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2019/11/23

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  • 11/29 脳の物質と精神

    目はどうして見えるのだろう? 耳はどうしてきこえるのだろう? 科学は答えました。 目には水晶体というものがあってそれでピントを合わせて、そして網膜に写ったものが脳に伝わるからなのだ、と。 耳には鼓膜というものがあって、そこに、空気振動が伝わって、感覚細胞により脳に信号が伝えられるのだ、と。 これで人は納得するのだろうか? 私はどうしても、またここで問いたくなってしまう。 「で?なんで目は見えるの?」 「で?なんで耳は聞こえるの?」と。 目の構造と、ものが見えることは、 耳の構造と、音が聞こえることは、 全く別の話ではないか! 現実では「たまたま」その構造により、目からものが見えるだけで、「たま…

  • 11/28 愛、アガペー

    愛には四種類あると言います。 隣人愛、親子愛、恋愛、友人愛、だそうな。 恋愛と親子愛についてはほとんどの皆は親しみがあるはずだ。ここではとりたてて説明することは控える。 私が特に話したいのは、隣人愛についてである。ここで言う隣人はただ隣人の意ではない。隣人即ち、人類の意である。もっと言えば、宇宙の意である。 隣人愛はいわば対象がない故に、全てが対象である愛なのだ。それはもはや、自身の態度なのである。 「そんなのは綺麗事だ」 「そんなの無理に決まっている」と人は言います。 愛を特定的な行為とするなら無論そうであろう。例えば、困っている人を見かけたら助けるのが愛だとか、泣いている人がいたら慰めるの…

  • 11/27 私にはそれしか出来ない

    宇宙にとってよいことをする。それ即ち絶対的善である。宇宙というのは、指示語で示すことが出来る「あの」物理宇宙のことではない。 自身の中にあるが故に、全世界であるような、やはり言葉では示すことが出来ない「 」のことである。 「それ」(苦し紛れの指示語)の声は非常に小さい。雑多な生活の日々の中ではおよそ聞くことは出来ない。心を鎮めて、静かな環境の中で行われる内省によってのみ人は「その」声を聞くことが出来る。 「その」声を知らぬ(本来知らぬはずなどないが)ものにとって、人生とは即ち生活以外のものでは無いのだろう。つまり生活条件の向上のみが生きる意味なのであろう。もっと豪華な家に、もっと快適な暮らしに…

  • 11/25 言葉にできない変化

    最近自分の中で少しずつ何かが変化してきている。 物事の見方も自身の心情も。 生きている限り、変化は常にしているのだが、最近は何か大きな動きをそこに感じる。 まだ具体的な言葉にはならないが、この感じ悪い感じではない。前に進んでいる感じ。以前人生はバネのような形で上昇していると言ったが、最近それが一周しきって、また新たなスタートに立てた気がする。 色々自分の中で折り合いをつけながら、自身の小さな声を聞き逃さないように、心の感度を保っていきたい。 この感じが言葉にならないうちにこうして書き残すのは少しだけ卑怯な気もするが、そこは大目にみてくださいな。 新たなスタート、その踏ん切りとしてどうしても書き…

  • 11/23 私=?

    何が存在したら、私が存在することになるのだろうか。 肉体つまりは脳の物質的なものも含め、それが全く私と同一であって、ただ私でない人が想像可能てある限り、私の存在がこの肉体によっている訳ではないのは明らかであろう。 だが他人から見た時、私はこの肉体的特徴(特に顔)によって認識されている以外のものでは無いのだから、この問を他人と共有することは実質的に不可能である。 だが、この「私」を一般の第一人称とするなら、これは誰にとっても切実な問いに変貌するだろう。 何が存在したら、私が存在することになるのだろうか。この問いに答えるなら、何が存在しても、私が存在することにはならない、ということになるだろう。 …

  • 11/21 正しいことは何があろうと正しい

    正しいことは口に出すことによって、それは必ず一人の「意見」として扱われてしまう。 「あなたがそう思っているだけでしょう?」 それは無論そうである。 誰だって自身の思いの外に出ることは出来ないのだから、いくら自分が神から言葉を預かったとか、死者に語りかけられたと言っても、それは必ず生者の一人の口から語り出されなければならない。 つまり、人は定点(=偏見)でしか、語り出す手段を持ちえない。 だが、本来「正しい言葉」は語り手などどうでもいいはずである。正しい言葉は誰が語ろうと正しいのである。それは「私」が語るのではなく、言葉が「私」を通して語っているからである。 数学の公式が個人の思いを超えたところ…

  • 11/20 もしも私のコピーが存在したら?

