他の街にあってこの街にないものこの街にあって他の街にないもの憧れは持たないように諦念を自惚れで染め上げないように街らしさを語る子ほど判りやすい街らしさを述べるけれどもこの街の水を使って、この街で作られてこの街で食べられるものものはらしさを越えて、この街そのものなんじゃないかと自分らしさ論とまあ、そんなに変わらないことを思う。そんなこんなのローストビーフの鯛出汁茶漬け(冷製)ローストビーフの鯛出汁茶漬け(冷製)
他の街にあってこの街にないものこの街にあって他の街にないもの憧れは持たないように諦念を自惚れで染め上げないように街らしさを語る子ほど判りやすい街らしさを述べるけれどもこの街の水を使って、この街で作られてこの街で食べられるものものはらしさを越えて、この街そのものなんじゃないかと自分らしさ論とまあ、そんなに変わらないことを思う。そんなこんなのローストビーフの鯛出汁茶漬け(冷製)ローストビーフの鯛出汁茶漬け(冷製)
街の二極性。何れかに足を運んでもそれで足りるの?それで足りないの?とか、思ってしまう。ワタシタチはいつも足りないか足りてしまっているか引いているか満ちているか遠すぎるか近すぎるかをしてしまっている。心地と居心地こことそことあそこ在と不在と非存在をとかまあ、気取って踊り、歌う。高らかに着地点を求める。何れかに足を運んでも
ワタシタチと口にした瞬間から虚構は始まる。アナタは歌うでしょうワタシタチと同じ高さでワタシタチと同じ低さでアナタは飽きるでしょうワタシタチと同じ鈍さでワタシタチと同じあくびを鋭敏と鈍磨瞬間はかろうじて永遠永遠は目を閉じて瞬間ワタシタチと口にした瞬間から
居酒屋さんとかお蕎麦屋さんとか、本当に美味しいお店を見つけてから、大盛りが理解できなくなってますね。芥川龍之介さんの「芋粥」に倣うと、味わいや慈しみには適切な量がございますので。芥川龍之介さんの「芋粥」に倣うと
食欲不振。どうにか食べられるものを出してくれるお店を巡りながら、考え事に耽る。そういった考え事こそが、体調不良の要因なのもわかってはいるので、思考の範囲を広めて薄めて。何かについて判ったと思い込んでしまった時ほど何もとか。市街地はこのお店を挟んで、不思議と客層が異なる。何でだろうくらいは考えておいて、その回答は頭の中に収めておいて。食欲不振。
夜の街で食事。中心街育ちなのもあって、ここにいるのがデフォルトな感覚。わざわざ地名を付けて、街を愛せよとかしなくとも美味しいものは此処にあるし、いついかなる時もあり続けているし。夜の街で食事。
無理して八戸らしさを見出そうとしなくとも、美味しいものは美味しいし、地元らしい美味しさとソーシャルな美味しさとはまた異なるものだから。この街で作られたものは、この街の味だよとシンプルに考えようとする。らしさって無理矢理ひねり出すものなのかな?とか。昨日の食生活
何もない一日。海に向かうと、砂浜では水着で駆け回る子が増えていた。快晴。すっかりと枯れているので、輪郭と動作の美しさばかりが感じられる。何を見ても、何もかもが美しいと感じられるようになったのは、何かを見ないを憶えたからかも知れない。色々なことへの諦めがついたからかも知れない。見るもの聴くもの、会う人話す人に選択を効かせる。足跡を残さないよう、素足であることを心がける。今日の足跡はきっと、波が風が消してくれる。何もない一日。
あるもので適当にと頼み続けていたら、あるもので的確なものがサーブされるようになる。流石だな。あるもので適当に
もう少しだけ早くに出掛けていれば、快晴。丘の空に広がり始めた薄い雨雲に海からの冷たい風が触れ、薄白い靄が千地のラインを束ねだす。よく見ればゆっくりとたおやかにはためいている。よく見なくとも、視線が冷たい膜に阻まれ始めている。このお店で一番の押しというか、一番早く作れるものを頼んで、それに比較すると揚げ時間の手間のかかるフライドポテトを追加する。バンズの仕入れの話を少しだけする。何店舗か巡って、まだ試行錯誤の段階。今日のバンズはあそこで、柔らかくて面相がいいですよねとは言われたけれど、あそこはこちらのあまり好まないお店。パティと具材のボリュームを、支え切れずに崩れてしまう。ナイフとフォークで口に運ぶスタイルならいいかもとか。何をするにも直前に読んだ本や聴いた楽曲に影響を受けてしまう。だから、それを選ぶのだろ...もう少しだけ早くに出掛けていれば
食生活
