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船橋のI高では自転車通学は禁止されていませんでしたが、宝塚のT高はか自転車通学を禁止していました。恐らく、山の上にある学校なので、下り坂が危ないからだと思われましたが、学校に駐輪するのはダメでも、学校の途中に駐輪するのは問題ないのかな?という素朴な疑問がありました。
千葉と兵庫もしくは船橋と宝塚の遠距離恋愛を始めてから5か月が過ぎていました。その間、手紙と電話でコミュニケーションは取れていたのですが、やはり彼女がどうしても会いたいということで、夏休みにリゾートバイトを一緒にやろうと提案してきます。この時の私は、1年前に空手同好会の先輩から、ディズニーランドでのアルバイトに誘われたことを思い出していました。
船橋のI高にいた時は剣道をやることは100%有り得なかったので、まさか、宝塚のT高に転校してきて昇段審査を受けることになるとは、全く夢にも思っていませんでした。人生とは本当に分からないものだと、この時はしみじみそう感じていました。
【アメリカ留学の思い出5】日本人の女の子と友達になる【神戸美人】
18歳の台湾人の女の子と、16歳の日本人の女の子とは全てのクラスが一緒だったので、自ずとこの二人とは仲良くなっていきます。特に、留学したての頃は、日本人の女の子と周囲に付き合っていると間違われる程仲良くなっていました。
【高校時代の思い出49】剣道形講習会の帰りに電車に荷物を忘れる
中学3年の夏に部活を引退して以来、1年8ヶ月半ぶりに剣道を始めてから1ヶ月半ぐらいが過ぎた頃に、部活の顧問から昇段審査の話が持ち上がります。中学の時に剣道初段を取得していたので、2段審査を受けるように顧問から勧められます。私の他にも3人の後輩達も昇段審査を受けることになります。
【アメリカ留学の思い出3】ルームメイトがとんでもない奴だった
次の日から大学が始まるということで、ルームメイトが入寮して来ます。私が部屋でくつろいでいると、父親と思われる人物とその子が部屋に荷物を搬入し始め、最後に父親から帰りがけに息子を頼みますみたいに言われます。このルームメイトは18歳の新入生なのですが、とにかく最悪のルームメイトでした。
【アメリカ留学の思い出4】24歳でESLはあまりにも恥ずかし過ぎた
いよいよ大学が始まります。と言っても、私の場合は学部留学ではなく語学留学だったので、正確にはESLの授業が始まるなのですが、一応、大学の中にある教室で授業が行われるので、大学の雰囲気を味わうことができました。
船橋の高校には8ヶ月半いて一度も告白されたことがありませんでしたが、宝塚の高校に転校してきて4ヶ月ちょいで後輩の女の子から告白されたのは本当に意外中の意外でした。やっぱり、男女混合の部活をやっていると、彼女ができやすいんだなと思いました。
入寮して三日目の朝を迎えます。一日目は寮の部屋に入るや否や爆睡、二日目はオリエンテーションやSSN取得、銀行口座開設、日用品の買い出し、そして、三日目は学校が休みだったので、朝から何をしようかとあれこれ考えていましたが、とりあえず、食堂に朝食を食べに行きます。
【高校時代の思い出47】後輩の女の子からの告白を聞かずに逃げる
船橋の高校にいた頃に、二人の女性を同時に好きになってしまったことが原因で、泣く泣く宝塚の高校に転校せざるを得なくなり、それから4ケ月しか経っていないにもかかわらず、また、同じ過ちを繰り返そうとしている自分が心底嫌になります。
【アメリカ留学の思い出1】アビラ大学(ミズーリ州カンザスシティ)
留学先を決めるに当たって、州、都市、ESLの有無、TOEFL何点で学部入学できるか、学費、生活費、寮費、総学生数に占める留学生数の割合、学生/教員比率、図書館の規模と蔵書数、コンピューターの台数、学校の敷地面積、志望学科の有無、男女比等、全てを考慮して選んだ大学がアビラ大学でした。
後輩の女の子たちと仲良くなってからというもの、部活が終わると、女の子たちと剣道場の床に座り込んで、しばらく話してからみんなで一緒に帰るようになっていました。この時期は、部活というか学校に行くのが楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。
1986年5月、2人の女性を同時に好きになってしまったばかりに、人生が大きく狂わされてしまったことに激しい憤りを感じていました。剣道をやるようになってから、しきりにKさんのことを思い出すようになっていたからです。
