10代で「業界デビュー」したものの、全く馴染めずすぐに撤退。自分なりの稼ぎ方を失敗しながらも模索中。
僕は心が乱れた時、「ヒマだから余計なことに囚われてしまうんだ」と思うようにしている。そう思えばすぐに切り替えられるほど器用ではないが、少なくとも本当に大切なものは何かということからは、大きく引き離されず本来の居場所により早く立ち返ることができる。 普通、人は同時に二つのことを考えたり感じたりすることはできない。以前ある医師から聞いた話だが、病院に飾られている「絵画」には、ひとときでも「痛み」を忘れることができるようにという「願い」が込められているそうだ。 何かに「囚われて」しまっている時は、思考の集中を「外す」ことも必要で、ぼんやりテレビを観たり、なんとなく漫画を読んだりして、とにかく普段やら…
そんなに頻繁には映画館に行くわけではない僕が、4回も観に行ってしまった映画がある。 映画「レ・ミゼラブル」予告編(ユニバーサル・ピクチャーズ公式)2012年公開 https://www.youtube.com/watch?v=VoCGLi82O7I 一度観て凄まじいまでの「衝撃」に襲われ、「いったいどうやって創っているんだ?」という疑問を少しでも「解決」すべく、僕にしては珍しくDVDまで購入して自宅でも何度も観た。 「特別映像」として収録されていた撮影の「秘密」にあらためて「衝撃」を受け、それ以降僕の音楽に対するスタンスが確定することになる。 映画「レ・ミゼラブル」特別映像(ユニバーサル・ピク…
前回のライブに来ていただいた方から、ある素晴らしい提案をしていただいた。 「私がやっているスリランカのゲストハウスで、ライブをしませんか?」 というもので、今年の音楽活動の「メイン」になりそうなほどの申し出だ。 彼女の仕事は、「喜びを作る」こと。聞けば聞くほど「面白い」ことをやっている方だが、中でも軽トラに自分で作った「小屋」を載せて走りまわっているというのが、「凄味」を感じさせるほど面白かった。本当にパワフルな方だ。 前回のライブでは、リハーサルから来ていただき、たいへんありがたいことに準備から手伝っていただいた。僕のライブは、音響や照明に専属のスタッフがいる「ライブハウス」ではなく、カフェ…
僕がいる「エンタメ」の世界では、客との「関係性」をダイレクトに創ることが意外と難しい。ライブで言えば、リハーサル→本番という流れの中で、終演後も含めて直接客に接することは普通無い。 規模が大きくなるほど、ステージから客との距離は遠くなり、照明で前の数列しか見えず、その背後に何万人いようがあまり関係ない。ホールの「関係者出入口」から入って出るだけで、その間に客の姿を見かけることさえ稀だ。 客との「関係性」をアーティスト自身や関係者が直接的に持つことは、トラブルになる危険もあり、「禁止」されていることも普通にある。そうなると、自分がやっていることに対する「反応」に直に触れることが難しくなり、関係者…
最近、神保町に行く機会が増えている。ある縁で昨年末に本屋さんの忘年会に誘っていただいてからなので日は浅いのだが、都内に住んでいた頃は楽器屋さんが集まる御茶ノ水とセットで良く行っていた。 とにかく圧倒的な本屋さんの「数」だ。古書店街としては「世界一」らしい。街中の本屋さんが軒並み閉店に追い込まれる中、神保町の活気はとても頼もしく思える。 忘年会の時に、壁一面の本の中で演奏させていただいたのだが、初めての体験で楽しかった。本という「メディア」は、僕にとって「知」の象徴だ。「知」と言っても、小難しい意味合いではない。「トンデモ本」や「エロ」も含めた人間の「好奇心」や「業」そのものが、本の世界には無限…
