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天香山命と久比岐のあれやこれや https://koshi-areyakoreya.hatenablog.com/

素人がネットを検索しまくり天香山命と久比岐について探ってみる。

以前やっていたブログ「天香山命あれやこれや」をバージョンアップしました。

比佐家
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2020/03/15

  • 倭姫命世記 豊鍬入姫巡歴

    動画で言及したけど、ブログではまだ未使用だったネタ。倭姫命世記の豊鍬入姫巡歴は、古代における奈良盆地の覇者を列記している。 天照を《唐古鍵の象徴》と定めるに至る決定打がこの《豊鍬入姫巡歴》。第一の元伊勢に笠縫邑を2つ記す理由を考えた結果だ。 解説が複雑になりすぎるから、動画では言わなかったことが1つ。 清寧(白髪武広国押稚日本根子)の母系先祖は海神族の尾張氏。海神族は纏向。だから第六の元伊勢が倭国三輪になっている可能性もある。

  • youtube動画の告知

    新作です。 #0009欠史八代 ③ 国譲り神話 纏向vs.唐古鍵 Happy Buddha’s Birthday!

  • 自説変更:瓊瓊杵が逆だった

    日本書紀神代下第九段が記す3つの国譲り神話を整理。皇祖神・天照を定義することを躊躇していたが、このたび勇気を出して決断した。その結果、本伝と一書第一の瓊瓊杵を取り違えていたことに気づいた。 国譲りの差異 高皇産霊は信越勢。筑紫日向のあたりから東征して纏向を建てた初代大王が、信越勢の珍彦を倭国造に任じる。第2代纏向大王が神渟名川耳天皇こと綏靖[2]。よって本伝は纏向視点。 本伝の大己貴は唐古鍵の有力者。唐古鍵から丹波へ移住。のちの丹後王国。 天照は唐古鍵の象徴なので、一書第二は唐古鍵視点。丹波への移住は、纏向の圧力が原因ではあるが、唐古鍵の人々が自分たちで決断した。帰化人が流れ着く日本海を重視し…

  • 自説変更:丹波大己貴は丹波勢じゃなかった

    唐古鍵から見て、冬至の日の出は三輪山の山頂から昇る。その冬至ラインの途中に纏向がある。唐古鍵から冬至の日の出を拝むと、結果、纏向を拝むかたちになる。 なので、纏向が大物主。 これまで当ブログが『丹波大己貴』と呼んできた、日本書紀神代下第九段の本伝と一書第一に記される大己貴は、纏向の有力者。158年天岩戸日食の頃に畿内入りした山陰勢が纏向をつくる。 とりあえず。今回以降、丹波大己貴の呼称を改め『3世紀の大己貴』とする。併せて杵築大己貴も改め『5世紀の大己貴』とする。

  • 筑紫日向は長州

    筑紫国から見て日の出の方角にある土地が『筑紫日向』 日向国は南九州と長州の2か所。唐古鍵系瓊瓊杵こと景行[12]は南九州に、纏向系瓊瓊杵こと誉津別は長州に降臨。 神代下第十段(海幸山幸)は、逆だった。訂正する。海幸(火闌降)が南九州、彦火火出見は長州または筑紫。 神武[1]が出立した日向は長州。椎根津彦と出会った速吸之門は関門海峡。志賀島阿曇氏が椎根津彦。 戊午年の夏四月丙申朔甲辰、長髄彦と対戦する逸話から、神武[1]の中の人が変更。ここまで神武[1]だった長州出身の皇孫は降板して五瀬になる。新しい神武[1]の中の人は、安芸か吉備出身。長髄彦は南九州出身の刺領巾。 六月乙未朔丁巳、名草戸畔を誅…

  • 建御名方の正体

    懿徳[4]は唐古鍵と纏向の統合を試みたが、事故か暗殺か、返し矢により絶命したために頓挫する。矢を返したのは高皇産霊(信越勢)である。 信越勢の働きで、統合の流れは一時停滞した。だが、信越勢にも統合を推進する一派がいたのだろう。それが古事記の建御名方だ。 古事記の建御名方の母は奴奈川姫(信越勢)であり、父は丹波大己貴だろう。懿徳[4]が試みた唐古鍵と纏向の統合が順調に進んでいれば、建御名方はその王位にもっとも近かったのではないか。 統合の流れを阻止するため、建御名方は同族により纏向から排除された。そして建御名方はルーツである信越へ行く。 だが諏訪の伝承では、建御名方が敗戦した事実はないという。同…

