3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
俳句は、自身の心を表現する短い詩です。喜怒哀楽を表現できる五七五、計十七文字(十七語韻)のショート・ポエムなのです。当然そこには、さまざま人生が描かれます。さあ、俳句の楽しい扉を私とくぐりませんか。
今年(2020年)の梅雨は長かった。長かった、と、過去形でいうが、7月30日現在、まだ梅雨明けはしていない。あと4日ぐらいだとラジオの気象予報士はいう。まあ、当たらずとも遠からずだろう。毎年のことながら、各地で堤防が決壊したり、土砂崩れで犠牲者もでている。日本列島
その瞬間を想像することができる。エスカレーターの一段に二人並んで乗ってきた。母と子かもしれない。待っているのは父親か。二人並んで来たが、開口一番、一緒に「暑いよー」と叫んだのだ。その声。そこにいる人間を、具体的には語らず、暑さが来た、という捉え方が面白い
「全天のこゑ」とは、いうまでもなく蟬の鳴き声だ。何千、何万という蟬の鳴き声が、地上に落ちた一匹の蟬に降り注いでいるという。落ちた蟬というのは、死にかけた蟬だ。その蟬をまるで見送るように、木の上の蟬たちは必死に鳴き叫んでいる。自然界ではあらゆる生き物が生と
籐で編んだ椅子は、くつろぐためのものである。外が見える窓辺近くに置かれていることが多く、座るひとは高齢者というのが定番だ。そこで新聞を読んだり、テレビを見たりする。本当なら、今頃温泉かどこかに出かけていたはずなのだが、新型コロナウイルスのため、不用不急の
わが師、野澤節子に、「せつせつと目まで濡らして髪洗ふ」という句がある。時間をかけて髪を洗う雰囲気は女性的である。いっぽう、掲句は比喩の句。昔の流行歌の中に、「泣いているような長崎の街」という一節があった。髪を洗う時の表情を、比喩をもってリアルに捉えている
「諷詠」866号、2020年7月号より。令和2年6月5日、満103歳の俳壇最年長の現役俳人、後藤比奈夫先生が亡くなられた。伝統俳句の方ながら、型にしばられることなく、軽妙自在にしてユーモア精神溢れる句を得意とされた。掲句は、お孫さんにして、現在俳誌「諷詠」主宰の和田華
「樹(じゅ)」2020年7月号より。同じ号に「海月には海月の自由漂ふも」という句もある。2句とも言いたいことは、海月の自由な生き方だ。あの海中をふわふわと漂うさまは、まさに自由そのもの。それでいながら、海月の傘同士が触れ合うことはないという驚き。確かに考えでみる
春も暖かになってくると、さまざまな動物たちも行動を開始する。 特に目立つのは蟻だ。蟻🐜たちは黙々と行動している。蟻🐜たちは 黙々と地面に落ちているものを探して、四方八方走り回っているのだ。「コロナ?」、なにそれという具合だ。知る必要がないということは幸せ
もう何年前であろう。神蔵器さんを新宿の句会場に訪ねたことがある。インタビューを終えた帰り道、花園神社の境内に足を踏み入れたら、そこにシートが敷かれ、年代物の装飾品や什器類が積み上げられていた。見る人が見れば骨董市というだろうし、また別な人がみれば、ぼろ市
「毎日新聞」2020年7月6日俳壇、鷹羽狩行選より。「この畑(はた)は」といい、いきなり畑の映像が目の前に広がる。何なんだと思うと、「この空のもの」なんだよ、という。読者のイメージ上の視点は、空へ向けらている。すると、その空のどこからか、高く舞い上がった雲雀(ひば
まさに「地にコロナウイルス」である。地球上、国境を越えて、等しく人類におおいかぶさった災厄である。年齢の関係でいえば、高齢者に多数の死者がでた。高齢者でなくとも、回復しても何らかの後遺症が残るのではないかと言われている。そういう恐ろしい災厄から逃れたくて
五彩というのは、青・赤・黄・白・黒のことであるという。おそらく作者は厳密にそれらの色にこだわったわけではないと思う。要するに、あのシャボン玉に見られる色彩を言いたかったのだろう。なぜシャボン玉かというと、コロナウイルスを除去するため、家に帰ったら必ず石鹸
