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  • 人間はポリス的動物である

    人間はポリス的動物であるというのはアリストテレスの言葉です。ポリスとの関係なしに、言い方を変えれば、ポリスから自立して市民が生きることは、全く考えられないことでした。ポリス市民として仲間の市民と一体感を、強烈な仲間意識を持って一生をおくったのです。人間はポリス的動物である

  • アテネではプロの政治家はを廃止した

    ペリクレス時代には役人はくじ引き(抽選)で選ばれ、任期は1年間でした。彼らは、そのようにして役人になり政治を動かしたので、アテネの役人はアマチュアといえます。現在に日本のようにプロの役人はいなかったのです。そのため市民はなるべく教養を身につけることが求められ、弁論術の先生について勉強をしました。その先生をソフィストといいます。たしかにプロの役人や政治家がいると、彼らに決定権が集中してしまい、役人とそうでない人との権力格差を生む可能性が高い。アテネの人々は、プロの役人(公務員)をおくことで発生する問題こそを重視したわけです。市民の平等を守ることが「市民の一体感」を生むと考えたわけです。しかし、問題もありました。政治家が毎年コロコロ変わり、そのたびに政治の方向性や裁判の方向性が変わってしまう。そこで任期に制限...アテネではプロの政治家はを廃止した

  • 古代ギリシアのデモクラシーと現在の官僚制

    古代ギリシア世界は、オリエントで誕生した官僚制を受け入れませんでした。彼らはまったく別の方法で統治を行ったのです。それは統治する権限をみんなで分担する、という方法です。彼らはこれをデモクラシー(ここでは古代ギリシアの民主制を現在の民主主義と区別するために、デモクラシーとします)と呼んでいました。官僚制とは、一部の官僚たちが物事を決定して実行していく制度ともいえます。たとえば税を集める場合、どれだけ集めるのか?何に使うのか?道路建設か?ダム工事か?社会福祉に使うのか?といったことを官僚たちが決定するということです。デモクラシーは違います。その決定をみんなで相談して決めましょう、というものです。一握りの人間に委ねない。みんなで、というのが特徴です。官僚制とデモクラシーとはまったく別の政治のやり方といえます。古...古代ギリシアのデモクラシーと現在の官僚制

  • 五賢帝時代

    98年から180年までに古代ローマ帝国は全盛期を迎えた。この時代を5賢帝時代という。五賢帝時代のチェック・ポイント①5人の皇帝を順にあげると?②トラヤヌス帝の業績はローマの最大版図を現出したこと。そのときにローマが獲得した属州は?現在、その属州はどこに当たるか?③ハドリアヌス帝の業績である「ハドリアヌスの長城」はどこにあるか?④ピウス帝のときは、著名な歴史学者が2人活躍した。それは?⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝を中国では何と表記したか?また、彼が派遣した使者がたどり着いた地はどこか?そこは現在のどこにあたるか?その当時の中国の王朝名は?五賢帝時代

  • ラテン文芸の時代

    アウグストゥスの側近ヴェルギリウスはローマ建国伝説『アエネイス』や『農耕詩』を著した。他にオヴィディウスの『転身論』『愛の詩』など。ちなみにアウグストゥスの側近には『ローマ建国史』を書いたリヴィウスがいる。アウグストゥスがいかにローマの権威を重視し、共和制時代のローマを尊重したかがわかる。ローマの歴史書には他にポリビオスの『ローマ史』があるが、彼は前2Cにローマに敗れたギリシア人で「政体循環史観」を展開されている。またアウグストゥスの時代に小アジア出身のストラボンが『地理誌』を書いている。禁欲主義で知られるストア哲学は、ローマ皇帝ネロの師セネカが『幸福論』。ギリシア人奴隷出身のエピクテトスや5賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自反録』などが有名。人間がそれぞれ理性を持ち、自然の法則を洞察...ラテン文芸の時代

  • 属州支配

    ローマが最初に【イタリア半島外】の領土を得たのは、第1回【】ポエニ戦争の勝利によってでした。【シチリア島】が最初の【属州】です。半島の外の征服地にはローマから【総督】を派遣し、属州民には【徴税の義務】を負わせました。総督は【元老院】から示された納税額を属州から集めますが、属州民からはその額以上を要求するわけです。その差額が総督の懐に入る仕組みです。総督の指示に従って税を集めるのが【徴税請負人】です。じつは彼らも総督に命じられた額以上を集め、その差額を懐に入れる。そのような不正が盛んに行われていました。その結果、徴税請負人は裕福になり、新貴族(【ノビレス】と呼ばれた)として【平民会】をリードする存在になっていきました。属州支配

