聴けば聞こえる。道を求める心は聞こえてくるものに気付くことになる。何に気付くか。それはいま聴いている私はそのように仕向けられたおかげによるのだということが聞こえてくる、言い換えたら気付くのだ。それは聴くことが許された世界であり、聞かせずにはおかないという絶対の力というものが、目には見えないけど私に働き続けているといえるのではないだろうか。~ここまでをB6判60ページ外に4ページの表紙付きで小冊子にいしています。現在Webで「印刷通販ウイルダイレクト」というサービスに入稿中です。~最後に浄土真宗の妙好人さんの詩ええなあ世界虚空がみな仏わしもそのなかなむあみだぶつ浅原才市これまで毎日の投稿をお読みいただきありがとうございました。次の機縁が訪れるまで、当分更新はお休みさせていただきます。聴聞する
物理学の歴史を学ぶと、自分に都合の良いかってな歴史観が科学の客観的な研究によっていやでもおうでも自分に都合の悪い方に訂正されてゆく歴史だ。例えば人間にとって都合のいい星の動きは、自分は世の中の中心にいて他の星はみんな自分たちに従っている家来のようなものだという考えが自尊心を満足させ気持ちがいい考えだから天動説があった。でも実際の星の動きを観察すると自分の方がぐるぐる回っていたのだといわれるといやな気持がする。嫌な思いがするからガリレオを殺そうとする。でも地動説が確定したら誰も文句を言わなくなった。そのあと自分中心の世界観で生きていたらアインシュタインの相対性理論によってひっくり返り、あなたの長さや時間は今いるその状態で決まっているのであって、ほかのところで他のことをしている生き物には全部別の時間と長さが決まって...相対世界の自分と宗教
宗教はわれわれが宗教ではないと思っているものでも一杯宗教なのであって、実は私たちは寄っかかって生きているのだ。人間というのは宗教なしでは生きれれないのだ。私は無宗教だといっている人も必ず何らかの宗教的世界で生きている。ただそれを宗教とよんでいないだけなのだ。では拠り所とする宗教としていったい何を自分のものとして選んだら心が安楽になるかということを真剣に考えて選ばなければならない。本当は選ばなければならないのだがそのことを自覚していないために何も考えずにボーとして生きている。さらに気をつけねばならないことは自分にとって心地よい選択肢はたいてい間違っている。なぜならば自分の欲望を満たそうという気持ちが苦しみのもととなるのでありますから、その気持ちは必ず自分にとって都合の良い選択肢の方へ自分を向けようとする。だから選...自分に心地よいものは間違い
人間は状況が不安定になるといろいろ悩み考える。崩壊して行く自分の精神を何としてでも維持してゆく方法を考えたら、お念仏に行く可能性は極めて高いと考えられる。それを称えることで自分の心のバランスがとれるのではないかという予感がするのだ。私(佐々木閑氏)は父親を膵臓がんで亡くしたが仏を拝み縋った。お寺だから仏さまはいらっしゃる。そういう意味で宗教というのはある一つの宗教があってそれ以外は間違いであるという一神教的な姿勢のものは本来の宗教の働きではないと思っている。その人がその時そのとき置かれた状況でその精神を最も守ってくれる保護してくれる、そういうものが宗教としての正しさではないか。では悪い宗教はあるのか?それはあるのだ。本人が心の平安を求めてその宗教に入ったらそれ以前よりもっと苦しい状態になったと自覚してしまう宗教...イデオロギーも宗教
自分の人生について、いま、真剣に考え悩む人は少ないから、ブッダは自分が目覚めた法は世の人々にあまり役に立たないし伝えるのには大変な苦労がいる、だから隠居して暮らそうと考えた。そこへ天から梵天が降りてきてこの薬はとてもよく効く薬だ。だからこのまま抱え込んで亡くなってゆくのはあまりにももったいないからみんなに教えてくれという。でもブッダは受け取ってくれないのではないか、そんな無駄なことはしたくない。インド語ではそこのところがちゃんと書いてあって「疲れるからいやだ」と。梵天は「それでいい」と聞いてくれるその人のためにだけでいいからこの薬を分け与えてほしいという。その病気の人は必ず治るのだと。これで仏教が成り立っていったのだが、このことが仏教の本質をあらわしているのだ。ブッダの教えで病が治るのにはある程度条件がそろわな...梵天の勧請