彼女達の涙の訴えを目の当たりにした私は、同学年の関西女への怒りを、何の罪もない、いたいけな後輩の女の子にまでぶつけていた自分の愚かさを恥じていました。私にとって、彼女たちはなくてはならない存在へと変わっていきます。
部活動が終わって部員が全員帰った後で、私が剣道場の戸締りや最終的なチェックをしてから消灯をして、最後に鍵を閉め、外で待ってくれている後輩の男子達と一緒に帰るというのがいつもの日課になっていました。
部活の方も、何だかんだ色々ありましたが、徐々に落ち着いてきて、とりあえずは、部活動としてまともに機能するようになります。2年進級時のクラス替えで、野球部の2人とは離れ離れになってしまい、クラスに友達が1人もいなくなってしまったので、部活の後輩男子とつるむことが多くなります。
【高校時代の思い出41】人は自分に似た境遇の人を助けたくなる
校長命令によって無理矢理入部させられて、嫌々始めた剣道ではありましたが、いざやってみると、懐かしいというか楽しいというか、昔取った杵柄と言われるように、剣道の腕前の方も、徐々に本来の実力(中2レベル)を取り戻しつつありました。
はっきり言って、剣道は全くやる気がありませんでした。何で、宝塚くんだりまで来て剣道なんてやらなあかんねん!というのが本音でした。まさか、強制入部させられた上に、部長までさせられるとは、本当に夢にも思いませんでした。
【高校時代の思い出39】校長命令によって剣道部部長に任命される
船橋の高校から宝塚の高校に転校して2ヶ月以上が過ぎ、この時の私は、部活に恋愛に夜の自主トレにと、かなり充実した毎日を送っていました。勉強の方は、全ての人の忠告通り、成績はダダ下がりの一方でしたが、特には気にしていませんでした。
彼女と遠距離恋愛を始めてから数カ月後に、彼女から電話代が月10万を超えたという衝撃的な話を聞かされます。1986年当時は、電話代がとにかく高く、例え、夜9時以降に掛けたとしても、高いことには何ら変わりはありませんでした。
私とDさん、Kさんとの関係は、本当に奇妙な三角関係としか言えません。約40年前の修学旅行の集合写真に、DさんとKさんが並んで写っているのですが、今、その写真を見ると、まさかこの1年半後に、この二人の美少女達との三角関係によって、自分の人生を狂わされることになるとは、当時の私は夢にも思っていなかったんだよなぁ・・・と、かなり感慨深いものを感じてしまいます。
【高校時代の思い出36】初恋の彼女からの突然の手紙【遅過ぎ】
学校から帰ってくると、勉強机の上に初恋の彼女からの手紙が置いてありました。その時は「何を今さら・・・、遅過ぎんだよ!」と言って、くしゃくしゃにして破いて捨てようかと思ったのですが、しばらく考えて、やはり手紙を見てみることにしました。
野球部に入ったことで高校生活がかなり楽しくなります。クラスには相変わらず全く溶け込めていませんでしたが、どうせ2年でクラス替えだし、どうでもいいと思っていました。昼食も野球部員同士3人で食べていたし、休憩時間も彼等と話していたので、この二人のお陰でクラスでも全く問題なく過ごせていました。
失恋のショックからいち早く立ち直るには、何か気分転換になることをする必要があると思い、あれこれ考えた末に部活に入ることを決めます。転校先の学校は新設校ということもあって、部活の数がとても少なかったので選択肢は限られていました。
転校初日で、I高とT高のあまりのギャップに打ちのめされます。I高が天国過ぎたというのが一番大きかったのだろうと思いますが、カルチャーショック、ホームシック、最愛の女性に失恋したショックなどが重なり、絶望しかない完全にお先真っ暗状態でした。
I高の終業式には出たのですが、その時の記憶が全くありません。終業式終了後、母と関西へ向かいますが、その新幹線の中にI高の教師達がいたことには本当に驚かされました。先生達は8人いて、新幹線の中で酒盛りをしていたのですが、私はばれないように上着を顔に掛けて寝ていました。後で母にその事を話すと、「あのうるさい酔っ払い達、教師だったの!」とかなり驚いていました。
【高校時代の思い出31】人生最愛の女性との別れ【今生の別れ】
人は時として、最愛の人と別れなければならない時があります。それがどんなに辛いことであっても、別れなければならない時があります。私の場合は、最愛の彼女との身を引き裂かれるような別れが、その数週間後に破局的な結果をもたらすことになるとは、この時は全く知る由もありませんでした。
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