近頃の気に入りはフィッシュ&チップスにトマトジュース。本当はもっと本格的なのを作りたいのだと、お店の子は言っているけれど、本格的って形容はフィッシュにもチップスにも似合わない。ざっくり市販か業務用ので構わない。自分語りは似合わない。語りたい自分自身なんて自分に都合の良い像でしか在り得ないだとか、つまりは羞恥が勝ってしまう。羞恥と周知だとかまた詰まらない同音異義を並べて、改めての修辞。そんな自分語り。此処に自分が居たを表わすよりも、此処には此れがあるとだけ伝えたい。爪痕も水の濁りも残さずに、ただ、此処には此れがあるとだけをそっと。市販か業務用ので構わない。
この年齢になっても物心というものがついているのかついていないのか、ついていなければならないんだけれども、どうにも心もとない。日々のゆらぎ、毎日の逡巡。好悪はいつだって、善悪とおなじくらいにたゆたっている。とにもかくにも、小の付くころ、中の付くころ、高のつくころに通っていた場所で、おのれの物心の付き具合を確かめる。焼いたトーストとパスタにサラダ。砂糖を入れない珈琲が美味しいと感じられるようになったのはいったいいつ頃だったのだろうかと思い耽る。焼いたトーストとパスタにサラダ。
夜には中心街まで散歩。気温は低めで久しぶりに春物のコートを羽織る。初夏と言うよりもまだ晩春の余韻を残して、啓蟄を今になって始める子らで賑わいをそれなりに見せている。普段使いのBARでも、年頃の男の子たちがダーツに興じながら、エレベーターの音に耳を澄ませ、到着音の鳴るたびに、「女の子は?女の子は?」と店員の子に尋ねている。「残念ですけど、彼氏さんと来てますね」とか。以前から、この街は歓楽街に纏まり過ぎて、二人っきりだとか何人かと連れ立ってとかのデートに向かない場所になってしまったなと感じていたけれど、享楽の度合いが減って、道々を歩調を合わせて歩き、愉し気に笑み合う子らの増えたのが、ある意味で新しい街の生活様式になったのだろうなとか思いながら、店を後にして少しだけ遠回りして帰宅する。到着音の鳴るたびに
近頃色々と求められるようになって来たので、少しずつ目的や意味のある整えを始める。呼吸の仕方、発話のタイミングと声量、歩きと立ち止まりの確かさだとか。少しずつ目的や意味のある
洗濯機が壊れたので慌てて買い替え。今は某ネット通販で購入すると、配達から設置、古いのの廃棄まで請け負ってくれるので、午前中のうちに総てが終わる。それにしても、何やら気の滅入りそうなことの起こる直前に、こうやって親の代から使っていた家電やら食器やらが、何の前触れもなく破損してしまう不可思議。以前は、父親の愛用していたガラスの灰皿が突然真っ二つに割れたりとかそんなことが起こっていたり。身代わりってやつなのか、それとも注意喚起ってことなのか。午後にはいつもの海の家でカレー。トッピング増し増しでを頼みながら、岡崎京子さんの「私は貴兄のオモチャなの」を読んでいると、店内にツバメの番いが飛び込んくる。新居としては理想的な作りのコンクリート打ちっぱなしの壁面にトタンの屋根。うんちさえしなければと店の子が言いいながら、傘...午後にはいつもの海の家で
いつもの場所で今日はハンバーガーを注文する。言葉にしたいこと、誰かに伝えたいことのないうちは、無理に言葉を連ねようとしないこと。淡々と好みの小説を読んだり、音楽を聴いたりして現実の飛沫、思考の欠片を溜め込むように。いつもの場所で。
さて、今日も。色々とアレがあってから、何処に行っても誰と会っても小さな約束事をするようにしている。また、明日だとか来週だとかの。また、明日だとか来週だとかの。
メンタルをやらかした時に支えてくれた子らの作るローストビーフ丼が口に合わないはずもなく、通い詰めているうちにより一層、より一層。メニューやお店のSNSにこちらの撮った写真を使ってくれてもいるから、もう、通わない理由が無くなっているのですよ。通い詰めているうちにより一層
早めに体力をつけるか、せめて元に戻しておかないとそうしようとする自分の欲求に振り回される。抑圧気味の自身に潜むもう一人のとか、そんな複雑さを表明するもよし。そんな複雑さを表明するもよし。
居酒屋さんとかお蕎麦屋さんとか、本当に美味しいお店を見つけてから、大盛りが理解できなくなってますね。芥川龍之介さんの「芋粥」に倣うと、味わいや慈しみには適切な量がございますので。芥川龍之介さんの「芋粥」に倣うと
食欲不振。どうにか食べられるものを出してくれるお店を巡りながら、考え事に耽る。そういった考え事こそが、体調不良の要因なのもわかってはいるので、思考の範囲を広めて薄めて。何かについて判ったと思い込んでしまった時ほど何もとか。市街地はこのお店を挟んで、不思議と客層が異なる。何でだろうくらいは考えておいて、その回答は頭の中に収めておいて。食欲不振。