ピアノという楽器は、ドラムから楽器を始めた僕にとって、あまり「縁」のない楽器だった。身近に触れる機会もなく、せいぜい学校の「合唱」で弾ける子が伴奏するのをなんとなく聴いていただけで、まさか自分が弾くことになるとは、夢にも思っていなかった。 ピアノとの「本格的」な出会いは、僕が「最も影響を受けた」と断言できる、「ドイツ帰りのピアニスト」の演奏を聴いてからだ。以前このブログにも書いたが、当時16歳の彼のピアノの「響き」は、19歳のその時点でいちおう「プロ」のギタリストだった僕を、一発でKOするほど素晴らしかった。 どんな楽器でもそうだろうが、素晴らしい演奏を聴くと、その楽器自体の魅力に気づかされる…
自分を「音楽人」だと定義している僕は、音楽に対して「マニア」であり「オタク」である。もし僕の音楽へのスタンスを「目撃」されたら、「驚愕される」か「呆気にとられる」くらいでないといけないだろう。 音楽が「好きか」と尋ねられれば、俄かには答えにくいものがある。もちろん「好き」ではあるだろうが、同時に「憎悪」している感覚もあり、なかなか複雑な距離感だ。何かに「本気」で取り組むということは、そういうことなのかもしれない。 音楽の「深層」のようなものに少し近づけたと思ったら、また容赦なく引き離されてゆく。その繰り返しの中で、報われたり、見放されたりしながら、それでも離れることはできない「腐れ縁」と言った…
「ローカルシーンの構築」への考察。〈音楽人で在り続けるために〉
僕はいちおう「ミュージシャン」だ。「演奏」や「作曲」などの技術を提供することで「収入」を得てきた。そして今「シンガーソングライター」としての自分の形も模索しているところだが、それは「アーティスト」という分類になるだろう。 「ミュージシャン」という仕事は、依頼主の要望に応えることで収入を得るわけだが、自分の思い通りの演奏や作品で「勝負」できるわけではない。あくまでも依頼主が「形にしたいこと」のお手伝いをすることで評価される「受け身」のスキルが求められる。普通「プロ」と呼ばれるのは、この形ということになる。「職人」というイメージだ。 「アーティスト」というのは、厳密には「仕事」ではない。自分のイメ…
できる限り「率直」に言葉を綴ろうとしているこのブログでも、どうしても「書けない」ことがある。思い出すのも辛く、長い時間を経てもまだ僕の内部で燻り続ける「自責の念」のようなものに、なかなか「決着」はつきそうもない。 おそらく、そういう受け入れ難い「過去」との決着がつくことは無いのだろう。生きている限り、ごまかしたり逃げ回ったり、時には向き合わざるを得なくなったりしながら、ずっと付き合ってゆくしかない。 自分自身に嫌気が差したり、他人の理不尽な仕打ちに虚しくなったりしながら、日々を生きてゆく。そういう「喜怒哀楽」が、僕に音楽を奏でさせているのだろう。 それなりに長く、本気で音楽をやっていると、自分…
シンガーを支える「伴奏」の仕事を、長年やってきた。バンド形式の場合は主にベーシストとして、デュオならギタリストやピアニストとして。 僕にとって収入の大半を占める「本業」と言えるものは、音楽を「作ること」になるのだが、ステージに上がる以上はそれぞれの楽器に対して「本業ではないから」という「言い訳」は許されない。ピアノの前に座った時点で、客席から見れば僕は「ピアニスト」なのだ。 自分自身に対しても「言い訳」を許さないためには、当然ながらそれぞれの楽器に対する「技術」を磨く必要があり、そこで手を抜いてしまえば客より先に自分が自分を「認めない」ことになってしまう。もしステージ上で「自責の念」に駆られて…
