このブログ”世態迷想”は、下記のhatenaブログに引っ越します。①https://nokoyacanna.hatenablog.com”管見と言えども”②https://nokoyatrip.hatenablog.com"頑張らない旅"gooブログに感謝!ブログの引っ越し
あれもこれも穿って、雑考の向こう岸 とくなが じゅん ・・・折々に、頭を巡る事柄は雑然としており、これらをなんとか、言葉に映してみたくて整頓中・・・
📌政治集団の不誠実。彼らをそれを流儀としているのだろうか。彼らは法を作るけれども、彼ら自身は遵法精神が乏しい。常に法の抜け道を歩こうとする。裏金とかキックバックとか、策謀丸出しである。今回が特異なことでもない。それが国民を苛立たせる。集団も構成員も、選良とは程遠い。ただただ狡猾な手法に頭を捻り、平然と組織内正義としている。暴力団もどきの結束で、それを実現させている。政治家は、やはりどこかが信用できない。容易く変質してしまう。露見すると、政治の信用回復を政治家側が盛んに発信する。国民には、それが力弱く虚しく響くばかりだ。これまでも政治家の数々の不正、不祥事を知っているからである。不審な金の動きのみならず、優越的な越権行為とか、選挙のためなら反社会勢力をも与するなど、選良の欠片もない。ずるさ丸出しである。選良という言葉があるのは、間違いだ。
📌ビックモーターズの反社会的な経営が紙面を賑わして、間もないのに、今度は、ダイハツの会社ぐるみの不正検査が明るみに出た。全工場の生産停止に追い込まれるほど、結果は重大で、愚かな経営だった。社会の眼がこのことに気がついて良かった。そこに購買者に対する安全意識はない。何をもって完成車と思えたのだろう。購買者に対する生産者の裏切りである。こうした組織内正義が大メイカーで罷り通っていた事に、全くうんざりする、またも、経営はすまし顔で反社会的になる。企業経営は、時として安直なその場凌ぎ、言い訳を選ぶのだ。“ごまかし“が、会社に重大な損害をもたらした数々の先例を知らぬ筈が無いと思われるのにだ。学習能力がない。大組織には腐敗菌が潜在している、という証明である。今回の結果は、様々な協力会社にも大きな影響を及ぼしてしまう。...経営のいやらしさ
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このブログ”世態迷想”は、下記のhatenaブログに引っ越します。①https://nokoyacanna.hatenablog.com”管見と言えども”②https://nokoyatrip.hatenablog.com"頑張らない旅"gooブログに感謝!ブログの引っ越し
※社会の制度に、正解など出ない。物理が出す解のようには、決してならない。正解制度が変異し続けても、社会の欲望も変異する。横の層、縦の層、斜めの層のどこを覗いても、不利益や侵犯や不合理が滲み出てくる。制度は疲弊する。どんな制度にもどんな組織にも、非人間的な機能が潜在している。理念が制度の負の属性を消し去ることは至難である。より合理性のある次善を選択をするだけ。保護、補強、補充策が政治の知恵としてあるだけだろう。宇宙の無限の広大さを、人智は認識出来ないと思う。地球は、無限の砂漠にあるたったひとつの砂粒のようなものだ。きっとそうだ。夜空に映える満天の星たちもまた、砂つぶ地球と隣り合わせている成分違いの砂粒たちである。宇宙では、中ほどとか端っこととか、位置づけが意味を成さないと思う。地球に人類が存在してるからとい...社会の制度に、正解など出ない。