    今回は自分が普段やっている思考実験について、紹介してみたい。 例えば、私を複製したと考えてみよう。この時、その複製された人間は私と内容が全く同じで、ただ私でないとする。この時二人の違いは、ただ空間的な立ち位置以外にはない(当然それにより視覚情報なども微妙に違うがここでは考慮しないことにする)。 ここで仮に本当の「私」をAとし、複製の「私」をBとして、他人からは完全にAとBを見分けるすべは無い。遺伝子、記憶情報その他全てが同じだからである。 だが、自身にとって、それは大きな違いであろう。ここでは死が自己の消滅と仮定して話を進めるが、AにとってBの死亡とは、他人の死と区別がない。しかしAの死亡即ち…

  • 11/19 言葉よ届け

    一体全体私は何者だろうか。 つまり、私で代名されているところの「 」 人はその存在の構造により、自分がなにものであるかを絶対に知ることは出来ない。 ある人はそれに恐怖する。 ある人は自分は自分なのだと思い込むことによって恐怖から逃れる。 ある人はその自己洗脳したことすら忘れて、自分というものは自明であるかのように振る舞う。 ある人は自分は何者でもないと悟り、天に従う。 そして、ある人はそれを知ろうとして、追いかける。 人生において最も本質的なことは誰も教えてくれない。そして時には問うことすら許されない。 大人はそれを教えないなら、せめて子供が自分でそれに気づく邪魔をするべきでない。洗脳された人…

  • 11/18 生まれたから生きている?死んでないから生きている?

    死を選択していないから、生きているのか。 ただ生まれたから生きているのか。 生まれるのは選べないのに、死ぬのは選べるという構造によって、この世はグレーゾーンに成り果てる。 果たして「生きている」のは自分の意思と言えるのだろうか? 死を選ぶ、即ち自殺。 人はいかなる理由によって自殺するのだろうか。いくつか考察してみたい。 人の行動原理は、必ずそれが自分にとって良いことであるというところにある。即ち価値であるということ。 その内容は例えば、死への興味はたまた、楽になれるという思い、家族にお金を残せる、その他様々であろう。 ここに共通することは選べるという勘違いである。 何かを選ぶ時、我々は必ずそれ…

  • 11/15 海へかえりたい

    今日は色々気持ちをリセットしたくて、海に来ました。海の描写は並程度の文章力しかない為控えるが、ここでは綺麗な景色をみた時の自身について考察してみたい。 綺麗な景色は大雑把に分けて二通りである。人工の角張った建築物の密集した風景か、山や川、海などといった自然の風景かである。 建物の密集した都会の景色を見ると、例えば私は東京都庁の展望台が大好きだが、自身の属性を強く感じる。即ち「人間」であるということ。 人々の忙しない往来、車の渋滞、密集したビル群を見ると、あぁ私もこの中の一人なんだな、としみじみ思うのである。 私に出来ることは「〇〇家の末っ子」として、その一生を全うする。それ以外にはないんだなと…

  • 11/14 善悪と「非」善悪

    二極構造の三回目。 世界は必ず二極に分かれており、絶対にどちらかである、と言いました。 でもよくよく考えると、善悪と「非」善悪といったような分かれ方もあるなと気づきました。 例えば端的な存在者である世界。そういったものに善悪はない。世界が存在することに善いか悪いかとは問えない。 また、行為それ自体にも善悪は問えない。善悪とは概念にほかならないのだから、当然ながら目には見えないのである。 悪い行為の典型として挙げられる殺人も、「なぜ悪い?」と聞かれたら、答えられる人は少ないようにも思う。 たいてい「じゃあ、あんたは殺されたっていいのかい?」と問い返すか、「殺人を悪いと思わないなんてどうかしてる」…

  • 11/11 「私」が存在するとは?

    前回は世界の二極構造について書いた。全てのものには必ず対極のものが存在する。右か左か、白か黒か、善か悪か。絶対にどちらかであると。 今回はその続き。 物事には必ず対極のものが「存在する」。 では「存在する」の対極は何か?つまり「有」の対極である。それは言わずもがな「無」であろう。 が、しかし「無」は無なのだから、そんなものは「ない」のである。つまり「有」だけには対極のものが存在しないのだ!有の絶対性ここにあり。 ないが「ない」とは即ち全てが「有」なり。 この世界の不思議な構造、たまらないはずである。 そして、「有」の中でも、なぜだか精神を持ち、〇〇の末っ子としてここに存在した「私」はなにものか…

  • 11/10 白と黒、そしてグレーゾーン

    人生は黒か白か。善いか悪いか。本気か冗談か。 グレーゾーンというのは人生には存在しない。 存在しているのは、グレーなような白、グレーのような黒である。 人生は二択の連続である。するかしないか。いくか行かないか。価値があるかないか。欲しいか欲しくないか。 ありそうでない、なさそうである。というような言葉もあるが、それも結局あるかないかの「二択」なのである。 「選ばない」ということもある。だがそれも結局は選ぶ、選ばないの二択である。 われわれには常に0か100かしかない。 例えば、これから雨が降る確率は99%である。と誰かが言ったとして、それは何かを言ったことになるだろうか? 降らなかったとしても…