  • 軍人皇帝時代のローマ帝国のさまざまな変化

    広義では最初の軍人皇帝を【193】年に即位した【セヴェルス】帝とするが、狭義では【235~284】年までの【】50年間(マクシミリアン帝からディオクレティアヌス帝まで)を指す。この間26人の皇帝が地方の属州軍隊によって廃立され、24人が謀殺された。しかし、この時代から考えられることは多い。まず、「地方の時代」すなわち属州がローマ経済の中心となっていたといえる点。ローマのある半島が経済の中心的存在ではなくなり属州の経済力がこれを凌駕している状態、すなわち、経済の空洞化現象である。次に何人もの皇帝が乱立したため皇帝の権威が著しく低下した点。皇帝は「第1の市民」などと呑気なことをいってられなくなった。また、ローマの政治的混乱は軍事的弱体化を引き起こし、さらに外敵の侵略に備えるために軍事力が一層拡散したことも、こ...軍人皇帝時代のローマ帝国のさまざまな変化

  • 五賢帝時代に見られた帝国の空洞化

    【五賢帝】時代に登場した【トラヤヌス】帝と【ハドリアヌス】帝は、属州【ヒスパニア】(現スペイン)出身の皇帝でした。このことは属州の地位が向上していたことを意味するでしょう。当時のローマ経済の中心は「【ラティフンディウム】」という大量の奴隷たちが大規模な農場を働くというものです。ラティフンディウムは属州で展開されていたので、見方を変えると、ローマ経済の中心が【属州】にあったともいえます。また、帝国が拡大すると防衛のために有能な将軍が辺境の属州に配属される必要があります。このことはローマの軍事力が属州に移ったことを意味します。ローマの経済と軍事の中心が属州に移り、ローマ市のあるイタリア半島がその役割を低下させていった、このような現象を「帝国の空洞化」と呼ぶことができます。帝国の空洞化は、【193】年から始まる...五賢帝時代に見られた帝国の空洞化

  • 軍人皇帝時代 皇帝とローマの神々への不信

    軍人皇帝時代はローマ帝国の転換期になりました。豊かな貴族も貧しい人々も、内戦の恐怖に怯えて日々の生活を送っていました。ローマ帝国が拡大すると、属州の総督や将軍たちが強大な軍事力を持って互いに争うようになりました。ローマにいる皇帝も彼らに言うことを聞かせることはできません。彼らは互いに争い、日本の戦国時代の大名たちが京都を目指したように、将軍たちもローマを目指し、皇帝を殺して、自らが皇帝に即位する者が出現するようになりました。彼らを「軍人皇帝」と呼びます。軍人皇帝たちは50年間に26人が登場しましたが、そのうちクーデタや暗殺で殺されたのは25人に上ります。皇帝の名声や権威は地に落ちたわけです。このため、この乱世を終わらせたディオクレティアヌスは、皇帝を神として崇めることを人々に強要しました。軍人皇帝が登場し...軍人皇帝時代皇帝とローマの神々への不信

  • 4分統治

    【ディオクレティアヌス】は【284】年に即位しましたが、やっと統一したローマを4つに分けて、自らと3人の優秀な将軍と、4人で分けて支配することにしました。これを「【4分統治】」体制といいます。4人は東の正帝・東の副帝と、西の正帝・西の副帝として君臨しました。ディオクレティアヌスは【東の正帝】です。しかし、ディオクレティアヌスが亡くなると、残った3人の皇帝たちが争い、再び内戦に陥りました。この内戦を終わらせて、もう一度ローマに統一をもたらしたのが西の副帝だった【コンスタンティヌス】でした。4分統治