※ない混ぜに駄句るジイジイと蝉が揺さぶる古希の日々思い起こすなふるさとの夢秋のごご風邪に萎えたかわれが背を陽射しがぬくいあすは元気さ太陽の無限の明るさめいっぱい温みぞぬくい慈愛たっぷりまた歳が嫌と言っても76同輩とあと十年は元気かな自問し見合う午後のお茶老いの秋無駄にはせぬと思う朝無為にだらだら悔いる夕焼けわが肩にトンボ見つけてはしゃぐ孫寒さをもばねにせんとて我が老いは身体に負けて撥ねるをやめる老いの秋沁みる夕焼け抗えぬ残るとしつき財布幾ばく浅き夢またも尿意のお誘いか老いの句にまた老いの句を重ねたりさながらに減りゆく歳を無駄にしてとしとれど性感だけは燠火かなおさな子と映った老け顔俺かいなさびしさを陽だまりに座しやわらげるなにせよとどれを問うても答えなくたわむれてまた戯れて虚しくて齢暮れて幾たびあるや大晦日...駄句る
※世界は仮面を被っている・・世界は、戒めを忘れてしまうことで成り立っている。パンドラの箱の神話が生まれた何千年前から、人々はひたすら希望に未来を託しているが、幾多の欺瞞と悪徳と暴力に溢れた世界から解放されたことがない。人々の口から何万回も平和が叫ばれただろう。争いを目前にして、一番簡単な対応は平和を口にすることだ。だが、絶え間ない紛争と殺戮が易々とその口を覆ってしまう。どうやれば実現できるかの問いに対して、人類は何千年も答えに窮している。平和という言葉には、その為に戦うという自己矛盾が隠されている。平和の実現を叫びながら、その方策は大概、脅迫と暴力が正義に転化されている。平和は出口が見つからない迷路で、その知恵が狼狽している。歴史家とか評論家の論述で解明されても、ある社会とある社会の摩擦がこの後の世紀でも...世界は仮面を被っている・・?
📌どの社会体制であっても、詰まるところ、社会の運営は上意下達のシステムで動いていく。時の少数管理者の意志と権勢(支配)で経営されている。“下意上達“の道筋があるのか否か、どのように成り立っているのかで、その社会の民主性、目指す理念と実像が滲み出る。独裁的専横が罷りとる社会か、多数的民主主義をとるか、そのほかにあるだろうか。どちらが社会にとって、個人にとって解なのか。独裁体制は暴力的に、個人に対し行動や思考の一面化を強要する。独裁の企図を貫くために、専ら喧伝し、国民を教化する。国民を意の通りに管理し、効率的な成果を優先する。異見を排除するために、知的閉鎖と情報規制が必然となる。独裁者は例外なく、専横的なその効率効果に中毒になっていく。民主主義の社会形成は、最大多数の最大幸福を指標としている。多数による意思決...社会の図式
20年ぶりの外国!ニュージーランド旅行10泊11日3月上旬訪れた場所オークランドクライストチャーチテカポ湖旅行を決めた時点で予め、NZetaをオンラインで申請済み。出発当日、事前に自宅から送ったキャリーバッグ1個を成田空港のクロネコで受け取る。国外便の空港でのチェックイン開始は、どうやら3時間前からのようだ。そして、出発ロビー。何しろ20年ぶりの出国である。かつて何度も出掛けたとは言え、久しぶり過ぎて、手順が様変わりである。何が待ってるか分かっている。チェックイン端末機の画面である。以前のように航空会社のカウンターで待ち受けるスタッフなど見当たらず、スーパーのセルフレジと似て、操作ヘルプのスタッフが一人いるだけ。だが、アレアレと画面操作はあっさり進んだ。チェックイン端末機にパスポートを差し込むと、画面にフ...20年ぶりの外国!