  • 天稚彦の試みと政教分離と和風諡号の日本

    夢のお告げにより大物主の祭祀を大田田根子に、倭大国魂の祭祀を市磯長尾市に任せたと、崇神紀は記す。 日本書紀 崇神七年 秋八月 秋八月癸卯朔己酉 倭迹速神淺茅原目妙姫 穂積臣遠祖大水口宿禰 伊勢麻績君 三人共同夢而奏言 昨夜夢之 有一貴人 誨曰 以大田々根子命為祭大物主大神之主 亦以市磯長尾市為祭倭大国魂神主 必天下太平矣 大物主(三輪山)を祀るのは唐古鍵。倭大国魂を祀るのは纏向。 第4代懿徳天皇(大日本彦耜友天皇)=天稚彦天稚彦は、日本書紀神代下第九段の本伝によれば、顕国玉の娘の下照姫を娶り、葦原中国の統治者になろうとした。 天稚彦は、唐古鍵と纏向を統合しようとしたのではないか。 これに高皇産…

  • youtube動画の告知

    改作です。 #0008日本書紀前半の構成 天岩戸日食 始馭天下之天皇/御肇国天皇 Happy GIRL's day!

  • youtube動画の告知

    新作です。 #0008欠史八代② 高皇産霊(造化三神) 天穂日(誓約の五男神) Happy CAT's day!

  • 仮説:唐古鍵vs.纏向(4世紀)

    唐古鍵遺跡は弥生前期~古墳前期。古墳時代は3世紀後~6世紀。おおまかに前期は4世紀、中期は5世紀、後期は6世紀。 国指定文化財等データベース(文化庁) 奈良県唐古・鍵遺跡出土品 謹製『初期天皇の活動年代表』によれば、4世紀後期は孝元[8]と仲哀/神功[14]、仁徳[14]の世代。 初期天皇の活動年代表 孝元[8]:大日本根子彦国牽:山陰勢日本書紀の神代上第八段(八岐大蛇)本伝が記す大己貴(素戔嗚の子)に推定。 素戔嗚=武内宿祢八岐大蛇=丹波勢(孝霊[7]、忍熊王、麛坂王、菟道稚郎子、大山守王、両面宿儺など。ただし忍熊王+麛坂王=両面宿儺の可能性が濃厚) 唐古鍵遺跡の終焉と、第八段本伝の山陰勢に…

  • 五男神を変更

    今までずーっと見落としてたけど、天津彦根の子孫が書いてあった。天津彦根は大阪湾でした。とすると、東海は活津彦根なのでしょう。 日本書紀 神代上第六段(誓約)本伝 而 吹棄気噴之狭霧 所生神 號曰正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 次天穂日命 是出雲臣土師連等祖也 次天津彦根命 是凡川内直山代直等祖也 次活津彦根命 次熊野櫲樟日命 凡五男矣 wikipedia 凡河内氏 2023/02/10転写 上代の凡河内国、すなわち後世の摂津、河内、和泉にわたる広い地域に国造氏族として勢力を持っていた。 wikipedia 山代氏 2023/02/10転写 支族は摂津国廣田神社の祝として奉仕し、子孫は鷹羽を名乗った[…

  • smalltalk - おすすめ動画

    フィンランド語はわからないが冴えてる熟女。そして何故か黒柴。 Värttinäは2016年のアルバム「Viena」もおすすめ。3曲目の「Kanaset」は突き抜けた陽気さが最高! うたごえにいのちをかんじるんだ。