僕の住む街は、川を越えたら「東京都」になる。川を渡るには「橋」を利用する必要があるが、慢性的な渋滞という問題を抱えていて、4キロほどしかない「川の向こう側」がとても「遠く」感じる。 「川の向こう側」には、大きなショッピングモールがいくつかあり、買い物にはとても「便利」なエリアなのだが、渋滞のことを考えると、僕の「暮らし」という観点から見れば便利とは言えない。 そうなると、買い物をなるべく「近所」で済ますことになるが、徒歩5分かかるのか、10分かかるのか、その「5分」の差がとても「大きく」感じている中での「選択」を日常的にしている。その「差」を埋められるものは、より安く買えるという「お得感」くら…
昨年知り合った、ある「女優」さんがいる。舞台や振り付け、歌までこなすという「エンターテイナー」である彼女にとって、「初」の映画出演になる作品に、スタッフとしてほんの少しだけではあったが関わらせていただいたことが、「縁」になった。 映画の撮影には、僕がいる音楽の世界とはまた違う、様々な「準備」が必要になる。監督やカメラマン、出演者のスケジューリングや宿泊所の手配、食事の準備など、撮影を「支える」大切な仕事を、誰かがやらなければならない。多くの予算があれば、それだけをやるスタッフを雇えばいいだろうが、大規模な映画製作でも無い限り、出演者が協力し合う必要がある。 「協力」と言うだけなら簡単だが、その…
ちゃんと「食べる」ことって、なかなか難しい。 僕は長年一人暮らしをしているが、「食生活」という言葉を使うのが恥ずかしくなるほど、食事を「とりあえず」摂ってしまうことが多く、そのしわ寄せで昨年人生始めての「入院」も経験した。その時に初めて食べた「病院食」は、僕に「食生活」の重要性を教えてくれた。 以前、ある大学の学園祭を訪れた際に、「こども食堂」の運営に携わる人たちが、活動を知ってもらうためのブースを構えていた。そこでお話しさせてもらった方に誘ってもらい、一度様子を見せてもらうことになった。 「学童保育」に通う子たちが、30人ほどでみんなで「食べる」姿は、大勢で食事を摂ることが久しぶりだった僕に…
何かに必死に取り組んでいる人が、ようやく手に入れた社会的な「業績」や「知名度」に対して、そこに「敬意」を払うわけでもなく、ただ自分の価値を「高く」見せるためだけに「利用」しようとする人が、残念ながら一定の割合でいる。 自分では成し遂げることができないことを、既に成し遂げている人に対する「憧れ」は、誰にでもあるだろう。その「憧れ」が「敬意」に繋がってゆくはずなのだが、もし何かが成し遂げられるまでの様々な「紆余曲折」のようなものに対して、自分自身も「試行錯誤」してみた経験が無ければ、その心情や葛藤を「理解」することはできず、ただ「乗っかってくる」だけの「軽い」関係性に陥ってしまう。 以前は、僕もそ…
このブログで何度か登場している、僕を「放浪」させてくれた「おじさん達」は、とにかく「アート」や「カルチャー」というものに対して、絶対に「届かない」と思わされるほど圧倒的に詳しかった。10代で何も知らなかった僕にとって、「憧れ」の存在でもあった。 「オタク」という言葉が適切かどうかわからないが、僕の感覚では「クリエイティブなオタク」という表現になるかと思う。「オタク」にも、いろいろあるのだ。他人の作品や、やっていることを「評論」しているだけの「オタク」は、「消費」するだけの生産性の無い存在という意味で「価値」を感じない。 「おじさん達」が「クリエイティブ」と言えるのは、一人の世界に「終始」せず、…
「村長さん」の葛藤。〈「いつの間にか」失われゆくものたちへ〉