  • 古代ローマ史特有の単語

    古代ローマ史特有の単語を答えなさい。1.貴族のこと。職業は農業経営。ローマ軍団を指揮。2.平民階級のこと。職業は中小自作農。ファランクスを構成。3.徴税請負人のこと。属州の商業権や徴税権で富裕化した平民。4.新貴族のこと。富裕化した平民と貴族たちを指す。5.閥族派のこと。元老院貴族の多数派。スラが領袖。6.平民派のこと。ノビレスやエクイテスの発言力を背景とした。マリウスが領袖。7.執政官のこと。任期1年で2名。リキニウス法で1名は平民から。8.独裁官のこと。任期半年で1名。非常時のみコンスルから任命。9.「ローマ第1の市民」の意味。オクタヴィアヌスが自称した。10.元首制の意味。前27年から始まった実質的な帝政。11.尊厳者の意味。前27年に元老院がオクタヴィアヌスに送った尊称。12.オリエント的専制君主...古代ローマ史特有の単語

  • ローマ帝国の450年間

    前133年からの『混乱の1世紀』を終わらせたのは前31年のアクティウムの海戦であった。この海戦でオクタヴィアヌスはアントニウスに勝利し、元老院と表面上は共存する道を選んだ。だが、全ての権力はアウグストゥスに集中し、以後、事実上の帝政が始まった。これをプリンキパトゥス(元首制)と呼ぶ。彼に続く約200年間にローマは領域を最大に(最大版図)拡げた。このローマ帝国の豊かさを支えた経済力の基盤が奴隷制に立脚したラティフンディウムであったラティフンディウムは征服地を有力者が貸与されて経営するものであるから、当然、その多くは属州で経営されるものであった。したがって、ローマが「パクス・ロマーナ」と呼ばれるような安定期に入ると、しだいにラティフンディウムが多く存在する属州に、ローマ帝国の経済活動の中心が移るようになった。...ローマ帝国の450年間

  • 元首制の下における元老院

    【アウグストゥス】はイタリアと一部属州の統治や国庫の管理を元老院から皇帝の手に移っていった。元老院議員の就任にも皇帝の意思が貫徹した。しかし元老院議員はしだいに世襲となり、帝国の高級官僚はほとんど元老院議員の占めるべきものとされ、皇帝と結び付いて帝国統治の要となった。元老院と皇帝との関係では、皇帝は元老院議決を自己の思うままに決定させて、元老院の独立性はほとんどなかった。しかし、その一方で、皇帝の死去あるいは殺害に際しての後継皇帝の決定は元老院の手に握られていた。皇帝は、【属州総督の任命権】・【軍団指揮官の任命権】を担当した。それらは元老院議員から任命され、その他の公職は、軍務を果たしたのちに昇進した騎士身分の者が任命された。そのため彼らが皇帝を補佐して帝国を統治するようになり、その役割がしだいに大きくな...元首制の下における元老院

  • 古代ローマ史 ラティフンディウム

    ローマはイタリア半島統一戦争を【マグナ=グレキア】を征服して達成していく間、半島内に広大な【征服地】を獲得しました。この征服地の分配は【元老院】で決定しましたから、多くの征服地は【パトリキ】(貴族)達の手に渡りました。また、征服活動ではもうひとつローマが得たものがあります。それは【奴隷】です。戦争に勝って【捕虜】を捕らえると、彼らを奴隷商人に売り渡すわけです。そして、パトリキたちはこの大量に獲得した奴隷を使って広大な農地を耕させる。そんな農業経営が始まりました。この「【奴隷制大土地農業経営】」を【ラティフンディウム】です。【前2世紀】ころから広まりました。ラティフンディウムでは、穀物のほかに【ブドウ】や【オリーブ】が生産されました。特徴的なのはこれらの農作物は「商品作物」として売られるものであると点です。...古代ローマ史ラティフンディウム

  • ローマの共和制

    古代地中海世界を統一した大帝国が,紀元前1世紀後半すなわち【前27年】,皇帝【アウグストゥス】のもとに誕生しました。その中心となったローマは,イタリア中部にラテン系の人々が建てた都市国家で,伝承によれば,その建設は【前8世紀】の中頃、【ロムスル】と【レムス】という双子の兄弟によるものとされています。当初ローマは,【】イタリア北部に勢力を張っていた先住民である【エトルリア】人の強い影響を受け,7代にわたってエトルリア人の王に支配されていたものと考えられています。ローマの歴史が明らかになってくるのは,前6世紀末(【前509】年)と伝えられる共和政の開始後のことです。共和政となったローマでは,【パトリキ】と呼ばれる貴族と【プレブス】と呼ばれる平民の身分差がおおきく,当初は,王の代わりに設置された役職の【コンスル...ローマの共和制

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