  • 沖津宮―日御碕 30度ライン

    沖津島と日御碕神社は、ほとんど30度のライン。言い換えると、日御碕神社から見る冬至の太陽は沖津島に沈む。 宗像大社沖津宮祭神の田心姫は、天照の御業で素戔嗚の所有物から生まれた三女神の一柱。 日御碕神社神の宮(上の宮)の主祭神は素戔嗚、ほかに三女神。日沉宮(下の宮)の主祭神は天照、ほかに五男神。 このラインを北東へ延長すると、惜しくも南へ1、2度ずれてしまうが、須須神社と度津神社がある。言い換えると、日御碕神社から見る夏至の太陽は須須神社や度津神社のあたりから昇る。 須須神社祭神は瓊瓊杵と御穂須須美と木花咲耶姫。 出雲国風土記によれば、御穂須須美は奴奈宜波比売と天下所造大神の娘。 度津神社主祭神…

  • 山陰勢の瓊瓊杵

    日本書紀神代下第九段(国譲りと天孫降臨)の本伝が記す瓊瓊杵は、日向国に降った丹波勢である。 日本各地に侵攻していった丹波勢をひとつにまとめて、景行[12]の事績にしている。景行[12]は丹波の日葉酢媛から誕生したと記されているが、これを暗に否定する逸話がある。 応神紀13年の一云(鹿皮を被った牛)については、2022/11/22の記事で言及した。 もうひとつ、垂仁紀87年の「牟士那の腹から八尺瓊勾玉がでた」逸話も、日向国へ降った丹波勢の瓊瓊杵の出自を否定するものだろう。丹波の皇統は鹿のはずだ。正統でない貉腹の瓊と揶揄しているのだろう。 本伝の瓊瓊杵(丹波の日葉酢媛の子と記される景行[12])は…

  • smalltalk - おすすめ動画

    数年前にyoutubeで見たヨーロッパのテレビ放送のクリスマスコンサートで(違法アップロードだったかもしれない)とても気にいった曲。 かつて気に入ったコンサート動画はもう見つからず、多くのミュージシャンによる様々なアレンジを聞き比べて自分好みの演奏を見つけた。原曲はウクライナの民謡だそうなので、時世柄にも合致。

  • youtube動画の告知

    新作です。 #0007欠史八代① 第2代綏靖天皇・第3代安寧天皇・第4代懿徳天皇(2022/12/25公開) メリークリスマス。

  • 鳥は海神族、鹿は丹波勢

    古事記の神語歌前半、八千戈が奴奈川姫に求婚(脅し)する逸話で、奴奈川姫は自分を浦渚の鳥に例える。また、八千戈が鵺、雉、鶏に例えているのは奴奈川姫の集落(久比岐)の人々だろう。 奴奈川姫の久比岐は椎根津彦(珍彦)のルーツだ。よって、鳥は海神族の象徴と推定する。 そのほか。日本書紀に登場する隼人第一号は履中紀の刺領巾だ。履中[17]は5世紀前期の人物と考えられ、2世代前の4世紀中期に景行[12]が日向高屋宮にて御刀媛とのあいだに豊国別を儲けている。 天孫降臨の瓊瓊杵=景行[12]鹿葦津姫=御刀媛・日向髪長大田根山幸(彦火火出見)=豊国別(日向国造)海幸(火闌降)=日向襲津彦(阿武国造)=仲哀[14…

  • 小倉百人一首 7番 阿倍仲麻呂が詠んだ月

    小倉百人一首は歴史の教科書だ。と、聞いたことがある。何年か前にはネットでも記事を読んだ。と、思う。たぶん。 それで以前、阿倍仲麻呂の歌を考察した。だが今になって、結論が間違っていたと考えている。 小倉百人一首 7番 阿倍仲麻呂 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出(い)でし月かも 【当ブログの解釈】あまのはら →高天原(海人の原) →神々の時代(寿命が長い仁徳[16]まで)ふりさけみれば →振り裂けみれば →振り裂けるように終わってみればかすが →春日和珥氏(忍熊王討伐・両面宿儺討伐を行った和珥武振熊の子孫)なる →成る →成りあがるみかさのやまにいでしつき →三笠山(奈良盆地の北…