とある村を訪れた際に、縁あって「前村長」さんとお話しさせていただく機会を得た。 過疎で苦しむ村を、どう「存続」させてゆけるのか。そのために「若い世代」の移住をどうすれば促してゆけるのか。そんな「難問」に取り組まれ、一定の成果を残し、高齢を理由に政界を引退され、今は静かに暮らしている。 いわゆる「旧家」の方で、村の人で彼の家を知らない人はいない。駅まで村役場の方に迎えに来ていただいたのだが、行き先として前村長さんの苗字を言っただけで「恐縮」されてしまうほどの、「名士」なのだ。そういう「扱い」になるには、理由がある。 前村長さんの先祖は、そのあたりを治める「豪族」だった。戦国時代には、戦国を代表す…
楽器にも「歴史」があり、「ドラマ」がある。特に古い楽器になるほど、それが創られた「時代背景」や、創った人間の「喜怒哀楽」、それを奏でてきた人間の様々な「紆余曲折」などが「沁み込んで」いる。 もう使われなくなった楽器たちが、いったいどれだけ街の中に「眠って」いるだろうか。押入れや納戸、物置の奥で、ひっそりとまた「鳴らしてもらえる時」を待っているかもしれない。 使われていないということは、楽器にとっては「切ない」状態であり、やはり鳴らしてあげてナンボだろうし、鳴らさないことで状態はどんどん「劣化」してゆく。特に「木材」が多く使われているギターやピアノなどは、まさに「生き物」であり、気温や湿度、保管…
友人が台湾に行った際の「土産話」を聴き、「カルチャー」というものの在り方について考えさせられる部分が多かった。 残念ながら僕は台湾は「未体験」なのだが、親しい友人が日本人と台湾人の「クオーター」ということもあり、以前からいろいろと話を聞く機会はあった。 僕は明治期や大正期の「和洋折衷感」が大好きで、日本では上手くいっているとは言い難い貴重な建造物の「保存」や「活用」について、台湾は「新しいもの」と「古いもの」の「共存」を、国策レベルで上手に行っているという印象は持っていた。 歴史的に「日本統治時代」があった台湾には、日本人の設計による建造物がかなり残っている。それを「カッコいいもの」として扱い…
ある程度の「長期間」音楽と向き合ってきた中で、随分と「やらかして」きた。多くの人に「迷惑」もかけ、自分に「嫌気」も差し、行く末を考えるほど「絶望」だけが未来に横たわっている気がして、「朝」が怖かった。今でも、その感覚は自分の中に確実にある。 こんな「クズ」な僕でも、人並みに「反省」くらいはしてきたつもりなのだが、どう足掻いても「改善」が見込めない部分を認めざるを得ず、それを想う度に心に「蓋」をしてきた。「理屈」ではわかっているつもりでも、どうしても「心」がついてこない「領域」がある。 実は、その「領域」の中にこそ、「自分自身」がいたりする。そのことに気付かされたのは、僕を本気で「心配」してくれ…
僕は「写真」が好きだ。「カメラ」ではなく、「写真」が好きだ。そして、最高の被写体は「人」だと思っている。 本屋さんのカフェスペースで開催される、最近知り合った「写真家」の方の個展に行った。もう「半世紀」も写真の世界にいる大ベテランなのだが、とても「オープン」な人柄で、何よりも屈託の無い「笑顔」が素晴らしい方だ。 初めてお会いした時に、ある世界的なミュージシャンを撮影した際の「裏話」に感動し、彼の作品をじっくり見てみたくなり、今回の個展を楽しみにしていた。 「裏話」というのは、そのミュージシャンは「グラミー賞」を何度も獲っているような「レジェンド」であるにも関わらず、撮影される時の「サービス精神…
気になる「ニュース」が流れる度に、その「真実」には僕のような「庶民」の立場では遠く及ばないという「現実」について、いつも考えさせられる。 僕が「多少は知っている」と言えるであろう「音楽業界」の世界だけでも、「表」に出ていないことは山ほどある。巷に溢れるあらゆる情報は、僕の知らない「誰か」や「何か」の都合で、適宜コントロールされていると思っていたほうが良いだろう。 ある「事柄」について議論を深めるには、少なくともある程度の正確な情報が必要になるだろうが、いったいどれだけの「事柄」について、議論できるだけの情報を持っているだろうか。それを考える時、ある種の「虚無感」のようなものに苛まれることもある…
