3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
俳句は、自身の心を表現する短い詩です。喜怒哀楽を表現できる五七五、計十七文字(十七語韻)のショート・ポエムなのです。当然そこには、さまざま人生が描かれます。さあ、俳句の楽しい扉を私とくぐりませんか。
初夏の歩道に雨が降りだして香りが淡く湧き上がる午後 岩間啓ニ
「日本経済新聞」2020年6月27日歌壇、穂村弘選より。この歌の、降り出す雨は、さっと降ってきた雨☂️であり、☔️激しいものではない。水を得て、回りの草木の息吹も強まり、香り立つように感じる。そこに立つ人間も、暑さを少し和らげてくれる雨にホッとする。
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、佐佐木幸綱選より。なるほどと思う。いま夕刊というものは軽い存在になっている。広告が多く、記事が少ないというのがまずある。その夕刊でも、「コロナウイルス」の語彙が三十八個も見つかったという。それほど話題になっているということで
「読売新聞」2020年6月29日俳壇、正木ゆう子選より。この時期の野は緑色が溢れている。ところどころ、花も咲いて赤🌸や青や黄色い花びらが揺れる。これから真夏に向かう時期だ。よもや黒いものなんてないと思っていたら、黒い大きな羽根をゆったりと羽ばたかせながら揚羽蝶が
志村けん死去の報(ほう)より夫(つま)はもう煙草を吸わぬ一本も吸わぬ 中南伊香
「読売新聞」2020年6月29日歌壇、栗木京子選より。志村けんさんの急死は、大勢の人にショックを与えた。あまりにも、あっけない死だった。志村さんはタバコを吸っていた。肺はおそらく疲れていたのであろう。コロナのせいで、肺が機能しなくなったのかもしれない。それが死因
次々に非常事態が解除され夜に一人聴くグレゴリオ聖歌 青山 繁
「読売新聞」2020年6月29日歌壇、栗木京子選より。非常事態が解除された。非常事態宣言の解除は経済対策。そうは知りつつも、一区切りつけたいと思うのは人情。世界中でたくさんの犠牲者がでた。一人、夜に鎮魂曲のようなグレゴリオ聖歌をながす。こころが洗われてゆく思いが
「朝日新聞」2020年6月28日歌壇、永田和宏選より。百年に一度の災禍とは、いうまでもなく新型コロナウイルス。百年後のために、国はこの災禍の実状を記録し伝えるべきなのだが、記録を残していない、と平然と語るのがいまの政府だ。あってもまずいところは隠してしまう体質で
「訓告」に燃える怒りを白に籠めマスクは並ぶ国会前に 小野瀬壽
「東京新聞」2020年6月28日俳壇、佐佐木幸綱選より。「黒川弘務前東京高検検事長の訓告処分に抗議するデモの人たちの白マスク。日が暮れて特にその白が目立った。」佐佐木さんの評である。現代の人の多くは、マスコミで世相を知る。かつては新聞だったが、いまはテレビだ。テ
手に受けた消毒液でたちまちに「わたし」を消してすすむ店内 早乙女蓮
「東京新聞」2020年6月28日俳壇、東直子選より。スーパーや店舗などの入り口に、スプレー式の消毒液が置かれていることがある。「ご自由にお使い下さい」と書かれているから、両手にさっとひと吹きしてから店内に入る人は多い。掲歌の面白さは、そうやって消毒液を手につけた
新型コロナで、日本全国の学校が休校となった。「児らのふらここ」とは、学校に登校できない児童たちが、家近くの公園で、ブランコに乗って遊んでいるということだろう。ブランコは腕と脚と腰を使って地面や空気を蹴ることで、漕ぎ続けることができるが、この句の児童たちは
新型コロナウイルス。日本ふうにいえば疫病である。地上には、疫病が流行している。空には、春蟬が鳴き始めている。春蟬の澄んだ声は、天の声なのかもしれない。それほどに、天と地はかけ離れて見えるのである。同じ作者の句に、春の蟬地球青ざめゐたりけりがある。「斧」202