  • 三勢力それぞれの八岐大蛇退治

    丹波勢(孝霊[7]=大国主)の国譲りが本伝、山陰勢(孝元[8]=大国主)の国譲りが一書第二であるように、八岐大蛇退治の本伝と一書第一と一書第二も、三つの勢力の事績だろう。 八岐大蛇退治の本伝は山陰勢 素戔嗚=孝元[8]の父=武内宿祢大国主(素戔嗚の子)=孝元[8]八岐大蛇=丹波勢(孝霊[7]の一族) 脚摩乳が奇稲田姫を「少童」と呼んでいる。日本書紀は神代上の第五段(神生み)の一書第六(黄泉戸喫)にて、ワタツミを「少童」と記す。奇稲田姫が海神族である証左だろう。 神代上 第五段(神生み) 一書第六(黄泉戸喫) 有朝霧 而 薫満之哉 乃吹撥之気 化為神 號曰級長戸辺命 亦曰級長津彦命 是風神也 又…

  • 天穂日および五男神について自説変更

    非常にあやふやな記憶で、「古代の航路を表す五男神のうち天津彦根と活津彦根の交わる場所が彦根説」を教えてくれた彦根市のタクシー運転手に、北陸出身であると話したら、天穂日だと言われたような言われなかったような気がしていた。それで、この不正確な記憶を頼りに、五男神があらわす航路を推定したけれど、間違ってた。 孝元[8]は山陰勢。武力行使により丹波勢(孝霊[7])を追い落として、ヤマトの大王になる。この出来事が、八岐大蛇退治の神話になる。八岐大蛇退治の素戔嗚=武内宿祢。 開化[9]は物部氏。山陰勢との話し合いにより物部大前(開化[9])がヤマトの大王になる。この出来事が、国譲り神話の一書第二になる。 …

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    新作です。今回は新鮮なネタを調理しました。 #0005初期天皇の活動年代 第11代垂仁天皇~第25代武烈天皇(2022/10/19公開)

  • 初期天皇年代表を微調整

    複数勢力の寄せ集めである神武[1]を除外。備考欄に中臣烏賊津を追加。 初期天皇の年代表 中臣烏賊津は仲哀[14]紀、神功紀、允恭[19]紀に登場する。武内宿祢同様に、この年代表ならば活動年代を約70年間に絞り込める。

  • 八岐大蛇について自説変更

    先だって一応の完成をみた初期天皇の活動年代表をもとに、自説を変更する。今後はこの年代表が新たな自説の核になる、と思う。 新たな自説の核 八岐大蛇伝承のもとになった出来事は、孝元[8]の近畿進出。孝元[8]=武内宿祢=杵築大己貴。山陰勢。四世紀中期か後期、神功(筑紫)の支援により山陰勢が中部日本海側を攻撃、勝利して大王位につく。 八岐大蛇は、頭の一つ一つが高志と丹波の豪族。股が八つあれば頭は九つ。八人の豪族が討伐され、一人が生き残る。頭の内訳については思案中。 生き残った頭の候補には、継体[26]の先祖や、仁徳即位前には屯田で揉めながら仁徳晩年まで生存した額田大中彦が考えられる。 討伐された頭の…

  • 初期天皇の時代考証(改訂版)

    初期天皇の時代考証を、垂仁紀の逸話「狭穂彦討伐」を手掛かりに修正。 この表の利点は、和珥武振熊の活動年代を4世紀中期に絞れること。武内宿禰も4世紀中期と後期の約70年間に絞れること。 初期天皇の時代考証 改訂版 応神(誉田)の幼少期=誉津別=孝安[6]弘文[39](大友皇子)同様、実は即位してない可能性が高い。よって孝昭[5]と同じ時代区分にまとめる。 懿徳[4]=天稚彦。丹波大己貴に阿った懿徳[4]を信越勢が排除、孝昭[5]が大王位につく。このときが国譲りの本伝。3世紀後期~4世紀前期のこと。 垂仁[11]=孝昭[5]越中の阿彦伝承においては支那夜叉(狭穂姫)の夫、邵天義。よって信越勢(高皇…

