始終、グラッグラにグラつき通しですよ。「(自分の)信心が定まった。」なんて力強く思ってたら、それは、勘違いか、慢心。「俺、洗脳されてるんじゃね?」と、考え直した方がいいです。秘密結社か!というお話です。あ、私、作りたいです結社。「念仏結社さるぶつ団」それはそうとして・・・・・・。「(人間の)信心が定まること」が「成仏」の条件ということになると、阿弥陀...信心大好き?ああ、そうですか。
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