📌もう一つのNATOのこと・・外国から見た皮肉では、日本人や日本社会は何事につけてNATOであるらしい。No-Action,Talk-Onlyという意味という。議題に出す認識はあるが、積極的には踏み出さない社会と皮肉られている。そして今一つ、toolittle,toolateとも・・事に当たって、出遅れて効果が薄く、しかも対応の質量が小さいということだ。軽口だろうけど、案外にマトをついている。私たちの生活周辺でも何事も当初は、周りの気配を見た挙句に、様子見が良策とされがちだ。なかなか、先陣をきらない。横並びの安心や前例を選んでしまう。それらの方策にも利点はあるが、昨今の激変し続ける国際環境では、こころもとないこと夥しい。先進事例を例外と見るべからずである。情報や技術の平準化と増幅によって、着想と具現化が世...NATOだって・・
📌いちばん身近で究極の幻想が宗教であろうと思う。レトリックが達者になると、宗教者になれる。宗教はレトリックの総本山である。達者なレトリックと詐欺師の違いは紙一重である。どの宗教もその黎明期と異なり、学派や分派が派生すると、伝える言葉も儀式も過度に装飾されていく。宗教者は言うだろう、世界中が我が宗教に帰順すればいいと。自分たちの信仰の価値観こそ、人や社会の生きる道だと。幻極めつきの幻
📍人の道を説き、愛や慈しみを語る宗教の歴史の実態は、専ら権威と排他を増幅させてきただけである。どの時代をとっても戦争の土台、残虐の歴史を含んでいる。信仰の清らかさを謳う舞台裏は、単に傲慢と差別と憎悪の博物館である。それでも人々は、信仰する。清らかな幻想に救われたいのだ。神が存在するかしないを、考えてみようとは思わない。分からない。だが、人間の顔をした神や神の子がいたという、その言い方は馬鹿臭い。神の子出現前の万年を超えて存在した人々を、人間の基本を持たない夥しく未開な存在だとするのだろうかと、問いたい。宗教者たちが、自らを気高い伝承者らしく装うのが滑稽である。宗教行為に、仰々しい舞台を設けて、いちいち儀式を重んじるという事が、既に、伝承はそうした演出がなければ説得力を持たないという事を示している。人々は、...マウントする
📍宗教の儀式は、どう見ても大人のおママごと。僧侶や信者になって、お祈りごっこをする遊び。宗教の儀式は、どう見ても大人のおママごと。僧侶や信者になって、お祈りごっこをする遊び。信心ばかりでは生活できないので、何かの折に纏めて信心ごっこをすること。人が善良であるためには、神や宗教が必要と考える人は、心理の均衡が保てず弱々しいのではないかと私には見える。立ち続けるために、杖がないと不安になってしまうのだ。自分で立てる能力を育てずに、初めから終わりまで柱に寄りかかっている。その安心が堪らなく気持ちが良いらしいのだ。しかも科学の明解さを示されても、大胆に無視してしまう分からず屋である。白を白と認めない狭量さ。その上に排他の度合いはいつも諍いを産んでいる。全ては科学性によって生かされている事を知らずに生きているだけだ...もっともらしいおママごと
📌北朝鮮を見ても,中国を見ても,社会主義的体制は、その前提として一括統制、排除、専横で成立つ政治だよ。仮に国民は不満でも,窮屈でも黙ってしまうからね。それが狙いさ。支配者が社会をマウントするために、強烈な統制が威力ある武器なのさ。内を向かっても,外に向かっても排他一本でゴリ押しする官僚構造なんだよ。見方を変えれば、統制を強めることでやっと社会を動かしてるだけよ。強固であればあるほど、一般庶民は発想も行動も箱詰めにされる。民主社会も弱点が多いが言論や行動の規制が、強権社会よりはるかに少ないだけでも得点だよ。世界の実状は、しかし強権政治の国が数多くある。📌久々に共産党の委員長が交代した。知るかぎり、日本の共産党はこの70年ほどずっと投票率は7%前後のようだ。70年も国民に余りアピールできていない証左であろう。...強権の方便