あまり他人に言うようなことでもないが、僕は歌う時に、自らが抱え込んでいる「業」を使っている。あえて「技術的なこと」から距離を置き、曲に込められた「ドラマ」にどれくらい寄り添うことができるか、それが僕の歌う「基準」だ。 そのためには、まず曲を「暗譜」しなければならない。歌詞カードなどを見てしまうことで、「視覚」にエネルギーを奪われてしまえば、自分の声が聴こえにくくなってしまう。「聴覚」もしくは「心」に集中するために、室内を「真っ暗」にすることもある。 暗闇の中で歌うことで、ようやく「曲」の世界に集中できるようになるのだが、「業」に寄り添い過ぎてしまえば、呼吸も苦しくなるほど気持ちが追い込まれてし…
通い慣れた「純喫茶」がある。40年間、一度も休んだことが無いというマスターの「人柄」は、サイフォンで丁寧に淹れられた珈琲をゆったりと堪能していればなんとなく伝わってくる。 僕がお店に行く理由には、いろいろある。ゆったりと珈琲を飲みたい時もあれば、あまり時間が無いが珈琲を飲みたい時もある。どのお店を選ぶのか、どんな基準で選択しているのかを考えてみたい。 僕の好きな本に、「雑誌の人格」というものがある。(能町みね子著・文芸出版局)ユニークな切り口で多くの連載を持つ漫画家、能町みね子さんが、雑誌の個性を「人格」つまり「人」として捉えてみたらどうなるのか?という内容で、たくさんある「雑誌」というメディ…
15歳で音楽を始めた僕は、「プロ」という視点で見れば致命的に「遅い」部類に入る。19歳で「不幸」にもオーディションに合格してしまい、3歳から音楽をやってきた連中との「勝負」に惨敗を喫し、そこから本当の意味での「試練」が始まる。 まず僕は「譜面」が読めない。正確には、「初見」でスラスラ弾けるほどには読むことができず、これは未だにあまり上達していない。「初見力」で3歳からやってきた「エリート」と勝負しても勝てる気が全くしないので、そこにはあまり「エネルギー」を割いてきていない。 オーディションに合格して「プロ」になってしまった以上、現場での「適応力」は当然「持っている」という扱いを受ける。決して丁…
僕が生まれたことで、ジャズドラマーの道を諦めた父は、長距離トラックのドライバーになり、僕を良く仕事に同行させてくれた。僕が「音楽」はもちろんだが「地理」や「歴史」が小さい頃から好きなのは、完全に父の影響だ。部屋に貼られた大きな日本地図を飽きずに眺めているような子供だった。 仕事のついでにと、父の迷惑も顧みずに「お土産」をねだっていた僕は、たまに買って来てくれる「キーホルダー」が嬉しくてたまらなかった。日本地図上の「買ってくれた場所」にキーホルダーを飾り付けてゆき、少しずつ埋まってゆくのが楽しかったことを覚えている。 子供ながらに、「凄く大きな乗り物」であるトラック(12トン車)を自在に操る父が…
初めて一人暮らしをした東京の下町に、小さな洋食屋さんがある。「王貞治も食べに来た」ことが自慢の店内は、10人も入れば満席だ。マスターの口癖は「仕事したくねえなあ」だった。 僕が住んでいたマンションの隣室に、以前ジャズレーベルに勤めていた音楽にめちゃくちゃ詳しいおじさんが住んでいて、よく遊びに行っていたのだが、洋食屋さんのマスターは彼の幼馴染だった。 隣室のおじさんの友人なだけあって、マスターも音楽に相当詳しい。音楽だけではなく、店内にはいつも映画が上映されていて、いい場面になってくると注文も受け付けてくれない。 何度か通ううちに可愛がってくれるようになり、「二階に上がってみな」と言ってくれたの…