  • 11/9 他力本願

    最近文章が同じことの繰り返しな気がする。 同じことをぐるぐる。読んでくれている方にはどう思われているのか分からないれど、個人的にすごくつまらない。 もう書いたものをさげるつもりは無いけれど、ここで一度区切りをつける為にもそのことについて考察してみたい。 文章の単調化は思考の単調化であろうか。いやむしろ思考停止しているような気もする。なぜだ? 一つは一番大きな「自分」についての分からなさが分かったからであろう。それがどう分からないのか、はっきりと捉えた感覚がある。 しかし、まだまだ。考える内容は無限なのだから、きりは無い。なのに、どうしてだか、考える気にならない。考えているようで何も考えていない…

  • 11/7 空気が如く存在

    言葉は空気と同じだ。人間になくてはならないものである。だが、当たり前すぎるが故、そのことは見事に忘れ去られる。 空気が人間を生かしているのであって、人間が空気を使っているのでは断じてない。言葉も同じことである。言葉が人間を生かすのであって、その逆ではないのだ。 われわれは言葉を「使わせてもらっている」立場であったはずだが、その謙虚さは現在ほとんど失われている。 スマホやパソコンの普及により、われわれはますます言葉を「安く」「簡単に」使うようになった。言葉を自身の目的が為に利用する。 元来、大切な人に言葉を伝える、伝えられるだけで人々は喜びを覚えていたはずである。だがその事は今や当たり前となり、…

  • 11/6 「私」だけは絶対的

    世界の中に私が存在しているのか 私の中に世界が存在しているのか はて、どちらだろうか。 いやどちらしかない訳ではないか。 ……世界の中に存在している私の中に世界が存在している中に私が存在している中に世界…… そんな感じだろうか。 どちらか一方が正しいとか、どっちが先かとか、そういう話ではないのだろう。 世界の構造を考えていると必ずこういうグルグルにハマるのだから、むしろこのグルグルそのものが正しいのであろう。 こういう世界の構造を自覚すると、世界はその構造以外全てが曖昧であることが分かる。つまりは相対的である。 どちらでもいいのである。どっちが正しいとかない。全てはなんだって良いし、なんだって…

  • 11/5 わくわく

    新しい本を買いました。 すごく難しい。簡単であるが故に難しい。 言葉が難解な訳では無い。ごく普通の日本語でたまに哲学的用語が出てくるだけの本だが、何を言っているのかさっぱり分からない。 困ったな。とりあえず読み進めてみるかと、三分の二を今読み終えたところである。 なんだこれ。すごくワクワクする。この感覚久しぶり!全然分からない!楽しい!こういう本を待っていた! 分からないとは、分からないと「わかる」という事だ。分からないと「わかる」ということは、分かるべきことも実は「わかっている」ということである。 私はそれを「想起」と呼びたい。自分の中に元々あった感覚なのに、成長するにつれて(社会や学校にい…

  • 11/3 考えるを考える

    考える。それは常に自身についてである。 それは必ず考えるを考えるということである。 なにか物事が起き、それを自身の目で耳でそして心で感じる。そう感じているところの「自分」とは何か?問いのたて方は常にこうである。 むしろ物事は、感じることでしか私の中には入ってはこないのだから、自身の感覚と物事は不可分であろう。 その意味で、世界にはそも私しか存在しないのだから、当たり前といえば当たり前である。 やはり「私」とは何か、全ての問いはこの問題へと帰着される。 様々な物事を見聞きし、感じたり思考している「こいつ」は何者か?と問うてる「こいつ」は何者か?と問うてる…… 常に一番外側の「私」を問うているにも…

  • 11/2 信じる?信じない?

    信じる、この言葉の怪しさに気づくものはどのくらいだろうか。 「あなたを信じている」「あなたを疑っている」そこに果たして意味の違いはあるのか。 信じる。その言葉の対象になるものは必ず不確かなものである。不確かが故に人は信じるか信じないかを議論するのである。 確かなものは信じられる前に、ただそこに「ある」のだから、信じるか信じないかの議題にはあがらないのである。 例えば「私は存在する」。信じる信じないは関係なく私は存在する。それは信じられるべきものではなく、ただここに「ある」。誰も自分が存在することを信じるとは言わない。それが確かなものであるからだ。疑う余地はない。 信じると人が言う時、本当はそれ…

  • 11/1 深い隔たり

    私はいつもいつも、この世との間に深い深い隔たりを感じている。 生死の問題、自己の問題、善悪の問題。誰もが理性を所有する限り、考えられる事柄であり、人生において最も根源的な問題であるにも関わらず、それらについて問う人は圧倒的に少ない。 なぜなのだろうか。この問いすら愚かである。考えない人は考えないのだから。 私がこうして書くのは、考えない人にこそ考えて欲しいと願っているからなのだが、それは無理な話であった。結局は考えたい、考えている人の内にしか届かないのである。 だからこその深い隔たりであろう。それは孤独とは違う寂しさを覚える。孤独は誰もがそうである。生まれたものは必ず一人で死ぬ。そこに例外はな…

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