「朝日新聞」2020年4月19日俳壇、稲畑汀子選より。宇治川というのは、あの平等院鳳凰堂の建つ近くを流れる川であろうか。「光りつつ曲がる」というから、小さな川ではないことがわかる。カーブして流れる川の表面には、陽光がキラキラと光っている。流れはゆったりとしている
「読売新聞」長谷川櫂さんのコラム「四季」2020年4月23日に取り上げられた句である。長谷川さんは、「人の心を知るのは難しい。その人の空気と過去を知ってもわかるかどうか。まして目だけで読むのは至難の業」と書く。人間を知ることの難しさをいう。そして、「この句もどん
コロナ禍の列島洗うごとく降る弥生みそかの雨の優しさ 篠原俊則
「朝日新聞」2020年4月19日歌壇、永田和宏選より。災厄などがあると、大雨が降って洗い浄めで欲しいと思うことがある。コロナに対する「弥生みそかの雨」を、作者はそう感じたのである。雨の表情は優しい。弥生は3月。みそかは月末のこと。しかし、この後新型コロナウイルス
「朝日新聞」2020年4月19日俳壇、高山れおな選より。父母の墓がある。だいたい一基だ。ひとつのところに父母のお骨は納められている。仲の良い両親だったのだろう。その墓石が、両親の姿のように陽炎で揺らめいているという。古き良き日本のローカルな風景だ。美しい。作者は
クルーズ船二月の孤絶の景となる捕らへられたる白鯨として 梅内美華子
「短歌往来」2020年4月号より。日本人がまだ新型コロナウイルスというものを十分理解できていなかったころ、あのクルーズ船問題が起こった。横浜港に停泊した巨大なクルーズ船の映像を見るたび、船中で待機させられている大勢の乗客のことを思った。船自体、動かすことができ
使ひ捨てのマスクを洗ひ二枚干すお日さまの力信じて今日も 塩谷朝子
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、高野公彦選より。「お日さまの力信じて今日も」がいいですね。使い捨て用とはいえ、丈夫です。4回ぐらいは洗ってつかえます。毎日新品をつけていたら大変ですから。
絶対にマスクはしないトランプさん他のマスクはできない安倍さん 藤田淳子
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、永田和宏選より。もちろんトランプはアメリカ大統領だし、安倍さんは日本の総理大臣だ。マスク嫌いなトランプ。かたや、安倍総理が先導して日本じゅうに無料配布した小型マスク。笑ってコロナ鬱を吹き飛ばそう!
差し出した手のひらスルーしトレーへと置かれた釣り銭無言で拾う 野地 香
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、永田和宏選より。この歌の面白さは「スルー」と「トレー」である。同じような発音だが、「スルー」は動作、「トレー」はモノだ。ショッピングセンターなどで買い物をすると、お客はお金を入れる小さな器に代金を置いて支払う。レジの担当の方
すずちゃんはき数で私はぐう数で分さん登校まだ会えません 山添 葵
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、馬場あき子選より。(馬場あき子選、高野公彦選ともに☆印)作者が本当の子どもか、あるいは大人だが子どもの気持ちになって作った歌かは不明。ただ偶数日、奇数日と分かれて「分散登校」という、ノーマルではない日常の子どものこころの襞をう
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、馬場あき子選(馬場あき子選・高野公彦選ともに☆印)より。「友情に水をさすような苦渋の指導」とは、馬場さんの評。友達に鉛筆貸すな→そう指導する→それは若き教師→その胸中を想う→苦々しい最初何をいうかと思っていたら、こうやって展開
「朝日新聞」2020年6月28日俳壇、大串章選より。コロナウイルスで、一度鎮静化しかけた東京都内の感染者がだったが、ここにきてまた増え始め、1日100人を超える日が続いている。小池都知事の発表では、夜の街の方が増えています、新宿歌舞伎町のホストクラブの方やキャバクラ
