水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 10「雅子皇后はどうするんだろうか?」
•雅子皇后の実の祖父、江頭氏が昭和39年にチッソの社長に就任したが、水俣病の原因がチッソが垂れ流しているメチル水銀であることを知りながら、就任後ようやく4年経って、チッソの責任を認めた。少なくとも社長就任後速やかに責任を認め、メチル水銀の排出を止め、謝罪していれば患者数も、死者も、胎児性水俣病患者も減り、また救済も早まり、患者の怒りの心も少しは穏やかになったろうに・・・。と言うことについて雅子皇后はどう考えているんだろうか?•勿論水俣病、そして実の祖父の振る舞いに対して雅子皇后の責任はない。しかし、水俣病を起こし続けた人の実の孫の雅子さんが「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」天皇の妻ー皇后になった後も水俣病に対し無言であっていいのだろうか?私は早い機会...水俣病こんなに酷いとは知らなかった10「雅子皇后はどうするんだろうか?」
水俣病資料館⇩エコパーク水俣にある慰霊の碑⇩⇩昭和47年チッソとの直接交渉写真(資料館)⇩エコパーク内の慰霊石仏群水俣病こんなに酷いとは知らなかった9「水俣病関連写真」
水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 8「水俣を訪問された時の平成天皇(皇后)のお言葉」
•前天皇、皇后のたっての願いにより、平成25(2013)年、水俣で開かれた第33回全国豊な海づくり大会に出た後、水俣市で「語り部の会」会長緒方正実さん(61)の語りを聞く場が持たれた。•「水俣病患者がみんなから白い目で見られ、陰に陽に蔑まれ、排斥される酷い現実を見て、ずっと水俣病患者と言うことを隠し続けてきました。しかしそれではいけない。・・・・」•と言う話を聞いて平成天皇(皇后)は「どうも、ありがとうございます。ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだと、あらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になって...水俣病こんなに酷いとは知らなかった8「水俣を訪問された時の平成天皇(皇后)のお言葉」
水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 7「水俣病の起こるメカニズムとチッソの責任」
•アセチレン→アセトアルデヒド↑(反応を促す触媒としての)無機水銀➡(一部)メチル水銀となる→(他の工場排水とともに)水俣湾に垂れ流し➡それをバクテリアなどが摂取➡それを魚介類が摂取➡そのメチル水銀を人間が採り、(猫もおこぼれでそれを)食し、メチル水銀が脳に至り脳を破壊する。(水俣病)→母が食べたメチル水銀は、母を侵すと同時に、へその緒を通じて胎児に至り、その脳を侵す。(胎児性水俣病)•チッソは昭和34年の「猫300号の結果」(水俣病の原因はチッソが垂れ流していたメチル水銀であった)を闇に葬り、隠蔽し続け、10年後(雅子皇后の実の祖父の江頭氏が昭和39年社長に就任してから4年後)にチッソ水俣工場でアセトアルデヒドの製造をようやく中止。•その間チッソは何の反省もなく、会社の利益のみを追求し、新たな水俣病患者を多数...水俣病こんなに酷いとは知らなかった7「水俣病の起こるメカニズムとチッソの責任」
水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 6「何故チッソでメチル水銀が多量に出来てきたのか?」」
•チッソは戦前からもアセトアルデヒドを水俣で製造しており、その時も水俣病患者はいたものと思われるが、その時はまだ製造量も少なく,戦時中の事もあって顕在化していなかった。•チッソは、戦後復興のためアセトアルデヒド需要が高まると規模を大幅に拡大し、大々的に製造に乗り出した。→戦後復興下支えの象徴としての存在→昭和天皇は昭和6年、昭和24年に水俣のチッソを訪問している。※アセトアルデヒドの主な使用用途:酢酸や種々のアルデヒド類等の製造原料、魚の防腐剤、防かび剤、写真現像用薬品、燃料配合剤、還元剤、医療用薬品、香料などが挙げられる。•アセチレンからアセトアルデヒドを製造する際、触媒として無機水銀が使われる。この過程で無機水銀がメチル水銀に変化する。水俣病こんなに酷いとは知らなかった6「何故チッソでメチル水銀が多量に出来てきたのか?」」