「さくら隠し」とは、なにか?答えは、春の雪のことです。春の雪の傍題です。傍題というのは、主要季語に対する関連季語ということです。それにしても美しい言葉ですね。雅びやかさが感じられます。子どもが、お母さんの仕草を真似て、春の雪を手のひらですくいとったという
地球儀とはいうが、作者は地球そのもの、つまり全世界を、コロナ禍から守るために消毒したいと願ったのだ。いま、南米やアフリカなどでも、日々被害が広がっているという報道がある。空を見上げると、何事もなかったように春の星座が美しくきらめいている。地球に立っている
万愚節は4月1日のエイプリル・フールのこと。この日は嘘をついても許されるということになっているが、今年は新型コロナウイルスのせいで、下手な嘘もいえない、というのが句意。変なことをいうと、誤解されてしまうぐらい、時代の気分がシリアスに流れている。この春の日本
6月の時点では、新型コロナウイルスの第1波はほぼ鎮静化したようで、報道では第2波が8月末以降襲うであろうといわれている。ともあれ第1波は、日本人に花見の機会を奪ったのである。まさに「出番のなくて花筵」である。花見をストレートに詠まず、花筵に焦点を当てたところが
この句と並んで、混沌の春へと回転扉押すという句がある。日米を行ったり来たりしている作者、この「混沌の春」に対する複雑な思いの感じとれる句である。「パンダミック」(日本語の表記ではパンデミックというが)の句は、その妖しい響きから不安を感じとっている作者がいる
この句、作者はとにかく「コロナウイルスの沈黙」が言いたいのである。コロナウイルスは、目に見えないものだ。生き物でないから、泣いたり喚いたりしない。要するに掴みにくいのだ。掴みにくいということから、苛立ちがうまれる。苛立ちは、どういうものか。例えて言えば、
この春のコロナウイルスによる自粛で、遠出が出来ない人々は、自宅近くの公園に大勢いた。学校も休みだったので、子ども同伴で散歩を楽しむ人たちもいた。お母さんが吹き、子どもたちにシャボン玉を見せていた親子もいた。(そんな光景を筆者もみた)それ自体は、まことに平和
作者は「青嶺」主宰。同誌2020年6月号より。この句の前後に、人絶えし世にも桜の咲くならむ繭籠る如き日の逝く四月かななど、新型コロナウイルス関連の句が並ぶ。新型コロナウイルスの実態は、最初日本人のたれにもわからなかった。(むろん一部の科学者以外は、ということで
「なす術もなき」は本音だ。夜道は五月闇。不安な思いを抱きつつ生きている。日本人みんな、そんな思いで生きている。海外はもっとすごいことになっている。そういう意味では、世界中が、そんな思いで生きている、といっても過言ではないのかもしれない。作者は結社「獺祭」
「読売新聞」2020年6月22日俳壇、宇多喜代子選より。「この句と同じくコロナ禍で店を休んだという句が増えた。この句の水中花。元より命のない花だが、まるで命を絶たれたかのようだ。」宇多さんの選評だ。季語は水中花。見た目涼しさを感じさせるところから、夏の季語となっ
弔ひは生者のためのものなりとしみじみ思ふコロナ死に触れ 伊達裕子
「朝日新聞」2020年5月17日歌壇、馬場あき子選より。新型コロナウイルスは、インフルエンザより弱いのではないかという話がある。このたびの新型コロナの流行で、日本人の死者の数は未だに1000人を超えていない。いっぽうインフルエンザでは昨年は4000人ぐらいの方が亡くな
朧夜(おぼろよ)や夫(つま)とソーシャルディスタンス 平松貴子
「未来図」2020年6月号より。言葉は少ない。「朧夜」「夫」「ソーシャルディスタンス」だけである。だが、それぞれの語彙が絡み合って、単純な句になっていないのはさすがである。朧な夜、夫と妻しかいない。部屋の中なのだろう。ソーシャルディスタンスとは人と人の間隔を2