📌人の道を説き、愛や慈しみを語る宗教の歴史の実態は、専ら権威と排他を増幅させてきただけである。どの時代をとっても戦争の土台、残虐の歴史を含んでいる。信仰の清らかさを謳う舞台裏は、単に傲慢と差別と憎悪の博物館である。それでも人々は、信仰する。清らかな幻想に救われたいのだ。神が存在するかしないを、考えてみようとは思わない。分からない。だが、人間の顔をした神や神の子がいたという、その言い方は馬鹿臭い。神の子出現前の万年を超えて存在した人々を、人間の基本を持たない夥しく未開な存在だとするのだろうかと、問いたい。宗教者たちが、自らを気高い伝承者らしく装うのが滑稽である。宗教行為に、仰々しい舞台を設けて、いちいち儀式を重んじるという事が、既に、伝承はそうした演出がなければ説得力を持たないという事を示し...2024/06/04
📌骨格も内臓も灰色なる老いを知りてか歩み合わせよ混み合った医院の椅子の素っ気なさ混み合いでむしろ和らぐ受診待ち高齢と呼ばれて久しまた師走誰もいぬ病院廊下我ひとりあの時、遺体の額に手を当てその冷たさに、母の生命の果てたことを実感した。衰弱した病床の父との最後の目の会話も焼き付いている。言いようのない寂しさと静かさを覚えた。あれから40年は過ぎてしまった。その私が80余歳となっている。生命の限りを思う日々である。そうではあるけど、親への想いに過ぎ去った時間は邪魔をしない。写真と共に様々な親の顔、祖母の顔がすぐそこに浮かぶ。疾うに存在しないのに情が重なって重なって過ぎる。情感とは不思議なものである。そして、また年が暮れる師走が来てしまった。僕もいずれ、娘や孫にそういう想いを誘うのだろうと思う。僕...灰色
📌政治集団の不誠実。彼らをそれを流儀としているのだろうか。彼らは法を作るけれども、彼ら自身は遵法精神が乏しい。常に法の抜け道を歩こうとする。裏金とかキックバックとか、策謀丸出しである。今回が特異なことでもない。それが国民を苛立たせる。集団も構成員も、選良とは程遠い。ただただ狡猾な手法に頭を捻り、平然と組織内正義としている。暴力団もどきの結束で、それを実現させている。政治家は、やはりどこかが信用できない。容易く変質してしまう。露見すると、政治の信用回復を政治家側が盛んに発信する。国民には、それが力弱く虚しく響くばかりだ。これまでも政治家の数々の不正、不祥事を知っているからである。不審な金の動きのみならず、優越的な越権行為とか、選挙のためなら反社会勢力をも与するなど、選良の欠片もない。ずるさ丸出しである。選良という言葉があるのは、間違いだ。
📌ビックモーターズの反社会的な経営が紙面を賑わして、間もないのに、今度は、ダイハツの会社ぐるみの不正検査が明るみに出た。全工場の生産停止に追い込まれるほど、結果は重大で、愚かな経営だった。社会の眼がこのことに気がついて良かった。そこに購買者に対する安全意識はない。何をもって完成車と思えたのだろう。購買者に対する生産者の裏切りである。こうした組織内正義が大メイカーで罷り通っていた事に、全くうんざりする、またも、経営はすまし顔で反社会的になる。企業経営は、時として安直なその場凌ぎ、言い訳を選ぶのだ。“ごまかし“が、会社に重大な損害をもたらした数々の先例を知らぬ筈が無いと思われるのにだ。学習能力がない。大組織には腐敗菌が潜在している、という証明である。今回の結果は、様々な協力会社にも大きな影響を及ぼしてしまう。...経営のいやらしさ
いつのころからか、関係性とか空気感とかいう言い方をよく耳にする。が、このいい方が僕は引っかかる。気持ち悪い。いろんな単語に的を不用意に付けまくることと同じだ。単語に安直に糊付けしても特殊な雰囲気は出ない。前後の行間が生む感性に任せることだ。とにかく、無駄な畳語みたいで聞き心地が悪い。不要な装飾をやめてもらいたい。言葉の力が腑抜ける。関係や空気でなぜいかんのか。その方がよほど真っ直ぐ響く。耳障りな・・・
心神喪失で、多数の死傷者を出しても、無罪判決になる法は果たして、社会の正義なのか、死者に対してそれは正義なのか。一切の罪が問われないなら、死傷者は不運な生命の敗残者に貶められるだけか?生命の尊厳は、惨殺された者には無用のものなのか?法は決して生命に対して平等ではない。つくづく、法は何を求めているのだろうと思う。法の正義とはなんなんだろう。生きてる者だけに示される、便宜的な処方箋に過ぎないのか、しかも、無理やり編み出した量刑という屁理屈で勘定されている。その屁理屈が、偏った生命の尊厳を、根底から歪めていないか。裁判官は法の終身牢人であるから、決して、檻の外に出ようとしないし、出られない。そして、現存社会の妥協点を割り出して、権威としてしまう。こういう判決に出会うたびに、居た堪れなくなってしまう。心神喪失
