広島住み、ひとり暮らし、50男(もうヤバイ)。 昔のことを思い出しながら書いてます。懐かしいな。 長く続けられるようにゆる〜くがんばります。 なので、少しの時間おつきあいしていただけると とてもうれしいです。
家の中に食べ物がなければ外に出て探す、 これ当然です。 お腹がへって我慢できないのですから。 ちょっと山に入れば 「ビービー」がありました。 形はさくらんぼに似てる実で、甘いというより酸っぱ苦い感じ。 それでも食べないよりはましでした。 それから、野苺もとって食べていました。 細長い植物で、これも酸っぱい味の 「たちんぼ」。 正式な名前があるのだろうけど 地元ではそう呼んでいました。 はっきり言って、美味しくはないです。 けれど食糧難の子どもからすると タダで食べられるものが、道端にあるという存在が 心強かったです。 そんな食べられる植物は、 年齢の違う子と遊ぶ中で学びました。 教わり、教える…
昔あったもの。 ドラム缶の焼却炉。 家庭ゴミを燃やすために、近くに設置されていました。 家の周りに生えている雑草を引き抜いて投げ入れたりもしていました。 今はダメなんだろうけど。有害物質が発生するとかで。 冬は格好の屋外暖炉で、登校前はみんな集まって暖をとっていました。 近所の大人たちも。朝の会話はそこから始まっていましたね。 あまり近づくと熱いので、いい感じの距離を保つのが大切。 たまに、煙といっしょに舞い上がる燃えカスが顔に当たったりしますし。 学校に向かう時間が来るまで、焼却炉であるものを作っていました。 カイロです。 ドラム缶の中に石を入れて熱しておくのです。 さぁ、出発というときに、…
どうして~♪ お腹が~ へるのだろう♪ そんなこと、わからないですよね。 子どもの頃はいつもハラペコ、ペコリーヌでした。 学校から家に帰って、夕ごはんまでの時間が どれだけ苦痛だったか。 おやつが特に用意されている家でもなく、時代でもなく 食事にありつけるまでどう過ごすか、 それが毎日の宿題より難しい戦いでした。 外で遊んでいるときは、まだ大丈夫なんだけど、 TVを見ながら空腹をごまかすのはキツイ。 我慢できなくて水屋に何かないかと、ゴソゴソあさってみたりと。 「水屋」(みずや)って言葉。 今はあんまり使いませんが。 もともと水屋=台所で、 我が家では、省略して台所の収納棚のことを水屋って呼ん…
「もしかして、あなたは女神ですか?」左ききの救世主といえば?
左ききは、今では特別珍しくもなく、 一つの個性として認められていますよね。 スポーツによっては、それを生かせることもあります。 そういう世の中を見て、普通に生きていけるのがうらやましいです。 大袈裟に言ってるわけでなく…。 40年前のことですが、左ききの人間に対して 物珍しく接する人が多かったと思います。 私は左ききでした。 普通じゃないんだと…自分自身感じていました。 まず、親。必死になって右に矯正してきたのを覚えています。 根性トレーニングですよ。 食事のスプーン、お絵描きのクレヨンなどなど。 自分が持ちやすい方の逆の手で持たされるわけなので、すごく難しい。 いやな記憶が今でも蘇ります。 …
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