「毎日新聞」2020年6月8日俳壇、鷹羽狩行選より。のどかである。「平らかに水は流れて」、つまり一般的には、水は高きから低きへ流れるものだが、そんな高低のないところを水は流れている。当然、流れはゆるやか。そのゆるやかな水の上に菖蒲が何株も伸びて花を開いている。
「毎日新聞」2020年6月8日俳壇、西村和子選より。日本中の学校という学校が、ここ3か月、全面的に休みになっていた。だいたいの学校の庭には桜の木がある。ことしは、桜の花を愛でてくれる子どもたちがいなかった。桜の木も、さぞ寂しい思いをしたことであろう。無人の校庭。
「日本経済新聞」2020年5月30日俳壇、黒田杏子選より。豆ご飯を作られた家?(あるいは施設)から、豆ご飯が届いた。しかもリボン🎀をかけられて。いかにもこころのこもった料理に感動し、作られた一句。閑話休題。新聞俳壇の掲載作品を見ていると、俳句は短歌に比べ、新型コロ
夕方のポストの前に立つ人の立つことがうつくしい五月の 吉岡昌俊
「日本経済新聞」2020年5月30日歌壇、穂村弘選より。穂村さんの選んだ歌である。「夕方のポストの前」に「立つ人」がいる。その人の「立っていることが」「うつくし」いのだ、と感じる。「うつくしい」のは「五月の」にもかかってゆく。「五月の」は何につながるかといえば、
吸って吐くその繰り返し意識せず続けることが即ち生きる 二宮正博
「日本経済新聞」2020年5月30日俳壇、三枝昂之選より。「日本経済新聞」歌壇欄は、この三枝さんと口語短歌を良しとする穂村弘さんが選者。選者によってこれほど投稿される作品の傾向が違うのかと思う。とまれ、掲歌である。人間の生きるメカニズムを「息をする」ことに焦点を
あのマスク何回洗つたのだらうか首相かけゐる小(ち)さめのマスク 山川ひろみ
「朝日新聞」2020年6月14日俳壇、永田和宏選より。なにかとアベノマスクは取り上げられる。せっかく税金をたくさんかけて作り、国民全員に送られたマスクなのに、すこぶる評判が悪い。「何回洗つたのだらうか」は、あの小ささに対する皮肉。テレビで見るあのマスク姿の安倍総
「東京新聞」2020年5月31日俳壇、石田郷子選より。この句の「無職と職業欄に書く」とは、春3月まで定職に就いていたかたが、リタイヤしたことにより、無職となった。そんな寂しさを、ストレートに詠んだもの。
拙作である。大昔に作った句だが、黄蜀葵を見ると思い出す。鎌倉あたりを吟行したときの句。お昼どきの陽光にキラキラひかる黄蜀葵の花が美しかった。その花の何本も咲いた細道を歩いてゆく。どこへ続くのかわからなかった。道も陽光の中にあった。しばらく歩いてゆくと、道
冷えびえと雪降る四月の空仰ぎ感染拡ごる子らの地憂ふ 安田渓子
「日本経済新聞」2020年5月30日歌壇、三枝昂之選より。「冷えびえと」というから寒い場所(北国)に暮らす親が、都会で暮らす子らを思い詠んだ歌である。「雪降る四月の空仰ぎ」、四月になってもまだ雪の降る寒冷地に暮らす親は、その寒空を仰ぎつつ、「感染拡ごる子らの地」都
「毎日新聞」2020年6月8日俳壇、鷹羽狩行選より。少子高齢化の波は収まるどころか、ますます広がっている。家余り現象が生まれる。この現象は、空き家問題として、マスコミでもたびたび取り上げられている。東京以外の家ばかりかと思っていたら、最近は東京都内でもあるらし
これもまた新様式かツイートが政治を糾(ただ)す世論となりぬ 船岡房公
「毎日新聞」2020年6月8日歌壇、伊藤一彦選より。「これもまた新様式か」と素直に驚く作者。「ツイートが」ツイッターに書き込まれる短い文章のこと。アメリカ大統領トランプの就任以来のツイートは有名。時々、自身に都合のよい論法で述べた文言がニュース等で揶揄される。
