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2020/01/29

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  • 心学校 二十の七

    マゼランの艦隊が、アフリカの喜望峰を回り南米フォークランド諸島の沖を通り、世界一周をしたのは、一五一九年から一五二二年までかかったのです。その後、一八六九年にスエズ運河がフランス人レセップスによって開通し、地球を横さまに容易に乗り超えられるようになったことを考えると、横・竪・出・超のイメージがわいてくるのではないでしょうか。心学校二十の七

  • 心学校 二十の六

    それに対して念仏とはどのような道かというと、横に如来の力によって超えさせていただく道と表現すればよいのでしょうか。竪は時間軸に、横は空間軸に考えても良いのではないかと思います。自力で竪に進む道は多くの困難と多大な時間が必要です。しかし仏力で横に超えさせていただく道とは、現在の自分のポジションが、すでに如来に包まれて存在している状況を示しているのです。竪を目指す立場では私の彼方に仏があるのですが、横に気づく立場では私とともに仏があるのです。竪をめざす側で使用すると「他力」は他の人の力となります。しかし横に気づく側で使用すると他力は自分のそばにいて下さる仏力になるわけです。心学校二十の六

  • 心学校 二十の五

    いや自分には出来そうだという場合もあるでしょうが、虫が竹の節を順々に破って進むように菩薩の道は五十一の階段があります。その中には四十六番目に「菩薩の死」と呼ばれる場面があり、それを乗り超えた菩薩はもう後に戻ることはないという不退の位に達したとされ、歓喜地の菩薩と呼ばれます。ところが五十一番の位に達しても、五十二番目の仏の位に至るには自力では到達できず、仏の力を借りなければならないとされています。心学校二十の五

  • 心学校 二十の四

    一般的な仏教の教義では究極の目標は「成仏」することで、「私」が「如来=仏=さとりを得た存在」に成るということなのです。そのためには自分で出来ることと、自分の微少な力では出来ないことがあるのです。成仏の道は信じて修行することが肝要なのです。そして仏道を修行する人が一定の水準に達したときに「菩薩」と呼ばれるのです。しかしこの世相の中で私たちが修行に没頭できるものなのか、考えてみなければなりません。また修行しようと決心してもそれがしばらく経つとその決心もどこへやら、という私たちの心ではないでしょうか。心学校二十の四

  • 心学校 二十の三

    考えてみると、私たちは幼いときから「自分で」ものごとをするようしつけを受けてきました。私も幼稚園で園児に話すとき、自分が自主的にやっているかどうかということをうながすように心がけています。人生の社会生活を送るのにはまったく当然なことで、いつまでも両親や年長の家族に手取り足取りの世話をやいてもらえるはずはありません。だから躾の面で私たちが教育してゆくことは「他者依存」の生き方ではダメなのだということなのです。心学校二十の三

  • 心学校 二十の二

    虫は節を破って「竪(たて)」に進んで最後の節を破って外に「出」るという考え方があります。竪に進むのですから長い時間と、自分の力で前進して行くのですから絶え間ない多くの努力が必要であると推測できます。ところが「横」の壁を破ればいいのではないか、という考えもできるのです。横になら距離も短く、作業も容易ではないでしょうか。さらに壁を自分の力で破るのではなく、自分を「超」えた力で破ってしまったらと、如来の力に頼るのだという論理構造となるのです。心学校二十の二

  • 心学校 二十の一

    筍の季節です。今年は当たり年とかです。やがて生長した竹にはご承知のように多くの節があります。念仏の教えを例えるのに、この竹の中にいる虫が外に出る場合どのようにするかという横超(おうちょう)・竪出(しゅしゅつ)というものがあるのです。心学校二十の一

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