現実世界では欲望の増大や自己の欲望のみを増大させることは叶わないことなのだ。苦しみが完全に消滅することはこちらの方向にはないとブッダはいう。では最終的に解決するにはその方向に向かわないことだと、アメーバ以来持っていた私たちの本来的欲望充足の思いを生物学史上初めて逆転させて、それを消すという方向性にもっていった。そこに人間だけに得られる特別な幸福に道があるというのだ。だから欲望の充足の中で疲れ果てた人、あるいは欲望の充足というものでは何の満足感も得られない人々にとっては、仏教は極めて効果の高い薬として働くことになるのだ。そうすると仏教は特定の病気にかかった人の特効薬と考えると、病気でない人には仏教は何の役にも立たないということになる。ブッダはそのことをよく知っていた。悟りを開いた初めに自分が見つけたこの薬はある特...苦からの解放
いつまでも生きていたいという気持ちを消すことがブッダの根本にある。我々は生きたいという本能を持っている。人間だからというのではなく生き物だから持っているのだ。単細胞生物の時から、生命が生まれたときから、その基本的な在り方は生き続けたいという欲求である。子孫を増やし生き続けるという行為をどんな形でもいいから実現しようとする。敵が来れば逃げる、エサがあればそちらへ向かって行って食べる。そして自分の周りに垣根を作る。自分と外界との境をキチッと決める。やがて多細胞生物の人間となるが当然その思いは強くなる。生まれたときにはオッパイに吸い付く。それは生き続けたいを身体で表していいるのだ。欲しいものがあると自分の方へ持ってこようとする、人が持っているものでも自分の方へ取って来ようとする。常に自分という勢力を増やそうとする。こ...ブッダの分析
修業は大変厳しいということまた集団で行うということが基本と聞き興味はある。苦を解脱したいと修業したいと思ったときは体力を失い、修業が無理な状態になっている。個人的に瞑想しても諦めの境地に達するだけだ。もうニヒルで取り付く島がありません。結局充実した人生を送るための糧はまだ見つかっていない。」そして最後は意識混濁の中で亡くなって逝った。本当に偉い先生でした。ノーベル賞財団はこの先生にノーベル賞を差し上げられなかったことを後まで悔やんでました。そのために日本人に代わりにと沢山くれたとか。戸塚先生のように我々もやがてなるのだ。そして大方悪い方へと変わってゆく。その時に自分の精神をささえることをどういう形でできるのだろうか。そこでわれわれは何かにすがるのだ。古代仏教への関心
「私にとって早い死といっても健常者と比べて10年から20年の違いではないか。皆と一緒だ。恐れるほどのことはない。さらにニヒルに宇宙や万物は何もないところから生成しいずれは死を迎える。遠い未来の話しだが自分が消滅した後も世界は何事もなく進んで行くが、決してそれが永遠に続くことはない。いずれは万物も死に絶えるのだから恐れることはない。あとの2つはちょっと情けない考え方ではあるが、一蓮托生の哲学によって気が休まる。宗教はどうだろうか。私は絶対的超越者の存在を信じない。マザーテレサが神の子の存在を信じていなかったという記事を読み少し安心した。生前の世界や死後の世界の存在も信じない。輪廻転生も信じない。何故なら宇宙が生まれ死んでゆくのは科学的事実だから。無限の過去から無限の未来へと続く状態など存在し得ないのだ。」ニヒルになる
「残りの短い人生をいかに充実して生きるか考えよとアドバイスをもらうが、このような難しいことは考えても意味がないことだという諦めの境地に達した。自分のような(戸塚氏)凡人は人生が終わるという恐ろしさを考えないように気を紛らわして時間を送っていくことしかできない。死までの時間を過ごさねばならない。どんな方法があるのか。現役なら仕事が気を紛らわす手段となる。引退したら何でもいいから気を紛らわすことを見つけて時間をつぶすことだ。死が近づいた時むしろ苦痛に苛まれて短時間で勘弁してほしいが早く死が来てほしいという状態になった方が楽か。看取る法は大変だろうけど。自殺は嫌だ、簡単に負けるのもいやだ。お恥ずかしいが最後に有意義な時間を送ることとはかけ離れたことばかりだ。しかし何とかしてその恐怖を克服する境地はないだろうか。そんな...死までの時間
薬をいま飲まねば死ぬという状況に立ち至ったその人の宗教観が出てくる。先ほどまでの理論的なハラリ氏とは対極的なものだ。期限を切られた人生の中で何を糧に生きればいいのか。「われわれは日常の生活を送る際、自分の人生に限りがあるなどと考えることは滅多にない。稀に自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んで行く、自分が存在したことはこの時間とともに進む世界で何の痕跡も残さず消えてゆく、自分が消滅した後の世界を見ることは絶対にできない、ということに気づき慄然とすることがある。個体の死が恐ろしいのは生物学的な生存本能があるからだといくら割り切っても、死が恐ろしいことに変わりはない。貴方のいのちは誤差は大きいが平均値をとると後1.5年くらいと言われた時、最初はそんなもんかとあまり実感がわかなかった。しかし布団の中に入って眠り...宗教観