こんなにも五月の風はおいしくてマスク忘れたことに気づきぬ 矢島佳奈
「読売新聞」2020年6月8日歌壇、俵万智選より。このマスクは、新型コロナウイルス対策のためのものか、花粉症のためのものだろう。今年はコロナウイルスのせいで、特に春先からマスク着用がなかば強制されている。「五月の風」がおいしくて、ついマスクをするのを忘れていた
「読売新聞」2020年6月8日俳壇、矢島渚男選より。新型コロナウイルスによる死は、あまりに急におとずれる。志村けんさんがそうだった。体調が良くないと言って病院に行き、亡くなられるまでが数週間だった。コロナは感染力が強いということで、家族による看病や友人知人のお
お互(たがい)を愛(いと)しみて並ぶソーシャルディスタンスばらの刺(とげ)の間合ひのやうに 桜井桂子
「毎日新聞」2020年6月8日歌壇、伊藤一彦選より。マスコミから普及し、いまや日常的に使われるようになったソーシャルディスタンスという言葉は、人と人の間隔をとるということ。新型コロナウイルスの場合、2メートルは開けよといわれている。よって、スーパーのレジや、入場
「毎日新聞」2020年6月8日俳壇、片山由美子選より。こんな体験、よくある。踏切で遮断機が降りてしまった。電車が行った。さあ、渡ろう。上がった遮断機は、5、6人の人を通過させた後、またすぐに降りてしまった。その間わずか数秒だ。わずか数秒なら、遮断機を上げなくても
「読売新聞」2020年6月8日俳壇、宇多喜代子選より。「原石鼎は明治から大正、昭和初期に活躍した俳人。写真でみる原石鼎には鼻下に髭がある。その髭に青嵐が及んだという、時代や時間を超えて石鼎を今に引き寄せた句」これが宇多さんの選評である。この句の魅力を十分言い尽
「テレワーク、しないの」と五歳問ふ病院勤務のむすめ首振る 北泊あけみ
「読売新聞」2020年6月1日歌壇、栗木京子選より。「医療関係者は現場での職務が中心なので、テレワークに切り換えることがむずかしい。五歳の子の問い掛けがいじらしく、複雑な思いで首を振る娘さんの姿が胸に迫る。」栗木さんの選評は短いが、この歌の全景を言い尽くして
「読売新聞」2020年6月1日俳壇、宇多喜代子選より。新型コロナウイルス関連の句。人と人との距離を2メートルあけなさいという。スーパー等のレジの行列も2メートルあけて並ぶよう支持されている。この句の場合、散歩道ということであるが、筆者の目撃した近くの散歩道も、た
「読売新聞」2020年6月1日俳壇、宇多喜代子選より。春の終わりから夏の初め頃、気温も高くなり、陽気の安定した日が1か月ぐらい続く。そのころ山や森に行くと、鶯の澄み切った「ほー、ほけきょ」の声を聞くことができる。この句のいう「春はゆく」は、つまり夏の始めであり、
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3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
「うすらいを踏む思い」などというように、薄氷は「うすらい」と読む。水たまりに張った薄い氷などを踏むと、ピシピシと音を立てて割れていく。まだ若い恋人同士は、この薄氷を割る遊びのように、わざと二人の間をこわすようなことを言ってしまうことがある。悪意はないのだ
あれこれしても泣き止まない赤ちゃん。万策つきて庭の梅の木の下に抱っこして連れてゆくと「ほうらほら」と花に顔を近づけて見せる。そこまでは言っていないが、なんとふしぎに泣き止んだのであろう。梅は白梅か紅梅かなどは一切言わない。ただただ梅の花を見せる。冬から春