やはらかに風の吹く午後なよたけのそよげる音に胸の澄みくる 関本 忠
「読売新聞」7月6日歌壇、小池光選より。上手い歌である。が、新型コロナの鬱を癒してくれるような爽やかさがいい。
蝶といえば、俳句にこんな句があった。多くを語らないのが俳句だ。この句に登場する「君」に具体的な表情はない。「あからさまではない恋の雰囲気がある」とは選者・正木ゆう子さんの評言。「読売新聞」7月6日俳壇より。
初夏の風受けて水辺の葦(あし)なびきもんしろ二つでこぼこに飛ぶ 多田郁子
「読売新聞」7月6日歌壇、栗木京子選より。「時には強く吹く初夏の風。「でこぼこに飛ぶ」に蝶の動きが見事に描かれている。水辺の情景であることも清新に感じられる」。栗木さんの選評である。指摘されているように、「でこぼこに飛ぶ」という表現が面白い。しかも「二つ」
狭山茶の柔らかき芽の天ぷらを夕餉(ゆうげ)に添える八十八夜 森田悦至
「読売新聞」7月6日歌壇、黒瀬珂瀾選より。「今年の八十八夜は五月一日。この日に摘んだ茶葉は上等とされるが、天ぷらとはしゃれた季節の楽しみ方だ。「狭山茶」というブランド名が歌の小粋さをより高めている」。黒瀬さんの選評である。おっしゃる通りである。この歌を読ん
「読売新聞」7月6日歌壇、俵万智選より。俵さんは選評で「数詞が効いている」と書いている。カップルの年月を通しての表情の変化だろう。二年目ならまだ無表情でいいかもしれないが、五年経ったら、我慢しないで怒りをぶつけてほしい、という。我慢にはもちろん限界がある。
「読売新聞」2020年7月6日俳壇、宇多喜代子選より。見渡すかぎりの山という山。見ると、どの山も青葉が溢れている。まさに「抱え切れないほど」青葉を、山は抱えているという。山を擬人化して、抱え切れないほど抱えている、それが山だという。メルヘン調の楽しい句である。
「読売新聞」2020年7月6日俳壇、宇多喜代子選より。ようやく活動範囲が、少しずつ広がりつつある。しかし、まだまだ自粛したいとする人は多い。掲句のような体験は、まだ新型コロナが大騒ぎされていたころであろうか。バスもそうだが、電車でもコホンと咳をしようものなら大
「朝日新聞」2020年6月28日俳壇、稲畑汀子選より。これは、多くの人が感じていることである。店舗をもっている人の場合、もっと切実であろう。個人の場合、仲間外れになってしまうことがあるだろうし、店舗は、お客様が来なくなる。売り上げがたたなければ、店は潰れてしまう
かつて飯田龍太は「百戸の谿」という句集を出版された。そのなかに、大寒の一戸もかくれなき故郷という句がある。たくさん家が散在している田舎の風景が見える。ただし、田舎は、露の村恋ふても友のすくなしやいろいろ話せる友は少ないというのである。これも龍太の句である
ウイルスに閉じ込められし生計は宿借りのごと殼に合わせて 武智 恩
「読売新聞」2020年6月29日歌壇、栗木京子選より。先ほどの石井さんの歌は、心の余裕のようなものが感じられるが、この武智さんの歌では、「生計」つまり「経済」に焦点が当てられている。コロナウイルスのせいで、経済活動がセーブされたいまの我が身。収入が減った。仕方な
ウイルスに籠りてをればのつそりとのら猫のお通りつつじ咲く庭 石井礼子
「読売新聞」2020年6月29日歌壇、小池光選より。コロナウイルスのため、不用不急の外出はしないようにいわれている。そのため家に籠っている。庭にはつつじの花🌸が満開。赤紫のさわやかな色に視線を向ける。癒される色だ。と思っていると、つつじの花の下を、のっそりのっそ
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3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
「うすらいを踏む思い」などというように、薄氷は「うすらい」と読む。水たまりに張った薄い氷などを踏むと、ピシピシと音を立てて割れていく。まだ若い恋人同士は、この薄氷を割る遊びのように、わざと二人の間をこわすようなことを言ってしまうことがある。悪意はないのだ