  • youtube動画の告知

    新作です。 #0005翡翠産地の海神族 後編(2022/09/16公開) 半月に1本くらいのペースでupできたらいいのだけど。むずかしいですねぇ。

  • 欠史八代こそがヤマト王権の大王

    物部大前が長髄彦義兄の饒速日であり、開化[9]と仮定して、100年3世代で年代表に継体[26]以前の天皇を当てはめる。ただし、実在しない崇神[10]と、判断材料に乏しい成務[13]を除く。 初期天皇の時代考証 天岩戸日食がある2世紀中期にちょうど神武[1]が重なる。神代紀第七段『逐降と天岩戸』が神武紀九月甲子朔戊辰『八十梟帥討伐』に相当。 欠史八代がヤマト王権の大王か。あるいは欠史八代の皇太后がヤマト王権の女王か。5世紀中後期は混迷していたため大王ないし女王は空位。 垂仁[11]~武烈[25]は、ヤマト王権の大王ではない。垂仁[11]や応神[15]など継体[26]の祖先だからピックアップされた…

  • 物部大前が長髄彦義兄の饒速日

    神武四兄弟=允恭四兄弟。神武東征は、逸話ごとに登場人物の「中の人」が変わる。 一連の事件における物部氏の動向を推測。(1) 物部大前は履中[19]に味方して、海神族の筑紫勢と対立する。(2) 住吉仲皇子を排除したのち日向勢に攻め込まれ、伊勢を奪われる。(3) 安康[20]と対立する木梨軽皇子が物部大前を頼る。しかし庇いきれず、木梨軽皇子は失脚する。日本書紀本伝では自死、古事記と日本書紀一云では伊予に流刑。 (3)の事件が、長髄彦との再戦。饒速日=物部大前長髄彦=木梨軽皇子神武[1]=安康[20] 遠州灘沿岸の国造は物部氏が多い。紀伊半島の熊野国造も物部氏。熊野と遠州灘の間に位置する伊勢の伊勢津…

  • 四兄弟の絡繰り

    瓊瓊杵=景行[12]彦火火出見(山幸)=豊国別吉野行幸までの神武四兄弟=允恭四兄弟 日本書紀と古事記の狙いは、日向灘と豊後水道をルーツとする勢力がヤマト建国に深く関わったように偽ること。 記紀神話は四兄弟を同母兄弟としているが、これは虚偽。父親も違う可能性が高い。 四兄弟はそれぞれ、出発地と寄港地の四か所をルーツとする勢力。日向 :神武[1]=允恭[19]筑紫 :五瀬=住吉仲皇子安芸 :稲飯か三毛入野どちらか=反正[18]吉備 :稲飯か三毛入野どちらか=履中[17] ふたつの逸話から推測できる事件(1) 海神族が筑紫勢の有力者をヤマト王権へ送り込む。(2) ヤマト王権の有力者(物部、吉備など)…

  • 初期天皇の活動年代予測および四国西部

    垂仁[11]~継体[26]が活動した時代の予測を修正。ただし景行[12]と成務[13]を除く。 (158 天岩戸日食)(238 難升米訪魏)4前: 11.垂仁4中: 15.応神4後: 16.仁徳 14.仲哀/神功 ←中部日本海側が潰される【和珥武振熊】(382 百済記に沙至比跪)5前: 17.履中 18.反正 19.允恭(414 広開土王碑)5中: 20.安康 21.雄略5後: 22.清寧 23.顕宗 24.仁賢 25.武烈6前: 26.継体 安倍仲麿の歌から推測して、和珥氏のルーツが月読かもしれない。 とはいえ、その地域は未だわからず。当方の持論的には、四国の西側であってくれたら都合がよい。…

  • 雄略紀に狭穂彦

    雄略は第21代天皇。雄略13年春3月に「狭穂彦の玄孫・歯田根」が登場。 日本書紀 雄略紀 十三年春三月 狭穂彦玄孫歯田根命 窃姧采女山辺小嶋子 天皇聞 以歯田根命 収付於物部目大連 而 使責譲 歯田根命 以馬八匹 大刀八口 狭穂彦は垂仁[11]1人目の皇后・狭穂姫の兄。 【玄孫の歯田根】 雄略[21] 安康[20]【曾孫】 允恭[19] 反正[20] 履中[19]【孫】 仁徳[18]【子の誉津別】 応神[17]【垂仁】仲哀、神功 やはり垂仁は仲哀・神功と同世代。上宮記逸文の系図は「凡牟都和希王」に「誉田天皇也」と記す。やはり応神[15]は誉津別であろう。