節分に「福は内 鬼は外」といって豆を撒く。しかし掲句は「福は外 鬼は内」というのだ。つまり福(しあわせ)は外へ出しましょう、鬼(ふしあわせ)は外に出さず、我が家で引き受けましょう、といっているようにとれる。世間一般の常識の裏返しとして面白い。筆者もそうだが、
駅の改札を出たところで人を待つ。あるいはデパートの入り口のライオン像の前なんていうのもある。いまはスマホ一人一台の時代だから、待ち人の姿が見えないときは、すぐに電話をするかメールをする。時間の無駄のない現代だ。しかし、スマホを忘れてきたりすると、たちまち
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する
「針葉樹」は、文字通り針のような葉の樹林のことで、松や杉などを指す。針葉樹は年間を通して緑の色を変えない常緑樹が多い。密集した大きな葉叢をそよがせている広葉樹林とは対照的で、少し寒々とした印象を与える。そんな針葉樹林に分け入ってゆくと、蟬の一種である「ひ
俳人協会発行の「俳句文学館」紙9月5日号を見ていたら、4月に行われた愛知県支部の俳句会で入選した句が掲載されていた。そのなかで、山本比呂也さんが特選に選んだ句がこれである。フラメンコがどう俳句に詠まれているか興味が湧き、読んだ句であるが、さらりとした味わいが
ここでいう日とは、日のさすところすべてをいうのであろう。「自然」といいかえてもよいかもしれない。そこに「水をゆきわたらせ」ることによって「自然」は血液を得ることができるのである。血液を得た自然は、いよいよ枝を伸ばし葉を広げ緑を輝かせるのである。その血液を
以下「馬酔木」2023年7月号、一 民江さんの太田土男著『田んぼの科学ー驚きの里山の生物多様性ー』の書評を引用します。まえがきに、季語を手がかりにして稲作の一つ一つがいつ頃、どう変わったのか点検しながら、季語の意味を少し深く耕してみた。と書かれる。稲の起源から
作者は、平成2年「雲母」入会、その後「白露」へと引き継がれ、今は井上康明主宰誌「郭公」にいる同人である。自然諷詠の流れの中にいる俳人である。六月、「鴉は不機嫌」だという。不機嫌とはどういうことであろうか。筆者も五月であるが、道を歩いていて、突然頭上に鴉が乗
山深い熊野の地。目の前に広がる海は、熊野灘だ。古来から峰々をゆく貴族たちは「アリの熊野詣で」といわれた。宮廷人たちに、本当に愛された聖地なのだ。変化に富んだ熊野の大自然は、スケール大きく、それこそ「神っている」。古代からの樹木や瀧など、とにかく見上げるも
ひらがなの「けん」は県のこと、「ちょう」は町、「あざ」は字で、要するに住所を表している。だが、この句にはオチがある。そのオチは、いうまでもなく「あざ鰯雲」というところである。まず岩手県の風景が、漠然とイメージされる。そして具体的には空だ。真っ青な空。その
ハクレン(白木蓮)は、春の到来を告げる美しい花。その純白さは、見る人の心を浄化してくれるようである。今年(2020年)は、新型コロナウイルスの蔓延で、そんなウイルスの汚染を浄化してほしいという願いは、ひときわ強いのである。掲句は、「無垢の憂いを裹む」、その姿がハ
浜辺近くに海月が打ち寄せられたのだろう。次の波が押し寄せると、引いて行く波に乗って海月も海の方に戻っていった。作者は、例えば高濱虚子が大根の葉に焦点を絞って句を作ったように、ひたすら海月に焦点を絞って作っている。ここには海月以外のなにもない。そのシンプル
人は人生の節目に、「さよなら」という。永遠の別れということもある。あるいは、もっと日常的なところで、たくさん「さよなら」は使われている。考えてみれば、味わい深い言葉である。この句、町角でする「さよなら」だが、さて、重い「さよなら」か、軽い「さよなら」かは
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する