水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 5「水俣病が確認されてから12年目にようやく公害病と認定された。」」
•昭和43年(1968)年9月26日、厚生省は、「水俣病は、メチル水銀化合物による中毒性の中枢神経系疾患であり、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が工場排水とともに排出され、環境を汚染し、魚介類にメチル水銀化合物が濃縮蓄積され、これらの魚介類を地域住民が多食することにより生じたものである」と、水俣病に関する公式見解を発表し、水俣病は、公害病と公式に認定されました。•水俣病が確認された昭和31年(1956)5月から数えて12年目のことでした。同時に新潟水俣病も同じように公害病と認定されました。水俣病こんなに酷いとは知らなかった5「水俣病が確認されてから12年目にようやく公害病と認定された。」」
水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 4「チッソは水俣病の原因を握りつぶした」
•猫400号実験•公式発見から3年後の1959(昭和34)年には、チッソの猫実験において有名な「猫400号実験」がスタートします。これは、工場廃液を猫の食事に直接かけて与え続けたもので、400号と名付けられた猫が開始3カ月ほどで痙攣発作などを起こしました。•当時、実験を行ったのはチッソの附属病院の病院長であり、チッソに報告します。しかし、チッソは結果を公表せず、握りつぶすこととし、実験の継続を条件に医師を説得しました。水俣病こんなに酷いとは知らなかった4「チッソは水俣病の原因を握りつぶした」
•公式確認当時は、病気の原因がわからず、奇病か、それとも伝染病ではないかとおそれられていました。•最初の患者が確認されてから、水俣保健所を中心として、水俣市、市医師会、チッソ附属病院、市立病院の調査によって、ほかにも似たような症状の患者が確認され、昭和31年の末には、昭和28年(1953)12月から発生していた54人の患者とそのうち17人が死亡していることが確認されました。昭和37年(1962)11月、脳性小児マヒ診断の子どもを胎児性水俣病患者と認定(胎児性水俣病公式確認)しました。•その後も、原因究明に長時間を要したことなどもあって、八代海沿岸地域に水俣病の発生拡大は続きました。←しかし、これは国、県の無策、少なくとも魚貝類を食べたことが原因なのは分かっていたのだから、魚介類の採取、食用を禁止するべきであった水俣病こんなに酷いとは知らなかった3「水俣病の拡大」
水俣病 こんなに酷いとは知らなかった 2 「水俣病 チッソの当時の工場、施設、患者の拡がり」
水俣病を引き起こした当時の水俣市中心部、チッソの工場、施設この写真の左下に水俣港と書かれているところが、現在は埋め立てられエコパーク水俣となっている。地図の真ん中にあるチッソからメチル水銀がこの水俣湾に垂れ流されていた。水俣湾に垂れ流されていた排水は地図上の八幡プールから水俣川に排水されるように一時的に変更された。(その後もとに戻される。)それによりメチル水銀は不知火湾全体に拡散され、より大きな被害の広がりをもたらした。水俣病こんなに酷いとは知らなかった2「水俣病チッソの当時の工場、施設、患者の拡がり」
水俣病の発生•昭和20年代後半から水俣を中心に異変が発生熊本県八代海の水俣湾一帯は、魚類の産卵場として、また天然の漁礁にも恵まれた美しく豊かな海でした。しかしその水俣湾一帯で昭和20年代後半(1950~)から、貝類が死んだり、魚が浮き上がったり、海草が育たなくなるなどの現象が現われはじめ、沿岸周辺では、猫が狂い死にするなどの異変が頻繁に見られるようになりました。•昭和31年水俣病発生の公式確認•昭和31年(1956)4月21日、熊本県水俣市の月浦地区の幼児が、口がきけない、歩くことができない、食事もできないなどの重い症状を訴えて、新日本窒素肥料株式会社水俣工場附属病院(以下「チッソ附属病院」という。現在の社名は「チッソ株式会社」で、以下本書では「チッソ」という。)に受診し入院しました。(胎児性水俣病)その後、同...水俣病こんなに酷いとは知らなかった1「水俣病の発生」
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