社会や歴史を政治制度から話し始めるのは、間違っていると思う。はじめに、風土や風習がどうだという前提を掘り下げるべきだろう。自然発生的な要素に左右されている共同社会への視点が抜けがちになる。政治制度だけでみていくと、その社会の根底、生きようを解明できない。その共同社会の本態が隠れたままだ。風土や風習には、手順や優先や合理性が希薄だからだ。一方的な合理性を含む政治制度が、いつもの説得力を持っているとは思えない。強権、専横で押し切るしかなくなるわけである。行き詰まった政治の最終的選択に露骨な暴力がある。市民に対しては選択肢がない極端な強制であり、他国に対しては戦争を仕掛ける。政治は、脅迫と暴力に容易く変身する。さまざまな言葉を使って正当化されるが、暴力そのものである。政治の制度の前に
言い古された諺は生きている身の回りには言い古された諺が沢山ある。或いは、年寄りの知恵として発せられたこともるだろう。人は成長につれて論理的な説明や方法に慣れ、それで合点がいく。で、俗な諺を軽視して、それが存外に理に適っている事に気が付かない。その含意は凝縮されており、そのうえ口語的な平易な言いようなので、その論理性が希薄と直感するのかも知れない。言い古された諺を口されると、面白くない軽口か皮肉と受け取ることになる。だが、さまざまな曲折を経た末に難題の出口を見つけた後に、問題の本質が、言い古された諺に喝破されていることに気がつくことがある。平易な諺は短絡しているが本質を指摘しているのだ。鋭いのである。言い古された諺は‥
※それぞれの旅旅は、緻密に考えて出かけるより大雑把に出かけた方がいい。寄り道、遠回りがあって、旅の愉快さが膨らむ。小さな旅でも自宅を踏み出せば、すでに軽い興奮に自分がいる。その軽めの気分を悟られぬよう、あえて澄まし顔をする。五感がフル稼働し始めて、いつもの乗り物でさえ違って匂う。豊かな旅は、好奇心が見つけるてくれる。見なければ見えない。歴史や風物に感じ入のも良いけど、雑景を無駄に観察するのも、気持ちがユルんできて面白い。旅行の特権というか、見慣れると何でもないはず街が、妙に深く見える。全てを、私が観るために仕立てられた舞台、という錯覚に浸れる。そこで暮らしている人々の苦心を横目にスルー出来る身勝手・・旅に潜れば、好奇心が勝手に増幅する、旅の力である。観光スポットを訪ね過ぎると、感動や観察力が不感症になる。...それぞれの旅
📌人の道を説き、愛や慈しみを語る宗教の歴史の実態は、専ら権威と排他を増幅させてきただけである。どの時代をとっても戦争の土台、残虐の歴史を含んでいる。信仰の清らかさを謳う舞台裏は、単に傲慢と差別と憎悪の博物館である。それでも人々は、信仰する。清らかな幻想に救われたいのだ。神が存在するかしないを、考えてみようとは思わない。分からない。だが、人間の顔をした神や神の子がいたという、その言い方は馬鹿臭い。神の子出現前の万年を超えて存在した人々を、人間の基本を持たない夥しく未開な存在だとするのだろうかと、問いたい。宗教者たちが、自らを気高い伝承者らしく装うのが滑稽である。宗教行為に、仰々しい舞台を設けて、いちいち儀式を重んじるという事が、既に、伝承はそうした演出がなければ説得力を持たないという事を示し...2024/06/04
📌骨格も内臓も灰色なる老いを知りてか歩み合わせよ混み合った医院の椅子の素っ気なさ混み合いでむしろ和らぐ受診待ち高齢と呼ばれて久しまた師走誰もいぬ病院廊下我ひとりあの時、遺体の額に手を当てその冷たさに、母の生命の果てたことを実感した。衰弱した病床の父との最後の目の会話も焼き付いている。言いようのない寂しさと静かさを覚えた。あれから40年は過ぎてしまった。その私が80余歳となっている。生命の限りを思う日々である。そうではあるけど、親への想いに過ぎ去った時間は邪魔をしない。写真と共に様々な親の顔、祖母の顔がすぐそこに浮かぶ。疾うに存在しないのに情が重なって重なって過ぎる。情感とは不思議なものである。そして、また年が暮れる師走が来てしまった。僕もいずれ、娘や孫にそういう想いを誘うのだろうと思う。僕...灰色