「学ぶ」ためのスタンスとは?〈最も「お得」な先生との距離感〉
歌や楽器を「上達したい」と思うなら、まず学ぶためのスタンスをしっかり取れなければ難しい。僕なりに長年レッスンをやってきて、この点に関して深く考えさせられてきた。 まず言えるのは、いわゆる「成功体験」が成長を妨害する。音楽に限らず、何かでそれなりの「形」を残してきた人ほど、謙虚になりにくいようだ。「学ぶ」というのは、極論すれば「自我を捨てる」必要があり、過去の体験に縛られてしまえば、自分が持っていないものを得ることは、困難になってしまう。 レッスンをする上で心がけてきたのは、その人の事情に「寄り添う」ことであり、教えることの宿命としての「押しつけ」を極力排除してきたつもりではあるが、教える立場か…
都内、某駅の地下通路に、「彼」はいた。もう、数十年も前の話になる。 今ではターミナル駅として再開発が進んでいる駅だ。都心まで2時間ほどかけて通いながら音楽活動をしていた僕は、乗り換え時に良くその地下通路を利用していた。 冬の23時くらいだっただろうか。家路を急ぐ人波の雑踏の中から、彼の歌が聴こえてきた。凄まじい声量に、まず驚く。さぞかし「人だかり」ができているだろうと思い近づくと、誰一人足を止めてはいない。 「演歌」を歌う彼は、身なりからしておそらく「家を持たざる人」だったと思う。ボロボロの服と、わずかな手荷物を抱えながら、何を想うのか目を閉じて歌っていた。 急ぎ足の人波をかきわけて、僕は彼か…
オトナになると、「無駄な時間」が減る。みんな生活がある以上、仕事や家庭のことで忙殺されるのは、当然のことだ。ただ、友人たちと「ゆっくり話す時間」を失っていくのは、「健全」とは言えないかもしれない。 最近よく友人たちと、いわゆる「純喫茶」でダラダラと過ごしている。元々珈琲が大好きだし、純喫茶のレトロ感も大好きだが、それ以上に気の合う仲間たちと過ごす「無駄な時間」を、贅沢なひとときに感じている。 先日は、数年ぶりに深夜のドライブをした。目的地もなく、ただ友人とブラブラしただけだが、夜明けまで意味の無い時間を過ごすことの楽しさを、久しぶりに味わえた。大のオトナが深夜にドライブスルーでハンバーガーを買…
子供の頃、よく遊んだ小さな山がある。今ではちょっとした公園として整備されているその山を見ると、故郷に「帰ってきた」という気持ちになれる場所だ。 僕にとって山で「遊ぶ」というのは、とにかくまだ行ったことの無い場所を「探索」するということだった。ろくに道も無いため、藪をかきわけて自分で道らしきものを作っていかなければならない。子供でも歩ける可愛らしい山ではあるのだが、突然崖に出くわしたりもするので、少々の危険も伴う。 「未知の場所」を発見すると、スケッチブックにマッピングしてゆく。縮尺などは当然デタラメなのだが、少しずつ山の全貌を明らかにしてゆく感じが、楽しかった。 見晴らしの良い場所に出ると、自…
新しい街での暮らしを始めてから、2年が過ぎた。「ゼロ」からのスタートを切ったこの街で、たくさんの人と出会い、たくさんの「喜怒哀楽」があった。 「自分」に長年かけてこびり付いてしまった汚れを、必死に擦って洗い流すような日々だった気がするが、以前より汚れを落とすことができているのか、確信はまだ無い。使い込んだ楽器のように、弾き込んでは磨くという作業の繰り返しの中で、僕なりの「味」が出てくれば、それでいいのかもしれない。 このブログを始めたのは昨年10月半ばだが、その頃の記事を今読み返してみると、我ながら「幼く」見える。何か「有益」な記事を書かなければという焦りが、明らかにあった。ブログのテーマに「…
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