最初にお話しした幼児期のヤンチャ性でしたが、許されて明るい外に出されたときには何とも言えない、安心した気持ちになったものです。しかしそれでも続いてヤンチャをすることは、そのことによって普段よりもっと目をかけ、もっと手をかけてもらえることのぬくもりを感じていたのだろうと思います。実子である私は、幼稚園の先生として他の多くの園児をまんべんなくかわいがる父や母を取り戻そうと、仲の良い友達さえも憎い存在になるという複雑な感情が支配する幼児期をおくった想い出があります。父も母も、手をかけてやりたいが他の子との関係を考えると、あえて無視することが平等だと思っていた節もあるような気がするのです。しかし行儀の悪い私を捕まえる父の手は、とても温かだったような、心が伝わってくるような気がするものでした。心学校十九の六
ところで絶対矛盾的自己同一というのがありました。それは法蔵菩薩が救われざるものをこそ救わずにはおかないという願いを立て、師・世自在王仏の前に誓って修行を成就し上げ、阿弥陀如来となった。ということは私に煩悩があるからこそ、その煩悩が頑強であるが故に、この私こそが如来の救いの目当てであるという論理になるのです。救われない者こそが救われるという「絶対矛盾」は、実にダイナミックな救済の論理となって完全性をもってくるのです。心学校十九の五
如来はまさにそのように働く力を成就したわけで、早く救いを完成するためには直接光の輝きを届けたいところなのでしょうが、煩悩の雲が厚く私たちが直接感じ取れないわけです。私たちの煩悩は如来の光を遮るほどの頑強さを持っているしぶといもので、この煩悩を除去できたらさとりを開けるのですが、如来の力に比べたらはるかに小さな私たちの力をもってしては出来ないことなのです。心学校十九の四
お釈迦さまは、「愛は愛より生じ、愛より憎しみは生ずる。憎しみより愛は生じ、憎しみより憎しみは生ずる」と言われます。親鸞聖人は九歳で出家得度され、二十九歳まで比叡山で勉学修行を続けられました。だが真実を求める心が愛憎の雲で覆われるのです。「愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑す」と述懐されます。しかし如来はそのような者だからこそ、救い取らずにはおれないのです。心学校十八の七
仏教で「愛」を煩悩とするのは、キリスト教でいう愛と違う面を指しているからです。普遍的な他の生命を思いやる心を仏教では「慈悲」と表現します。愛については愛着とか渇愛(かつあい)、愛執(あいしゅう)、愛欲などと、愛にとらわれて自分が思うようにならない様を表現する場合に使います。愛し合うというと聞こえは良いのですが、愛し合う者同士はそれ以外に対して排他性を持ってしまいます。心学校十八の六
日本の警察は世界でも優秀な検挙率だといわれてきました。その根底には愛憎の問題が大きく横たわっている私たちの社会状況があります。生命を蹂躙する事件の原因には憎しみが渦巻き、その元には愛を受け入れられなかった怨みがあるという人間の本性があるのではないでしょうか。心学校十八の五
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