薬を医学界からとらえるとこれまでの記述の通りなのだが、薬・宗教をわが身のことと考えるとどうだろう。これから戸塚洋二氏について見てみよう。2008年に大腸ガンで逝去した戸塚洋二氏(享年66)のことである。岐阜県神岡町の山中にカミオカンデを作り、世界で初めてニュートリノを観測した'02年ノーベル賞受賞の小柴昌俊氏の愛弟子として、後継施設スーパーカミオカンデ建設を主導した人物だ。この先生の次の弟子がノーベル賞を取られた梶田隆章氏だ。戸塚氏はノーベル賞確実といわれ、あと1~2年で取るであろうといわれた前年にガンでお亡くなりになった。科学者として最高のところにありながら最後の最後にノーベル賞をとれなかったという無念の最後を遂げられた方だ。戸塚先生は病気がわかってから自分の生活を記録するためにブログを書いておられた。しかし...宗教という薬
人間至上主義が現在の多くの宗教のベースになっている。人間は奪うことのできない特定の権利を受け持っているという教えで、それが大きく3つに分けられていると考える。まず自由主義的人間至上主義、2つ目は社会主義的人間至上主義、最後は進化論的人間至上主義だ。自由主義的とは個人の自由を最も神聖なものとする。これは人権尊重主義になる。拷問や死刑に反対し人間の尊厳を護ろうとする、これは形を変えた一神教だ。各個人には自由で永遠なる魂があるというキリスト教的信念がそのベースにある。規律の基本は個人の尊厳の自由をいかに保持して行くかが目標設定となる。社会主義的とはホモサピエンスという種全体を神聖なものと信じる考え方で、個々の人間にとっての最大の自由ではなく、全人類の平等こそが最大の目標だと考える。不平等は人間の尊厳に対する最大の冒涜...人間至上主義
この自然法則宗教の現代における新顔が自由主義、共産主義、資本主義、国民主義という歴史の中で果たすべき役割も持たされた特別な民族だという考え方だ。ナチズムというのも宗教なのだ。さらにイデオロギーも宗教といえばいい。それはまぎれもなく超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系だからだ。スターリンの共産主義とヒトラーのナチズムが強烈に敵対したのは宗教同士という同じ範疇にあったからなのだ。その意味で近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な宗教戦争(イデオロギー間の争い)の時代だ。仏教は超人間的秩序がブッダによって発見されたと信じるのに対し、共産主義者はそれがマルクス・エンゲルス・レーニンによって発見されたと信じている。しかもそこにはプロレタリアートの勝利という予言も含まれているから宗教といっ...主義という宗教の新顔
涅槃に達しても不快さや痛みの経験は続くがそれによって苦悩に陥ることはなくなる。こういった渇愛を消して涅槃に至る法則をダルマ(法)という。苦しみは渇愛から生じるという法則は相対性理論と同じレベルで常にどこでも正しい。それを自分たちの活動の支えとしている人たちを仏教徒と呼ぶ。しかし実際は多くの仏教徒は涅槃を目指すのではなく現世での利益を目標とした。さらには大乗仏教になると種々の仏や菩薩が現れ、涅槃に入るだけでなく現世の様々な利益を願うようになっていったのだ。ハラリさんの言う本来の仏教とは釈迦の時代の古い形の仏教であって、そこの中では現世の利得や欲望の充足は一切求めないという心を実現するということが究極の幸福状態なのだという。これはキリスト教やイスラム教という他の宗教の方向性とは全く逆行するきわめて特異な幸福への道を...現世利益を求めない涅槃
仏教の教えでは人生は意味のない愚かで激しい生存競争である。どうすればそこから抜け出せるのか。苦しみは本人の心の振舞の様式から生じる。心は何を経験しようが渇愛を生む。渇愛とは強い執着・愛着の心だ。煩悩の中でも極めて強いものだといわれている。渇愛は常に不満を伴う。つまり何かを求めるという気持ちは常にそれが手に入らないという不満を産み出すこととなる。不快感は快感を求める渇愛を生み、快感はそれが消えはしないかと恐れたりそれをいっそう増幅したいという更なる渇愛を生む。ブッダは悲しさを感じ続けるという行為が苦しみを消し去ると考えたのである。彼は渇愛することなく現実をあるがままに受け入れられるように心を鍛錬する一連の瞑想術を開発した。それによってわたくしは何を経験したいかではなく、私はいまなにを経験しているかに注目できるよう...仏教の説く苦しみと克服
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