あれこれしても泣き止まない赤ちゃん。万策つきて庭の梅の木の下に抱っこして連れてゆくと「ほうらほら」と花に顔を近づけて見せる。そこまでは言っていないが、なんとふしぎに泣き止んだのであろう。梅は白梅か紅梅かなどは一切言わない。ただただ梅の花を見せる。冬から春
節分に「福は内 鬼は外」といって豆を撒く。しかし掲句は「福は外 鬼は内」というのだ。つまり福(しあわせ)は外へ出しましょう、鬼(ふしあわせ)は外に出さず、我が家で引き受けましょう、といっているようにとれる。世間一般の常識の裏返しとして面白い。筆者もそうだが、
駅の改札を出たところで人を待つ。あるいはデパートの入り口のライオン像の前なんていうのもある。いまはスマホ一人一台の時代だから、待ち人の姿が見えないときは、すぐに電話をするかメールをする。時間の無駄のない現代だ。しかし、スマホを忘れてきたりすると、たちまち
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する
「針葉樹」は、文字通り針のような葉の樹林のことで、松や杉などを指す。針葉樹は年間を通して緑の色を変えない常緑樹が多い。密集した大きな葉叢をそよがせている広葉樹林とは対照的で、少し寒々とした印象を与える。そんな針葉樹林に分け入ってゆくと、蟬の一種である「ひ
俳人協会発行の「俳句文学館」紙9月5日号を見ていたら、4月に行われた愛知県支部の俳句会で入選した句が掲載されていた。そのなかで、山本比呂也さんが特選に選んだ句がこれである。フラメンコがどう俳句に詠まれているか興味が湧き、読んだ句であるが、さらりとした味わいが
ここでいう日とは、日のさすところすべてをいうのであろう。「自然」といいかえてもよいかもしれない。そこに「水をゆきわたらせ」ることによって「自然」は血液を得ることができるのである。血液を得た自然は、いよいよ枝を伸ばし葉を広げ緑を輝かせるのである。その血液を
以下「馬酔木」2023年7月号、一 民江さんの太田土男著『田んぼの科学ー驚きの里山の生物多様性ー』の書評を引用します。まえがきに、季語を手がかりにして稲作の一つ一つがいつ頃、どう変わったのか点検しながら、季語の意味を少し深く耕してみた。と書かれる。稲の起源から
作者は、平成2年「雲母」入会、その後「白露」へと引き継がれ、今は井上康明主宰誌「郭公」にいる同人である。自然諷詠の流れの中にいる俳人である。六月、「鴉は不機嫌」だという。不機嫌とはどういうことであろうか。筆者も五月であるが、道を歩いていて、突然頭上に鴉が乗
山深い熊野の地。目の前に広がる海は、熊野灘だ。古来から峰々をゆく貴族たちは「アリの熊野詣で」といわれた。宮廷人たちに、本当に愛された聖地なのだ。変化に富んだ熊野の大自然は、スケール大きく、それこそ「神っている」。古代からの樹木や瀧など、とにかく見上げるも
ひらがなの「けん」は県のこと、「ちょう」は町、「あざ」は字で、要するに住所を表している。だが、この句にはオチがある。そのオチは、いうまでもなく「あざ鰯雲」というところである。まず岩手県の風景が、漠然とイメージされる。そして具体的には空だ。真っ青な空。その
ハクレン(白木蓮)は、春の到来を告げる美しい花。その純白さは、見る人の心を浄化してくれるようである。今年(2020年)は、新型コロナウイルスの蔓延で、そんなウイルスの汚染を浄化してほしいという願いは、ひときわ強いのである。掲句は、「無垢の憂いを裹む」、その姿がハ
浜辺近くに海月が打ち寄せられたのだろう。次の波が押し寄せると、引いて行く波に乗って海月も海の方に戻っていった。作者は、例えば高濱虚子が大根の葉に焦点を絞って句を作ったように、ひたすら海月に焦点を絞って作っている。ここには海月以外のなにもない。そのシンプル
人は人生の節目に、「さよなら」という。永遠の別れということもある。あるいは、もっと日常的なところで、たくさん「さよなら」は使われている。考えてみれば、味わい深い言葉である。この句、町角でする「さよなら」だが、さて、重い「さよなら」か、軽い「さよなら」かは
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する