  • youtube動画の告知

    昨年の晩秋頃より、ちまちまと動画を制作しております。本日は4本目の公開です。 いわゆる【ゆっくり動画】です。 #0004翡翠産地の海神族 後編(2022/08/21公開) #0003翡翠産地の海神族 前編(2022/08/21公開) #0002神とは?(2022/03/19公開) #0001奴奈川姫にみる古事記史観の歪み(2022/11/14公開)

  • 安倍仲麿の歌について仮説

    天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 753年に安倍仲麿が詠んだ歌。仲麿(仲麻呂)は阿倍比羅夫の孫。比羅夫は越国守や大宰帥を務めた。安倍氏は大彦の子孫と伝わる(異説あり)。 あまのはら →高天原(海人の原) →神々の時代(寿命が長い仁徳[16]まで) ふりさけみれば →振り裂けみれば →振り裂けるように終わってみれば かすが →春日和珥氏(忍熊王討伐・両面宿儺討伐を行った和珥武振熊の子孫) なる →成る →成りあがる みかさのやまにいでしつき →三笠山(奈良盆地の北東。のち768年に春日大社が西麓に造営)に出る月 奈良盆地の南東にある三輪山は神々の時代から続く太陽信仰。祭…

  • 天日別と天兒屋について仮説

    藤原不比等が春日大社を創祀。春日大社の祭神は武甕槌・経津主・天兒屋・比売神。比売は天兒屋の妃神と伝わる。 春日和珥氏と皇統の関わり 中臣佐久が改名して米餅搗大使主になったと、阿波国続風土記に記されている。 wikipedia 米餅搗大使主 脚注 出典の3 「仁徳紀十三年秋九月始立茨田屯倉因定 此ヨリ以前ハ中臣佐久命ニテ舂米部起テヨリ米餅舂大使主ト称フ事明ナリ」『阿波国続風土記』5巻、大麻比古神社項。 阿波国造(成務[13])および粟国造(応神[15])は忌部氏。忌部氏の斎部広成が古語拾遺を著しており、中臣氏を糺す意欲があったと考えられる。 wikipedia 古語拾遺 内容より 記紀とは異なる…

  • 第六代孝安天皇について改訂

    欠史八代はヤマト建国において重要な役割を担った氏族であり、その氏族を表すキーワードが和風諡号に盛り込まれていると推測した。 孝安[6]の和風諡号は「日本足彦国押人天皇」である。孝元[8]の和風諡号が「大日本根子彦国牽天皇」であり、「国牽」は「国押」と対になる。 「国牽」が国引き神話を連想させることから、孝元[8]は杵築大己貴を推定した。そこでもう一人の大己貴、丹波大己貴が孝安[6]に該当するのではと当初は予測した。 だがしかし、丹波大己貴は孝霊[7]のほうがふさわしい。孝霊[7]の和風諡号は「大日本根子彦太瓊天皇」であり、「太瓊」が垂仁[11]紀の逸話にある「丹波のムジナの腹から出た八尺瓊勾玉…

  • 倭国大乱について仮説

    応神[15]=誉津別ならば、父である垂仁[11]の生きた時代は記紀の記述より降る。記紀編纂時に辿れた皇統の父系の最古が垂仁だったか?知り得る最古の祖先だから実際より古い時代に偽ったか? 垂仁[11]から仁徳[16]までの即位順と親子関係は、史実と異なるかもしれない。垂仁は仲哀[14]と同世代の4世紀か? 景行紀は九州の動乱を多く記す。景行[12]は、2世紀後期の人物とは考えられないか? 倭国大乱 畿内説 倭国大乱 九州説 2世紀中期 158年 天岩戸日食 158年 天岩戸日食逐降(素戔嗚放逐)=国見岳八十梟帥討伐=武埴安彦討伐兄磯城討伐、長髄彦討伐大彦=後半の神武[1]、椎根津彦 2世紀後期 …

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